結末(4)

「有樹。さようなら。君の望み通り、『俺』は一緒に焼き殺したよ」

 電子レンジの中であまりにも無惨な死体となった有樹に向け、僕は優しくささやきかける。

 もう僕の声など耳に届いていないだろうが、『俺』がどうしても有樹を好いていたようだから最大級の敬意を表した結果といえる。

「残る『僕』が、霞と結ばれよう」

 周囲をぐるりと見回す。雨と桜と絶望の街が広がっている。僕だってここに暮らしたかった。この中で幸せを噛みしめたかった。でも僕は『俺』の代わりに現実世界での活動を強いられていた。

 でも、それももう終わりだ。

「なや。君の遺言は本当にためになったよ。ありがとう。お陰で覚醒できた」

 僕はばっと両手を広げ高らかに宣言する。

「そう、僕が選んだ選択肢はあくまでこの雨と桜と絶望の街を守ることだ。有樹と『俺』が共に暮らし、共に育み、共に愛したこの楽園を守ることだ!」

 言葉に出すと強い使命感がめらめらと炎となって胸を焦がす。

 僕はそもそも『俺』を守護するために生まれた人格だ。僕の行動原理は『俺』を支えること。そして今、僕は『俺』を消し去ることで、その枷から解放させるのだ。

 ただ、最後に一つだけ仕事をしなければならないが。

「霞なんかに壊させない。楽園は、君たちのものだ」

 世界の破壊者、霞。

 現実の統治者、霞。

 その地位を引きずり下ろし、現実世界を抹殺する。

「僕は救世主。僕は守護神。僕はガーディアン」

 どんどん気持ちが昂ぶっていく。言霊というのはなるほど実在するのかもしれない。自分が本当に神か何かになった気分だ。

「僕は……いまこそなやの遺言を受け継ぎ、雨と桜と絶望の街の守護者として君臨しよう」

 僕は電子レンジに視線を移す。オレンジの光はもうなく、真っ黒い闇が窓の奥に広がっている。その様は実際には文字通り死ぬほど暖かいはずなのに、不思議と冷たく感じられた。

「そのために有樹、君には死んで貰った。でも『俺』と一緒だから寂しくないだろ?」

 実を言うなら『俺』を殺す必要はなかった。でも僕が雨と桜と絶望の街に永住するためには死んで貰う必要があった。

「君は雨と桜と絶望の街そのものだった。君からこの地位を受け継ぐには、こうするしかなかった。僕が後継者となるには、殺すしかなかったのさ」

 この世には建前と本音というものがあり、建前としては『俺』が考えていたように雨と桜と絶望の街を守るための冷たい方程式だ。でも本音は――僕だって楽園で暮らしたいという、俗っぽくて、ねじれて、腐った個人的感情。

