楽園(6)

 霞は姿を消した。

 後に残るは雨と桜と絶望の街。いつもの光景。変わらぬ世界。

 俺の目の前には音居さんの背中が映っていて、まるで砦のように頼もしく見えた。

 その難攻不落の要塞が包帯を巻き終わった右手を見て指をぐにぐにと動かして無事を確認してから、

「危なかったわね」 

 真剣そのものの表情で、そう言った。

「えと――音居さん……」

「今のはかなり危険な存在よ」

「え?」

 いや、確かに危険なのはわかる。実際有樹は狙われたし、俺自身も得体の知れない悪寒というか恐怖に苛まれていた。しかしどうして音居さんは危険だと断じることが出来るのか。

 もしや音居さんは霞について何か知っていると言うことか。俺は否応にも期待してしまう。

 音居さんは身体全体をこちらに向け、すぅ、と息を吸って――

「あれは世界の破壊者。世界に終焉をもたらす者。波動の化身。決してこの雨と桜と絶望の街には存在してはならない者。即ち、セカイシュウマツテキジサツテイキョウシャ!」

「…………」

「わからない? まずこの世界は伽藍法則によって特殊形成された第六指向性のものなの。その放射性物質をキャッチしてイナズマを形成するんだけど、あの女――霞はその法則性をねじまげ、宇宙の真理を法則性に混ぜ合わせ、偉大なるビッグ、いいえ、ビックなものを作るの!」

「ダメだ、さっぱりわからない」

 いつもの狂った発言。期待するだけ無駄だったか。

 ただ、音居の瞳はキラキラと輝いていて、真剣そのもので、心の底から言っているのだけは伝わる。彼女は嘘偽りは何一つ言っていない――つもりなのだ。

 純粋すぎて狂気の扉が開かれてしまっている。

 もっともそれを指摘はしない。一つは言っても無駄だから。そしてもう一つはまがりなりにも俺たちを助けてくれたことへの最大級の感謝の意を込めて。

「わからないのは危険な兆候ね。おそらく宇宙避雷針の報告性打倒が波紋となって刺激しているからに違いないわ!」

「…………」

「ま、いいわ。今の貴方たちは疲れているのよ。無理もないわ。究極最高真理、ディストピア・ユーモラスグループの侵略に遭ったのだからね。私も対策を取らないといけないので、今日は立ち去ることにするわ」

「…………」

 俺は何も言えなかった。ただ音居さんのデタラメな発言を右耳から左耳へ通り抜けさせて、じっと雨に打たれながら佇立するだけだった。感謝はしても、やはり理解はできなかった。

 気がつくと音居さんはもういない。いつの間に消えたのだろう。あまりにも理解不能なことばかり言うのですっかり理知的な反応が取れないでいた。

「日向……」

 背中から泣きそうな声。振り向くと有樹が両手で顔を隠しながら、腰を曲げて、その細い身体を小刻みに震わせていた。

「有樹……」

 俺はたまらずそっと有樹を抱き寄せ、優しく、丁寧に、そして暖かさが感じられるように抱きしめてやった。

 有樹の声が痛々しく響く。それはどこか短剣を思わせ、俺の心をぐさっと傷つける。

「怖かった……怖かったよぅ……」

「大丈夫だ、俺がついてる」

 心の中ではちっとも大丈夫ではない。今回だった音居さんが助けてくれなかったら俺は果たして有樹を守り通せたろうか?

 おそらくは無理だ。俺はあまりの情けなさにぎゅっと唇を噛みしめた。血がぽたりと、雨に混ざって顎を伝い、そして融合して消えていった。

 それはまるで、俺の悔しさとか悲しさなんてのは、この世界においては何ら価値をもたらさないとでも言っているかのようで、俺に与えられたのはじくじくとした痛みだけ。

 だが、有樹は俺の背中に腕を回し、抱き返しながらすがるように、

「うん……頼りにしてる」

 そう、ささやきかけてくれた。

 その気遣いに涙が出そうになる。おそらく有樹だってわかっているはずだ。俺に霞を追い払う力なんてないってことを。でもそれを口にしない。俺のプライドを考慮し、最大限の言葉を投げかけてくれる。

