karma3 夫婦だった軌跡

 しわくちゃの白衣の後ろ姿。関原の顔の前に白い文字や記号が浮かんでいる。空間に浮かんだディスプレイにタッチし、スワイプして消えた。

 関原は振り向き、微笑んだ。


「きっと来るだろうと思ったよ」


 少し呆れている風な言い草だった。関原は机に立てかけていた折り畳み式の椅子を持って、近くに広げる。


「座るといい」


「ありがとうございます」


 氷見野はおずおずと座る。


「で、用件は攻電即撃部隊ever死亡の件かな?」


 関原は眉尻を下げて問いかける。癖なのか、また机の端に軽くもたれている。


「はい」


 関原は視線を落とす。その様子は氷見野の不安を煽った。


「死亡者は2名。重軽傷者も同じく2名。10月19日に秋田県雄物川おものがわ付近にてブリーチャーが出現したとの情報が入り、急行した。こちらに情報が入った時には、すでにブリーチャーは河川を伝って街中に入っていた。熱感応レーダーに反応せず、気づくのに遅れてしまったんだ。街の建物は無残に破壊され、交通網にも被害が出ている。民間人も負傷する結果となってしまった」


「そんなに……」


 氷見野はそこまで大きな被害になっているとは思っていなかった。


「とりあえず、街中に入ったブリーチャーは殲滅させた。新種も含めてね」


「新種って、今までより強いんですか?」


「今までは単調な攻撃ばかりだった。背中に生えた触手による打突や絞殺、最後に口にある管を生物の耳、または鼻に入れて脳を吸い取る。後半は同じなんだが、獲物を弱らせる手法が独特でね」


「それで、被害に遭った方たちは……」


 それ以上は言いたくなかった。口にするだけで吐きそうだ。


「死傷者はいずれも攻電即撃部隊ever6。攻電即撃部隊ever3が応援に駆けつけ、事態は収拾した」


「そう、ですか」


 氷見野は内心安堵する。いずなじゃなくてよかった。

 これが身勝手な感情だってことはわかっている。自分の心残りを解消したいがために、たまたま目に入った子供に対して情を移した、哀れな女性だった。


「気は済んだかい?」


 関原は薄く笑みを浮かべて聞く。


「お時間を取らせてしまって申し訳ありません」


「君はここの常連になってしまったようだね。あんまり一般の人間をここに立ち入れさせたくはないんだが、禁止ではないから」


 関原は腕まくりをして、「コーヒーでいいかい?」と問いかけた。


「あ、はい……」


 氷見野は小さく答えた。関原は部屋の隅にある棚に置かれたコーヒーメーカーに歩いていく。

 そういえば、以前コーヒーをご馳走されて嫌なことばかり言ったなと思い出す。一方的に罵っていた気がする。突然ここにいるのが気まずくなり、ソワソワしてしまう。

 関原は赤いマグカップを持って歩いてくる。


「どうぞ」


 マグカップの口からは湯気が立ち昇っている。


「ありがとうございます」


 氷見野はマグカップを受け取り、膝元に据え置く。

 関原はまたコーヒーメーカーに歩み寄る。自分の分を作っているのだろう。


「君は、いずな君と以前から知り合いってわけじゃないだろ?」


「はい、そうですけど」


「いずな君から聞いたよ。彼女が、自分の家族のことについて話すなんてね」


「私を納得させて、もう口出ししないようにしたんじゃ」


「だとしたら、それは効果なしと捉えるべきかもしれないな」


「す、すみません」


 関原は小さく吹き出すように笑う


「大丈夫だよ。彼女は君を鬱陶うっとうしいと思ってるわけじゃない」


 関原は振り返り、出来立てのコーヒーを一口すする。味の余韻に浸るように吐息を漏らす。

 関原は氷見野の前を移動し、指定席へ行く。


「彼女は自分のことを話したがらない。同僚にもね」


 関原は少しテカりの入った綺麗な机の上にマグカップを置いた。


「君を信頼している証だ。だが、彼女はまだ14歳。子供時代の半分をこの施設で過ごしている。社会の仕組みもよくわかっていない。多少なりとも、君の目的を知る必要がある」


 関原の口調は努めて優しかったが、氷見野は関原の口調の裏にある警戒を感じていた。


「私は、彼女に危害を加えるつもりはないんです。ただ……」


「わかってるよ。でも、無自覚に彼女を傷つけることもある。心身の健康を管理するのも、僕の仕事だから」


 関原は氷見野をじっと見つめる。それは真に迫るものがあった。関原は前のめりになる。


「話してくれないか? 君が彼女にこだわる理由を」と、ゆっくり言葉を投げかけた。


 氷見野は戸惑いを見せる。

 自分のことを話す。それが痛みを伴う物だった場合、口はうまく開いてくれない。

 でも、いずなは話してくれた。会って間もない赤の他人なんかに、一生抱えて苦しみ続けるであろう過去を話してくれた。誰でもいいから愚痴を聞いてほしいなんてレベルじゃない。いずなが苦痛に耐えながら話したなら、大人の自分も話すべきだ。口周りが張るような重い唇は、語り出す。


