死亡者完全撤廃条例

@fall_grass

死亡者完全撤廃条例

 僕が生まれる前。十年とか二十年とかそういう十年単位での話。

『死』について。大きな論争があったらしい。

 それは酷く醜く身勝手で、自己満足に過ぎない惨憺たる議論内容だったようで、それを許さない人間が今でも少なからずいる。

『死』は基本的に原則悪だと、大半の人間が思っていて。そういった思考も手伝ってこの論争は結局、大きなどんでん返しも無く、予測つく結果で幕を閉じた。

 そこから。

 人々は『死』に対して過敏になり過ぎていた。皆で決めた決まり事を、皆が等しく守っていたのにもかかわらず。

 より『死』を恐怖していた。

 いや、『死』そのものに怯えていたわけでは、決してないんだろうと思う。ただ全員が行っている、守っている、従っている、伴っている規則を。それによる罰則を。それによる被害を。それによる対価を。これに適用される人間達は怖がっている。

 人間のエゴが決めた、死亡者完全撤廃条例を。



 一人のクラスメイトがいた。その子は天真爛漫と端的に表現出来るほどに、常に屈託の無い笑顔を振りまいていて、話していても楽しくないであろう僕とも、積極的に会話を試みてくれる。

 彼女と出会ったのは高校一年生の頃。たまたま席が隣同士だったこともあって、他に友人と呼べる存在が一人しかいない僕に、彼女は偏見なく話し掛けてくれた。彼女との付き合いは、ともかくそこから始まった。

 休憩時間も、登下校も、授業中のちょっとした自習時間であっても。彼女はよく絡んできた。彼女自身他にも友人はいるようだったが、そちらの付き合いもそこそこに、僕の方へと寄ってきていた。

 部活動に所属する期間に入って、僕が部活動に入る段階になっても、そこで彼女は当たり前のように隣にいて、それからずっと笑顔を向けていた。

 僕としては、それに関して何も思う所は無い。良い人なんだと、漠然とそんな感情を抱くだけ。邪な思いや淡い期待をしていたわけでもなく、飽く迄も友人として彼女と接することにしていた。

 それから一年。またも同じクラスとなった彼女とは、男女の関係は当然築いていない。それは僕のような人間とは釣り合わないと思っていたからだし、僕自身、そういう感情は特に無かったから。

 そんな彼女は彼女で、人当りは良いのであっという間にクラスでの人気者となっていた。それは一年生の時も同じ。夏休みに入る時期、期末テストが終わった時には、既に彼女という存在は付き合いやすい、クラスのアイドルとなっていた。

 おまけに彼女は好き嫌いをしない。それは人に対しても、物に対してもそうだった。唯一嫌いなものはトマトだと言っていたが、それ以外に彼女は何かと距離を置くということはしない。壁を作らず、相手の壁さえも取っ払って接する、それが彼女という存在だった。

 彼女の容姿はと言えば健康的な見た目と顔立ち。その性格もあってか各男子の人気も高い。運動も得意で、そこがより人気である所以だった。ただ頭の方は平均よりやや下であるようで、テストが近づく度に、僕に色々と頼み込んだ。

 そういった人間だった、向井 向日葵という少女は。



 僕には友人がいる。

 夏休み明けの部室棟、その一角。文芸部と表記された紙が貼ってある扉を開いて入室すると、その彼女はいた。


「あら、清水くん。遅かったじゃない。今日はもう来ないと思っていたわ」


 至極冷静に、眉一つ動かさずそう言ったのは、幼馴染の紅 紅葉。容姿端麗。黒髪は長く、瞳はその性格を表したかのように涼しかった。他人を寄せ付けない態度で、高嶺の花のような雰囲気を纏っている彼女は、しかし男子にとってまさしく手に入れたい花であるようで、人気は高い。おまけに学園ではトップの成績を収めている。何でも二年生の今頃から受験勉強をしており、有名国立大学へと進学するつもりらしい。

 そんな彼女と幼馴染で、その才能を羨んだことや嫉妬したりすることはない。ましてやそれに鼻を高くすることもない。僕は僕、彼女は彼女。お互いにそういう生き方を選んできた。

 けれどやはり、僕はその姿を認めると、心臓を鷲掴みにされた錯覚に陥る。

 そしてこれは恐らく、錯覚じゃない。

 僕はそんな胸に湧き上がった想いから逃げるように、声を掛ける。


「今日、原稿提出日だよな。書けたから一応出しに来たんだけど」


「憶えていたのね。これで印刷室を借りてきた意味が生まれたわ」


 読んでいたであろう本へと視線を戻し、紅葉が適当にそう漏らした。一方で僕は鞄を机の上に置いて愕然とする。彼女の放った言葉の意味が、理解出来てしまえた。


「なあ、一応聞いておきたいんだけど。いや、疑ってるわけじゃないけどさ、念のため聞くだけなんだけどさ。紅葉も、もちろん書いてきたよな、小説」


 開いていた本を閉じ、一呼吸。彼女は毅然とした表情で応えた。


「良いかしら清水くん。世の中期限を守ることが全てじゃないわ。もっと大事なことが、社会にはたくさんある。重要なのは結果では無く過程であるということを忘れないことね。それにあなたも小さいことにこだわっていたら同期に追い抜かされてしまうわよ。あとハゲるわ」


