回帰(3)
カウンセリングを終え、自室に戻ると意外なことに有樹が待っていてくれた。
彼女は退屈そうに部屋の中央に立ち、後ろ髪を梳きながら穏やかな微笑を浮かべている。
「有樹――久しぶりだな」
俺は目を丸くし、思わず小走りで彼女の元まで駆け寄り、そして有無を言わさず抱きしめた。
俺の腕の中で有樹が絞り出すようにか細い声をそっと囁く。
「やっと会えた、ね」
声には涙が混じっていた。ああ、有樹も会いたかったのか。俺も会いたかった。
まるで織姫と彦星のようだと心の中で笑う。
と、そこで俺ははっとなり、有樹から離れてきょろきょろと周囲を見回す。
雨音がしない。部屋もコンクリートむき出しの白い部屋ではないし、外は夜だった。
「でも、世界は変わらないのか。それは、つまり――」
有樹を見る。一筋の涙を頬に伝わせながら、彼女はこくりと首肯した。
「日向。私はもう限界。もう、いられないかもしれない」
「霞のせいで?」
「そう、でも日向の心は霞に移ろうとしている」
「…………」
それは否定出来なかった。確かに俺の気持ちは揺れていた。
別に霞を愛しているとかそういうものではない。俺が好意を抱くのは有樹ただ一人。しかしそうではなく、雨と桜と絶望の街がインチキであり、この薄汚い世界こそが現実であるという考えに系統しようとしていることだ。
それくらい雨と桜と絶望の街は非科学的であり、そしてこの世界は科学的だった。
有樹は俺の胸に顔を埋め、かすれるような音吐を響かせる。
「でも仕方ないのかもしれないわ、霞の力はあまりにも強大で、私には対抗できないもの」
「有樹……」
そんなことない、とは言えなかった。
実際雨と桜と絶望の街は俺から離れ、そして有樹とも会えなくなってしまったのだから。
「日向。私が今貴方のいる世界がデタラメだといっても、もう心の底から信じることはできないんだよね?」
「そんなことは……」
「あるよ。今の貴方はそういう顔をしているもの」
顔を上げていない。俺の胸の中でひっくひっくと嗚咽を鳴らしてもそう断言する有樹の言葉は確かに正鵠を射ていて、俺は反論することができなくて、ただ――
「……ごめん」
そう謝ることしか出来なかった。
ああ、部屋はどこまでも自室だ。右から見ても左から見ても現実世界そのものだ。とても冷静で、凍てつくような寒さがまとう、孤独の世界。
それからしばらく二人は抱き合ったまま黙っていた。何も言えなかった。気の利いた言葉の一つや二つあっさり出てきそうなものだが、どうしてもひねり出せないのだ。
やがてしびれをきらしたように有樹が俺から離れ、ブレザーのポケットから一枚に封書を取り出し、すっと俺に差し出してきた。
「これを」
「……なんだい、これは」
受け取る。ただの四号の茶封筒。明けてみると折りたたまれた紙が一枚入っていた。
不思議と妖気のようなものが漂っている気がして、取り出すのがためらわれる。
「雨と桜と絶望の街について、音居さんの遺言だよ」
「音居……さん」
瞬間――
「うっ!」
どくんと、心臓が跳ねた。そして理解した。音居さんの封書だからこの異様な妖気を感知できたのか。あの人は狂っていた。壮絶に狂っていた。そして、正しかった。
狂気と正当性を同居させた悪魔のような人で、そんな女性が俺に遺言を渡すという事実に、とてつもない戦慄を覚える。
すると有樹は俺の両肩を掴み、じっと双眼を向けながら、
「大丈夫。落ち着いて。私がやっと見つけたこれに、霞の全てが書かれているの」
そう、穏やかに教えてくれた。
「霞の……全て?」
そこまで言われてはもう確認しないわけにはいかない。封筒から紙を取り出し、広げてみる。B5用紙で、そこには病的に細かく、また定規でも使ったかのようなカチコチに角張った文字がびっしりと埋め尽くされていた。
それを一瞥しただけでも、うっ、と吐き気を催すが、頑張って読み解いていく。
「……こ、これは!?」
それは、衝撃的な内容だった。
「馬鹿な……これが……世界の真実だというのか!?」
俺は音居さんの遺書をじっくりと黙読する。
日向くんへ。