 怖かったろうに、悲しかったろうに、そして俺が頼りなかったろうに。

 それでも、そんな暖かい言葉を投げかけてくれた。

「まかせろ」

 俺は力一杯有樹を抱きしめ、腹の底から言った。

 有樹の期待を無にしてはいけない、今度もし侵略されたならこの命に替えても有樹を守らねばと心に固く誓うのだった。

 ただ、それとは別に根本的な疑問が脳裏をよぎる。

「それにしても、あの霞とかいう中学生は一体……」

 今まで雨と桜と絶望の街にあんなのはいなかった。住民たちは皆おれたちに無関心で、ただの通行人以上の存在ではなかった。

 会話はおろか顔すら見せないのだから。通行人Aを通り越して街路樹に等しい存在だ。 

 だからこそ、音居さん以外で初めて俺たちにアプローチをしかけてきた霞という少女について純粋に気になるのだ。

「ぁ……うぁ……」

 有樹が泣いている。嗚咽を鳴らしている。

 俺は思考を中断する。一つだけ確かなことがあるからだ。

 すっと有樹から離れ、彼女の頬をそっと撫でる。

「ぁ……日向……」

「俺は死にたくないし、有樹も死なせたくない」

「うん……私も、生きていたい。もっと生きていない! たとえこのヘンテコな街に永住することになってもいいから、とにかく死にたくない!」

 有樹の声は万感が篭もっていて、酷く電気的だった。全身が痺れるような魂の音吐。

 言霊。それを俺は強く実感させられる。

 灰色の空から降り注ぐ雨を切り裂くように、ピンクのもやとなって周囲に広がる桜の嘲弄を振り這うように、俺は腕を有樹の両肩に移す。

「有樹……」

「ぐす……日向……」

 有樹の瞳が俺を射貫く。無数に立ち並ぶビルは牢獄のようではあるが、そこから除かれる視線はない。ただのハリボテだ。

 通行人たちも俺たちを気にしない。世界は今、俺と有樹のただ二人と言っていい。

 一ルックスも逃さず有樹を見る。涙でぐしゃぐしゃになりながらも、透き通っていて、輝いていて、美しい彼女の双眸に会わせた照準を、俺は決して反らさない。

 ゆっくりと、俺と有樹は同時に顔を近づけていく。一センチずつ、ゆっくりと。

 唇が、重なり合う。

「ん……んんっ……」

 舌が、有樹から先に差し込んできた。イナズマのような舌使い。

 俺は攻撃が遅れたことを悔やむ。エスコートしたかったという男のサガ。

「んちゅ……ちゅ……んっ……んんっ」

 舌と舌が蛇のように絡み合い、時に弾け、時にまかれ、唾液と唾液が融合し、強い熱を帯びて二人の心をつなぎ止めていく。

「ん……ぱぁ……ちゅ……んっ」

 俺と有樹はゆっくりと顔を話す。唇と唇の間に透明な橋が出来、雨と共に消えていった。

 ふう、と息をついてから、俺はにこりと微笑みを作る。鏡はないが、きっと出来ているはずだ。

「落ち着いた?」

「……うん」

 大丈夫ではなかったかもしれない。有樹の顔にはほのかな憂いというか、恐怖の残滓が明らかに沈殿していたから。

 しかし有樹は賢い子ですぐに表情をいつものものに戻すと、すっと空を見上げ、

「雨、止まないね」

 そう、こぼした。

 俺も見上げ、雨を顔に浴びながら、何の感慨もなく、

「いつだってそうだ」

 と答える。制服がびしょびしょで何て言うか気色悪い感触が全身を包み込む。寒気もしてきた。早いところテナントに戻りたい。

 有樹が視線を落とし、今度は周囲を見回して、

「桜、散らないね」

「いつだってそうだ」

 俺は無機質に頷いた。狂ったように咲き乱れる桜は一本だけなら見目麗しいが、無限に続くと不思議と怖気というか得体の知れない攻撃性を感じさせる。

 有樹が視線を俺の奥へと移す。

「ビルが建ち並んでいるね」

「ああ、いつだってそうだからな」

 振り向くが、やはり感動はなく、まるで木偶のように返事をする。ビルは柵か壁のように俺たちを挟み込んでいる。中に人が居るとは思えない妙に冷たさを伝えるビル。

 雨、桜、ビル。その三つが重なり合って生み出される形容は――絶望。

 俺は一呼吸置いて、ここで初めて万感を込める。

「だってそれがこの――」

 雨と桜と絶望の街なのだから。

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