「ハゲは関係ないだろ。なんだよ、僕だけ書いてきてバカみたいじゃねえか」


 文芸部員全員で書いて来るという企画だったのに。

 まあ全員と言っても、今は二人だけか。

 不貞腐れたわけじゃなかった。いつもの冗談のつもりで、そう言っただけ。

 だから僕は少し、帰って来たその言葉に違和を感じた。


「ごめんなさい。つい、からかってしまいたくなったのよ。許して頂戴」


 そう、いつもなら僕の発言に対して、謝るようなことはしないのだ。興味も無いように無視をするか、もしくはさらに追い打ちを掛ける言葉で攻めてくる、はずだった。少なくとも安易に笑顔など浮かべない。

 今日の彼女は、いつもと違っているように見える。

 まあ男子三日会わざれば括目して見よという言葉もある。夏休み中に男子は一皮も二皮も向ける。ちなみに僕は何も成し遂げていないので一学期に続いてレベルはそのままだということは置いといて。

 紅葉は男子では無いが、人間として成長したのだろう。夏休み中出会ったのは数えるほどなので、その間に精神的に向上していても、なんらおかしくはなかった。

 それ一言で、片づけられるわけではないが。そう軽く終わらされるものでもないが。

 それでも彼女の変化自体、僕にはどうしようもないものだ。既に終わったこと。

 僕は逃避するように、溜め息を吐く。


「もういいよ。それにしてもさ、厳しいよな。キャラクターを誰一人殺さずに小説を書くって。暗い過去を持たせることも安易に展開を激変させることもままならねえ。今いる世の作家たちはすごいって、改めて痛感させられたわ」


 出来た原稿の束を鞄から取り出して、机に置いた。ざっと原稿用紙百枚ちょっと。賞に応募するつもりで書いて来いと紅葉が決めていたので、これだけの文量を書かされる羽目になってしまった。おかげで手が腱鞘炎になりかけた。

 立ち上がった彼女が、そのまま僕の原稿を取り上げる。

 いちいち彼女の一挙一動が気に掛かるが、僕の想いに気が付かないのか、そのままパラパラ、と。数枚流し読んでから、視線がこちらに向けられた。


「とんだ駄作ね」


「おい待て」


 数枚読んだだけで何が分かる。そもそも冒頭数ページは主人公の一人語りがメインになっていて内容が何一つ分からないはずだ。紅葉にその主人公の苦悩と懊悩が分かるはずが無い。彼は一つ下の妹に言い寄られてしかし血が繋がっているという理由で告白出来ないという問題を抱えている。結局は義妹というオチだが傍から見れば兄妹関係なのでそこでもまた頭を抱える主人公の、何が分かるというのだ。

 などと、不満を反芻している僕を見て、彼女は笑う。

 嘲笑うのではなく、微笑んだ。


「ウソに決まっているじゃない。帰って、読ませてもらうわ」


 小悪魔的でも無い、耐性の無い男子ならばそれだけで落ちてしまうであろう笑みを浮かべて、彼女はそれを自分の鞄へと入れた。

 夕焼け差し込む部室棟。彼女の表情はその距離でもくっきりと見えて。

 壊れてしまいそうな儚さと似つかわしくない笑顔が、見事に入り混じっていた。

 そしてそこにやはり、夏休み前の彼女を感じない。


「なあ紅葉。なんか、あったのか?」


「どうしてそう思うのかしら」


「いや、なんとなくそう思っただけだ。勘違いならそれでいい」


 夏休み前後の様子の変化。その中で起きた、一夜のアレがきっかけだとしても、別段驚かない。

 杞憂ならそれでもいい。もし実際なにかがあって変わってしまったのだとしても、話せないようなら踏み込まない。彼女とはいつも、そうして折り合いをつけてきた。

 椅子に座るでもなく、行儀悪く机に体重を乗せる紅葉はしばらく黙って、それから口を開いた。

 それもまた、彼女らしくない動きだった。


「ねえ、清水くん」


「なんだよ」


「あなた、死神って。そういうの信じるタイプだったかしら」


「はあ? 何言ってんだ」


 思わず、声を上げてしまった。冗談でも、紅葉という少女はそういったオカルト染みた話題はしてこなかった。それが夏休みを開けた途端、こんなことを言い始めるなんて、予想出来るはずも無く、素直に驚いて顔を向けた。

 その反応が彼女にとってどういった作用をもたらすのか。ほんのわずかに期待しながら、返答を待つ。


「そうよね。普通は、信じないわ。寧ろあなたが簡単に信じるはずも無いって分かりきっていたことだから」


 返ってきたのは、憂いだった。声に乗せられたのは怒りや悲嘆ではない。

 諦観のそれだった。


「信じるも、何も。冗談だろ? からかったって、さすがにそれには騙されねえよ」


 それを受けてやはり、彼女の表情は曇った。顰めたという方が正しいかもしれない。ともかくそれに近い、寂寥に似た感情が、紅葉の顔には映っていた。


「私が死神だって、言っても。きっと信じてくれないわよね」


「だから、意味が分からねえって」


 夏休みを経てどういった方向へとレベルアップしたのか。彼女は自分のことを死神だと名乗った。そういう設定は嫌いではないが、現実でやられても困るだけ。僕が彼女に表した態度は、一貫したモノだった。


