karma5 青い羽


 氷見野はまだ心が追いついていないこの状況をどう呑み込むべきかと思いながら、部屋の内装を見回す。勉強机には小難しい本と小さな可愛いぬいぐるみが並び、小さな棚の上にメイクボックスが乗せられ、その隣には衣装ケースがある。

 全体的に落ち着いた色合いの内装だ。前にあるローテーブルもシックな黒と白、氷見野が座っている高さが異様に低いソファもクリーム色。若い子だからもっと可愛らしい物で占められていると思っていたが、落ち着いた雰囲気なのが少し意外だった。


 女性はキッチンで料理をしている。手つきは悪くなく、いつも自炊してるんだなと思わせる。

 女性の名前は中島紫雨なかしましぐれ海帆かいほ女子芸術大学の3回生。中島から料理をご馳走したいとの申し出を受け、今に至る。断ってもよかったが、数十分の間に色々あり過ぎてなんとなく流れのままについて来てしまった。

 部屋の前に来てから、血で部屋の中を汚してしまうことに気づいたが、中島は「大丈夫ですから上がってください」と優しく促した。さっきまで出ていた鼻血も止まり、その心配もなくなったが、服にはその痕跡が残っている。古い服でよかったと小さな不幸中の幸いに安堵していく。


 中島が皿を両手に持って運んでくる。


「手伝おうか?」


「氷見野さんは座っててください。私が労わる番なんですから」


 中島は微笑んでそう言うと、キッチンへ戻る。氷見野はテーブルに乗った皿を見る。油の艶やかな紅。香ばしい匂いは独特で、柔らかそうな白い豆腐に紅いオブラートが纏っている麻婆豆腐だ。


「すみません。こんなのしかできなくて」


 中島はローテーブルにコップとお茶を置きながら自信のなさそうな表情で言う。


「ううん、作ってもらってありがとう。とても美味しそう」


 中島はちょっと笑みを浮かべ、座布団に座る。


「じゃ、どうぞ」


「はい。いただきます」


 氷見野は皿に添えられたレンゲを取り、口に運ぶ。湯気と共に口の中に入れ、熱さの後に来るピリ辛が口の中を突く。


「うん、やっぱり美味しい」


「よかった」と笑みを浮かべ、中島は食事を始めた。


「ここは長いの?」


 氷見野は気になって聞いてみた。


「1年になります」


「そうなんだ」


「やっとこの生活が当たり前になってきた感じですかね」


「大変だったでしょ」


「大学の編入とか、生活のこととか、お金のこととか、全部変わっちゃいました。地上にいる友達とも簡単に遊べなくなったけど、まだ自分は幸運だったんだって、今なら思えます」


 中島は悲しげな表情を浮かべる。中島の言っていることはなんとなく察していた。

 ブリーチャーの敵はウォーリアである。ウォーリアが徹底的に狙われ、殺害されているのはもはや周知のことだ。地上にいるウォーリアがニュースで聞けば、今度は自分かもしれないと思うか、自分がウォーリアなわけがないと思う。

 ここに来る前は自分がウォーリアだなんてわからなかった。改めて考えてみたら、自分はまだまだ幸運だった。あの凄惨せいさんな状況を目の当たりにしたからこそ思える。


「氷見野さんはすごいですね。地震が起こった直後だったのに、他人を助けられるなんて」


「たまたまだよ。とっさに動けただけだから」


 氷見野は苦笑いを浮かべる。


「あんなに大きな揺れ、初めてだったから、怖くて動けませんでした」


「地下で地震が起こったら、怖くなるよね」


 氷見野は改めて部屋の中を見回す。特に目立つような亀裂はなかった。部屋に入った時は、本や鏡が割れてたりと散々な有様だった。中島が掃除ロボットと共に急いで掃除をし、整頓された部屋に元通り。その残骸が部屋の隅の段ボールに入っている。


「その髪飾り、綺麗ね。よく似合ってる」


 中島は耳の上に飾られた青い羽に手を振れ、照れたように笑う。


「ありがとうございます。ここに来て、面会した時に両親がくれたんです。お守りにって。貰った時はちょっと微妙だなって思ってたんですけど、両親からのプレゼントだしって今日初めてつけてみたんですよね。もしかしたら、この髪飾りがあったから、氷見野さんに助けられたのかもしれません」


「そうかもね」


「これからは、この髪飾りを毎日つけようと思います」


「うん」


 氷見野は中島に笑い返した。

 誰かと小さな部屋で食事を囲んでいる。温かくも優しい夕食を迎えられた。ささやかな幸せと共に、和やかな声は夜の花を咲かせるのだった。



ЖЖЖЖЖ



 氷見野は自分の部屋に戻って紅茶を飲んでいた。吐息がまどろみ、映画のフィルムの中に迷い込んでしまったような、ふわふわした感覚が残っている。ブリーチャーに襲われ、ここに来た時の感覚と少し似ている。

 あの時も色々あった。色々あって疲れて、今日も色々あった。あの時と比べたらまだ大丈夫だけど、夜に部屋の中を掃除する習慣がないこともあり、余計疲れた。湿る手がティーカップをローテーブルに置く。


 まだ乾いていない揺れた髪が顎の傷口を突く。ちょっと沁みる。本当はシャワーをしない方がよかったのかもしれないが、仕事帰りだったのにシャワーをしないで寝るのもスッキリしないという欲求が溢れ出し、結局シャワーをしてしまった。鼻血も出ないし、大丈夫だろうと言い聞かせる。


 自分の体調も気になるが、他にも気になることがあった。氷見野は自分の手を見つめる。

 あの時、氷見野は間に合わないと思った。自分が中島に触れるより、看板が中島に当たる方が早かったはずだ。しかし、看板は見えない何かに引っ張られるように軌道を変えた。結果的に中島を救えたが、あれは……。

 一瞬見えた青い閃光。あの光がなぜ見えたのか。謎ばかりが残る出来事だった。今はそれが中島の髪飾りのお守りの力、ということにしておくしかないのかもしれない……。

 四角いレトロな掛け時計は傾きながら夜の11時20分くらいを差していた。氷見野は立ち上がり、背伸びをして掛け時計の傾きを直す。この紅茶を飲み終わったら、ドライヤーで髪を乾かしてさっさと寝ようと心に決め、紅茶をすすった。

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