結末(6)

 正直に言うと、たった一日で霞の心を捕まえられるとは考えていなかったし、実際出来なかった。

 だが僕には秘策があった。霞の日記である。あれは僕が有効活用するために貰う事にした。霞にそのことを理解させるために種明かしはするつもりだが、それは万全の準備が整ってからだ。それまでは秘匿にする。

 そして僕はその日霞から別れ、霞の日記を頼りに藤菱の居場所を突き止めることにした。これは正直少し手こずったが、なんとか見つけ出すことに成功した。

 『俺』には有樹が支えとなっていたように、霞には藤菱が支えになっていたのだ。藤菱こそが霞の生きる理由であり、そして現在人生に絶望した元凶でもある。

 これをどうにかしなければ僕は霞を手に入れることが出来ないのだ。

 だからこそ、その戦利品を手に入れた今、大手を振って霞に会いに行くことが出来たわけだ。正直それまでこの薄汚い現実世界で生活しなければならないので、酷く苦痛だったよ。

 やはり僕は雨と桜と絶望の街でなければ満足できないんだ。

 そしてそれは、一人ではなく、霞。君を傍に置いた上でね。

 さて、全ての準備を整え、僕は霞を待つ。空はもう真っ暗で駐車場もがらんどう。灯りはコンビニやいくつかの深夜営業している大手チェーン店くらいしか周囲には存在しない。

 それまで僕はじっと霞の車の前で待っていた。警備の人が訝しみ、何度か声をかけられるほどだった。もっとも追い出されはしなかったけれど。

「やあ、随分遅くまでお仕事をしていたんだね。霞」

 疲れた様子の霞がとぼとぼとやってくる。僕に気づき、はっと顔を上げ、不安そうに眉をひそめる。

「――本当に、やるのね」

「勿論さ。藤菱の居場所は突き止めておいたよ」

「どうやって……見つけたのよ」

 霞がバッグからキーを取り出し、遠隔操作で車のロックを外す。

 僕は車によりかかりながらはは、と笑った。

「言ったろ? 僕は君を守るって。何、結婚詐欺をするような男は裏社会でそれなりに知られていて当然だからね。手口の古さから多分常習だと思ったらビンゴだったよ。大金を下ろすのって簡単じゃないからね。詐欺だと銀行に勘ぐられたらまずいだろう? ソロプレイだと誰も守ってくれない。そうなると自然と裏社会を頼らざるを得ない」

 そもそも最近の結婚詐欺は電子マネーを利用するのが主流で、詐欺師のバックには暴力団の関与が当然のようにある時代だ。藤菱の手口がいかに古いとはいえこのご時世完全なソロプレイなど到底考えられない。ソロプレイするにしてもその背後にはヤクザ者の影響があるのは間違いないのだ。それもはみ出し者か、抜け出し組か。どうしようもない最下層の身分として。

 実際あった。詐欺グループを働くのは暴力団関係でもヤミ金関係者に多い。実際藤菱の背後にあったのはヤミ金だった。ただしその中でもシノギが厳しく、危険ドラッグや詐欺グループで糊口を凌いでいるような零細だったけれど。

「だからそのツテをたどれば、意外とすんなり見つかるのさ」

 流石に自身のバックには居場所を教えていたようで、その住所を聞き出すのは簡単だった。

 どう簡単かというと――まあ、今はいい。霞が怖がっちゃ困る。

「……日向くん、何、その恐ろしい行動力は? 君、引きこもりだったのよね? いじめられて」

「ふふ、そうだね、『俺』はそういう男だったね。で? それが僕とどう関係あるのかい?」

 僕はふふんと鼻で笑ってみせる。

「…………」

 霞はもう何も言わず、ただ車のドアを開け、そこで固まった。

 そんな彼女の背中を、僕はぽんと叩く。

「さあ、行こう。藤菱のアパートへ」

「…………」

「未練があるのかい」

「…………」

 何も言わないが、向けてきたその顔は図星であることを雄弁に語っていた。

 そろそろその不安と現実感を喪失させてあげる時がきた。

「大丈夫。僕がその未練を解いてあげるよ」

 僕はおもむろに彼女の肩を掴むと、『俺』と有樹がしょっちゅうやっていたのとは違う、乱暴で、攻撃的で、暴力的な接吻という名の侵略を開始した。

「んっ!?」

 驚く霞。だが僕は許さない。コブラのように彼女の舌を攻める。

「んん……んっ……」

 霞が抵抗を止めた。ああ、そうそう、僕は口の中にちょっと薬を含んでいてね、彼女に飲ませたんだ。精神が安定するようにね。これも霞があの日トイレに行った際にいくつかパチったものだ。まさかこんな所で役に立つとはね。