「そんな非科学的なもんあるかよ。ただでさえ『死亡者完全撤廃条例』が出来て死に関してうるさいってのに、死を司る神は時代遅れ以外のなにものでもないだろ」


 とある条例は『死』に関してとにかく、ありとあらゆるものを規制している。それはフィクションであっても現実世界であっても同様の扱いで、何かの『死』を無くそうという意図によるものだった。

 その中で死神。このご時世に死神。いつの時代にも死神がいたという記録は無いが、それにしたってもう少し設定を練り直した方がいい。


「新しい小説のネタか? それなら僕に言うんじゃなくて文字に起こしてから伝えてくれ」


 西日に沈む陽の光が、朱と陰影のコントラストを描く。それは彼女の表情にも見られて、影の差す部分が顔を覆い感情が読み取りにくい。椅子に座る僕と、机に腰を預ける彼女。自然と見上げる形で、紅葉を見ていた。


「そうね。もう少し考えてくるわ。あなたに信じて貰えるように、きちんと辻褄を合わせてまた話すことにしようかしら」


 とん、と。上履きを床に着けた彼女は、そのまま鞄を持ち扉へと向かった。


「もう帰るのか?」


「ええ。あなたの指摘通り、少し家に帰って考えたくて。今日の活動はここまでとするわね。あなたの原稿も読まないといけないから」


「じゃあ先に帰っててくれ。僕はここへそもそも課題をしに来たんだ。もう少ししてから帰るから」


「それじゃあ鍵、よろしくお願いするわ」


 笑顔は無く、事務的にそう告げた後、彼女の姿は扉の向こうへと消えた。

 一人になった部室で、僕は変な緊張から放たれたことによる、安堵の溜め息を吐く。そして夏休みの課題を開いた。今日中での提出、ということだった。

 課題に取り組みながら、考える。

 紅 紅葉について。今日の彼女は何処かおかしく、もっと言ってしまえば他人行儀な部分が見られた。口調こそ彼女そのものだったが、紅葉らしくない行動が多々あり、いまいち僕はそこに引っ掛かっていた。

 死神だと、そう言ったことと関係があるのだろうか。

 一蹴せずに深く聞くべきだったと、今更後悔するが既に彼女はいない。

 色々考えた末に結論は出ないという結果を導いて、僕は諦めて課題に取り組む。その後提出しに行って折良く居合わせた担当教諭の熱いお言葉を、陽が沈むまでいただいた。



 例えば『死亡者完全撤廃条例』とは、人の進化をもたらす契機となったものだ。そう語る人間がいる。

 それは確かにその通りなのだろうと思う。死を克服しなければならない、そしてそのために持てる技術以上のものを開発しなければならない。その結果として、ここ数十年で技術力は爆発的に向上した。


「あいつ、三組の霧丘。ぼうっとし過ぎて車に轢かれかけたみたいだぜ。急停車センサーが無かったら危なかったらしい」


「隣のクラスの上月さん。屋上からの自殺未遂だったそうよ。自殺者対策ネットのおかげで怪我一つ無かったみたいだけど、それで機関の捜査が二組に入って、今大変みたい」


「おい聞いたか。昨日この辺であったコンビニ強盗。心機能観察のために埋め込まれてたチップあるだろ。あれ、探知機能もあるらしくてさ、それで今朝警察が見つけたらしいぜ。凄いよな、僕たちもう、迂闊に犯罪出来ねえよ。なんでも僕たちの声まで筒抜けらしいからな」


「向井さん夏休み中に引っ越したって聞いたけど本当かな」


 現在教室で繰り広げられている会話は、その『死亡者完全撤廃条例』を受けて進化した、技術の様々についてだ。昔からあるものや新たに開発したものもあり、それらがあって、人は誰も死んでいない。

 しかし時には例外もあるもの。もう一つの事件が、この学校を騒がせていた。


「それにしても、なんで死んだんだろうな。六組の花山」


 この学校で、一人の生徒が死んだ。その人物とは面識もなにも無かったが、その親友とは、同じクラスということもあって、話すことはままあった。

 だから、教室がわっと沸いた時、自然と首をそちらに向けた。


「ね、ねえ。なにも知らないの? 親友だったんでしょ。花山君と」


 件の親友が、そこにはいた。クラスメイト達が彼を囲んで、固唾を飲んで見守っている。僕は遠くから、その光景を眺めるだけ。話すことはあっただけで、やはり僕と彼は友人とは呼べない間柄だった。


「元気出せよ。そりゃ親友を失くしたのは、辛いと思うけどさ」


「……ごめん。少し一人にしてもらえないかな」


 控えめにそう言った彼は、そのまま自分の席へと向かった。固まっていた人だかりが崩れ始め、そこにいた生徒は口々に「まあ人が死んだんだ、そっとしておいてやろう」だとか、「可哀想に」だとか、「あいつあんなキャラだったっけ」などと憐憫に満ちた言葉を漏らして日常へと戻る。

 僕もそれに倣って黒板へと目を向ける。次は古典の授業だ。担当教諭とは馬が合わないが、それでも好き嫌いは言ってられない。僕が鞄から教科書類を出していると、不意に頭上へ声が掛かった。


