雷の星より愛を込めて
雷星
第1話 日常の始まり
「マスター、もう一杯頂けるかしら」
女が、気だるげな、それでいて甘ったるい声を発するのは店主に対してのみであるということを理解している人間はどれくらいいるのだろう。
そんなことを考えながら、ジョーイ=マドワーズは、手元に置いたメモ帳にペンを走らせていた。神経質そうな文字が示すのは、その女性客に対する暴言にほかならない。
新王国歴十二年春の第二節二十五日。
いつもと変わらぬ昼下がり。
冒険者宿・《雷の星》亭の食堂は、いつにも増して薄暗く感じられた。店の外があまりに明るいからだろう。
食堂などとはいっているものの、酒場といったほうが的を射ていた。小さなバーカウンターの奥には酒棚があり、様々な種類のお酒が並んでいる。新王国では入手することさえ難しいエルフ特製の果実酒まであるのは、店主の幅広い人脈によるものであるらしい。
決して広くはない店内には、バーカウンターのほかにも四人がけのテーブルが三つあった。今はその内一つが常連客によって占拠されてはいるものの、お金を落としてくれるのだから構いはしない。
新王国首都ルーン・ルーンに数多ある冒険者宿は、いわゆる冒険者たちだけを宿泊させるための施設ではあるが、ただそれだけではない。冒険者向けの仕事の仲介をするための施設でもあった。
とはいえ、これほど客の少ない冒険者宿は、珍しい。
日がな一日常連客の顔しかみないこともざらで、壁に設置された冒険者用の掲示板はここ数日同じ依頼が張り出されたまま、変化の兆しも見せない。本来、掲示板に張り出された依頼など、瞬く間に消え去る運命にあるはずなのだが。
「どうぞ、ごゆっくり」
ジョーイは、店主であるレイン=サンライズが常連客の女に和やかな微笑を浮かべる様を覗き見ると、だれにもわからないように嘆息した。
ジョーイがこの店で働き初めて一節ほどだったが、彼が常連以外の客を見たことなど数えるほどだった。宿泊客となると零であり、宿屋の看板を下ろしたほうがいいのではないかと思うほどだった。
それでも、《雷の星》亭の経営には問題がないらしく、ジョーイの給料も悪いものではなかった。この暇さを考えれば、破格とさえ言える。彼は基本的には宿の店番をしながら、食堂兼酒場の給仕として働いているのだが、店内に常連客しかいない場合、ほとんど動かなくてよかった。
常連客は、店主のレインを指名することが多いからだ。名指しで呼ばれては、店主といえど動かざるを得ない。もっとも、レインは指名されることを嫌がっておらず、むしろ喜んで動くタイプではあったが。
ジョーイの定位置は、バーカウンターの内側の片隅である。二階へ至る階段がよく見える場所だった。宿として利用できるのは二階であり、一階の半分は食堂が占めていた。残りを厨房と事務所とでわけあっている。
決して狭くはないが、広いというほどのものではない。が、分不相応に思えるのは、宿泊客を見たことがないからに違いない。それは酒場の方にも言えることだ。客の入りはあまりに少ない。
食堂といえば、簡素なものである。至ってありふれた木造建築物といっていい。内装も凝ってはおらず、色とりどりの造花でデコレートされた冒険者の掲示板だけが異様に浮いていた。それもこれも常連客(といえるのかどうか)の仕業だったが。
「ありがと」
と、バーカウンターの角に腰掛けた女が、店主にウインクを飛ばした。常連客のヘラ=キャトレットの常にほんのりと色づいた顔は、酔い潰れかけているかのような印象を与える。実際はそんなことはないらしいのだが、言動も酔いどれそのものであり、ジョーイには彼女が正気を保っているとはとても思えなかった。
店主のレインも慣れたもので、当たり障りのない微笑を返すのだが、それがまた彼女のハートを掴んでいるのかもしれない。レイン=サンライズという男は、五十代半ばでありながら、それを感じさせない人物だった。いうなればナイスミドル。
ジョーイは、客が来るか、レインに命ぜられるまでは定位置から動かない。椅子に腰掛けたまま、ただペンを走らせる。ここに働き始めたときは真っ白だったメモ帳は、今や真っ黒になりかけていた。無論、仕事に関するメモだけではない。暇つぶしの妄想や空想を書き留める一方、店を訪れる客への悪態が大半を占めていた。とはいえ、その悪口雑言さえも一本調子になりがちなのは、常連客くらいしか訪れないといった有様だからだ。
店内は静寂で満たされ、昼下がりの気だるさをこれでもか満喫させる。
店内でくつろぐ常連客は二人。昼間から酔っ払っているような女と、もう一人は、奥のテーブルに道具を広げてなにやら作業に勤しむ青年。金さえ払ってくれれば(仕事の邪魔にならない限り)何をしていよう構わない、というのがこの宿のスタンスだった。
そして、彼が作業に熱中している限り、店内の安寧は保たれる――パール=ジラフィンは、そのような青年だった。
ふと、時計を見やる。壁にかけられた古ぼけた時計は、二時過ぎを指し示していた。午後二時。客が来ないことこの上ない《雷の星》亭において最も暇な時間帯であるといってもいい。今日はまだ忙しいほどだ。
(忙しい……?)