これを読んでいるということは私はもう生きていないということよね。
できるならちゃんとさよならを伝えたかったのだけど、それは出来なかった。そもそもこの遺書を見つけてくれるとも思わないのだけど、見つけたということは日向くんが探してくれたということよね、嬉しいわ。
私の死因はおそらく自殺だと思うのだけど、勘違いしないで欲しいのは、その自殺は決して私の意志ではないということ。霞によって自殺させられるということ。
この遺書を読んでくれているのならわかるでしょう? 当たっているはずよね? 私が以前言ったように、霞は終末的自殺提供者。人類を自殺させる力を持つ、恐るべき邪悪。
出来るのなら腕を失っても、脚を失っても私は生きていたい。日向くんや有樹ちゃんと一緒に雨と桜と絶望の街で過ごしていたい。
私は天国にも地獄にも行けない。生まれ変わることもない。それは宗教を信じているとかいないとかではなく、雨と桜と絶望の街の住民だから。
日向くん、これから私が語ることをしっかりと胸に残しなさい。
まず雨と桜と絶望の街とは何か。これは有樹ちゃんによって創造された世界。有樹ちゃんこそが雨と桜と絶望の街における神なの。五分前に世界を創ったというような考えに近いわ。もっとも時間という概念がそもそもないからいつ創造したかは定義できない。
ただ有樹ちゃんによって雨と桜と絶望の街は生み出され、日向くんは彼女が幼なじみであるという記憶を受け付けられ、遺伝情報に電子レンジを作成するよう命じられた。
電子レンジとは何かというと、有樹ちゃんを雨と桜と絶望の街と融合させるための装置なの。結果として有樹ちゃんは死んでしまうのだけど、代わりに有樹ちゃんの情報が雨と桜と絶望の街に固定され、霞の侵略を防ぐことが出来る。
つまり電子レンジとは侵略者によって有樹ちゃんが殺され、雨と桜と絶望の街を消滅させられるのを防ぐための装置として存在するの。普通に有樹ちゃんが侵略者によって殺されてしまうと雨と桜と絶望の街は消滅してしまう。私はそれを阻止するために電子レンジ部品専門店を経営し、そして侵略者――霞の前に立ちふさがり、君たちを守っていたのよ。
何故電子レンジなのか。それは雨と桜と絶望の街はマイクロウェーブとターンテーブルによって構成されているから。だから霞に侵略される前に有樹ちゃんを電子レンジで温め、殺してしまえば有樹ちゃんは雨と桜と絶望の街と融合し、永久に消滅することはない。
次に私は何者かというのなら、有樹ちゃんによって生み出された世界の守護者。日向くんが電子レンジを完成させる手助けをするのが私の役割であり、それだけのために私は誕生した。そして、その代わり私には多くの情報が提供されていた。未来に関する情報ね。私は守護者として異世界に関する情報をキャッチ出来た。霞の存在も突き止めていたのよ。
でも守護者だから日向くんが電子レンジを完成させるために命をもって守らなければならない。電子レンジを作れるのは日向くんだけだから。でも、私の力では霞には対抗できない。おそらく私は霞に殺される。自殺させられるというべきかしら。多分、これを読んでいると言うことはそうなっているのでしょうけど。
最後に日向くん。君は何者か。君は異世界からの来訪者よ。雨と桜と絶望の街ではない。どこか違う世界から来た人。おそらく霞と同じ世界の住人。だから霞は君を連れ戻そうと侵略してきたの。君は有樹ちゃんによってこの世界に連れてこられ、有樹ちゃんによって記憶を操作され、遺伝情報を書き換えられた。どうして有樹ちゃんが君を選んだのかはわからないけれど、君は他の住民とは違い、特別に電子レンジを製造する権利と能力を与えられたの。
長い話になったわね。これを読んでいるということはまだ余裕があるということだけど、油断しないで。私では霞を殺せない。霞の侵略密度は桁違い。そして有樹ちゃんや、まして君では対抗すらできないでしょう。
だから一刻も早く電子レンジを組み立てなさい。そして有樹ちゃんを温め、殺すの。
そうすることで雨と桜と絶望の街は固定され、君は永久にこの世界の住人として生きていくことができるのだから!
