回帰(5)

 有樹がいなくなり、僕の部屋は虚無に包まれる。

 ベッドがあり、机があり、カーペットがあり、カーテンがあり、椅子があり、そして電子レンジがない僕の部屋。僕しかいないこの箱庭の中で、僕は天井を見つめながら、そっと胸に手を当てた。

「僕は決意する」

 その声はよく通っていたと思う。木造家屋の分際で木霊したかのように何度も何度も僕の耳に決意という言葉が響いてきたのだから。

 心地よさが心臓をときめかせる。僕は胸に当てた手をぎゅっと強く握りしめ、

「僕は信じる。有樹の、なやの言葉を信じる」

 そう、言ってのけた。

 なんて誠実なんだろう。なんて立派なんだろう。

 愛する者のために現実を放棄し、妄想の中に引きこもる決意をするだなんて!

 僕はそこまで自賛してから、にい、っと口元を三日月のように歪めてみせる。鏡の反射して照らし出される僕の邪悪な笑みはとても素敵に映った。

 え? なんで?

 だってさ、僕の決意なんてさ。あは、はははは!

「――嘘だけどね」

 ダメだ、笑いがこみ上げてくる。僕はお腹を抱え、身体をくの字に曲げながら必死に哄笑するのを防ぐ。

「くく、くくくく」

 でもあまりの愉快さに腹の底から歓喜と嘲弄が下卑た笑いとなって喉を通り、口の外へと漏れてしまう。

 雨と桜と絶望の街こそがリアルで? この世界がインチキ?

 霞の言うことは間違っていて、有樹の言うことこそ正しい?

 あは、あははは! バカじゃないの!? あるはずないんだよ! そんなこと絶対に起こりようがないんだよ!

 雨と桜と絶望の街なんてのは『俺』が作った妄想世界じゃないか! 有樹なんてのは言ってみれば脳内彼女だ! 実在しない! するわけないんだよ! あははははははっ!

「あの場には有樹がいた。だから言えない」

 笑いをこらえるのが大変すぎる。僕はベッドに飛び込み、ごろごろと身体を回転させながら残酷で、冷たくて、痛みすらともなう真実を口にする。

「そうだよ。これが真実なんだ。雨は降らない。都会でもない。桜も咲かない。このだだっ広い田舎町こそが、僕の住むリアルなんだね。そうだろ? 有樹」

 有樹はいない。もういない。僕の前から消えた。また現れるのだろうか? 『俺』の妄想が勝手に生み出すのだろうか?

 自分にとって都合のいい脳内彼女。引きこもりのニート野郎のために身も心も捧げてくれる妄想ペット。だというのに『俺』ときたら未だキスどまりときたもんだ。

「くく、くっくっくっく」

 僕はひたすらに『俺』の無様さ、哀れさを笑いに乗せて、リアルそのもの自室に響かせるのだった。

 ともあれ、これで保住日向の身体は僕のものだ。『俺』はもういらない。

 僕はこの身体を自由に操り、君らの願いを叶えてあげる。


 翌日、カウンセリングに向かうと霞の様子がおかしかった。

 しきりにため息をつき、目もうつろで、何度となく前髪を梳いてはぶつぶつと呟いている。

 明らかに普通じゃない。いつもの余裕が見受けられず、普段なら必ず用意されていたコーヒーすらもないのだ。

 僕は足を組み、椅子をぎしっと鳴らしながら上っ面だけ心配そうに訊ねた。

「どうしたの霞? ひどく憔悴しきっているようだけど」

「あ、いえ――なんでもないわ」

 霞は嫌そうに目をそらす。とんとんとん、かなり激しく人差し指で机をつついている。

 心ここにあらずと言った感じなのは間違いない。

 ならば、もう少し彼女の神経を刺激してみよう。僕は肩をすくめ、はっと鼻で笑った。

「今日は霞と呼び捨てにしないでとは言わないんだね」

「……元気ね、日向くん」

「ああ、僕は元気だ。凄いクリアな気分だよ」

「そう、それはよかったわ。さて、何から話しましょうか」

 霞はやっと僕の方を向いた。しかしかなり鬱然としていて、なんというか幽鬼のようだった。

 僕はそんな彼女をあやすように優しく、撫でるように声をかける。

「疲れているね、霞。少し落ち着いた方が良い。深呼吸して。ひょっとしたら鬱病かもしれないね。ブロザックを服用した方がいいよ。あれは四環系抗うつ薬だから副作用が少ないからね。SSRIとしては最もポピュラーだけど、まあ少し効き目は弱いのが難点かな。ジェイゾロフトの方がいいのかな?」