 もっともそんなことは有樹には言わない。有樹は何も知らずに逝ってくれた。

 だから最後まで僕は君を騙してあげるよ。

「でも有樹。僕は君を忘れないよ。『俺』と末永く幸せに見守っててくれ」

 ああ、なんて白々しい言葉。

 僕はただ『俺』から人格を乗っ取りたいがために、霞を利用し、有樹を殺しただけなのにね。

 まあ、詮ないことだ。今となってはもう何もかもが手遅れなのだから。

「さあ、霞を倒す時が来た。有樹と『俺』の楽園を踏みにじった彼女には償って貰わないとね」

 笑いが、臓腑の底からこみ上げてくる。くっくと言葉に出す度に全身に連鎖し、身体を小刻みに揺すり出す。

「ああ、クリアだ。僕は今ひどくクリアだ」

 頭の中がスーッとする。たまらない心地よさが僕を支配する。

 さて、そろそろこの世界から一度出るとしようか。

 僕にはしなければならないことがあるのだから。

「霞。待っていてね。今僕が行くよ」

 薄まっていく雨と桜と絶望の街。雨音が遠くなり、世界は透明になり、代わりに現実世界が顕現されてゆく。

 僕は自室のカーテンを開け、窓に映し出される自分の顔を見つめながら、にまぁ、と口元を横に傾けた三日月のように細く、長く、口裂け女のように広げた。

「歓迎するよ。君はこれから――」

 一呼吸置いて。

「雨と桜と絶望の街の住人になるんだから」


 さて、そろそろ病院に行こう。今日はカウンセリングの日じゃないから母親は送ってくれない。徒歩で向かう。

 おっと、こいつも返さないと。僕は机の上に放り出した一冊の――日記帳を手に取った。

「ふふ、迂闊だったね、霞。まさか日記を職場に置いておくなんて」

 僕がどうして霞の問題を把握出来たのか。

 それは彼女がトイレに行っている間、診療室を物色し、これを見つけたからだ。

 おそらく普段は家に置いてあったのだろう。だがあの時は病院にわざわざ持ってきた。理由はわかっている。それは藤菱との思い出を回想したかったからだ。

 最初の頃は藤菱との楽しいデートや将来について明るい話題でいっぱいだ。それを読み返して現実逃避したかったのだろう。

 お陰で僕は霞の全てを知ることが出来たよ。

「しかし――はは、あははは!」

 ぱらぱらと日記帳をめくり、僕はたまらず哄笑してしまう。

「霞、まさかそんな古い手にひっかかるなんて、よほど箱入りだったのか、ただのバカなのか。笑いが止まらないよ! あはははは!」

 賢さというものはそもそも何か考えさせられる。

 霞はおそらく幼い頃から勉強ばかりしてきたのだろう。どう見ても霞は二十代中頃。まだアラサーにも行っていないはずだ。

 なのに一千万円もの貯金を手に入れられるほど稼いでいるということは、相当にエリート。いや、いくら女医でも数年でそんなに貯金なんて貯まらないから親の支援もあったと見るのが正解。

 おそらくは蝶よ花よで育てられ、純粋無垢に培養されたのだろう。現実をろくすっぽ知らないで育ってきたお嬢さんなわけだ。そんなのが精神科医をやっているというのも滑稽な話だが、逆に箱入りで大事に育てられたからこそ、何も恐れることなく狂った世界に飛び込んでしまったのかもしれない。

 まあ、僕にとってはどうでもいいことだけどね。

「結婚詐欺か。ちょうどいい。どこぞの馬の骨に身をボロボロにされたのなら、僕は君の心をボロボロにしてみせるよ」

 霞は一度雨と桜と絶望の街を破壊した。多くの妄想住民を自殺させた。

 その償いをして貰わないとね。いくらなんでも霞、君は殺しすぎたよ。死んで償えとは言わないが、一生を台無しにするくらいはして貰わないと釣り合いが取れない。

「もう二度と現実には戻れないよ。霞、君は永久に雨と桜と絶望の街で暮らすんだ」

 それにね霞、実を言うと僕はね、霞のことが――

「僕と共に、楽園で生きていくんだよ。あは、あははは!」

 好きなんだよ。

「大丈夫。たっぷり可愛がってあげるから。しゃぶりつくしてあげるよ」

 『俺』は有樹を愛していた。霞をただの敵としか認識していなかった。

 でも僕は違う。僕は霞が気に入っているんだ。そう、身も心もズッタズタになるまで、その生涯をグシャグシャになるまでたぁっぷりと愛してあげるからね。うふ、うふふふ!


 車と違って徒歩だと病院はえらく遠かった。片道二時間もかかってしまった。

 まあ時間なんてどうでもいいことだ。どうせこの世界とは近いうちにオサラバするのだし、僕は学校に通っていないし仕事もしていないから時間なんてどれだけ経過しても知ったことではない。