最後に、やっぱりこれを言わないといけないわよね。
さようなら、日向くん。
音居さんの遺書は予想通り奇っ怪だった。でも普段の電波単語はほとんど存在せず、極めて理路整然としながら狂っていた。
そしてそれ故にわかりやすく俺の脳に浸透し、そして全てを理解させてくれたのだ。
俺はぐしゃっと遺書を握りしめ、世界の創造神たる有樹に向けて強く訊ねる。
「有樹!? どこでこれを!?」
「日向がインチキな世界にいる間に探して、見つけたの」
インチキな世界とは、ここのことだろう。おそらく有樹はたった一人で雨と桜と絶望の街をさまよっていたのだ。ただそれだけのことが、酷く申し訳ない気持ちに至らしめた。
「そんな……これが……これが全ての真実だったなんて……」
俺の身体は震えていた。カサカサと揺れた紙がこすれた音を響かせて、それはどこか雨音に似ていた。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
「俺は……『僕』は……僕は、どうしたら……」
「日向?」
有樹が不思議そうに首を傾げる。
僕はそろぞろ目覚めなければならないかな。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
「なんだ……この気持ちは……」
俺は一瞬、思考が奪われたような気がした。いや、それはいい。問題はこの遺書だ。
「霞の言い分と有樹の言い分……どちらが、正しいのか……」
悩む。一体何が正解で、何が不正解なのか、俺には判断できない。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
「僕は……そもそもそんなこと、気にする必要があるのだろうか?」
ピー、ガガガガ、ピーガー。
「俺は……僕は……俺は……」
ピー、ガガガガ、ピーガー。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
得体の知れないノイズ、ないしダイヤルアップ音がひっきりなしに脳内に鳴り響く。
一体これは何なのだろうか。これが鳴ると俺の思考が酷く鈍る。それどころか自分の意志とは無関係の不可思議な思考がまるで洪水のように流れてくる。
不安が、胸を締め付けた。
と、その時。
「あ、世界が……雨と桜と絶望の街に……」
俺は思わず声を上げ、周囲をぐるりと見渡してしまう。
そこは現実世界? ではなかった。とても馴染みのあるコンクリートの白い部屋。
窓の外は灰色で、雨が降っていて、全てが懐かしく、そして愛おしい。
やっと、ようやく。そんな感情が胸の奥からこみ上げてきて、俺はほっと息をついた。
すると有樹が俺の肩に顔を添え、
「戻れたね。でも、多分これが最後になると思う」
そう、穏やかな声を漏らした。
「…………」
それは否定しない。多分、有樹とこうしてふれあえるのも最後になるだろう。
音居さんの遺言に基づくならば、この世界は電子レンジによって始まり、電子レンジによって終わる。
けれど、作らないわけにはいかない。
理由じゃない。本能がそうさせてしまう。
けれど、それは楽園の終焉を意味する。
だというのに有樹は嬉しそうに、
「電子レンジ、作ろうか」
そう、言うのだ。
「……ああ」
俺は頷くことしか出来なかった。寂しさが、悲しさが、そしてむなしさが胸中を去来する。
そんな俺の気持ちに気づいたか、有樹はぎゅっと俺の手を強く握ってくれた。
「多分、意味があることだから」
電子レンジの前に立つ。
「おそらくこれが最後の作業」
俺は言った。隣で有樹がこくりと頷く。
「うん、そうだね。そして今日、完成するんだね」
「ああ、完成させる。電子レンジを、僕の……俺の使命を」
ほとんど完成した黒い箱。
意味も無く、理由もなく、ただ作っているだけの電子レンジ。
それを完成させるべく、共にしゃがみ込み、床に散らばった工具と素材をかき集めてゆっくりと、終焉への旅路を始めるのだった。
作業の最中、有樹が何気なく訊ねてくる。
