ノスタルジア

星燕

月影の一族

第1話

 雨上がりの空に、太陽が淡く、暖かく揺らめいている。金属バットが小気味良い音と共にボールを打ち返し、なにかよくわからない管楽器が、低く、滑らかに校舎を撫でていった。秋である。

 私は問題を解く手を止めて、斜め前に座す男子生徒を見つめた。背の低く、柔らかい声の少年。クラスのいじられキャラ。男女問わず人気者。主に同性よりに。私は彼を、よくある恋愛感情の意味でも、親愛の情という意味でも好いているわけではないけれど、気が付くとこの目は、いつも彼を追ってしまっている。

 彼は姿勢が良い。背筋をピンと張って、真新しいシャープペンシルをノートに走らせている。誰も気が付いていないかもしれないが、彼の所作は美しかった。彼をからかいながら頬をつつく私文の女子たちの誰よりも、彼の歩き方、字の書き方、箸の持ち方は丁寧だった。美しく、さりげなかった。そしてその中に、ほんの少し、爛れるような怒りが感じられるのだった。

 ぽきり。シャープペンシルの芯が折れる音。ぽきり。ぽきり。

 ゆっくりと筆箱から替え芯を取り出して、シャープペンシルの中に入れていく。指先まで、美しい。


“ここにいてはいけない”

 

 今日もこの人は怒っている。怖いとも、苛立たしいとも思わないけれど。ただ、彼の震えるような炎に触れるとき、私は、己の立っている地盤が強烈に揺らぐような感覚に浸ってしまう。確かにあるはずの重力や地面、寄る辺としているモノ。その全てが、音を立てて軋み始めるのだ。 

 曰く、生物は帰巣本能を持つらしい。この人から匂う焦げ付いた香りは、あるはずのないそれを刺激する。

 恐ろしいこと。

 近づきたくない。近寄りたくない。

 近づきたくない?

 近寄りたくない?

 そうかな。ソウカナ。

 ――――ホントニソウカナ。

 均質に動いていた彼の手が止まる。気づかれていたことに、気が付いた。

 私の気持ちは凪いでいる。凪いだ心で、背を向けた少年と向き合う。少年が振り返るそぶりを見せた。

 手を伸ばす。

 私から重力が消えてゆく。景色が透明になっていく。静寂に包まれていく。

 あと少しで、届く。


「絃さーん」

 

 音が、戻った。 

 透明だった世界が彩づいて、割れた地面が修復されていく。耳鳴りが消え、私はカタチを取り戻す。


「?どうしたの。その腕」

 

 私とよく似た顔の少女。腕組みをして教室の扉にもたれかかっている。少しだけ短いスカートからはすらりと長い脚が覗いていた。絵になるのだ、私の姉は。

 彼女は快活そうな表情をおどけさせ、ちょちょいと指し示した。


「え。あ、なんでもない………」

「そっか。帰ろ」



 柔らかな夕日色の空は、そこに闇を落とし始めていた。漏れ出す吹奏楽のメロディーと運動部のお喋り。少し、肌寒い。

 

「いやはや、さすがにもう秋だね。ちょっと寒い。」

 

 困ったように、ほころぶように琴は笑う。長く艶やかな栗色の髪が少し揺れた。寒いはずなのに、かじかんだ手が動くようになる。私は、不思議な思いで伸ばしていた右腕をさすった。

 琴は勝手知ったり、といった様子で私の机を片付けている。急かされて慌てて身支度を整えているが、ぼんやりと覚めないような心地だった。


「タイツとか履かないから寒いんだよ、かいちょーは。生足だろ。信じらんね」


 少年は振り返る。私の姉と真っすぐに視線を合わせて。私は帰り支度の手を止めなかった。だけど注意深く、さりげなく、少年の言葉を聞いていた。


「久我ァ。もう私は会長じゃあーりーまーせーんー。てか久しぶりに会って早々セクハラかな」


 あははと笑う。私は眉を下げて微笑む。

 「そうじゃないから!すぐそうやってみんなからかう………」と少年はぼやく。


「冗談よ。でも本当久しぶりだね~。引継ぎ式以来かな。」

「うん。あの後すぐ夏休みだったし、夏休み終われば即受験モードだからなあ。会長元気してた?」

「だ~から、会長じゃないってのに」


 琴は肩をすくめて「ねえ絃?」と私にもたれかかってきた。無言で跳ねのけようとするも、今度は肩に手を掛けて揺れ始めた。

 私は諦念し、共に横に揺れる。為すがままである。

 その様子を、少年は珍しいものを見るかのように見つめていた。


「だってさ、俺らにとっちゃ会長は一人だけなんだよ。永久に、満場一致でね。派手で、楽しくて、頼もしくて、そんで何より気持ちが良かった。この学校に来たことを後悔しないで済んだのは会長のおかげだよ。」