「ん……ん……」

 薬の作用か、霞の目がトロンとしてくる。身体がだらりと弛緩し、僕に全てを預けてくる。

 そんな彼女に向けて――僕は福音を奏でた。

「ふふ、霞。僕は藤菱とは違う。僕は一生君の傍にいるよ。永久に愛してあげるよ。いつまでもいつまでもぬくもりを与えてあげる」

「ん……」

 霞から舌が動かされる。粘着質で、陶酔的で、依存性の強い舌使い。

 ああ、やはり寂しかったのか。悲しかったのか。大丈夫。僕に全てをゆだねて。

「だから落ち着くんだ。冷静になって。僕に身をゆだねるんだ。ほら、肩の力を抜いて」

「ん…………」

「そう、それでいい。僕の声に耳を澄ませ、心をクリアにしなさい」

 僕は自分よりずっと年上の女性に命令を下す。

 そのことがほのかな優越感と恍惚をもたらしてくれる。そしてそんな心の安寧が次第に世界の変化を可能にしていく。

 そう――現実世界はぼんやりと薄れ、雨と桜と絶望の街が映し出されていく。

 だが現時点ではこの世界は僕にしか見えない。当たり前だ。僕の作った妄想世界なんだから。その世界を、霞にも共有させる。

 霞にも雨と桜と絶望の街を視認させる。

「有樹は『俺』と仲良く死んだ。僕は霞と仲良く生きていく」

 僕は霞から舌を話した。ぷはっと暖かい吐息が顔にかかり、口元にはよだれがしたたる。

 彼女の顔は完全にトロけきっていて、今なら出来る。僕は確信した。僕はもう一錠薬を、今度はそのまま飲ませる。ただこの薬は霞の診療室においてあったものじゃない。藤菱の居場所を突き止めるためにヤクザに話しかけるきっかけとして購入した危険ドラッグだ。リゼリグ酸ジエルチルアミドを主成分とする幻覚剤だが、依存性をもたらすために第五世代のドラッグ成分がブレンドされている。

 危険ドラッグがまだ合法ハーブと呼ばれていた頃、この手のハーブには規制が出来る度に改良が加えられていった。初期のハーブは本当に合法ハーブといったレベルで大した依存性もなく効果も薄かったが、それが規制されたことで成分を変化させ、すり抜けると同時にパワーアップを果たした。

 そしてそれは第五世代で絶頂を迎える。第五世代のハーブはあまりにも依存性と効能が強すぎて販売員たちですら忌諱するレベルにまで到達してしまった。

 それがこの危険ドラッグにはブレンドされている。まさに『危険な薬』だ。そんなものを飲んでただですむはずがない。

「さあ、現実が消滅する時だ!」

 瞬間、世界はついに雨と桜と絶望の街への変成を遂げる。

 世界は夜から灰色の昼間になり、雨がざあざあと降りしきる。桜並木は無限に続き、その脇にはこれまたビルが無限に続く。

 僕が愛して止まない世界の降臨だ。

 そしてそれは霞の姿にも変化をもたらす。今まで二十代中盤だった女医が、中学生の容姿になり、服装もクリーム色と黒のセーラー服に変わっていた。

「ふふ、中学生の霞はかわいいね」

「あ、あれ? 世界が……変わって……」

 おそらく霞はまだ雨と桜と絶望の街を共有してはいまい。薬による幻覚を見ているだけだろう。だからその幻覚に暗示をかけてやる。

「そう、雨が降ってきたろう?」

 耳元でそっと囁く。僕が見える雨と桜と絶望の街の光景を、細かく、丁寧に、詳しく、霞に教え、イメージを構築させる。

 そして僕は既にカウンセリングで雨と桜と絶望の街については話してある。霞は知っているのだ。イメージされているのだ。『妄想によって生み出された世界がどういう光景か』を僕は何度となく教え、脳に固定化させていた。

 それは懺悔でも暴露でもなく、霞に暗示をかけるためにだ!