「もう次の授業の用意をしているなんて感心するわ。あなた、そこまで真面目だったかしら」


 聞き覚えのある声。透き通るようなその音色に視線を向ければ、紅 紅葉がそこにいた。

 喉が干上がるのを、意識してしまう。


「ほっとけ。どうせ僕は見た目不真面目ですよ。担当教諭が僕をよく当てるから、予習もしないといけなくてな」


 今日も今日とて、彼女は綺麗だった。我がクラスの男子全員が色めき立っている。

 成績優秀で美人とくれば、気にならない男子なんぞいない。僕を例外として、周囲の視線が一堂に集まっていた。


「それで? 何の用だよ。わざわざクラスまで来るなんて珍しくないか」


 紅葉とはクラスは違う。彼女が本来いるべき教室は二つ隣のクラスだ。それに頻繁に遊びに来る性格でもない。一限のHR前に訪れるんだから、余程の用があるのだろう。僕は疑問の眼差しで、彼女を見やった。


「用事と呼べるものは、特に無いのだけれど。そうね、強いて挙げるとするなら、清水君。今日の放課後とか暇かしら」


 そこに人を連れまわすような横暴さは感じられない。飽く迄も良識の範囲で粛々と、疑問を投げ掛けている。

 僕から見れば、その行為さえも不思議だった。放課後の予定を聞くためだけに、別のクラスにまで赴くなど、普段の彼女からは想像もつかない。それにその態度は、やはり従来の彼女らしくは無かった。

 ともあれ、それに答えないという選択肢はない。放課後は部室に籠ってダラダラするつもりだったし、特に用事も無い。僕は正直に返す。


「空いてるけど、なんだ。もしかしてなにか大事な話でもあるのか?」


 普段はそういう行動を取らない。つまり緊急を要するということ。わざわざらしくないことをするというのには、それなりの理由があるのではないか。

 そんな僕の考えは、当たらずとも遠からず。いまいち要領を得ない答えが、返ってきた。


「そんなところ、よ。まあ言質は取ったということで、放課後。校門前で待ってるわ」


 さぞや悩んでこの教室まで来たのだろう。彼女のどことのなく妖しい雰囲気を浴びながら、紅葉に対して、そんな不必要な心配をした。



「で、なんでこんな店に来てるんだ……」


 恙なく授業も終わり、放課後。校門前で待っていた彼女と落ち合う。普段から彼女とはこうして、共に学校から帰るという経験はないので、無駄に緊張した。

 そうして連れてこられた場所は、駅前にあるとある喫茶店。最近オープンしたらしく、中々の賑わいを見せている。そのこと自体は別に、とやかく言うレベルのモノではない。

 ただ気になる点が、一つないしは二つ三つあった。


「あら。結構有名だと思っていたのだけれど。それに、男子なら誰もが憧れるって聞いたわ」


 コーヒーに口を付ける紅葉から視線をずらす。確かに改めて見てみれば客層は男が圧倒的に多い。女子で来ているのは紅葉ぐらいだった。

 ただ僕が気にしている点はそこじゃない。男子が多いということと恐らく密接に関わっているのだろうけど、客層は問題では無かった。

 視界に映る店員。規定のシャツや、ユニフォームではない。フリフリとスカートが舞い、白と黒の色合いがシックな感じを演出しているものの、要所に付けられたフリルが機能美の一切を無視している。


「お待たせいたしましたご主人様っ。当店自慢のベーコントマトサンドイッチと、フレンチトーストです☆」


 やけにノリノリな店員がそれぞれ僕の前にサンドイッチを、彼女の前にトーストを置いて、一礼して下がっていった。

 ご主人様、という定型句に僕は内心脅えて見送る。

 言ってしまえば、ここはメイド喫茶だった。今流行り、というか少し前に取り沙汰されていたその文化が、近所にも出来ていた。当然知識として、それがどういうものなのかは認知していたけど、実際に訪れてみれば、どうにもむず痒い。

 居心地悪く、店内を見回すと、慣れているのか。客は全員スマートに対応していた。英国紳士よりも紳士然としている。カッコいいかどうかは別として。


「メイド喫茶って初めて来たけれど楽しいわね。また来てみようかしら」


「その時は一人で行ってくれ。もう僕はなんだか疲れた」


 そうしてサンドイッチを齧る。これで千円取るのだから、値段は味じゃ無いことを改めて思い知らされる。


「そう言えばさ。珍しいよな。甘いモノ、苦手じゃなかったか? むしろ今僕が食べてるような、トマトやベーコンが入ったサンドイッチを、学食では好きで注文してたと思うんだけど」


「たまにはこういうのもいいかと思ったのだけれど。私が甘いモノを食べるのは、そんなに意外かしら」


「いや、意外って言うかそれ以前に、そういうの全く食べてこなかっただろ。だから新鮮に映ったんだよ」


 手に持った分を咀嚼し終え、それから改めて彼女へと向き直る。

 ここへと来たのは何も、メイド喫茶を体験するのが目的じゃないはずだ。今美味しそうにフレンチトーストを切り分けているが、時折こちらへと向けられる視線は、タイミングを窺っているようだった。