「随分詳しく知っているのね」

「僕だって少しは勉強するからね」

 もともと『俺』がバカすぎるのだ。僕の英邁な頭脳には、『俺』が海馬に納め、そして忘れた全ての情報が詰まっている。なんせ僕は『俺』が雨と桜と絶望の街で遊んでいる間、ずっと知識を習得していたのだから。

 しかしそんなことに霞は興味ないようで、

「そう……」

 と生返事スレスレの反応を見せるだけだった。

 仕方ないなと、僕はもう少し突っ込んだ質問を投げかけてみる。

「まあ、今日は少し趣向を変えようか。霞は疲れているからね。そうだ、僕が質問をするよ。それに霞、君が答えるという形でどうだろう? それで早速質問なんだけど、霞は、誰か好きな人はいるのかい?」

「…………」

 霞は何も言わない。その沈黙は肯定だよ? 霞。

 許せないなあ。奪わないとなぁ。どんな手を使ってもね。

 まあ、その前にまずは告白からかな。僕の思いを霞に伝えないとね。

「答えたくないかい。僕はね、いるにはいるんだ」

「へえ、誰? それは実在する子なの?」

 おそらく有樹のことを言っているんだろう。妄想の存在である脳内彼女。それに対する嘲りを込めて霞はハハ、と頬を引きつらせた。

 だが、僕はゆっくりと首を振ってから、じっと霞を見つめる。

「するよ。僕の目の前にいる」

「…………」

 霞は目をすうっと細め、ぎしっと背もたれに深く身体を預けた。

 僕は逆にぐぐっと腰を屈め、彼女に数センチでも近づいてみせる。

「霞。僕は君のことをずっと気にしていたんだ。初めて会ったときから」

「変な話ね。日向くんはずっと私のことを嫌っていると思っていたけど?」

 ああ、そうだろう。『俺』は霞をずっと敵対していたし、『俺』が好きなのは有樹だけだからね。でも、それは僕じゃない。

「ははは、僕は表現が下手だからね。でも本当は、ずっと霞のことを気にしていたんだよ。ふふ、霞。そんなに緊張しなくてもいいんだよ」

 ――気配。

 後ろを見る。有樹がいた。へえ、有樹。こんなタイミングで現れるとはね。『俺』が危機感を抱いたかな。

 なら、丁度良い。僕は心の中から短剣を取りだし、それを振りかざしてみせることにした。

「やれやれ、どうも疲れているようだ。ではいい話をしよう」

 一呼吸置き、しっかりと霞の双眸を見つめながら、弾むような音吐で、

「僕は有樹を殺すことにしたよ」

「ええ!? 日向!? いや、確かにそんな話は前したけど、霞に言うの!?」

 後ろから有樹の絶叫が聞える。

 僕はわざとらしく振り向き、

「あれ? 有樹。いたんだ」

 そうおどけてみせた。

 さて、霞の反応はというと。

「……そう」

 至って平素。プライベートで何があったかは知らないが、まるでプロ意識に欠けている。公私混同も甚だしいな。

 流石にこうも反応が鈍いと僕としても少々苛立ちを覚える。

 ならば、もう少し深い所をさらけ出して見せよう。

「霞。僕は語ろうと思う。雨と桜と絶望の街についてね。有樹。君も聞いてくれるだろう?」

 霞は何も言わないが、頬杖をつき、一応興味を示してくれた。

 その態度は不満だが、まあ仕方あるまいと僕は咳払いを一つして、訥々と語り出した。

「雨と桜と絶望の街。僕の妄想世界だね。そこは絶えず雨が降り続けていて、空はずっと灰色。夜がないんだ。夕暮れも朝焼けもない。ずっと灰色。時計がないから時間もわからない。そして街は高層ビルが無限に建ち並んでいて、道路は一本しかない。交差点がないんだ。ずーっと二車線の道路が果てしなく続いていく。歩道には等間隔で桜、ソメイヨシノだね。それが満開に先乱されているんだ。凄い綺麗なんだよ。桜は散らない。風も吹かない。住民はちらほらいるけれど、その誰もが僕には無関心で、ビルの中身はがらんどう。僕はそんなビルの一つ、三階にある白いペンキで塗られたテナントで暮らしていた。ベッドが一つ、真っ黒くて大きな電子レンジが一つあるだけのだだっ広い部屋でね。カーテンも絨毯もなく、コンクリートむきだしなんだ」