「桜も……見える」

「そう、周りは都会だよね?」

「空が――明るい」

 やはりイメージは雨と桜と絶望の街だったようだ。最高だ。僕は薬なんか使わなくても既に世界は雨と桜と絶望の街で構成されている。僕の脳はどこかおかしいのだろうが、それがいいのだ。

 僕はぎゅっと霞を抱きしめる。強く。

「おめでとう。ここが雨と桜と絶望の街さ。もっとも、正式な住人になるためには、藤菱を撃砕しなければならないけどね」

「藤菱さんを……?」

 霞はもう冷静な思考判断力を持っていない。全てに陶酔しきり、雨と桜と絶望の街に吸い込まれて言っている。気づけば、彼女は失禁したようで、ぴちゃぴちゃとアスファルトに黄色い雫をこぼしていた。

 僕はそれには構わず、ただただ洗脳するように囁き続ける。

「藤菱は新たなカモを見つけ、すでに接近している。もう君のことは見ていない」

「藤菱さん……」

「藤菱は君をカモとしか見ていなかった。でも、君はそれでもよかったんだろう? 愛してくれるなら。騙し続けてくれるなら。しかし彼は卑怯にも君に現実を提供した」

「ああ、藤菱さん……」

 僕はロック・オンする。絶対に離さない。 

「霞は自殺するつもりだった。自殺するしかなかった。もう心が耐えられなかった」

「藤菱さぁん……」

 霞の心に巣食う藤菱への思いを全て蹂躙してみせる。

 霞から藤菱を取り払い、僕への思いを粘土のように練り込んでやるのだ。

「しかし藤菱はなんとも思わない。君のことなんかただの金づるとしか見なしていない。そして、金さえ手に入ればあとは捨てるだけだ。生ゴミのようにね」

「藤菱……さん……」

 涙が出てきた。僕ではなく、霞の双眼から。激しい涙だ。いつまでもいつまでも流れ続け、洪水のように溢れ続ける。

 粘土はさらに霞の心にぺたぺたと貼り付けられる。

「でも、僕は違う。僕は永久に愛するよ、霞を。いつまでもいつまでも愛してあげるよ。『俺』が有樹を愛したように、僕は霞を死ぬまで愛そう」

 僕の思考はドロドロに溶けて霞をゲル化する。

「僕と霞の愛は、決して滅びることはない」

「あ、日向……くん」

 来た! ついに霞の口から藤菱ではなく僕の名前を引き釣り出した!

 さあ、あと一息だ!