「で、用件があるんだろ。話してくれないか」


 動かしていた口を止め、喉を鳴らす。紙ナフキンで口元を拭った後、彼女は言い辛そうに切り出した。


「その、非常に口を憚られるというか。あまり現実味の無い話になってしまうのだけれど。聞いてもらえるかしら」


「まあこんなところに連れて来ておいて、ただ来てみたかっただけって言われるよりも、よっぽどありがたいな」


 了承を得られたことで、少し気分が落ち着いたのか、安堵の息を吐いた。

 感情豊かだ、と。僕はその光景をぼんやりと捉える。


「じゃあ話すわね。先日も、話したと思うのだけれど。私が死神だという話について、憶えているかしら」


「ああー、うん。憶えてるな」


 放課後文芸部の部室で紅葉が放った言葉。あまりにも突然であまりにも現実味に欠けていたので、その時は夢かと思ったけど。

 やはり彼女は、その口でそう言った。


「信じては、貰えないのよね」


「えーっと……」


「別に信じなくてもいいわよ。自分でも、今の発言が痛々しいことぐらい、分かっているつもりだから。ただ死神という言葉が、今はしっくりきているだけ」


 彼女の言葉、その端々が気に掛かる。死神という言葉自体に意味があるわけではなさそうで、つまりそのような存在になった、ということなのだろうか。彼女自身が死神だなんて、もちろん僕は思っちゃいない。寧ろそれが比喩的な表現であったという方が納得出来るというものだ。

 信じないわけでは、なかった。


「信じる信じないは、あとにしてさ。いや、僕は信じるというよりはどっちかと言うと信頼してるっていうのか。どちらにしても、内容を話してもらえないと、流石に付いていけないから」


 紅葉がどのような悩みを抱えて、どのような経緯を以て死神と名乗り始めたのか。

 相談される僕にはそれを尋ねる資格と、知る権利があるはずだ。彼女のことを全面的に信頼するのは、それからでも遅くない。

 彼女もそれを理解しているのだろう。落ち着いた表情で、微笑んで見せた。


「そうよね。それじゃあ話すから、外に出ましょうか」


「え? ここじゃ駄目なのか」


「別にここでもいいのだけれど、メイドさんが横を通る度に気にしている何処かの誰かが、それで話を聞けるとも思えないわ。人気の無い公園とかに行った方が、集中出来るでしょうし」


「じゃあなんで連れて来たんだよ」


 そんな僕の突っ込みは何処へやら。迷いなく立ち上がった紅葉は、僕が引き留める間もなくレジへと進む。こういう独断専行というか、全く他者に対して思いやりが無い点は、変わっていない。

 そんな紅葉に安心感を覚え、僕と彼女はそのメイド喫茶を出た。



 店を出てしばらく歩くと、辺りはすっかり夜の帳が落ちていた。道を照らす街灯が、道標のように連なり並んでいる。陽が沈んで間もないからか、部活帰りの学生や、買い物帰りの主婦たちの往来を見かける。

 僕と紅葉。お互いに明るく世間話を交わすでもなく、ただ彼女に連れられるまま、人気の無い方向へと向かって行った。


「それで、話って?」


 僕がそう話を切り出したのは、誰もいない公園に着いてからだった。街灯がただ一つだけぽつんと、寂しげに佇んでいるのみのその場所は、人のいない虚しさよりも、不気味さの方が際立って辺りを包んでいる。

 その灯かりの下。紅葉は振り返って、じっと僕の方を見つめた。


「なんだよ……」


 相対する彼女の視線に、困惑してしまう。別に意識してしまっているわけではない。単に、彼女の意図が図れない、それ故の不安だった。

 そう、不安でしかなかった。

 そんな僕の微妙な変化を感じ取ったのか、紅葉はイタズラっぽく笑って見せた。


「いえ。久しぶりに、あなたの顔をはっきりと見たものだから」


「顔ならいつも見てるだろ。そんなに珍しいものでもないし」


「改めて振り返って見れば、そういえば意識していなかったと。そう思っただけよ。他意はないわ」


 しかし彼女は嬉しそうに、やはり僕を見つめていた。それほど長く、出会っていなかったわけでもないし、学校が始まってからも文芸部で度々顔を合わせている。そうは言っても確かに、じっくり顔を見る機会があったわけでもない。僕は何となく、その場の雰囲気に飲まれて、彼女を見つめ返した。

 そうしてどれくらい時間が経ったか。不意に、彼女の口が開かれた。

 不安、とはまた違う。躊躇いのようなものをその顔に残して、言葉を放った。


「私は、少し人と変わっているわ。自分自身ではそう思うし、それに他人からもそう思われているという自覚はある」


「……ん。ああ、お前は確かに変な奴だな。僕が言うのもアレだけど。お前はかなりおかしいよ」


「……そうね。あなたも十分に変わり者よ。死神だと、突然そう言い始めた私の事を、信頼してくれているのだもの」


 苦笑して、似つかわしくない表情を溢す。その光景は、真上から照らされる街灯の光によって、ある種幻想的に、非日常的に、僕の視界を捉えて離さなかった。


「私が死神になった理由は、とにかく簡単なもの。ただ単に、そういう存在として、あなたに見てもらいたかったから」


「それは、どういう意味だ?」


 そういう存在として、見てもらいたかった。やはり死神というワードは、そのものに意味は無かったらしいが、ただそこで彼女という存在が、一気にぼやけてしまった。

 僕の当然の疑問に、視線を伏して、言葉を探していたらしい彼女は、やがて再びその双眸を向ける。


「死を超越した超自然的な神として、見てもらいたかった。いえ、そんな高尚なものでは無いわね。ただ、特別なものとして、あなたに見てもらいたかっただけなのかもしれないわ。死神という言葉自体は、どうだっていいもの」