「人生って、ままならないね」
「そうだな。人生は思い通りにはいかない。自分がこうありたいと願っても、自分のせいか、あるいは他の誰かのせいによってその計画は頓挫し、挫折したりするな」
最初はただの世間話かと思い、俺は有樹の方を向くことなく、淡々と答えた。
有樹はそれが不満だったのか、少しだけ声のトーンを低く、キツめの口調で返してくる。
「それでも人は自分の人生に納得させたいと思うんだよね。幸福なりたいっていうのかな。それを行動原理にままならないこと、望み通りにならないこと、邪魔されること。それを受け入れなければならない」
俺は有樹の方を見る。作業の手は止めずとも。
どうやら重要な話ようだから、しっかりと心の目を見開いて、論理的に言葉を組み立てていく。
「というより受け入れないなら死ぬしかない。自分の願いも望みも叶わないまま死ぬのなら、それは人生それ自体を拒絶することに他ならない。それでもいいと死ぬやつもいるけどな」
ちゃんと意図を理解してくれたことに有樹は嬉しさを覚えたようで、僅かに口元を緩め、声のトーンを元に戻しながら話を進めていった。
「ここで重要なのは人生それ自体が無意味だから死ぬんじゃないんだよね。自分の送りたい人生が送れない、勿論どういう人生を送りたいかは無自覚でも、生きているという行為それ自体に対して人は何らかの価値を求めてしまう。人はそれを、幸福って言うんだよね」
「そう、幸福というのが漠然としているのは、人は送りたい人生について無自覚だから。あるいは、思考できないから。そしてなんで思考できないかというと、何が起こるか予想できないから。計画は出来ても、その通りに進むとは限らないことを人は知っているからだ」
俺の返答に、まるでバレーのトスワークのように有樹が続いた。
「そして、幸福は軌道修正される。幸福には弾力性があって、それは無自覚だからこそ可能なんだよね。つまり、Aという結果が来るためにBという道程がある、というほど厳密に人生を計画していない、というより出来ないから予想の段階でしかなく、その予想が外れても修正がきく。そして最終的に人は幸福を自覚できるようレールを組み替え続けながら敷いていく」
「そうだ有樹。それを人は『妥協』って言うんだよな。ただ知るべきなんだ。この世には妥協できない挫折ってのがあって、それを認めて他の幸福をめざすことは不可能だということに」
幸福は何でも良いって訳じゃない。
幸福には一つだけ絶対条件があるのだ。
それは――『納得できる』ものであること。これを満たさないものに人は幸福を抱くことはない。
「そう、雨と桜と絶望の街がなくなってもいいかと言われたら、それはノーだもんね」
「そういうことだ。面白い話を聞いたことがある」
「なに?」
「俺が住んでいたあの世界。日本っていうんだけどさ。まあ、雨と桜と絶望の街も日本だとは思うけど、取り敢えず日本としておくぞ。昔戦争をしたんだよ、アメリカと」
「知ってる。それが?」
いきなり話が変わったのに有樹はさして動揺することなく平素に訊ね返した。
勿論話など変わっていない。俺は作業しながら続けた。
「戦争に負けた際、日本は多くの妥協をした。政体を変え、領土を失い、兵隊を裁判で殺され、莫大な賠償金を支払わされ、日本は悪い国なんだと教育することを義務づけられた。でも日本は一つだけ妥協できないものがあった。国体だ」
「天皇制だね」
「そう。日本はどれだけ妥協しても、これだけは妥協できなかった。絶対に絶対に妥協できなかった。日本が他のありとあらゆる条件を妥協しても、国体……すなわち天皇制存続だけは何が何でも妥協しなかった」
「雨と桜と絶望の街も同じってわけ?」
有樹の問いに、俺はしっかと頷く。
「そうだ。俺は死んでも良いし、有樹にも――言いたくはないが、死ぬことになるかもしれない。でも、雨と桜と絶望の街はなくすわけにはいかない。これだけは妥協できない」
「私と雨と桜と絶望の街を天秤にかけて、後者を選ぶほど大事ってこと?」
「……そうだ」
