karma7 片隅にはいつも

 資金調達のめどが立って1週間が経過した。地上では秋の空気が香っている。しかし、この地下はすべて室内。暑過ぎず寒過ぎずの温度が地下全体で管理されている。

 季節の風情はいつも画面越し。テレビやネットなどで知ることしかできない。

 この地下で季節の変わり目を知ることができるのは、特定の明かりの色が灯る時間の長さだ。共用通路の明かりは、太陽が昇ると青白い光を灯し、太陽が沈むとオレンジ色の光に変わる。今はオレンジの街灯が通りを照らしていた。


 氷見野はエプロンをつけて、居酒屋で皿洗いをしていた。店内は木の温もりが感じられる内装となっているが、木目柄のシールを貼っているだけで、材質はコンクリートだ。焦げ茶色のテーブルやカウンター、丸椅子は本当の木で出来ている。

 カウンターやテーブルにはメニューと箸だけが置かれていた。メニューは和洋折衷の料理となっており、お酒もワインや日本酒など豊富に取り揃えられている。

 店内では洋楽と邦楽の昔懐かしのバラードが流れ、まったりとした時間が人々を癒す。


 キッチンでは右に左にとスタッフが行き交っていた。香ばしい磯の香りやフライパンで油が弾ける音。キッチンスタッフの通る声が店内に響いたら料理が出来た合図。

フロアスタッフがキッチンとフロアの間にある台に乗った、出来立ての料理を持っていく。氷見野はまだ覚えたばかりのため、任せてもらえる料理は3品のみ。あとは雑用の仕事をするだけ。それに対して不満はない。

 研修担当の人や年下の先輩からは「さすが普段から料理やってるだけありますね」と褒められる。これからどんどん覚えてほしいと期待の言葉を投げかけられ、ちょっとだけ悦に入っていた。


 勤務終了時間となり、お店を出た氷見野。歩きながらハンドクリームを塗って、酷使した手を労わる。

 氷見野の腕時計は10時を過ぎたことを差していた。徐々にお店が閉まっていく時間とあって、店の窓の向こうは暗闇に包まれている。仕事帰りの人たちや静かな通りの空気を楽しむ人たちがまばらに歩いていた。氷見野もちょっとだけこの空気に浸りつつ、部屋へ向かう。

 すると、後ろの方から騒がしい声が聞こえてきた。氷見野は驚いてとっさに振り向いた。

 ラーメン屋から出てきた男性たち。その輪の中に小さな背の女の子。それはいずなのように見えた。こんな時間まで起きてることに驚きつつ、立ち止まってじっと見つめる。体格がよく、短髪のオレンジ色の髪をした男は豪快に笑っていた。声が大きいと注意している男はこの前ステージにいた饒舌な金髪の男性のように思う。他にもぞろぞろと男性たちがいるが、女性はいずなだけのようだ。

 いずなは大きな大人たちの後ろをついていく。その後ろ姿を、心配そうに見つめる氷見野。心にチクリと差す痛みを感じ、後ろ髪を引かれながら背を向けて歩き出した。


 氷見野はエレベーター前に来て、下のボタンを押す。ボタンの上にある黒い四角枠の中に表示された、赤いデジタル数字がB1、B2、B3と下りてくる。数字が5になって1秒後、エレベーターのドアが開く。氷見野は人のいないエレベーターに乗り込み、ボタンの前に立つ。6のボタンを押そうとする。

 氷見野の手が止まった。

 訴えかけてくる自分のこえ

 胸の中に秘めた想いは、氷見野の手を操る。ぼんやりとした意識の中、エレベーターのドアが閉まった。


 氷見野は周りを見回しながら、おぼろげな記憶を頼りに進む。通路に人はいない。壁は白く発光し、氷見野の不安げな顔を照らしている。光の強さは最小限に抑えられ、眩しいと思うほどではない。

 曲がり角に差しかかるたびに右、左と視線を振る。そして後ろまで。その様は挙動不審に尽きる。氷見野は響く足音に気をつけて、慎重に目的の扉まで近づいた。


 見たことのある観音扉。扉横についているインターホン。間違いないはずと心に問いかけてみるが、今もここにいるかどうか……。自分がやろうとしていることが本当に正しいことなのか。そんなことはわからない。でも、どうしようもなかった。締めつける想いとあの日見た惨劇が混ざり合い、帰結する残酷な結果を氷見野に想起させる。

 その時、突然扉がプシューという音を鳴らした。氷見野はどこかに隠れようと思ったが、隠れられる場所はどこにもない。どうしようと焦っているうちに、観音扉が開いてしまう。褐色の顔が扉の隙間から覗き、よれよれの白衣と共に上半身が出てくる。そこまで通路に出た関原は、ビクッとして氷見野を見据えた。


「びっくりした……。氷見野さん、どうかしました?」


 関原は苦笑しながら問いかける。


「すみません、ちょっと聞きたいことがありまして。お仕事終わりでしたか?」


 氷見野はぎこちない笑顔で取りつくろう。


「ちょうど終わって、そろそろ部屋に戻ろうと……。それで、聞きたいこととは?」


「あ、でも、先生もお疲れのようですし、今日じゃなくてもいいことなので失礼します」


 氷見野は踵を返して足早に去ろうとした。


「氷見野さん!」


 関原は氷見野を呼び止める。氷見野はおずおずと振り返り、「はい?」と萎縮した様子で言う。

 氷見野の怒られるという不安とは裏腹に、関原は微笑んでいた。


「ご飯でも行きませんか?」


「……へ?」


 氷見野は顔を赤らめ、呆気に取られてしまった。



 ネオングリーンの照明が店内を照らす。水中に差し込んでいるような独特の光を放ち、壁に投影されている。まるで海の中のレストランのような雰囲気をかもし出していた。

 氷見野と関原のテーブルには、海の幸を彷彿とさせる料理が並んでいる。


「いずな君が軍隊に志願したことは本当だよ」


 関原は氷見野の話をひと通り聞いてすぐに答えた。


「なんで……」


 関原の褐色の頬が張りつめる。


「そのことについては、本人から聞くといい。話してもらえるかは別だけど」


 関原はやはり知っているようだった。氷見野は残念そうに切なげな顔をする。


「このことは彼女の深い部分に触れることになる。彼女もそう簡単に触れられたくはないだろう」


「そうですよね」


 関原はため息交じりに呟く氷見野の様子をまじまじと見つめ、コーヒーを口にした。皿に置かれたカップがカチと音を立てる。コーヒーの苦味を持った口が微笑む。


「彼女のことがそんなに気になるかい?」


「まあ、それなりに。なんか心配で……」


「心配か……」


 関原はテーブルに両の片肘をついて前腕を立てた。その指先、親指と人差し指の爪先同士をこすり合わせる。関原の視線は逸らされ、光の幻影によってモーション壁紙に目を移す。数秒後、前腕がテーブルに下りて、視線が氷見野に戻される。


「彼女の強さは他の大人たちと大差ない。むしろすぐれている。僕はそう思ってるけど、僕がどうこう言うよりは、実際に見てもらった方がいいだろう」


 関原は困った様子でぎこちなく笑う。氷見野は怪訝けげんな様子で関原を見つめた。

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