1-11 ヤタガラス編10

私は手のひらを軽く突き出し、化学式を念じて物質を生成する。

「マジカル・クロロホルム!」

CHCl3

炭素、水素と三つの塩素で構成される物質。クロロホルムは19世紀中頃に開発された吸引式の麻酔薬である。


「クロロホルムですか。」

「えぇ、気を失う物質の定番でしょ。」

よくドラマや映画の演出で、ハンカチに染み込ませたクロロホルムを嗅がせると一瞬で気を失ってしまうというのがあるが、あれは過剰演出で、実際は、微量なクロロホルムを吸い込んだだけでは、そこまでの効果はない。

「物質の濃度は問題ないと思うけど、これは射程距離がほとんどないわ。

呼吸器に直接、さらに十数秒は嗅がせないと効果が無いと思って。」

そう言って私はクロロホルムがたっぷり染み込んだハンカチを茉理ちゃんに手渡す。

「古典的な・・・。」

「自国の文化は大事にするものよ。」

「あいにく、帰国子女ですので。」

シニカルなジョークで茉理ちゃんはハンカチを受け取った。


月明かりに私たちの目は慣れてきたため、周囲の状況は見えるようになっていた。

作戦と言えるほどのものはないのだけど、ケットシーが幻覚の霧を発生させる。当然、ヤタガラスはこれを羽ばたきで蹴散らしてくる。その隙に乗じて、茉理ちゃんが背後から飛びかかるといった算段だ。

「私はそのハンカチに含んだ物質を安定供給させるので、手助けできないわ。」

十分な濃度の維持と蒸散を防ぐため、私はチカラを使い続けなければいけない。自身が瞬間的に使用するのと違い、第三者にチカラを委ねるにはそういうリスクがある。

だが、もとより私の物理的な支援など当てにしていない茉理ちゃんは変面を開いて、

「十分です。」

短くそう言った。


ヤタガラスの様子を伺うと、ちょうど元素の鍵からチカラが供給され、赤い瞳を見開いてこちらを警戒している。

では、向こうも準備が整ったようなので、作戦開始と行こう。


「それじゃ、始めるよ。

“ルナティックレイン”」

号令とともに周囲に霧が発生する。月明かりに照らされ、青白く光るそれは幻想的でもあった。

「カアッ、カアッ!」

バッサバッサと想定通り、ヤタガラスは幻覚の霧を羽ばたきで蹴散らした。その注意は完全にケットシーと私に注がれている。

かぎ爪攻撃に、11族元素、ヤタガラスにはこれ以外にもまだ固有の特殊能力がひとつある。その点が不安要素ではあったが、私の心配をよそに茉理ちゃんは飛び付いていた。背後から馬乗り。(カラスに対して馬乗りとは妙だが。)首を抱えて呼吸器官をハンカチで塞ぐ。

「ヨシッ!!」


「カァアアァァ!!!」

ハンカチに含んだクロロホルムを吸い込んだヤタガラスが異常を訴え、背中の茉理ちゃんを振り落とそうとする。

「ぐっ。」

気を失わせるにはある程度、クロロホルムを吸引させないといけない。ここから十数秒は根性勝負だ。振り落とされないようにしがみつきながら、さらにヤタガラスの鼻と口、つまりクチバシをハンカチで覆う。私はそれを全力で見守った。茉理ちゃん、頑張れ。

「完全に人任せ。」

「やかましい。化け猫。」

戦術プランの提供が私の仕事。ある意味、これが平常運転だ。


「カアァカアァ!!」

ヤタガラスがブンブンと激しく首を振ると、小さくて華奢で可愛い茉理ちゃんが振りほどかれ、押さえていたハンカチが鼻の穴を外れ始める。

「くぅっ・・・。

しょうがない。」

茉理は短くそう言うとハンカチを持たない左手に“理科”を籠め、首筋の辺りにチョップを決める。延髄斬りである。


背骨を持つ生物、いわゆるセキツイ動物には中枢神経と呼ばれる重要な器官がある。それが【脊髄】と【脳】。

この二つを繋ぐ首の付け根部分が『延髄』なのだが、延髄斬りは、ここに衝撃を与えることで信号を瞬間的に途切れさせる。軽い脳しんとうのような症状をもたらすのである。


「カァアアァァ!!」


しかし、重要なことを補足しておくと、延髄斬りは本来、チョップではなく、ジャンプ中に繰り出すキック技であり、斬りと呼称する言葉の成り立ちも、足がかかっている状態が袈裟斬りのように見えるというところから来ている。

