07 しあわせな世界(2)

 繁雄がぽかんと口を開けている。そんな繁雄を真剣な眼差しで見つめる米美。拳をぐっと握りしめ、米美は自然と体は前のめりになるのを実感した。


「……米ちゃん」

「なん?」


 繁雄が硬い表情へと変わる。米美はその表情に、思わずごくりと唾を飲み込んだ。


「あはは、どしたん、米ちゃん。過去に戻る夢を見たってこと?」


 笑っている。繁雄は腹を抱えて笑っている。米美は大真面目に言ったつもりだったが、繁雄は冗談だと思っているようだった。さっき寝ている時に見ていた夢の話だと思っている。


「ほんでほんで? どんな夢やったん。詳しく教えて」


 なんだか状況を楽しんでいるかのようにも見える。きっと米美の顔は呆れてしまっているだろう。感受性が豊かな米美は会えてあんなに感動していたにも関わらず、今の繁雄に対して頬を膨らませ、むくれた。


「だからね、本当のあたしは78歳! 78歳のあたしが、いつも通り寝て、起きたら、32歳まで時間が戻っとったとよ!」

「78歳の米ちゃん!? うおぉ、まじかぁ!」


 余計につぼを押してしまったようだ。繁雄の笑いは止まらことを知らず、更に増した。

 信じてくれないだろうな、とある程度想定はしていたが、まさなここまで大笑いされるとは、米美自身も思っていなかった。一瞬、最高の旦那だと思ったことを撤回しようと考えたほどだった。怒りがこみ上げ、体がぷるぷると震える。


「ふ……ふぎゃあ」

「あ、いけん、美緒が寝ちょったね!」


 あまりに繁雄が笑うので美緒が起きてしまった。米美は慌てて美緒をあやしにかかる。「よしよし」と、何とも慣れた手つきで美緒をあやし続ける米美。それもそのはず、繁雄が亡くなったあと、米美はひとりで子育てをしていたのだから。美緒がどんなことで泣いているのか、何を訴えているのか、一度その道を通ってきた米美にとって、そんなに難しいことはなかった。


「えぇ、米ちゃん、なんか熟練のママさんみたいやね」


 それにはさすがの繁雄も驚いたようで、思わず笑いを止め、米美を見入る。


「言ったやん、あたし本当は78歳の米美やとよ。いっかい美緒の子育てしよるから、だいたいのことは分かると」

「そんなこと言われてん、信じられんわぁ。今の米ちゃんはこぉーんなに若くてべっぴんさんやとに」

「へっ!? べべ、べっ、ぴん!?」


 米美は顔が熱く沸騰するのを感じた。そんなこと、もう何十年も言われていなかった。最近の記憶だと、近所の金丸かねまるさん家の御年80歳のトヨコさんと冗談で言い合いっこしたり、漆戸うるしどさん家の御年79歳の二郎じろうさんに『今度よねさんとせにゃあしなくちゃねぇ』と年寄りギャグをかまされたくらい。

 それを繁雄がさらっと言い退けたため、米美は照れた。だがそれを悟られないように、美緒を抱いたまま、身をよじらせて照れを誤魔化す。素直に喜べばいいものを、一応中身は78歳の米美。相当恥ずかしかったようで、口がぱくぱくしている。


「べべ、べっ、べ、べべべ!」

「どぉしたん、米ちゃん」


 もうこの時点で、米美の頭の中から先程までの怒りはすっかり消えていた。嬉しさと恥ずかしさで、頭とこころの中が大忙しになっている。


「米ちゃん」


 そんな繁雄が米美の頭に手を置く。その置かれた頭から伝わる繁雄の感触に、すぅっと米美の気持ちが落ち着いていくのがわかる。


「俺は単純でバカな男やから、俺の中では米ちゃんが一番最高やとよ。世界中、ううん人類最強のべっぴんさんよ」

「シゲ、さん」


『この人は、嫁バカらなぬ、米バカな夫やね』と米美は思ったが、ただただ、喜びを噛み締めように溢れ出る笑みを繁雄に向けた。

 そして米美の腕の中ではすっかり泣き止み、嬉しそうに笑っている愛する娘、美緒。


 これが、家族。

 本来であれば、米美にもあったはずのしあわせな未来。

 繁雄がいて、美緒がいて、もしかしたら2人目、3人目と産まれて、より暖かい家庭を築けていたかもしれない世界。

 米美は思う。『なんとしあわせな時間だろうか』と。

 あの時は当たり前だと思っていた日常。いて当然だと思っていた当たり前の感覚。

 繁雄がいなくなってから改めて気付いた、繁雄の存在の大きさ、大切さ、愛おしさ。だがそれは、気付いた時には遅すぎた。気が付くと、いなくなっていた。必要な時に、頼れなくなっていた。名前を呼んでほしいときに、もう隣にいてくれることはなくなってしまった。

 甘えたくても甘えられない、全部ひとりでやらなければならなかった本来の世界。大きく成長して家庭を持った美緒も家を出ていき、ひとりで生きていた世界。毎日寂しい思いをして、毎日後悔していた、もうひとつの世界。

 夏の太陽の日差しが、3人のいる部屋の窓から差し込む。米美の耳に入ってくる招霊おがたまの木の葉がこすれ合う音。かさかさ、ざざっという自然が生み出した音は、心地よい音色となり、米美が感じているしあわせを底上げする。

 米美は、ずっとこのままでいい、元の世界には戻らなくていい、この時間が流れてほしい、とさえ思うようになっていた。

 ただこのしあわせを続けるには、7日後の繁雄の死を自分が防がなければならない。美緒のために、自分自身のために、そして繁雄のために――米美の決意は一層強く太いものへと変わった。

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