メアリーと動作

韮崎旭

メアリーと動作

 甚だしい苦痛を無視したふりをして街路樹に覆われた世界で明らかに行き先を見失う。そのせいで路面電車に轢かれたりする。いやあ、うっかりしていたなあ、と思う頃には、チョコレートドリンクをストローで飲んでいた青少年が窓越しに眺めていた風景の中で惨劇が起きてしまう:路面電車による人間の轢断という惨劇。チョコレートドリンクは特にその青少年の好物だったし、また、書店で買ったばかりのハードカバーの思弁的なSFとかを読みながら、時間を過ごすのにもその、天井に換気用か飾りかもはや区別のつかないファンの羽がゆっくりと回転するやや古色をおびた店舗は向いていた。程よい雑音と雑談が、1960年代風のジャズの演奏と共にその場を覆っている。それは主人がストックしたレコードやCDなどの音源から再生されていた。特に際立って古風な趣味という訳ではなかったが、電子音よりはピアノが好き。それか、木の風合いがわかる楽器が、風化しうる弦を持つ楽器が。手動演奏による、音のゆがみが。そのような歪みは再現されることも、電子機器においてはあるものの、やはり視聴者層の傾向としてそのような音楽を好む層がマニュアルなノイズを好まないこともままあり。結局、生身の演奏というのは情緒過多で情報過多。そこには音の集積とかではなく、本来の旋律には含まれない余剰なものどもが多く含まれる。

 諸事情から、図書館で出会うしかなかった本が手元に届いた時には級友に巡り合ったように思ったものだ。そしてそういった全部が作りものめいていたが、プラタナスがどの樹かわからないように、街路樹の名前を知らないように、うかつに歩道が陥没するような不協和音を踏んでしまうように、歪められた認識こそが負担の少ないものとして、みとめられる世界を成り立たせているのかもしれない。

それそのものにはあまりにもノイズが多すぎて一度輪郭線のみに処理する必要が、諸般の情報の大幅な切り捨てと再構成を行う必要が、そこには在ったのかもしれない。

 不安感がぬぐえないまま、光は堆積してゆき、様々な層を重ねることで変質してゆく。それが終わるのに気が付いたころにはまた、何もできずに物が散乱した部屋でその日が終わろうとしていて、今日こそは件の小説を観ようと、そう考えていたはずだったのに、手が思うように動かないから、自棄になった。

標本にすることのできない時間や思い込みが生ごみとして廃棄された。それから、すがすがしい朝にするために脳をごみ箱に捨てた。これで解決するはずだ、そう思いたい。


 そこには空気とともに迷路のような時と恐怖を失った蝶の遺骸が保管されているし、また、トンボもしかり。西日が間接的に差し込む部屋で、朝日が床の上を通り過ぎて行き、ゆっくりと埃がまうその動きが見えるような部屋で、タイプする音と階段を下る彼女の雰囲気の名残が時折見えるような部屋で、別離からも衆人環視からも逃れて過ごしている。その部屋はいつも、昼と夕暮れの間を行き来していた。


 文体練習だといった。それがどこにあるのかを探しに行くといっていたような気もするし、日曜の午後の河川での釣りなのかもしれなかった。食卓にはニジマスが並んだので、自分たちは『1973年のピンボール』の世界から来たのかもしれないし、双子はどこを探してもいなかったが、問題は、自分がロシア語の読み書きができないことだったのだろうか? 説明書が何語かがわからなかったために、問い合わせは明日へと見送られた。もう3日も廣沢から連絡がない。気まぐれがひどいその人間のこと、連絡をよこさないことは何の不思議もないし、どうせその辺の道路でブラックバスの星座を探してでもいるのだろうが、あるいは野生動物の頭骨を拾いに行ったのだろうが、そうはいっても3日も連絡がないとその空白は、果たして当該人物が実在したのか、という不安な気分を呼び起こす。それからは映画館に行って全く見たくない映画を観たり、近隣の花谷戸書店に行き、J・アレクサンダーの『火と葬儀場にまつわる現代詩集』(川村花咲訳・書肆山城)を購入したりしていた。それからもう3年も廣沢から連絡がないことに、その日からもう3年も経過していることに、出版された年に購入した『火と葬儀場にまつわる現代詩集』を読み返しているときに気が付いた。今日はルドルフ2世の没したとされている日のうちの一つだったことがふと思い出され、どうやって侍医たちが彼の死を確認したのかを考えるのに5分とかからなかった。飽きて、投げ出したのだ。というのも、恐らくは腐るまで放置するか、またはミイラ化するまで放置するか、手に負えなくなったところで埋葬したか、いずれかだろうと思われた。それとも早すぎる埋葬への恐怖は、この時代にはまだ流布していなかったのか。それは吸血鬼の伝承と土葬の広まりに関係がある。とはいえその実戦死していたり明らかに首が切断されていたりしたらまあ死んでいるだろうと誰でも思うと思うのだが、戦死していた場合、やはり、暦の返還がネックになり、暦が時々実際の天体の運行とのずれを含むことも厄介であり、それで12年くらいで8月が冬から夏になったりしても続行する類の暦もあれば、8月が常に夏であるように時々ゼンマイを巻き直す暦もあると聞く。


 そうこうしているうちに、夕日は視界から吹きこぼれ、私は水槽の中にいるような気分になった。適当なタイミングでブレーキを掛けなかったせいで、適当なタイミングで降車ボタンを押さなかったせいで、予想もしない目的地に着いてしまい、それは廃棄物処理場、というか耐用年数を過ぎて既に使用を終了された焼却炉の残骸だった。拾骨はなされず、遺骸は腐らないまま残された。それが焼却炉だったというのは、現在の日本の火葬事情からみても何とも皮肉な物言いに感じた。水槽のなかにはさまざまな塵芥が待っていて、クラゲのようにゆっくりとした動きだった。それが白色灯の光を浴びて、緩やかに輝いたり、姿を陰に沈めたりしていた。窒息していなかったのは、私の実態が幽霊のような不安定なものだったからか。私はしばしば自分が死人であるような感じを持っていたから、それは納得のいく結果だった。水族館の一室、暗い水槽で外を眺めていると、年頃のはっきりしない、栗毛の少年と目が合った。彼の眼は私を通り過ぎて、背後の飯蛸を眺めていた。だが30分もその場にいた少年はあるタイミングで私へと目の焦点を合わせた様に見えた。彼は驚いた様子を見せたが、やがて、親愛と憐れみの混ざったようなやわらかな表情の変化を見せた。しばらく私の居る辺りを見ていると、彼は水族館の他の水槽を見ることに移った。


 閉館のチャイムが聞こえる。私の意識は暖かな水温に溶けていく。尖った言葉の螺旋が、どこかでからからと笑っているのをその過程で認識した。


 それから再びバスで移動しているような夢を見たが、どう見ても霊園らしい停留所が片道のごく短い区間で3、4個はあったのでこれはどういう路線なのかと思った。霊園意外に人の目的地になりそうなものはなかった。何故なら、「町田医院前」などというバス停があるような路線なので、基本的に建造物があればすなわち目的地になりえたのだ。「山科」に至っては、それにあたる建造物が個人の住宅だった。だが奇妙なことに、今日バスに乗ると、その路線上にはどう見ても霊園にしか見えない停留所がごく短い区間で3、4個はあったのだ。あれは実在する路線だったのだろうか?

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メアリーと動作 韮崎旭 @nakaimaizumi

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