私はリングの中で幸せを探す旅に出る

しーた

第1話 幸子が失くしたもの

心を壊して、感情を失くした私。


視線を向けられる度に攻撃されていた。


自分を守る為に分厚い殻に閉じこもっている。


何もかもが怖くて、一歩も動けなかった。


だけど私は変わるんだ。


この扉を開けて、一人でも生きていけるって証明する。


震える足を前に出せ!


暴れる心臓を押さえ込め!


さぁ、扉に手をかけて…


今、私は…


生まれて初めて、「勇気」を振り絞った―――――





寒さも厳しくなってきた早朝5時。

私は8歳より続けてきたランニングをこなしている。

ハッ…、ハッ…、ハッ…

小学生の頃は庭を走っていただけだけど、今では1時間前後走っている。


田舎の商店街の薄暗い道路には、規則正しい私の呼吸音しか聞こえない。

冷たくて新鮮な空気が、温まってきた体の中に染みてくる。

流れ出る汗を、首に巻いたタオルで拭き取る。


「さっちゃん!おはよう!」

おばさんのゆっくりとした声。

弁当屋さんの藤竹おばさんだ。

私は軽く会釈しながら通り過ぎる。


きっと、後ろにいた旦那さんと、私の悪口を言っている。

挨拶ぐらい返せばいいのに、と。

でも、出来ないの。






何故ならば…






私は壊れているから―――






さかのぼること約9年前。

私とお母さんは、お父さんの家庭内暴力に悩まされていた。

所謂いわゆる、DVというやつ。

お母さんは私を庇って殴られる日々。


これ以上酷くなるようなら実家に帰りましょうと言われていた小学3年生の時、私を壊してしまうほどの大事件が起きてしまった。

その日、12月25日は私の誕生日。

小さなケーキを皆で食べる予定だった。


だけれど…

ケーキを見たお父さんは、何故か何時もより酷く怒り狂い、何度も何度もお母さんを殴って蹴って、ついには包丁を手にする。

命の危険を感じたお母さんは、ボロボロの体で私を抱っこして、夜道へと逃げ出した。


でも…

私を抱っこしている分、走る速度はかなり遅くて直ぐに掴まってしまう。

お母さん越しに見たお父さんの顔は、今でも忘れる事は出来ない。

狂気狂乱に満ちた顔を…


そして倒れ込んだお母さんを、何度も何度も刺した。

鈍い衝撃と共に血が飛び散り、地面を染めていく。

その間も、私を必死にか守ってくれた…


お母さんは細かく震えながら、耳元で声を絞り出して私に言った。

「幸子…。強くなりなさい…。そうじゃないと大切な人も守れないから…」

そして…、ぐったりした。

お母さんが死んだ瞬間だった。


当時の私は何が起きているのか理解出来ず、覆いかぶさるお母さんの胸の中から逃げ出しす。

裸足で走るアスファルトの上はとても痛くて、ここは地獄なのだと思った。

お父さんは包丁を振り上げ、気が狂ったような笑い声で私を追いかけてくる。

このままじゃ捕まると思った瞬間、無意識にガードレールを飛び越え、向かってくる車を無視して道路を走り渡る。






キィィィィィィィーーーーーーー………






ドンッッッ!!!