「そう、僕は日向。保住日向。君の永遠の伴侶」

「日向くん……」

「さあ、現実を捨てよう、霞。藤菱を殺し、お互いリアルを捨てて妄想の中で生きていこう」

 抱きしめた腕にさらなる力を込める。ぎりぎりと、霞の骨が折れるかもしれないほどに。

 その痛みと苦しみが、霞にさらなる悦びを与え、絶頂へと至らしめるのだ。

「雨と桜と絶望の街で、楽しく楽しく生きていこうじゃないか!」

「……はい」

 霞はもう、抵抗しなかった。

 僕は霞を離す。彼女ははぁはぁと洗い吐息を漏らしながら、ぐるりと周囲を見回し、はあ、と深い息をもらした。

「あ、ああ……これが……ここが……雨と桜と絶望の街なのね」

「そう、ここがこれから僕たちが永久に暮らす世界。雨と桜と絶望の街さ」

「良い場所ね」

「だろう?」

 僕は満面の笑みで霞の頬を撫でる。

 霞はとても嬉しそうに目を閉じ、顔を近づけてきたのでもう一度キスしてやった。

 もっとも、これで終わりにしてはいけない。

「ただ、最後に一度だけ現実世界に戻るよ。現実世界とオサラバするために、現実世界に足を踏み入れるんだ」

 僕はそう言って薬を渡す。これは正気に戻る薬ではなく、無理矢理神経を過敏にさせ、強制的に現実世界へ引き戻すための興奮剤だ。

 最後の仕事を片付けたらもう一度霞には雨と桜と絶望の街に来て貰えばいい。何も薬は一錠しかないわけじゃないんだから。

 いずれ薬を使わなくても僕のように雨と桜と絶望の街に永住するようになるのだろうが、まあ最初のうちは仕方ない。

「怖いわ、日向くん」

「大丈夫だよ霞。僕がついてる」

 僕は自分の胸をどん、と叩き、明るく答えた。

 ああ、世界が現実世界に戻る。おそらく最後の現実世界だ。そしてそれは僕だけではなく、霞も。

「なあに、ほんの短い時間さ。ただちょっと、藤菱をこの地球上から消滅させるだけなんだから」

 僕の声はどこまでも弾んでいた。


 夜の山道を霞の乗用車が軽快なエンジン音を響かせながら進んでいく。

 対向車はまばらで、後続車は見当たらない。

 なんとも寂れた暗い道。

「これから……藤菱さんが住んでいる所へ行くのね」

 あれから僕らは万全の準備を整え、車を走らせた。藤菱を抹殺するために。

 助手席でリクライニングを調整しながら僕は問う。

「未練はあるかい?」

「……ないわ。日向くん。君は死ぬまで私を愛してくれるんでしょう?」

「もちろんさ、霞。いつまでもいつまでも愛してあげるよ。妄想世界の中でね」

 僕の即答に、霞は声を弾ませた。

「素敵」

 霞は僕のものになった。もう藤菱のものではなくなったのだ。

 この喜び、この嬉しさ。思わず叫び声を上げたいくらいだ。

 だが、それはまだ早い。最後の仕事を済ませなければならないのだ。そのためにこんなろくでもない現実世界に舞い戻ったのだから。

「さあ、行くよ」

「ええ」

 車はスピードを上げ、時速八十キロでうねり、暗く、灯りのない寒々しい山道を突っ切っていくのだった。


 藤菱の新たな拠点は県を三つもまたいだ先にあった。

 盆地に作られた地方都市で、地元民が多くよそ者は少ない。多少出張や単身赴任などで滞在するリーマンがいる程度のもので、そういう場所だからこそ見つけるのも容易だった。

 おそらく藤菱としては悪意慣れした都会の連中よりもこういう外に出たことのない、霞のような悪い意味でスレていない女性を狙うためこういう所を選んだのだろう。

 それも農家だと世帯数が多いから周囲に警戒されるので、中途半端な地方都市、それも一人暮らしが一定数存在するであろう駅前。やはり狩り場というのは獲物がいそうな所を狙わないと行けないから、ここら辺はセオリー通りと言えるだろう。

 今時都会者であんな古臭い手にひっかかるバカはいないからな。

 僕は霞と共に車を有料駐車場に停め、オペラグラスで藤菱の動向を注目する。辺鄙な地方都市でそれなりにおしゃれな体験を出来る場所など限られているから、見つけるのは容易だった。

 この街にフランス料理店は一つだけあって、藤菱は女を連れて揚々とエスコートしている最中だった。ほろ酔いのようで僅かに足下にふらつきが見える。

「いた。藤菱だ。暖気(のんき)に鼻歌なんか歌ってまあ」

「あの女が……」

 運転性で霞がぎゅうっとハンドルを強く握りしめ、恐ろしい睥睨を藤菱の――隣にいる女の方へ向けていた。

 なるほど、女は男よりもその相方の方へ悪意を向けるというわけか。僕としては藤菱を憎むのが筋じゃないかなとも思ったのだが、ここら辺の女心は僕には理解できないし、する必要もない。ただ、霞があまりにも女の方にばかり視線を向けられても困る。

「新しいカモだね。おっと霞。あの女に敵意を向けてはいけないよ。敵意は――藤菱に向けるのさ」

 僕はそう言い、腕を軽く叩いた。

 霞はしっかと頷く。

「わかっているわ」

 視線が藤菱に移ったかはわからないが、まあ信じることにしよう。

 僕は後部座席に置かれた藤菱撃砕グッズをまさぐり、霞に渡した。

「さ、これに着替えて」

「これは?」

「返り血を浴びたら大変だろう? あと指紋がついちゃまずい」

 まさか私服のまま藤菱と対峙するつもりだったのだろうか。本当に疎いというか純粋というか、勉強の出来るバカなんだなと心の中で僕は毒づく。

 レインコート、ゴム手袋、長靴、そして髪の毛やまつ毛が一本でも落ちては困るのでゴーグルと網ネットの帽子、その上に布製の顔全体を覆うマスクを被る。これなら周囲の人間に見られても面がバレる心配がないのも利点と言えた。

