第8話 この世界はこんなにも変わっていないのに(江楼書感と伊勢物語)

 こんばんは。今回紹介するのは漢詩です。

 漢詩って、センター試験などに時々出ますけれど、返り点や訓読のイメージで、なんとなく敬遠されている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 試験では難しくても、大人になって改めて読むと、また受ける印象も違いますよ!


『漢詩名詩名句集』のような、有名な詩が抜粋されているものがとっつきやすいかと思います。李白や杜甫など個人に絞る前に、テーマ別に集めているものにあたると、アンソロジーのような感じで読みやすいでしょう。

 手に入りやすいのは『全唐詩』や『唐詩選』でしょうか。唐の時代の詩は、平安時代にも好まれてよく読まれていたので、日本人と相性がよい気がします。

 私が一番好きな詩人は、白居易なのですが、それはまたの機会に。

 今回は、私が一番好きな作品について、ご紹介します。


 まずは、作品そのものをご紹介しましょう。

 ちょうという詩人の、「江楼こうろうにて感を書す」という詩です。返り点は省略しますね。書き下し文と現代語訳を一緒にのせます。


【白文】

江楼書感 趙嘏


獨上江楼思渺然

月光如水水連天

同來翫月人何處

風景依稀似去年



【書き下し文】

江楼にて 感を書す

 

ひとり江楼に上れば 思ひ渺然べうぜんたり

月光水の如く 水天に連なる

ともきたりて 月をもてあそびし人はいづれのところ

風景 依稀いきとして 去年に似たり。



【現代語訳】

江楼で感じたことをつづる


ひとりで江楼に上れば、思いは遙かに果てしなく広がる

月光は水のように澄みわたって、河の水は天に連なっている

ここに共に来て、一緒に月を楽しんだ人は、どこにいるのだろうか

この風景は、去年とただただそっくりで、全く変わっていないのだ


※渺然…はるかに果てしない様子

※依稀…よく似ている


 いかがでしょうか。江楼というのは、河沿いにある塔のような高い建物のことです。だから、詩に出て来る月光で照らされた水、というのは河のことですね。月光は水のようにうつくしく、その光で照らされた河の水との境目がわからないくらい。だから、河が空とつながっているかのように見える。そういう美しさですね。

 以前にこの塔に一緒に来て、この風景を眺めた人は、今は一緒にいないのです。作者は一人で眺めていて「あの人はどこにいるのだろう」と思いを馳せています。

 風景は去年と同じで変わる所はないのに、ただ、隣にいたあの人がいない。

 

 去年来たときと何も変わらないのに、隣にいたあの人がいない。きっと、昨年訪れた時の会話や状況を思い返しつつ、孤独さをひしひしと実感しているのでしょう。具体的にどんなことを考えていたのか想像しようかとも思いましたが、この詩の場合は、敢えて踏み込まないという楽しみ方もアリだと思います。

 目の前の、透明感のある風景を描写しつつ、胸にじんわりと広がるような切なさやさみしさを感じられる、そういう詩ではないかと思います。


 現代語訳にある「一緒に月を楽しんだ人」は、作者の趙嘏の妻(※愛妾とも)です。趙嘏は彼女を心から愛しており、とても仲むつまじかったそうです。失恋の歌にも解釈できそうですが、この場合は死別の歌になります。

 昨年は妻と二人で楼に上ってみた美しい風景を、今年は作者が一人でながめているわけです。「悲しい」とは一言も書いていないのに、作者の気持ちが伝わってくるのが秀逸ですね。

 第二句の透明感ある水と空の描写が、また悲しさを引き立たせているような感じがします。


 作者について補足します。

 作者の趙嘏の妻は美しい人だったので、趙嘏が官吏試験のために都へ行っている間に、住んでいた地の長官にみそめられて、強引につれて行かれてしまいました。

趙嘏は試験に合格はしましたが、妻を奪われたという知らせを受け、その悲しさを漢詩で表しました。長官はそれを知り、感動して彼女を趙嘏のもとへ送りとどけます。(その詩がどんなものだったのか一応調べたのですが、ちょっと調査不足で今回はわかりませんでした……。)

 趙嘏は喜んで彼女を迎えに行き、都に来る途中の彼女と途中の宿場で出会います。が、彼女は趙嘏に会えた喜びと、おそらく今までの不安や悲しみ、いろいろな感情が混じって泣きあかした末、二晩で亡くなってしまいます。

 趙嘏は泣きながら宿場の傍らに彼女を葬りました。趙嘏は終生彼女のことが忘れられず、臨終のときには、彼女の幻影を見たということです。幻影っていうか、迎えに来てくれてたんならいいな……と個人的には思っています。

 他にも、彼女について詠んだ漢詩は残されています(省略しますが、彼女の死後に詠まれた「悼亡」という題の詩で、あなた以外考えられない、というような内容のものです)。


 せっかく会えたのに、二晩で死んでしまうなんて切ないですよね。長官が返してくれたのは良かったのかもしれませんが、物じゃないんですから……。彼女にとっては身体も衰弱してしまうくらいのショックだったのでしょう。

 長官マジありえないですが、権力者に無理やり連れていかれてしまうということもあったんでしょうね……。水滸伝や三国志でも、権力者が美しい妻を無理やり奪う、という話は出てきますね。



 ところで、この「何も変わっていないのに、ただあなただけがいない」というシチュエーション、日本でも和歌にしている人がいます。

 それは……『伊勢物語』の主人公としてもお馴染みの、ありわらの業平なりひらです。

 教科書にも出て来る和歌なので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが。



月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして


【訳】月も、春も昔のままではないのだろうか 私の身一つは以前のまま変わらないのに



 先ほどの漢詩では、「風景」が変わらないとしていたことに対して、この歌は「自分自身」は変わらない、ということに重きをおいていますね。月や春は、「あなた」がいるときとは、見え方がまるで違うように思える、ということでしょう。

 自分自身は変わっていないのに、こんなにも違う、その原因はあなたがいないからである。業平の場合は、高子との別れに関連した和歌ということなので死別ではないですが、もう二度と戻れないという意味では近いでしょうか。

 業平が、「江楼書感」を知っていたかは不明ですが、根底に共通するものがあるように思えますね。


 いかがでしたでしょうか。

 「あなたがいなくなって自分の心は全く変わってしまった」というのも良いですが、「こんなに世界は変わらないのに、ただあなただけがいない」というのも、喪失感が大きい感じがしてハッとしますよね。個人的には今回紹介した雰囲気の方が好きです。

 趙嘏も業平も、詩歌を作ることが、愛する人を思うことであり、自分の心を見つめる手段であり……また、そうせずにはいられなかったのでしょう。詩歌を愛するからこそ、心から離ることのない、もういない愛する人への気持ちを詩や歌という形にして大切にしたかった。

 そして、その気持ちの美しさや切なさ、痛ましさが、時を超えて現代まで通じ、共感を得ているのです。


 今回は以上になります。ありがとうございました!

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