言いたくはないが、答えるしかなかった。
有樹さえいればどこでだって生きていけるというのなら、俺は迷わず前者を選ぶ。しかし有樹はこの世界の創造者だ。音居さんの言うことは絶対に間違わないから、有樹と共にこの世界以外で生きていくというのは、構造的に不可能であることを意味する。
だするなら、俺は有樹と共に死を選びたい。
じっと有樹を見つめると、有樹はふぅ、と嘆息を一つついて、
「そう。そうかもね。今だから言うよ。確かに音居さんの言う通り、この世界を創ったのは私。私はいつ生まれたかはわからないの。ある日突然存在してた。理由も、原因も、道程もわからない。ただ、いつの間にかいたの。そして私はこの世界を創った」
そう、答えた。
「音居さんの言うことは、やはり正しかったんだな」
「そう。音居さんを創ったのも私。この世界を保全する手段として電子レンジを生み出したのも私。でもね、日向だけは違うの。日向だけは私が創ったわけじゃない。そして、変な話なんだけど、私は日向を雨と桜と絶望の街に連れてきてないの。日向はどういうわけかこの世界に突如現われたの。いつかはわからない。いつの間にかいたの」
有樹の懺悔にも似た暴露に、俺は目を丸くさせた。
今まで狂ってはいたがいつだって正しかった音居さんが、間違いを犯したからだ。
「そいつは不思議だな。音居さんは有樹が連れてきたって言ってたけど、あの人ですら知らないことがあるんだな」
作業の手を止めることなく、有樹は首肯した。
「うん。そしてね、私は日向が好きなの。私が創ったものじゃないから。私が干渉できないから。私じゃないから。私以外の唯一の存在で、当然興味を引かれるよね? そして一緒に過ごして、一緒に電子レンジを組み立てて、勿論電子レンジについて日向に作るように指定なんか出来ない。日向はいつの間にか出来てたの。不思議だね。でもその不思議が楽しかった。嬉しかった。私は日向と一緒にいるととっても幸せで、これが幸福なんだと思ったんだよ。だから、それを失いたくない。霞なんかに奪われたくない。そのためなら私は――死んでもいい」
「有樹……ああ、有樹……」
愛しさがこみ上げてくる。初めて聞く、有樹の本音。そして正体。たまらない幸福がじわっと胸を満たした。
ピー、ガガガガ、ピーガー。
僕は何者であるか、世界とは何か。観念とは何か。
その全てを理解した。
気づくと、僕の頬は自然と緩みだした。
「ああ、そうか。そういうことか」
「そう、そういうことなんだよ、日向」
有樹がぽん、と僕の背中を叩く。
しかし彼女は気づいていない。僕は今――有樹とは違う真理に到達したことを。
僕は立ち上がり、両手を広げて天を見上げる。天井だった。白くて、鉄筋で、そして冷たい。
耳を澄ませれば雨音。窓に視線を移せば灰色と、そして桜のピンクがわずかに映る。
「ああ、だんだん頭がはっきりしていく。クリアになっていく」
僕は覚醒していくのがわかる。
僕がこの世界に君臨できているのがわかる。
歓喜歓喜。圧倒的歓喜。僕はずっとここに来たかったのだ。この世界を我が物にしたかったのだ。
「電波が見える。扉が開く。音を立ててギギギギ」
「日向? どうしたの?」
有樹が訝しそうに眉をひそめ、しゃがんだまま一歩後ろに下がった。
どうやらあまりにも異様な顔つきをしていたらしい、明らかに彼女の全身からは恐怖よる怯えが色濃く映し出されていた。
これはいけないと僕は肩をすくめ、出来うる限りの笑顔を作って警戒心を解くことにする。
「なんでもないよ、有樹。『僕』は――もう大丈夫だ」
有樹は多少ためらいがちながらもくいっと僕のブレザーをひっぱり、作業に戻ろうと言ってくれた。
それから何時間経ったろうか。雨と桜と絶望の街に夜はなく、時計もないため具体的な時間の経過はわからない。
一時間かもしれないし、二時間かもしれない。あるいは十分くらいだったかもしれない。
実際の所、たとえどれだけ時間が経過しようが考えるだけ無駄なので、僕はいつしか気にならなくなり、ただひたすらに作業を続けていった。