 これらは全て僕が調達した。万が一警察が霞の身辺調査をした際にこれらの購入履歴が洗われると困るからだ。

 他にものこぎりだのトンカチだの色々道具はあるけれど、それらは霞に持ってこさせる。僕が手にするのは釘抜きと、厚手のビニール袋だけだ。

 さあ、藤菱を撃砕しよう。

 僕は霞に車を走らせ、藤菱の後を追わせた。彼は流石に飲酒運転はまずいと考えているようで代行を使っての帰宅だった。

 周囲に車が見つかっても困る。ここは地方都市でよそ者の動向は気づかれやすい。まず車のナンバープレートを黒い布で隠し、何年も前に潰れてそのままになっているであろうラーメン屋の裏側に停めさせ、念には念を入れてその上にブルーシートを被せた。

 そこまで終えた後、僕は車から降りて単身藤菱のアパートへと向かった。

 チャイムを鳴らす。古いアパートでオートロックはおろかインターホンに受話機能すら備わっていない。どうせ女から身ぐるみ剥いだらとっとと引っ越すつもりなのだろう。無駄に高いマンションを借りるのはばかばかしいというわけだ。

 そのケチさが――命取りだというのに。


「お届け物です」


 僕はすぐさま藤菱家の中へと入る。道具を担いだ霞も慌てて入ってきた。

「殺ったの?」

 玄関には倒れたままぴくりとも動かない藤菱の姿がある。血が一滴でもこぼれては困るのでいきなり頭はカチ割らず、まず喉を潰した。これなら悲鳴も上げられない。悶絶した藤菱の頭にビニール袋を被せ、即座に脳天に釘抜きをブチ込んだ。ビニール袋が赤く染まっている。

 僕はすぐにしゃがみこみ、藤菱の腕を掴んでズルズルと家の奥へ引っ張っていく。

「いいや、まだ生きている。浴槽に連れて行くけど、その前に霞は玄関先に髪の毛や血痕が落ちてないか確認してくれ。一つでもあると困る」

 霞はわかったわと答え、膝をついてくまなく確認してくれた。

 その間に僕は半死半生の藤菱を浴槽に放り出し、念のため霞が持ってきたガムテープで腕と足を縛り上げた。ビニール袋を外し、目と口も塞いでしまう。

 と、霞が大丈夫だったわと良いながら浴槽に姿を現した。さらに彼女は訊ねてくる。

「どうするの?」

「バラす」

「バラって――ええ!?」

 声がデカイ、と僕は口元に人差し指を添える。安普請のアパートだ。周囲に聞こえる危険性がある。

「ただ、素人が人間を解体するのは難しい」

「じゃあ、どうするのよ?」

「車でここまで来たろう?」

「ええ。それが?」

 僕はふふっと肩をすくめた

「あれで轢いてコナゴナにする。ただ、その前に袋に詰めるために出来るだけバラバラにしておく」

 勿論それはここではやらない。幸いここは盆地だから山は周囲をぐるりと取り囲んでいる。藤菱を潰すのはそこでやればいい。勿論肉片や血痕が飛び散って貰っては困るのでパーツ単位で袋に詰めるため、最低限の解体はここでやらなければならない。

 さらに僕は用心に用心を重ねるべく、のこぎりで藤菱の手と足の指をギコギコと切りながら言った。

「そして、食べられる範囲で食べちゃおう」

「え――」

「イヤかい?」

「……いいえ、やりましょう」

 現在僕も霞もほとんど全身を隠している。表情は一切読み取れない。マスクは目だけが開いているけれど、ゴーグルをしているしね。

 僕はぽいっと切り落とした指のいくつかを霞に向けて放り投げながら、

「そうこなくっちゃ」

 そう声を弾ませた。

 といっても生で食べるのは中々に難しい。

「これらは持ち帰って霞の家で処理する。電子レンジでホッカホッカにして食べよう」

 流石にここで調理するわけにはいかないからな。証拠を残すわけにはいかない。

「いいわね」

 霞は頷き、切り落とした全ての指をビニール袋に詰め、トランクの中に入れた。

 僕は牛刀を取り出し、藤菱の身体を捌いていく。

「骨のひとかけらも残さないようにしなきゃね」

「時間がかかりそう」

 おそらく終わるのは明け方になるだろう。誰かに見つかるのだけは絶対に避けなければならない。

「血はここで洗い落とすとして、まずはハラワタだ。全部引きずり出す」

「ええ」

 僕はかっさばいた胴体からグチャグチャの感触の腸や胃を引きずり出す。心臓と肺は肋骨に守られていたからのこぎりを使って切り落とさなければならなかった。中々人間の解体というやつは難しい。