ジョーイは、自分で言って笑いそうになった。忙しさとは無縁の職場にあって、忙しいとは何事か。業務に忙殺されたことなど、働き始めて一度もなかった。それは必ずしも良いことではないように思うのだが。
と、《雷の星》亭の出入口の扉が開いたのがわかった。扉に取り付けられたベルが、カランカランと乾いた音を立てたのだ。自然、ジョーイの目はそちらに向かう。
「いらっしゃいませ」
ジョーイは、まだ見ぬ客人を迎えるため立ち上がると、メモ帳をエプロンのポケットに仕舞った。
「お客様~?」
「みたいですね」
めずらしいわね、とでも言いたげなヘラに愛想笑いを返すと、ジョーイはカウンターの外へ出た。扉が開かれたのだ。食堂兼酒場の扉であり、宿の正面玄関。宿泊客にせよ、酒場に用があるにせよ、その扉を潜ってくるしかないわけだが。
「だれもいないじゃない」
「えーと……」
ジョーイは困惑を隠せなかった。確かに扉は開かれた。風に動かされるような代物でもない。例え暴風が吹き荒ぼうとも扉だけはその場に留まり続けるくらいには頑丈だと、レインが自慢するほどだ。
開け放たれた扉の向こうには、狭い路地が横たわっており、対面に位置する花屋の盛況ぶりが陽光にも増して眩しかった。路地を挟んだ向こう側は何故あそこまで繁盛しているのだろう。他人事の喧騒が羨ましく感じられた。
「なにをしているのですか? お客様がお待ちですよ、ジョーイ君」
「へ? お、お客様? どこに……」
「ほら、あそこに」
「あ……」
レインの視線の先を見やると、店内に一匹の黒猫が佇んでいた。いつ入って来たのだろう。まさか、嵐にもビクともしない扉を押し開いて入ってきたというのか。だとすれば大層な力持ちだということになるのだが。
「この猫がお客様……ですか?」
ジョーイは、目線を黒猫に釘付けにしたまま、うめくように訊ねた。黄金色の瞳に吸い込まれるような感覚さえ抱く。蠱惑的な瞳だ。これまでそのまなざしだけで、いったい何人の人間を篭絡してきたのだろう。
「ああ、ジョーイ君は初めてでしたね」
こちらの発言を笑い飛ばしもせず穏やかに話を続けるレインに、ジョーイはただ愕然とした。まるで猫が客だという彼の与太話を肯定しているようではないか。しかし、猫を客人として迎える酒場など聞いたことがなかった。酒場を訪れる猫の話も、だ。
などと考えつつも、どこか愛らしくも憎たらしげな黒猫の様子を伺っていると、この黒猫が客でもおかしくないような気がした。雰囲気に飲まれたのだろうか。
「い、いらっしゃいませ」
ジョーイが黒猫にうやうやしく頭を下げたそのとき、ぞっとするような冷気が彼の頬を撫でた。黒猫の耳がぴくっと反応し、店の出入口を振り返る。ジョーイがつられるようにして顔を上げると、いかにも怪しげな人物が立っていた。
漆黒のローブで全身を覆い隠し、フードを目深に被った人物。ローブはなだらかな曲線を描いており、身につけている人物の性別を隠そうともしない。女性だろう。
「ご機嫌よう」
涼風のような声がして、女がフードを脱いだ。長い銀髪がこぼれ落ちる。フードの下から現れたのは、年齢不詳の美女であった。歓声が上がった。
「いらっしゃいませ、サマリア様」
「サマリアさんだ~! いらっしゃ~い」
「サマリアさーん! いらっしゃいですー!」
店主レインほか常連客二名までが盛大に反応したところを考えるに、ジョーイの目の前の女性は、どうやら《雷の星》亭の常連客のひとりであるらしい。しかし、ジョーイは初めて見る顔だった。
「なんだか懐かしい顔ばかりで、嬉しく思うわ」