「特別な存在、ね。それはまあ僕にとって紅 紅葉は特別な存在になってるけど。でも、どうしてそんなわざわざ『死』の神をチョイスしたんだ。もっと他にもあっただろ。僕の意識を惹かせるようなものがさ」


「そう、ね……」


 彼女の身体が翻る。長くて煌びやかに輝く髪をなびかせて、僕に背を向けた。

 僕はただそれに、見惚れて呆けるだけ。声を掛けようと口を開いた時には、既に彼女の言葉が流れていた。


「ねえ清水君。こんな話を知っているかしら」


「……?」


「ある場所に死にかけている男性がいて、ドナー提供をしてもらってなんとか生き永らえたのだけれど、その後の生活が、彼が送ってきた日常から大きく変化したという話。彼は生きているのだけれど、彼は前の彼ではないというものなのだけれど」


「……なんの話だよ?」


「記憶転移。臓器移植の提供者、その記憶の一部が、レシピエントに移るという現象。観測例は世界的に見ても、決して多くないものよ」


 記憶転移という言葉。それ自体は聞いたことが無くとも、現象自体は知っていた。つまり、別の人の性格が、その人物に宿ったように見えてしまう。そのようなケースが、あるらしいことは知識として獲得していた。

 けれど、しかし。

 今ここで彼女がその話をした意味。

 彼女が放った言葉の前後での文脈。

 つまり、彼女は。


「……紅葉、お前は。その記憶転移をしてるって言うのかよ」


 鼓動が、跳ねた気がした。

 彼女の応えを待つ。たった数秒。それ程も経ってないはずなのに、その返答はどうしようも長く、どうしようも永劫に感じられた。

 やがて、彼女は振り返る。

 その表情は、いつもと変わらない。


「そうよ。臓器移植による、『死』そのものの超越。だから、死神という言葉が当て嵌まった。言ってしまえば、それだけの話よ」


「お前、冗談もいい加減にしろよ。死神なんて、あり得ねえからな。『死』は、超越出来ない」


 そうは言っても。口ではそう吐いたものの。全てを否定出来ない。彼女の言葉を一蹴出来なかった。

 概念としての『死』。それは確かに存在する。『死亡者完全撤廃条例』が施行されてからも、より浮き彫りにそれらは明確化され始めた。『死』を忌避するからこそ、より『死』を意識しなければならない。人間という生物は結局、生だけで生きることなど出来ない。

 そう、だから。


「超越出来ないって。それは僕達が証明しただろう。僕と紅葉の二人でさ」


 じめじめした夏の夜。異臭漂うあの空間を、僕は思い出す。二度と立ち入りたくも見たくも無い、確かに起きたその光景を。

 彼女も思い出したのだろう。その表情を苦々しいそれに変えて、明らかに声の調子を下げた。


「あれに関しては、そうね。確かに証明したとも言えるし、世界に抗ったと言える事項かもしれないわ。結局は神を汚したのだから」


「神を汚しただなんて、大袈裟だろ。僕達は人が出来ることを、してしまっただけなんだから」


 僕がそう言うも、それそのことが問題だと言わんばかりに、彼女はそっと首を横に振った。


「……結局さ、お前は、何が言いたいんだ?」


 ここへとやって来た意味。今日連れてこられた本題。僕はそれを改めて提示する。

 でも。何だろう。

 今こうして普通に会話を繰り広げているだけなのに。

 胸の鼓動が警鐘を鳴らし続けてる。

 嫌な予感とか、不穏な空気とか。そういう予兆めいたものを、第六感が告げている。

 ずっと感じていた緊張ではなく、突然現れたような異常。それに関して、僕は身構える。

 ただこれは僕の。他ならない自分自身の勘違いかもしれない。そういう面倒事を避け続けてきた僕の思い込みかもしれない。だから黙って、平生を装って、目の前にいる少女を見つめ続けた。

 そして彼女が、口を開く。


「私はね」


 果たして彼女の解答は、予想外の言葉だった。


「実は一度、死んでいるのよ」


「……は?」


 思わず口から空気が漏れ出ていた。

 冗談を言っているわけではなさそうで。真剣な眼光が、夜の闇に光り輝いている。

 その威圧感に。

 その不気味さに。

 僕の足が一歩後退した、してしまった。


「なに、言ってるんだ……」


「分からないかしら。あるいは、信じたくないだけなのかもしれないわね。これまでの話から、察することも出来るのだけれど。つまり私は一度死んで、それから臓器移植によって今ここに居るのよ。話自体は、簡潔なモノよね」


 淡々と。特別感情を込めていない声音で、彼女は語る。やはりそれが奇怪で。それが今、僕が抱いている感情の根源だった。

 僕は彼女を、最早彼女として見れなくなっていた。

 あの日と同じように。

 あの日がそうであったように。

 そんな彼女は、やはり笑う。

 幼馴染として知っている顔で。僕の知らない顔を見せる。


「ねえ清水君は。私のこと、どっちだと思う?」


 口角が、三日月のように上げられて、酷く嗜虐的な笑みを作った。

 その言葉の意味を、僕はやはり理解出来ない。


「どっちって……、紅葉は紅葉だろ。他に誰が―」


 余程酷い顔をしていたのだろう。鏡を見なくても震えた声で、それは分かった。

 どちら、と言う意味の単語に心当たりなどがあるはずもない。僕はこれまでずっと彼女を紅 紅葉として扱い接してきたのだから。

 分からないと、言い聞かせている筈なのに。

 僕は一人だけ、ある人物を頭の中に思い描いてしまっていた。その人物と、目の前にいる彼女とが、重なる。

 もう戻ってこない彼女。

 とにかく元気を振りまいていた彼女。


「お前、まさか……」


「それにしても、『死亡者完全撤廃条例』って凄いわね。その名前の通り、死亡者は確かに出していないわ。おまけに犯罪者も、消せているのだから、大したものよね。犯罪者完全撤廃条例ではなくて、死亡者完全撤廃条例。これって全く意味が違うわよね?」