 ひとしきり話を聞いた霞は、ぽりっと頬を一回掻いて、

「……そう、そういう世界だったの」

 僅かに感心を示したようにそうこぼした。

 僕は腰に手を当て、えへんと胸を張り、鼻息荒く頷く。

「霞にもわかって欲しくてね」

 するとぐっと掴まれる感覚。いや、掴むどころじゃない。両肩を有樹が抑え、がくがくと揺さぶりだしたのだ。

「日向! 貴方どうしちゃったの! 私の方を見て! それに最近おかしいよ。俺じゃなく『僕』って言うようになったし……」

 妄想のくせに彼女の動きに連動するように僕の筋肉は動き、身体が揺れる。

 ぬくもりもある。息吹もある。これが全て空想の産物だというのなら、『俺』の妄想力はなるほど人智を超えていると言わざるを得ない。

 まあ、そんな冷たい現実は置いておき、僕はシカトするのを止めて有樹の方を向き、死刑宣告を行った。

「ふふ、有樹。僕はね、霞を信じることにした」

「え……ひ、日向……」

 有樹の顔が蒼白になり、よろよろと二歩後退する。

 哀れなその姿が酷く愉快に思えて、僕は肩を震わせ、笑いをこらえながらもう一度、ダメ押しの弾丸の有樹のハートに打ち込んで見せた。

「僕は君を裏切る。僕は君を信じない」

 よくよく考えれば当たり前なことだ。

 何が妄想で、何が現実なのか。合理的に、科学的に考えればわかることなのだから。

 しかし『俺』は納得できないというバカげた理由でそれを拒み続けてきた。

 でも、僕は違う。即座に拒んでみせる。世界の真実を白日の下に晒してみせる。

「世界はこここそがリアルなのであって、雨と桜と絶望の街などという妄想の世界を僕は信じない」

 そこで一端言葉を止め、すう、と大きく息を吸って。

「僕は、霞を信じる。霞を選ぶ」

 有樹はもう何も言わなかった。ただへたり込んで、嗚咽を鳴らすだけだった。

 対照的に霞は疲れ混じりながらも頬を僅かに緩め、顔に明るさを混ぜてくれた。

「ふふ、なんか、光栄なのかしらね」

「疲れているね、霞」

 僕はもう一度言う。霞は首肯すると、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

「そうね、私は今日少し疲れているの。妄想世界だと認識して、それに抗うと決めたのなら、もう話すことはないわよね? ごめんなさい、ちょっとトイレへ行ってくるわ」

「うん、行っておいで。長い。長いトイレでも構わないよ」

 僕はそう言って霞を見送り、組んだ足を解いてくるくると椅子を回転させた。

「ふふ、ふふふふ」

 笑いが抑えられない。全てが順調にいっている。

 これでいいのだ。この調子で進めば良いのだ。

 と、後ろから有樹のすがるような声が聞えてきた。

「日向……どうして」

「どうして? 有樹。君がそれを問うのか?」

 僕は椅子を回転を止め、有樹と対峙する。

 その時の表情で気づいたのか、有樹は目を見開き、口元を抑えた。涙の残滓が頬に残り、蛍光灯の明かりに照らされて宝石のように輝いている。

「ひ、日向? まるで……別人……」

「いや、これこそが僕さ。僕は今――」

 僕は椅子の上に立ち、ブラジルにあるキリスト像のように手を広げ、全身で十字を形成しながら、蛍光灯の光を後光とのように演出させ、高らかに言う。

「酷くクリアだ」

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