飛び込みながら捻りを加え、足の甲で首の後ろを打つ、意外と危険な技なのである。

元々はプロレス技として考案され、海外でもEnzuigiriとそのままの言葉が用いられているグローバルスタンダードなモノなのである。


「・・・ふぅ。アブナイ、アブナイ。

延髄斬りがチョップだなんて間違った情報を提供するところだったよ。」

「・・・。」

もちろん、後半の解説文はこの化け猫によるものだ。「モノローグに介入しないでくれる。」

「にゃはは。」


茉理ちゃんの不意をついた一撃が一瞬の隙を作り、ヤタガラスの呼吸器官にクロロホルムを巡らせる。そしてそのまま、ゆっくりと倒れ込んだ。

「やった。」

「暴走を抑えた訳ではない。一時的なものじゃ。」

相変わらずカトブレパスは心配性だ。まるでこの先のネタフリのように・・・。

しかし、今のところ作戦は順調そのもの。この先の展開で私が気になるのは、果たして元素の鍵を奪っただけで、召喚獣の暴走は治るのかという点だ。

おそらく答えはノー。

鍵を奪った上でさらに何かをしないと召喚獣は衰弱し、理科世界へ強制的に返送されてしまうだろう。そうなれば、力づくで倒すのと何ら変わりはない。そして、それは茉理ちゃんの魔法契約の解除を意味する。

焦点となるのは、暴走状態のヤタガラスに魔法契約の上書きが可能かどうか、である。私はこれに近い事象を見たことがあるが、その契約者は膨大な魔法量を暴走召喚獣に注ぎ込んでいた。

それと同じなら、今の茉理ちゃんには些か荷が重いのではないだろうか?と思ったのである。



ヤタガラスの背から降り、段取りに従って、茉理ちゃんはヤタガラスの正面に回り込んで首に掛けられた鍵に触れた。

その時、


「カァアアァァッ!!」


突然、ヤタガラスが目を覚ます。

「そ、そんな!?」

クロロホルムの濃度と、吸引量は十分な筈なのに。

「!?」


咄嗟のことで一瞬、判断が遅れる茉理ちゃん。それが致命的だった。

三本ある脚の左右二本は茉理ちゃんの両腕を封じ、真ん中の一本はアオザイを切り裂いた!!

「カァアアッ!!」

「うぐっ!!」

苦悶の表情を浮かべながらも茉理ちゃんは抵抗せずにヤタガラスに話しかける。

「ヤタガラス・・・大丈夫。大丈夫だから・・・。」

慈愛の言葉。自身の負った傷よりも、暴走で苦しんでいるヤタガラスを想う、心からの言葉だった。

しかし、傷が深い。その細くて綺麗な両腕にもかぎ爪が食い込み白い服を赤く染める。


「ヤタガラス、元に・・・・、元に、戻って。」

まだ、元素の鍵を引き剥がせていない。それは理解した上で茉理ちゃんは契約の上書きを実行し始めた。唇がヤタガラスのクチバシに触れる。すると、

「カァアアァァ・・・。」

理科がヤタガラスに流れ込み、ヤタガラスは少しだけ大人しくなるが、暴走は完全にナリを潜めた訳ではない。

茉理の賢者としてのチカラを吸い上げていくが、戦闘で消耗した魔法使いのチカラだけでこの状況をなんとかするのはどう見積もっても不可能なことだった。そのことでマツリの顔色はどんどん悪くなっていく。そして、気を失ってしまった。

