第7話 葬儀

「然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生の善種となる、一銭一草の、、、」


禅宗の僧侶の朗々とした読経の声が聞こえる。しかし、凛の耳には何一つ入らない、視界にも何も入らない、喋ることすら全くない。最前列で悲しみに暮れる俊介の妻や子供たちの横で、死者の妹であるはずの凛は、瞬きひとつせずじっと棺を見て、彼女自身が死者であるかのように固まっていた。雨打たれる傘の下一層だけ、彼女の周りの時が停まってしまっているかのようだ。


今は亡き俊介の妻が目に涙を浮かべながらも、彼女を気遣い静かに凛の肩をたたく。それでもやはり凛は微動だにしない。他の者には彼女が落胆のあまり心を閉ざしてしまったのか、はたまた精神疾患でもあるのか、そう感じさせるほど異様に映った。


「凛ちゃん、気持ちは分かるわ、でも、そんなに気を落とさないで。」


凛は、物心つく前に母親が蒸発し、父親も今は死んでしまっていない。残された兄と妹の絆は誰にも想像つかない強固なものだった。半身がそぎ落とされた、生きていく根底が失われた、悲しみのあまり心や体はおろか五感さえも活動をやめてしまった、どう形容しても言い表せないほど彼女の落胆は大きいのだった。


読経が終わり僧侶が席を外す。火葬するために斎場に行く少しの間に、自身も憔悴しきっているはずの俊介の妻が、まだ大学1年生、大人未満の凛に丁寧にいたわりの言葉をかける。子供たちは年端もいかない。まだ死と言うものに対する理解がないのか、黒のタキシードやドレスを着て、場の雰囲気に時折不思議な顔をしつつふざけあっている。凛は、そんな俊介の家族をガラスのような瞳で眺めているのであった。


参列者が俊介の実家の一室で静かに休憩していると、しばらくして俊介の会社の人間と思われる男が、二人三人焼香に訪れた。いかにも日和見主義でエスカレータ式に昇進したと思えるような、これといった特徴のない中肉中背の部長と、いかにも傲岸そうなえらの張った顎を持つ太った小男だ。小男は俊介の妻に向かいこう言葉を発した。


「俊介さんには残念なことをしました。とても有能な彼だったのですが悔やまれます。」


―――

凛は、いつ終わるともしれない悪夢にうなされ続けている。俊介が死んでから一睡もせずにずっとだ。


お兄ちゃん、一体何があったの、美樹さんや若菜ちゃん一平くんをおいて、私をおいて、一体何が。。。

本当は好きなのにチョコレートケーキはまずくていらないからって、私にいつもくれたのに。

私が健人くんからいじめられてたら、殴られても殴られても立ち向かってくれたのに。

二人だけでお留守番している時に、お父さんを助けて家族を守るのは俺だっていつも私に言っていたのに。

美樹さんと若菜ちゃんや一平くんとの暮らしがあればあとは何もいらない、お前も早くいい人見つけろよ、って言っていたのに。


私の卒業式の時は、忙しいんだろうに会社から飛んで来てくれたのに。あの時は青い顔をしてうなだれていたっけ。成人式はお前の晴れ着を見に行くんだって、ちょっと恥ずかしかった。


、、、、、、、、、


俊介との思い出は遅れて走馬灯のように次から次へと湧きあがる。不思議と涙はない。ただ、唯一無二の兄が一夜にしていなくなってしまったことに思考がついていかない。


「おい、凛、何を暗い顔してるんだ?」


うなだれている彼女の、少し痩せたうなじの後ろから俊介の声が聞こえる。


「えっ、お兄ちゃん?」


振り向くと彼は見えない。空耳だろうか。首を元に戻す。


「おい、凛、こっちだ。」


また、背後で呼びかけるような声が聞こえる。振り向く。誰もいない。


不思議に思い、首を元に戻した瞬間、

眼と口から血を流し、この世界のすべての物を恨みつくすような瞳をして、俊介が凛を見つめていた。

手すりにかけたビニールのひもに首が吊られ、左45°、生きるのが不可能な角度で傾いている。


絶句する凛、そして俊介の瞳の真意をじっくり確かめようとする。


(そういう事なのね、分かった。)


そして、凛は誓った。俊介が死ぬに至った原因を何があっても絶対に突き止める事を。


―――

ふと、凛は我に返る。どうやら白昼夢を見ていたようだ。あたりは俊介の葬儀が営まれている。そして、これ以上なく恨みのこもっている俊介の顔のあった所に、羊のように人畜無害だった俊介とはまったく毛色の違う、誰を傷つけ押しのけてでも、と言った風情の不細工な男の顔がある。その男、おそらくはお兄ちゃんの会社の人間だろうか、が、美樹さんに向かって何やら挨拶をしているようだ。


言葉の内容とは裏腹の、とってつけたような棒読みと無感動な顔。そして簡単に線香をあげるとそそくさと足早に立ち去る。隣りにいるお飾りの部長に何やら自身の道徳心の高さを植え付けるような効果的なお悔みの言葉を吐いているようだ。表面上は何の瑕疵もない彼の行動ではあったが、ついさっき俊介の白昼夢から目覚めた凛には、すべての出来事、考えが、脳のひだ一つ一つまでぴたりと当てはまった。


[兄はこの男に死に追いやられたのだ]


それは少し飛躍的な空想に過ぎるのかもしれない、それでも凛には、絶望に身をよじっている凛には、生きる力となり得るのであった。そして、その凛の白昼夢に見た俊介の瞳から得られた霊感は、ずばり的中していた。

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