第1回「完璧すぎて気味が悪い」(源氏物語)

 はじめまして。皐月あやめの古文紹介をはじめていきます。

 第1回は、教科書、入試等で頻出! みなさんもよくご存知でしょう、『源氏物語』のおすすめポイントを紹介します。


紅葉賀もみじのが


 妊娠中の藤壺ふじつぼの宮をなぐさめるために、帝が企画したイベント。ひかるげんとライバルのとうの中将ちゅうじょうが、「青海せいがい」という舞を舞います。このときの二人について、見ていた人は、


 光源氏→花(=桜)

 頭中将→花のかたわらのやま(=木)


 と例えています。頭中将がまたライバル心をめらめらと燃やしそうですね。

 特に光源氏については、さらに記述があって、「この世のものとは思えない」とか「声は伝説の鳥、りょうびんのようだ」なんてほめちぎられています。帝も、えらい貴族も、光源氏の親戚のみなさん(皇族)も、みんな感動して泣いちゃうレベル。

 とにかく誰もが認める完ぺきさで、非の打ち所がなかったらしいのです。

 

 が。

 

 唯一光源氏に文句をつけた人間がいました。それは、殿でんの女御……あの、光源氏のお母さんである桐壷きりつぼこうをいじめ倒した女性です。ちなみに、彼女の実家は光源氏や頭中将の家の政治的な敵でもあります。

 この弘徽殿の女御、光源氏の舞に対して、なんていったと思いますか?

 

 何か、具体的なダメ出しをしたのでしょうか。それとも、何か致命的なミスを見つけたのでしょうか。


 その答えは……「神など空にめでつべき容貌かたちかな。うたてゆゆし(神様が空に連れて行ってしまいそうな美しさね、まあ気味が悪いこと)」。

 要するに、「完璧すぎて、気味が悪い」ってことです。

 

「えーっ!?」って感じじゃないですか?

 何か具体的に悪い点があったならまだしも、光源氏の舞は完璧で、美しいものだったと認めたうえで、「気味が悪い」と言っています。坊主憎けりゃ袈裟けさまで憎いっていうのに近いかもしれません。

 光源氏の立場になってみたら、こんなこと言われたらどうしようもないですよね。


 でも、私はこの部分を読んで、ちょっと心が軽くなりました。

 「人に認めてもらうためにどんなに頑張って、どんなに完璧に仕上げても、嫌ってくる人や認めてくれない人というのは必ずいる」ということを、『源氏物語』に教えてもらいました。

 人には認めてもらいたいし、嫌われたくない。きっとそれは、みんな同じですよね。

 だから、自分に非があったら直さなければ、と頑張ってみて、それでも認められないと、まだ努力が足りないのかな、とか、自分が悪いのかな、と思ってしまうこともあるんじゃないかなと思います。

 でも、自分がどんなに頑張っても、理不尽に嫌ってくる人というのは必ずいるのです。だから、頑張ってもだめなら、考え方を変えましょう。「その人に認められるために頑張らなくては」ではなく、「この人は認識を変えることはないかもしれないけど、頑張ったことは確かに自分のプラスになった」。そういう風に、自分のことを褒めてあげればいいと思います。「完璧すぎて気味が悪いよね」というレベルで嫌ってくる人とは、きっと、残念ながら根本的に相性が合わないのです。


 紫式部は『源氏物語』を通して、そういうふうに考えるきっかけをくれました。

 もしかすると、紫式部もそういう経験をしたか、または周りにそのような人がいたのではないでしょうか。そう考えると、千年前のことなのに、なんだかとても身近な話題に思えてきませんか?


 私は、こういう現代に近づけた読み方をすると、「昔の人も同じようなことで悩んでたんだなあ」と、自分の理解者が増えたような、友達が増えたような感覚がして面白いと思うのです。

 こういう、現代とつながるようなテーマや、学校の授業では習わない視点を掘り下げることができていけたらなあと思います。

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