 

 揺れが徐々に小さくなっていく。「久我ァ、どうした、明日死ぬのか」なんておどけているけど、琴はわかりやすい人間なのだ。端的に言えば、にやけすぎ。


「そりゃまあ、どーもね?……ま、正面きって褒められると、照れるもんね。参ったな。私ったら敵ばっかり作っちゃった高校生活だったものだから。」

「かもね」


 小突かれた。


「ありがと。まあ、嬉しいんだけど、あんまり言わないでね。菊川もあの子なりに頑張ってるからさ。久我くんもそれはわかるでしょ?同じ役員だったんだし、ね。」

「わかってる。菊川は不真面目を真面目にやろうとしてるのがなあ。会長の後だから余計に肩肘張っちゃうんだろうね」

「琴」


 私は袖口を引っ張って時計を指す。


「門限」

 

 時計は6時の15分前を示している。この時分の娘には酷な時間。悪意ある設定だと思う。私にとってはなんて事のない規則。でも琴にとってはそうではない。


「あちゃ本当だ。ごめん久我くん、私らもう行かなきゃ。」

「ばいばい。受験終わったらまた生徒会の奴らで集まろうよ」

「いーね。楽しみにしてる」

「望月さんも、また明日」


 私は微笑んだ。彼も微笑み返す。柔らかすぎるほどの笑み。美しく、丁寧で、そして怒っていた。


「さよなら」


 私たちは交わらない。これまで交錯することがなかったように。これからもないように。 

 今はただ、同じ角度で平行線上に互いを見つめているだけ。向かい合っているだけ。それだけ。


「急いで絃!ほいヘルメット!」


 雑木林の中の忘れ去られた焼却炉。その裏に琴はバイクを置いていた。ついている枯葉や露を振り払わず乗り込んで、急いで腰にしがみつく。

 きつい坂が続くこの山道は、駅の反対側に位置している。故に教師用の駐車場からも遠く、加えて傾斜のきつい坂道が続いていた。そのため人通りは無いに等しい。校則違反を騎乗するにはうってつけであった。


「絃は久我くんとは親しい?楽しくていい子よ」

「琴あったかあい」

「ちょっとお、聞いてる?」

 

 姉の温もりに目を瞑る。

 もしかしたら私は、ずっと夢を見ているのかもしれない。ならば、いつか必ず目覚めるときが来る。なぜなら夢は目覚めるためにあるのだから。生ぬるく、多幸感に満ちた幻想の様なひと時。その一瞬が儚く、美しく、鮮烈だった。

 銀杏いちょうの葉が吹雪のように舞い落ちる。急ぐ琴の後ろで、私は指先で黄金色の一片一片を捉えては逃し、遊んでいた。


「ちょ、振り落とすよっ」

「………別に誰とも仲良くなんてしてない。久我なんて関係ない」

「うん。笑ってたから、さ。珍しいと思って」


 巻きつく腕をきつくした。鼻づらを押し付けて、琴の匂いで肺を満たした。布団の香り、少しきつい外国のハンドクリームの香り、お日様の香り。無臭の私とは違う、カタチあるものの香り。


「私だって笑うよ。人間だもん」

「はは、ごめん」


 関係ないのだ。これまでも、これからも。私たちは勝手に、知らないところで背を向けて生きていく。これは決意だ。双方の合意の基に執行された契約だった。暗黙の内に私たちは幾千もの契約書を突きつけ、判を押してきた。

 誰も、魂の片割れのような姉だって立ち入れない魔の領域で、私たちは向かい合っている。今も、ずっと。私たちは初めて会った時から特別で、消し飛ばしてやりたい程度には、唯一無二だった。

 心で向かい合い、夢で背き続ける。

 夢から覚めないために。

 現実から、背くために。

 私たちはあまりにも、残酷なほど幸福だった。停滞したこの時が永遠に続くことを、病的なまでに祈りそして固く、誓い合っていた。









 



 それも全て、あの時が来るまでの話である。

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