 一方で霞は女医だからそんな早い時間に帰れるわけがない。空はまだ明るいからね。

 まるで神が祝福しているかのようじゃないか。神が妄想でないとするならだけど。

 僕は病院内に入るとスタスタと霞の診療室へ向かう。受付をすっ飛ばし、アポも取らず、まるでトイレにでも行くかのように気軽に。

 果てして――

「いたぁ!」

 ドアを開けると霞がいて、書類整理に明け暮れていた。どうやら他に人はいないようで、まさにおあつらえ向きと言ったところだ。

 もっとも、仮に他の患者がいたところで僕は構わず霞を連れ出すつもりだったけどね。

「霞。来たよ」

 僕は何の躊躇もなく霞の傍まで歩み、ぽん、となれなれしく肩に手をかける。

「……日向くん。どうして、ここに……」

霞は驚きに目を見開き、僅かに声を震わせながらじっと僕を見つめた。

 僕は中腰になり、霞と目線を合わせる。子供をあやす際の必須テクニックだ。視線は対等であると人間は警戒心を解いてくれる。

 僕は霞を傷つけない。ただちょっと人生をメチャクチャにするだけなのだから。まあ、既にメチャクチャか。ならトドメを刺すだけに訂正しよう。

「霞。僕は君を助けに来たんだ」

「え……?」

「自殺するつもりだったの? ダメだよ霞。僕が君を救ってあげる。君に未来を与えてあげる。君の望みを叶えてあげる」

「な、何を……言っているの?」

 自殺するつもりはなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。霞ほどの箱入り娘が全てに裏切られて精神の均衡なんか保てるわけがない。

 『俺』がいじめられて引きこもったくらいで精神を破壊させ、妄想に逃げて僕と人格を生み出したくらいには、人間は脆い生き物だからね。

 さて、ここからが一世一代の大勝負だ。僕はすう、と息を吸い、言霊を作り上げる。

「僕はね、霞を迎えたいんだ。雨と桜と絶望の街に」

「え、ど、どういうこと?」

「一緒に生きていこう。僕と一緒に、雨と桜と絶望の街で。仲良く、いつまでも、永遠に」

「は、はぁ!? 日向くん、君……」

「さあ、僕の手を取って。一緒に藤菱を抹殺しようじゃないか」

 藤菱、という言葉に霞の眉がぴくりと跳ねた。その視線は極めて怪訝と言った感じで、どうしようもない不安と恐怖と敵愾心が瞳の中でドロドロのゲル状に形成されている。

 僕は立ち上がる。視線を変えたわけだ。顔を上げる霞の表情は今にも決壊し、ジェンガのように崩れそうなほど危ういものになっている。

「ふ、藤菱さんを……な、なんで君が……」

「ふふ、ふふふふ」

 僕は笑う。どうしようもなく笑う。

「日向……くん……」

 僕はすっと手をさしのべる。

「有樹は脳内彼女だった。それは認めよう。でも霞、君は違う。君はちゃんと現実に存在する女医さんだ」

 霞は僕の手を取らない。まあ当たり前だ。でも、そんなのは僕とて百も承知。

「そんな君を雨と桜と絶望の街の住人にする。うふ、ふふふふ!」

 そうだ、一応言っておくか。もう逝ってるけど。

「有樹……僕は君を守る。『俺』と共に見守っていてくれ」

 なんて滑稽な自己弁護。殺した相手を守る? ありえないね。

 僕は有樹を言葉巧みに殺して見せた。『俺』もろとも殺して見せた。

 雨と桜と絶望の街を奪うために、有樹も『俺』も殺したのだ。

「何をぶつぶつ言っているの? なんで君が藤菱さんを知っているの!? そもそもなんでここに来たの!? 君は……何者なの!?」

「何者……か。はは。それはかつて『俺』が言っていた台詞だったのに、すっかり逆転してしまったね。ワハ、ワハハハ!」

 かつて霞は世界の破壊者だった。

 でも今は僕が世界の破壊者なのだ。

 霞の世界を、木っ端微塵にしてあげるよ。

 だって僕はどうしようもなく――霞を愛しているんだから。

「まあ他に患者もいないようだし、じっくり話そうよ。僕が君に――幸せをプレゼントしてあげるからさ」

 僕はそう言って粗末な回転椅子に腰掛け、くるりと一回転してのけた。

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