「私には、夫がいます」


 氷見野は左手薬指にはめている結婚指輪を撫でる。


「順風満帆な結婚生活になるはずでした。不動産事業の営業社員の夫は、出会った当時から出世が約束されている人でした。彼が勤めている会社の社長のお気に入りだったんです。その話の通りに、彼は出世していって、気づいたら常務にまでなっていました。お金に頭を悩ませることもなくなったし、贅沢で優雅な結婚生活を送らせてもらいました」


 氷見野の瞼が少し落ちる。瞳は揺れ、あえかに纏う。


「どこにでもいる、ちょっと裕福な生活を送る夫婦。最初はそうだった。でも、彼は変わってしまったんです。私が、子供を産めないから」


 関原の表情が険しくなる。


「何をやっても原因はわからなかったし、不妊治療をしてもダメでした。お互い精神的に疲れてしまって、子供を諦めたんです。それから、夫は私を束縛するようになりました」


「束縛? 子供ができなくて束縛する夫がいるのか?」


「私を管理することで、仲良し夫婦を演じたいんでしょう。不妊治療をしても子供を授かることができなかった夫婦が子供を諦め、2人で歩んでいく道を選んだ。大切にしていると周りに思わせたいんです。でも実際は、私と結婚したことを後悔しているんです」


 氷見野の手首を掴む手に力が入る。


「彼にとって結婚は、自分の子孫を残すこと以外にないからです。有能な子供を育てていること、優しく献身的な妻がいること。それが資格のようにアピールできる。私や子供は、出世のための道具でしかないんです」


 関原は氷見野の思いつめる様子にしっくりこず、こめかみを指先で掻く。


「そんなことがアピールになるのか? ずいぶん古典的な感じがするんだが」


「少なくとも、彼はそう思っています」


「ちゃんと確認した方がいいんじゃないのか?」


「もう充分ですよ……。11年も過ごしてきたんですから」


 氷見野は少し冷めたコーヒーをようやく口にした。両手でマグカップを持って傾ける動作は、抹茶でも飲んでいるみたいだ。

 関原は氷見野の決意めいた声色に何も言えなくなる。


「子供は私も欲しかった。だから、里親になろうと思ったんです。でも夫は、血のつながっていない子供を育てるのは無理だって……」


「卵子提供も拒否されたのか?」


「はい。そんなことが周りに知られたら、面倒なことになると」


 やりきれない感情が関原の中できつく締め上げる。


「私は、子供を授かれなかったことを今でも引きずっているんです。子供が戦場に行くことに反対の声を上げることから、子供を宿すことができなかった自分の過去を埋めることに、いつの間にか変わっていた……いえ、最初からそうしたかったのかもしれません」


 微小な機械の作動音が聞こえる丸い部屋の中に、重苦しい空気が漂う。


「なるほどね」


 関原は厳しい顔つきで呟いた。


「この話を、あの子に伝えるんですよね?」


 氷見野は不安げに聞く。


「いや、彼女に頼まれたわけでもないから、伝える必要もないだろう。個人的な興味と考えてくれ」


 関原は机に置かれていたコーヒーを飲む。冷めきったコーヒーは乾いた口の中を潤す。


「君の事情には同情するけど、こう毎回来られるのも申し訳ないし、こちらとしても隊員のサポートに支障を出したくない」


「そうですよね、本当にすみませんでした」


「今度からはメールで連絡するよ」


 関原はポケットから携帯を取り出し、氷見野に向ける。


「赤外線でいいかな」


「あ、はい」


 氷見野は鞄から携帯を取り出し、ぎこちなく操作する。連絡先を交換するなんて独身時代からほとんどしてこなかったためやり方を忘れていた。どうにか受信状態にでき、携帯の先を関原の携帯の先に合わせる。ピコンという音が鳴り、画面に連絡先が追加されたという表示が出る。


「これで不安も少しは軽減されるだろ?」


 関原は優しく微笑む。


「ありがとうございます。迷惑かけたのに」


「ここに来た人たちは、環境が一変して精神的にも不安定になりやすい。それに、いずな君を心配してくれる人が増えたことは、むしろ喜ぶべき話だ」


 氷見野は携帯を膝の上に置き、マグカップを口につけ、ゴクゴクと飲み始める。少しずつマグカップの傾きが大きくなり、口からマグカップが離れる。


「ご馳走様でした」


 氷見野は笑って空になったマグカップを関原に差し出す。


「うん」


 氷見野は立ち上がり、「帰ります」と言った。その顔はとても晴れ晴れしく、笑顔が咲いていた。


「ああ」


「失礼しました」


 綺麗な礼をして、氷見野は部屋を出た。


 氷見野はエレベーターに乗り、ボタンを押す。エレベーターの扉が閉まる。手に持った携帯を見つめる。

 気の通じる知り合いができたような感覚があった。この地下に来て、個人的な連絡先を交換するのはこれが初めて。夫と離ればなれになり、少しだけ寂しさを感じるようになっていた。


 夫と暮らしている時も孤独を感じたけど、ここに来てからは純粋に孤独だった。何も知らない土地で新たな生活を始めるような、若い頃の自分に似ている。

 エレベーターが開き、顔を上げて歩き出す。大げさかもしれないが、違う世界への第一歩。そんな気持ちでエレベーターから降りていた。

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