 夜の闇が、より深く。

 降り注ぐ光は、頼りにならないほどに。

 辺りは静かに。暗く覆われている。

 僕は何か言葉を探すけど、ただ黙って彼女の言を受け入れる。

 麻痺したように。それしか、出来なかった。


「私、向井 向日葵は。今日ここであなた達への復讐と願いを遂げ終える」


 誰もいない公園で僕は。

 ようやくそれまでの違和感を、回収する。

 そうして。

 僕の視界は、彼女から噴き出した鮮血で覆われた。



 今年の夏休みは、とにかく最悪だったと思う。プールや海、山のぼりにキャンプ。夏祭りに参加はおろか手持ち花火も見ない。ありとあらゆる夏休みのイベントをスルーして、僕はずっと家に引きこもるつもりだった。特に何か趣味のような物で時間を費やしていたわけでもない。ありったけの暇を持て余して、ただ無造作に長期休みを過ごす予定だった。実際、去年はそうしてきたのだから、今年もそうなるだろうと踏んでいた。

 けれどそんな計画は露と消える。七月の半ばから、八月丸々を怠惰に潰すつもりが、ある人物の登場によって、大きな変化を強いられた。

 向井 向日葵。

 学校が長期休暇に入ったその次の日、彼女はいつもと変わらない笑みで、家の玄関に立っていた。


「今日、暇かな。映画のチケット貰ったからさ、一緒にどうかなと思って」


 改めて思い返してみれば、彼女は学校では大変な人気を誇り、それは男女問わず友好的に接する態度から来るものなのだ。今回のそれも恐らく、単なる友人として誘われたのかもしれなかったけど、何故よりにもよって僕なのか、その理由は判然としなかった。

 ともあれ用事と呼べる用事などない僕は、下手に嘘を吐いてその場をやり過ごすことも出来ず、結局映画を観に行った。

 彼女と僕はクラスメイトという間柄であり、同じ部活に所属する同士とも言える。自然と、話題は文芸部の事へと移っていった。


「紅葉さんって、綺麗で頭も良くて、それに清水君とも仲良くて、凄い憧れるよね」


 しきりに、そう言っていた気がする。僕は話半分で、彼女の言葉を聞き流しつつ、適当な相槌を打っていた。


「ねえ、清水君もそう思わない?」


 それに対しても、僕はあやふやな返答をした。

 特に彼女のことを、凄いとは思うが友人として誇りには思ったことはない。飽く迄も幼馴染に過ぎない、と。

 そんな感じのことを、言ったと思う。

 その会話はそこで終わったけど、映画を観に行った翌日や、空いた日には必ず彼女と何処かへ出かけていた。それは海であったり夏祭りであったり。夏休みに催されるイベントを、僕の意志とは別に次々と消化していった。

 僕も、それなりに楽しく感じていたのだろう。彼女の誘いを、断ろうとも思わなかったし、鬱陶しくも感じなかった。

 感情を表には出さず、付かず離れずの距離を保つ。そうした日々を過ごしていたある日。

 僕と向井 向日葵がショッピングモールで買い物をしていると、紅 紅葉と出くわした。受験勉強のために塾通いの彼女とは、その夏休み中に一度たりとも顔を合わせていなかった。

 だから、僕と、その隣にいる向井の存在を確認した時、彼女の顔が陰ったのは。

 遊びに誘われなかった、単なる子供っぽい嫉妬心だと、そう思ってしまった。いつも通り、それが当たり前だという態度を、僕が取ってしまっていたのも、原因だったのかもしれない。

 ともあれ。僕達はそこで別れた。その場では、何も無かった。

 そう、その場では。

 翌日にメールが来た。差出人は紅 紅葉。内容は良ければあなたの夏休みの宿題を手伝ってあげようという、まあ上から目線なものだった。俺はそれを丁重にお断り。おまえは俺なんかに構ってないで、将来の為に頑張れよというメールで締め括る。

 次の日、またも紅 紅葉からのメール。内容は取るに足らない日常でのやりとりと、そして明日は暇かというお誘い。確か明日は向井とも遊びに出掛ける約束をしていたので、一応その旨を伝え返信を待つ。返信はすぐに来た。私もそれに混ざってもいいかしら、と。僕は一昨日のこともあったので快諾。翌日、久しぶりに紅 紅葉と落ち合う約束をした。