そして――ついに。
「さあ、電子レンジの完成だ」
「やっと出来たね」
僕と有樹は立ち上がり、じっと完成した電子レンジを見つめる。
真っ黒い箱。メッカにあるカアバのようだ。ただ違いとしては中を覗ける窓があり、中には巨大なガラスのターンテーブルとマイクロウェーブを照射する装置が取り付けてある。
構造としては間違いなく電子レンジなのだが、あるのはスイッチのオンオフだけで、タイマー設定も出来なければワット数の調整も出来ない。非常にシンプルで、それでいて無駄に巨大な、得体の知れない異様の黒箱である。
「何の意味があるかもわからない、謎の電子レンジだけどね、そう思わないかい、有樹」
「確かに、目的すらない巨大な巨大な電子レンジだね。でも音居さんの遺言にあったでしょ?」
有樹が真っ黒いプラスチックの筐体を撫でながらどこか愛しそうに言った。
僕もまた電子レンジに振れる。プラスチック特有の、ポコポコした感触。
「ああ。あった。でも――なんでだろう」
なやの遺言。僕から言わせればただの怪文書なのだが、そう言うと有樹が傷つきそうだったので、なるべく穏当な、けれど僕の意志はしっかり載せて、
「ひどく、空虚に聞こえる」
そう、答えた。
何故そう思ったか。それはやはり、電子レンジは完成してしまえばただの電子レンジだし、そもそもこれを完成させたら最後、僕たちはもう何もすることがない。
楽園なのか牢獄なのかすらわからない雨と桜と絶望の街。
そこまで考えれば、遺言が空虚に聞こえるのも致し方ないのではないだろうか。
だけどちらりと有樹を見ると、彼女は猫背になって凄く寂しそうに眉を落としていた。
やれやれ。わがままな子だ。僕は身体を彼女の方に向けて、そっと両肩に手を添える。
「さて、有樹」
「なに? 日向」
有樹が不安そうに顔を上げる。
手品だ。今から君の顔に満面の笑みを咲かせてあげるよ。
「僕は決断したよ。僕は有樹を信じる。そして――霞を倒す」
「日向! わかってくれたのね!」
破顔。
思わず僕もつられて笑ってしまいそうだった。
簡単で、シンプルで、けれどディープな――陳腐な手品。
僕はさらに言葉を紡いでいく。
「ああ、霞の言い分は嘘で、雨と桜と絶望の街こそが本物なのさ」
「僕はそう信じる」
「ありがとう! 日向、大好き!」
「有樹。キスをしよう」
「うん!」
有樹は声を弾ませながら僕の胸元へ顔をうずめる。
僕は背中に腕を回し、ぎゅっと力一杯抱擁する。
ぬくもりが、熱が、息吹が、鼓動が、皮膚を通じて僕の体内へと入り込んでくる。
顔を上げた有樹の頬は朱に染まっていて、そのトロけたような瞳は今にも涙でいっぱいになりそう。ほのかに甘い香りがして、僕の脳にピリリと痺れが走った。
唇をわずかに突き出す。僕も有樹もだ。顔を近づける。僕も有樹もだ。
そして吐息が重なり、混じり合い、そして――融合した。
「ん――んちゅ……」
ぴちゃぴちゃと粘着質な音がコンクリートで構成されたテナントに響く。
雨音が素敵に聞える。心地よいα波が僕たちをリラックスさせ、肩の力を抜かせる。けれどしっかりとホールドした腕は放すことなく、いよいよ唇の中へ舌を差し込む時が来た。
「んっ……んんっ……ん……」
有樹の舌が先だった。僕は負けじと舌を絡め、蛇のようにのたうつ。まるでウロボロスのように二頭の蛇が違いを食べ合い、噛み合い、そして一つとなる。
もはや僕にも有樹にも意識などない。ただ無心で、たっぷり唾液がステージとなり、舌と舌でワルツを踊る。
まるで僕に吸収されるように有樹の姿が朧になっていく。
幽霊を思わせる半透明はどんどん薄さを強め、同時に世界も薄まっていく。
雨と桜と絶望の街が消え去り、代わりに現実世界がぼんやりと、入れ替わるように映し出される。
雨音も消え、狭苦しい静寂の空気が僕の周囲を取り囲む。
気づけば、有樹はもう僕の前から消え失せていた。
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