大型のトレーラーが突っ込んできていた。





お父さんの肉片が、バラバラになって散らばっていた。





泣き叫ぶ私は直ぐに保護される。

でも…

少ない身寄りは、誰も引き取ってくれなかった。

だって…

両親のお葬式に涙一つこぼさず、どんな冗談にも笑いもせず、まるで仮面を被ったかのように表情がなくなっていたから。




感情を無くしてしまった少女―――




児童福祉関係の仕事をしている遠い親戚の人の勧めで、生まれ育った故郷を離れて、岐阜県の田舎の児童養護施設に入れられた。

施設の名前は『ひまわり荘』。

在り来りな名前だし、施設も民家を改造したボロい家で、そこから楽しそうな雰囲気夢や希望は感じられなかった。

だから、お母さんが最後に言った、強くなろうと決心する。


どうすれば強くなれるか分からなかったから、兎に角、体を鍛えることにした。

毎朝のランニングと、宿題が終わってからの筋トレ。

これを毎日欠かさずやってきた。

体を鍛えて、もしも誰かに襲われても逃げられるように。

お母さんの遺言を守るべく、徹底的に、妥協することなく。

こんな私は、きっと皆には不気味に映っていたと思う。


私より前に預けられていた子供は3人いた。

同い年の男の子の「幸一こういち」君。

活発でスポーツ万能で勉強も出来る、頼れるお兄ちゃん。


3つ年下の女の子の「七海ななみ」ちゃん。

病気がちだけれど、大人しくて優しい妹。


5つ年下の男の子の「学武まなぶ」君。

当時3歳だったけど、人見知りもしなかったし、よく笑う可愛い弟。

3人共、私を直ぐに受け入れてくれた。

だけれど、初めて会話するのに1年ぐらいかかった。


こんな壊れた私を、1日たりとも見放さなかったのは、義理母の「秋名あきな 朋美ともみ」さん。

朋美さんは1番最初に会った時に、「お母さんと呼んで欲しい。さっちゃんのお母さんになれるよう頑張るから。」と、言ってくれた。

最初は迷ったけれど、これから育ててくれる、育ての母だと思って、朋美さんのこともお母さんと呼んでいる。

皆もそうしていた。


お母さんは、私が一言も喋らない日がずっと続いていても、全然関係なく話しかけてくれた。

「学校はどうだった?もしも虐められそうになったら幸一を呼ぶんだよ。そんな時ぐらいしか役にたたないからね。フフフッ」

「好きなメニューを後でいいから教えてね。いっぱい作るから。料理には自信があるんだ!」

「猫ちゃん好き?野良猫が懐いているから、餌をあげてやってね。可愛いよぉ~」

いつも笑顔で、いつも前向きで、いつも眩しかった。


そんなお母さんと初めて話したのも、一緒に暮らし始めてから1年後だった。

学校ではよく虐められていて、その都度幸一君に助けてもらっていた。

でも、こんな自分が嫌で嫌で、どうしてこうなってしまったのかを考えていた時期でもある。


よく布団の中で震えていた。

狂気に満ちたお父さんの顔を思い出していたから。

そんな時、突然布団の中に誰かが入ってきて、小さくなっていた私をギュッと抱きしめてくれた。


お母さんだった。


「さっちゃん。お父さんやお母さんのことを思い出すのは辛いよね。だけれど忘れちゃ駄目よ。」

「怖い…」

私がひまわり荘に来てからの第一声。

「そうね…。だから、楽しかった思い出だけ残して、悲しかった思い出は少しの間、仕舞っておこうね。さっちゃんがもう少し大きくなったら思い出していいから。」

お母さんはそう言ってくれた。


それからの私は、気持ちが少しだけ軽くなった気がした。

お母さんはちゃんと私を見てくれている―――

お母さんが答えを見つける手助けをしてくれる―――






私を守ってくれている―――






少しずつ大きくなる安心感は、私の緊張を解いていった。

田舎の学校は生徒数も少ないから、1年生から6年生まで名前と顔が一致する。

そんな中での私は、いつも孤立していたし、事情を知っている生徒ですら近寄りがたかったと思う。

だけれど、義理兄弟が私を守ってくれた。


特に幸一君はずっと傍に居てくれて、ほとんど喋らない私の相手をしてくれていた。

少しずつ会話も出来るようになった小学校卒業後、彼はお母さんの同級生だという独身の男の人の所に養子に迎えられてしまった。

近所なので学校は変わらなかったのだけれど、家の中は少し静かになったと思う。

名字の変わった幸一君。

でも学校ではずっと一緒にいてくれた。


私が変わらないといけないと強く思い始めたのは、中学生の頃だった。

先生達に恵まれて、酷かった虐めも進級する度に、徐々に減ってくれた。

その分、やっぱり孤立した。

この状況が、異常だと分かっている。

自分が変わらなければ、周りも変わらないと気づき始めた。

だから、どうしたら変われるか毎晩考えていた。


お母さんに相談してみた。

「私…、変わりたい…」

そう言った私をギュッと抱きしめてくれる。

「そうだね。ゆっくりゆっくり探していきましょ。」

「探す?」

「本当のさっちゃんを探すの。」

「今は偽物?」

「んーん。色々と落としてきちゃったみたい。怒ったり泣いたり、照れたり笑ったり。そういった感情を落としてきちゃったの。だから皆で探していこうね。」


あぁ、そうだったんだ。

落としちゃったんだ。

また探せば良いんだ。

心のモヤモヤが少し晴れた気がする。


「どうやって探すの?」

「落とした物はね、見えないから突然見つかるの。でも、見つける為には、さっちゃんが少しだけ前向きにならないとね。待っていてもやってこないから、色んなことにチャレンジしてみようね。」