「半年振り……ですか」
「そうなるわね」
ジョーイの横を摺り抜けるようにしてカウンター席に腰を下ろしたサマリアを目で追いながら、彼は、一人納得した。半年間顔を出していないのなら、最近働き始めたばかりのジョーイが知らないのも無理はなかった。
「あら、新人さん?」
「ええ。ジョーイ=マドワーズ君。少し前から働いてもらっています」
「暇なのに?」
「暇なのに」
(否定しないんだ……)
店主の応答に諦観に似たようなものを抱きながら、彼は、サマリアの視線がこちらに注がれていることに気づいた。金色の瞳が、こちらを値踏みするように見ている。が、悪い気はしない。
「よろしく、ジョーイちゃん。私はサマリア=リヴィエール。一応占い師だなんて言ってるけれど、あてになんてならないから、頼らないほうがいいわよ」
「は、はあ」
謙虚なのか冗談なのか、悪びれもせずに告げてきた彼女に、ジョーイはどう対応すればいいのかわからず、引きつったような愛想笑いを浮かべるしかなかった。にこやかに微笑するサマリアの表情からは、本心などうかがい知れない。
「またまた~! サマリアさんの占い、抜群じゃないですか~」
そういってサマリアにしなだれかかったのはヘラ=キャトレットだ。まるで酔っ払いの絡み方だったが、慣れたことなのだろう――サマリアは、平然と受け答えをしてみせた。
「ヘラちゃん、また酔ってるの?」
「ミルクで酔うひとがいますか~?」
「目の前にいるじゃない」
「またまた~。サマリアさんってば冗談ばっかり――」
「サマリアさーん!」
ヘラの言葉を遮るように声を上げてきたのは、パール=ジラフィンである。彼は、サマリアの久々の登場が余程嬉しかったのか、作業のことなど忘れたかのようにバーカウンターまで近づいてきていた。眼鏡の奥の瞳が、いつも以上にキラキラと輝いているのは、サマリアの人徳なのかもしれない。
「サマリアさんが顔を見せない間に一曲作りましたよー! 聞きませんか! 聞きましょう! 聞いてください!」
「え、ええ、ありがとう。後で聞かせていただこうかしら」
「まっかせてくださーい!」
サマリアに軽く流されたことなど気にも止めず(気づいてもいないのかもしれない)、元のテーブルに戻っていく青年の後ろ姿を見遣りながら、ジョーイは密やかに嘆息した。突如として賑やかになった店内の様相に多少の気後れを禁じ得なかった。もっとも、喜ばしいことではあるのかもしれない。客が増えるということは、それだけ暇が少なくなるということだ。
ろくに動きもせずにただ時間を潰していくなど、苦行以外のなにものでもなかった。
「なんだか、相変わらずねえ」
「ええ、相も変わらず暇と平穏を満喫していますよ」
「素敵なことじゃなくて?」
「ええ、この上なく」
親しげに言葉を交わすサマリアとレインの間には割って入るような余地などなく――ジョーイ=マドワーズは、占い師の足に戯れる黒猫を見つめるしかなかった。漆黒のローブの裾から覗く足は透けるように白い。
不意に、店のドアが開いた音がした。
「いらっしゃいませ」
反射的に客を出迎えながら、彼は変化の訪れを感じた。
世間は大きく動いている。変わらないのはこの冒険宿くらいだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。占い師の来店によって訪れた変化がこの小さな冒険者宿にもたらすものとはなんなのだろう。
それはまた、別のおはなし。
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