「内臓をほじくりだしたら、次に身体の切断だ。ただし指と顔は全部食べるんだ。歯は一本残らず抜いて、ミキサーで砕いて牛乳と一緒に飲み込もう。勿論霞の家でね」

「内臓が多すぎるわ」

 食べるパーツを拾い集めながら霞がうんざりしたようにそうこぼす。

 僕は構わず作業を続けた。意外なものを発見。

「心臓だね。おやおや、動いている。グロいなあ。潰さなきゃ」

 まさかこれだけやっても心臓は動くのか。生命力の素晴らしさ、偉大さに感服を禁じ得ない。

 というわけで、僕はレモンを搾るように心臓を鷲づかみにして、潰した。

 かなり異様な触感で、大量の血がどぼどぼとあふれ出してくる。浴槽だから問題はないのだけれど流石の僕も少し引いてしまうほどだった。

 ともあれ、これで藤菱は死んだ。作業はまだまだ続く。

「はは、酷い感触だ。取り敢えず内臓は脳みそ含めて全部取り出す。そして生ゴミに混ぜる」

 脳みそをバラすのは本当に大変だった。色々工具は持ってきたけれど、まず頭の皮を剥いで、脳天に穴を開けて、そこを基軸にのこぎりで割っていくしかなかったからだ。

 だがそうして取り出せた脳みそはピンク色で中々にユニーク。というより灰色でなかったことに驚きだ。灰色の脳細胞とやらはどこに行った。

「そして切り落とした身体を袋に五重くらい重ねて詰めたら車で潰す。血抜きはできるだけやっておこう。漏れたら大変だ。内臓はちゃんと裏返しにして、と」

 内臓を出せば終わりじゃない。そのまま詰めたら大量の血や汚物が出て恐ろしい悪臭がするし、袋から漏れ出す危険もある。僕はシャワーを駆使してきちんと内臓の全てを裏返し、洗浄を行った。ぼちょぼちょと赤い血と茶色い汚物、さらに消化しきれていないフランス料理の残骸が浴槽に散らばっていく。乾くととんでもない悪臭になるのは間違いないので、水は絶えず出し続けなければならない。ほかほかと湯気が出ている。人間の体液はこんなにも温かいんだなと生命の神秘を強く実感させられた。

「そして潰した部位のうち頭蓋骨や内臓などの邪魔でデカイのは車で砕いて海に捨てる。浮かんでこないように重石をつけて、ね」

 人間は骨がとても多いのはわかっていたが、予想外に難儀したのは筋肉だ。これも凄い多くて、しかも弾力があって骨よりも切りにくい。しかもこれは潰れないときた。仕方ないので細切れにするしか方法はない。大変な作業である。

 ぽいぽいと切り分けた骨や筋肉の破片を霞に差し出し、分別させる。皮と毛が大量にあって排水があっという間に詰まるのでその都度抜いてこれも別の袋に入れる必要があった。

「身元がわかる箇所は食べる。あとの部位は生ゴミと一緒に捨てる。勿論あちこちのゴミ収集所に分けて。浴槽はピカピカに掃除しないとね」

 最後の分別を終え、浴槽の清掃が完了した頃には既に夜は明けていた――どころか昼過ぎになってしまった。仕方ないので丑三つ時になるまで証拠隠滅や肉体処理をもっと細分化していくことにする。とてもじゃないが今の時間外に出ることは出来ない。もっともそれは悪いことばかりではなかった。あの処理が面倒な筋肉を完膚なきまでにバラせるからだ。

 そして再び夜も更け、午前三時頃まで徹底的に清掃と解体を続け、僕らはようやく一息つく。何も食べず、何も飲んでいないため脱水症状と空腹でひどい吐き気と頭痛に苛まれた。

 だが、それももう終わりだ。

 僕たちは解体された藤菱のパーツが詰まった沢山の袋を担ぎ、また霞の家に持っていくものはトランクに詰め、周囲を警戒しながらなんとか車の後部座席に運び終えることに成功する。