「うん…」


私が変わるためのチャレンジ…

落とした物を探すためのチャレンジ…

ぐるぐると頭の中で考えても、何に挑戦したら良いかなんてわからない。

「何からやればいいの?」

「じゃぁ、まずはお料理作るの手伝ってもらおうかな!フフフッ」

それからは、料理以外にも洗濯、掃除、それと七海ちゃんや学武君のお世話もした。

お手伝いしている時は、嫌なことを忘れられた。


でも…

高校に行けば見つかると思っていたけれど、今でも何も見つからない。

かなり落ち込んでいた。

「慌てることはないのよ。だって、一つだけ感情を持っているじゃない。」

「?」

「「恐怖」って感情は持っている。前に「怖い」って言っていたもんね。だから二つ目はもう直ぐ見つかるよ。」


恐怖なんか持っていたって…、って思った。

そんな私の心を察したお母さんが言った。

「怖いって感情だって、立派な感情よ。恐怖を知らなければ、勇気だって生まれない。」

真っ直ぐ私を見つめる眼差し。

「………」

何かを言おうとして、言えなかった。


そうだった。

前向きに考えないと、何も見つけられない。

今必要なのは、勇気なのかも知れない。

だけど苦しかった。

見つかる気配すらないから。




どうやって泣いていたんだろう…




どうして怒っていたのだろう…




どうやったら笑えるんだろう…




「何か悩んでいるの?」

同じ高校に進学した、幸一君こーちゃんが心配そうに、私の顔を覗き込む。

「えっと…」

「言いにくかったら別にいいよ。」

「えっと…、えっと…、あのね…」


グズグズしている私を、ちゃんと待っていてくれる。

意を決して話してみた。

「あのね、前向きに…、何かにチャレンジしたいのだけれど…、何が…、良いかな…?」

チラッとこーちゃんの顔を見る。

真剣な表情。


「そうだなぁ。今直ぐ出来ることだと、例えば部活とかかな。」

「ぶ…、部活?でも私…、スポーツ苦手だし…」

そう、特にチームプレイなんて全然駄目で、いっつも皆の足を引っ張っている。

「運動系なら弓道とかだと実質一人でやっているようなもんだし、部活って言っても文化系もあるじゃん?手芸部とかね。」

あぁ…、なるほど。

でも、他の部員とのコミュニケーションが大変そう…

私のせいで部活の雰囲気を壊すのも嫌だな…


そんな心情を素直に話す。

「そんなことないと思うけどなぁ。じゃぁアルバイトはどう?」

想像してみた。

大人たちに囲まれて仕事…

今だに体の大きな男の人はちょっと怖い。

お父さんの影が見えちゃうから。


そんな事を伝えてみる。

「そうかぁ。でもさ、給料貰えたらさ、そのお金を使って欲しい物も買えるし、他にも資格を取ってみたりするのも良いんじゃないかな。そうだ、趣味を見つけて、それにお金を使ってもいいね。まさしくチャレンジじゃん。」

な、なるほど…

そういう前向きな考え方もあるよね。

でも…


「ちょっと考えてみる。」

「うんうん。もしも一人で怖かったら、俺も付き合うよ。暇だし。」

ニシシー、と笑うこーちゃん。

彼は女子に人気があるのに、全然相手にしないの。

こんな笑わない私にかまわないで、可愛い笑顔の素敵な彼女とか作れば良いのにって、いっつも思っていた。


結局、家事手伝い以外は何も進展しないで、高校2年生、17歳の誕生日である12月25日が近づいてきていた。





私の運命を変えられる、ラストチャンスの日が―――――


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