「茉理ちゃん!」


チカラを吸い取ったヤタガラスは「カアァァァッ!!」と、大音声をあげ、掴んでいる茉理ちゃんをボロ雑巾のように放り投げた。

「・・・うぅ。」

そのことに茉理ちゃんは小さくてうめき声をあげるだけ。非常にマズイ。生命維持に支障をきたすレベルだ。


作戦は大失敗。

そしてヤタガラスは私の持つ、元素の鍵に狙いを定めていた。

「・・・・ヤバッ。」


「カァアアァァアアアッ!!」

今までで一番大きな声でヤタガラスが声を上げる。元素の鍵と茉理ちゃんのチカラを両方吸い取り、目が真っ赤に充血している。完全にキャパシティがオーバーフローしている状態だ。


黒くて艶のある翼を広げ、上空高く舞い上がる。そして、これまでにない速度で急降下してきた。完全にこちらを標的にしている。

「う、うわっ!!」

猛禽類のような鋭いかぎ爪が私を襲う。茉理ちゃんはこんなのに立ち向かっていたのか。

なんとかしないと!

「うーん。うーん。」

尻餅をついた状態から、私が咄嗟に思いついたのは・・・。



「ケットシー!

大事な話があるの。」

「大事な話?今?この状況で?!」

確かに今は絶体絶命です。この状況で“じっくりお話しましょう”というのはオカシイのかもしれないが・・・。

「多分、今必要なこと。」

「むっ。」

これから語るのは理科世界の召喚獣にとっては伏せられている、いわば隠しルール。

カトブレパスが悟ったようにこちらを向いて、

「マジカルマヂカよ。ヤタガラスはワシが引きつけておく。」

そう言って重力を制御する特殊能力“悪魔の瞳”を使用する。

「カァアアァァッ!!」

気体や液体の物質攻撃とは違い、重力は羽ばたきで跳ね除けることができない。

「効いてる!」

「単なる時間稼ぎじゃ。はようせい。」


ヤタガラスの足止めを確認すると私はケットシーの方を向いた。

「それで、何の話?」

「ケットシー、あなたにはね、隠されたチカラがあるの!」

「・・・・。なんだってーっ!!

って、こういう秘められたチカラは普通、主人公の方にあるんじゃないの?」

「うるさいなぁ。どうせ私は平凡以下ですよ〜。」

オーディンやカーバンクルなんかは私のことを救世主なんて言う風に呼んだりもするが、魔法使いとしての能力値は平均以下。

主人公としては情けない限りである。


「それにね、別にケットシーが選ばれし特別な召喚獣だったというわけじゃないのよ。アンタのチカラの特殊性は私との契約にある。」

「契約?」

私は現在、ケットシーとは賢者としての魔法使い契約を結んでいるのだが、それ以前に結んでいた魔法少女としての契約も未だ破棄しておらず、有効のままなのである。

使い魔は契約一つにつき、特殊能力一つ。

つまり、ケットシーには魔法少女と賢者の二つの契約があり、幻覚の特殊能力“ルナティックレイン”以外にもう一つのチカラが使用可能なのである。

「えぇー?!そんなの有るなら、もっと早く言ってよー!!」

「教えたら、アンタ、調子に乗るでしょ?

これは一応、管理局的には非公認ルールなのよ。」

「にゃはは。」


「それで、何か出来そう?」

「・・・。」

ケットシーが自身の中にある、新たなチカラを探る。

「うーん。チカラはおそらく使えるんだけど、これがどういう用途かまでは、ちょっと・・・。」

未知のチカラか。

ケットシーのもう一つのチカラは私にとって切り札だけど、その効果を試したわけじゃない。

先ほどはケットシーを悟す意味であぁ言ったが、これについては切り札と言わず、やはり事前に確認しておくんだったと少し後悔した。

まぁ今更、仕方がない。

「良いわ。ソレやってみて。」


文字通り、一発勝負だ。

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