 その間、三往復もしてしまった。ここが都会だったなら絶対にバレたろうが、地方都市というのが幸いした。もっとも、通行人が実は一人いて見られたかもしれなかったので霞がパーツを運んでいる間にサクっと頸動脈を切っておいた。藤菱と違って縁もゆかりもない赤の他人なので殺したところで足がつく心配はないし、周囲から悲鳴はなかったが万一この惨劇を目撃されたとしてもこの全身武装では身元などわかりようもない。謎の通り魔事件として処理されるだろう。このことは霞には黙っておく。

「最後にこの服を焼却してしまえばおしまいさ」

 車の中で武装解除し、僕はふう、と一息ついた。

 すると既に脱衣を終えていた霞が不安そうにぽつりと。

「でも、バレないかしら?」

「大丈夫。霞は藤菱の居場所を知らないことになっているんだから。それに……」

「それに?」

「僕に情報を提供してくれた裏社会の人たちは、もういないからね」

「どうして?」

「彼らは今頃ゴミ焼却場の中で仲良くやってるから」

 そう、僕が関与したことを知っている人間を生かすつもりなんかない。彼らから情報を聞き出した後はその場で殺して近くにあった食品工場の業務用ゴミ収集コンテナの中に埋没させた。構成員が数人忽然と消えたことにてんやわんやになろうとも僕のところへ辿り着くことは出来ない。ゴミ処理場で死体が見つかってもまさか縁もゆかりもない一介のニートが殺したなんて思うわけもない。

 なんせ僕の存在を知っている人間は一人残らず殺したからね。

 藤菱だけはそんなフランクなやり方は出来ない。『死んだ』ことがバレては困るからだ。『失踪』して貰わないと。だからここまで面倒なことをしたのだ。

 まあ、それはどうでもいいことだ。僕はにこりと霞に満面の笑みを向け、

「だからもう大丈夫なんだよ。誰にもバレない」

 そう、彼女を安心させた。


 藤菱の死体をあらかた処理し、僕と霞はようやく食事にありつける。霞の家はなるほどお金持ちのお嬢さんが住んでいるといった感じでオートロックは当たり前、築十年も経ってなさそうな真新しいマンションだった。

 遅めの朝食。メニューは勿論藤菱の骨付きソーセージと、藤菱の砕かれた歯が入ったカルシウムたっぷりの牛乳。

 そんな優雅な食事をしていると、世界に変化が訪れた。

 まず、霞が中学生になった。クリーム色と黒がまぶしいセーラー服姿のかわいい霞。愛しい。死ぬまで愛してしまいたくなる。

「ああ、雨が降ってきたね」

 窓だけじゃない。部屋の中にまで雨が降りしきってきた。

 僕は早速とばかりに薬を霞に与えた。

「桜も咲き乱されているわ」

 服薬した霞の言う通り、部屋は消え、藤菱のソーセージと藤菱入り牛乳も消え、座っていたはずの僕らは立ち尽くし、周囲に咲き誇る満開の桜に圧倒される。

「ふふ、ビル群がまるで森のようだ」

 部屋じゃない、ここはもう外だ。風を感じる。春の息吹が伝わる。そして左右には無数のビルが冷たくひしめていている。

「これはどういうのことなの?」

 霞が不思議そうに訊ねてきた。

「決まってるじゃないか。雨と桜と絶望の街が双手を上げて僕らを歓迎してくれているってこと」

「最高じゃない」

「だろう?」

 僕はえへんと胸を張り、霞を抱き寄せた。


 もう僕らは現実世界へは戻れない。

 ひょっとしたらこの妄想世界の中で餓死するかもしれない。代わりに現実世界を生きる人格は用意していないから。

 でもそれでいい。餓死するその日まで僕らはずっと霞とイチャイチャラヴラヴ愛し合う。

 それこそが正義であり、それこそがリアルなのだから。

 僕はそんな破滅的な楽園へ命を持って招待してくれた有樹と『俺』に最大限の感謝を涙と共に。

「有樹……『俺』……ありがとう」

 有樹はもういない。『俺』ももういない。

 だというのに不思議と、二人は笑って僕らを祝福してくれているような気がした。

「そして、さようなら」

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