 そして当日。

 僕たち三人は駅前で落ち合った。


「ああ、えっと。紅葉さんも呼ばれたの?」


「ええ。清水君が、どうせなら多い方がいいだろうって」


 そんなことは一言も言ってないが、ただ人が多いほど、楽しいことは事実なので何も言わない。

 その後僕と二人は、他愛も無い会話を続けながら、如何にも高校生が行きそうな場所で遊び回った。

 ずっと、向井 向日葵の挙動は他所他所しかったが。

 それを含めなければ、良い日だったのではないか。

 きっと、向井 向日葵にその後、呼び出されたのは。

 それが特別だと、神の思惑があったのではないか。


「あの、ずっと好きでした!!」


 そう言ってくれた向井の想いに対して、僕がどのような返答を返したのかは些末事。ここで語るまでもない。

 問題はその後だった。

 僕にとっての最悪は、それから始まる。

 その日の夜。時計の針が次の日を跨ごうかと言う時間帯に、携帯が鳴った。メールに書かれていた差出人は向井 向日葵。内容は今すぐに、ある公園へと来てほしいというものだった。

 こんな時間になんだと、メールを返すも返信はない。仕方なく僕は、その公園へと向かった。

 向かって、しまった。


「あら、清水君。遅かったわね」


 果たして、そこにあったのは、異空間だった。

 そこにいたのは、顔を紅く染め上げた、紅 紅葉だった。

 僕が来たのを振り返って確認して、それからまた前を向いた。

 その視線の先。そこにある異物と、異質。


「紅葉……、なにやって―」


 鼻を突くのは鉄の臭い。視界に映るは深紅の水溜り。そして、ある物体。その紅い絵具を落としたような地面に横たわる、人。

 人?

 物?

 それさえも判別つかなくて。

 僕は額から流れる気持ち悪い汗を、背負う悪寒と共に纏わせる。


「こんな時に、こんなことを言うのも可笑しいのだけれどね」


 手を後ろに組んで、こちらを向いた瞳は死んでいた。僕はそれに対して、どうしようもない嫌悪感と。逃げ出したい衝動に駆られた。

 そんな想いが募っても。身体が、動かない。動くのは、現実から背けるためだけの、視線のみ。

 やがて彼女は、一歩僕へと歩み寄る。


「邪魔者は消えたから、ここで言わせて貰うわ」


 桃色の唇が、裂ける。

 風が吹くように。それこそ自然なことであるかのように。彼女の言葉が、耳に届いた。


「あなたのことが、好き」


 あまりにも場違いで、あまりにもそぐわない告白。展開に付いていけなくて、やはり僕は何も答えられない。

 何を言うべきなのか。その判断が、今の僕には出来なかった。

 そんな呆然と、ただ突っ立っているだけの僕を見て、彼女は可笑しそうに、無表情で続けた。


「ずっと好きだったわ。にもかかわらず気が付かないで、他の女子と遊んでいるのだから。それだけならまだ良いわ。あまつさえ、告白にも応じるだなんて、正直ショックだったわ。だから、今こうして行動に移させてもらったのよ」


 事も無げに、彼女はそう言った。告白? それはつまり、彼女は……

 そんな何も言えない僕を放って、彼女はただ言葉を口に出す。それらは周囲に溶けるようで、けれど水に浮く油のように、浮いていた。

 それが要因ですんなりと、僕はそれらを受け入れる。

 その場にはその空間なりの、相応しい言葉があった。


「ねえ、清水君。殺人者の私が次に言うであろう科白が、何か分かるかしら」


 また一歩彼女が近づいて来る。手は後ろに回したまま。一歩、歩み寄る。

 とうとう目と鼻の先にまで接近した彼女は、それを眼前に繰り出した。

 手に収まる、鮮血滴るそのナイフを。


「死にたくないわよね。清水君は、厄介事なく生きていたい人種なのだから。別にそれが悪いとは言っていないわ。ただ、そうね。この場合はそれがマイナスに働くのよ。大丈夫よ、万人は死にたくないと思うモノ。あなたがその選択をしたとしても咎める人間はいないわ」


 だから、と。

 彼女は僕の首元にそれを宛がった。つい先程、人を殺めたその得物で。今度は僕を、殺そうというのだろう。

 喉を鳴らす僕に、彼女は穏やかな口調で諭す。


「絶対にばれないわ。あなたが言わない限り、今日起きたことが外に漏れることは無いのよ。だから、私としてはあなたを殺して口封じが一番ラクなのだけれど、やっぱりあなたのこと、好きだから。もちろん、どうするか決めるのは、あなたの自由なのだけれど」


 選択の余地が、他にあるはずも無かった。生殺与奪の権利は彼女が握っている。僕はその場で格好悪く頷いて、晴れて彼女と付き合うことを、選んだ。

 それが僕の最悪の夏休みで。

 向井 向日葵を見た最後の日だった。それに気が付いたのは、彼女に言われた後のことだけど。

 ともあれ僕は、紅 紅葉に脅されてその日から付き合うこととなった。

 尤も、夏休みが明けるまで、僕が彼女の姿を見る事は叶わなかったけど。



 僕はいつも通りに学校へと登校して、それから自分の席へと着く。友人である向井 向日葵の姿はそこにない。


「聞いたか? あの噂」


「何だよ、噂って」


 授業開始まで残り数分。それぞれがグループとなって会話を交わしている、その一つに耳を欹てる。


「知らねえのかよ。人が死ぬとするだろ。それが殺人だった場合、殺された人は臓器諸々をその犯人に移植されるらしいんだよ」


「うへえ、なんだよその噂……」


「いや出所は分かんねえけどさ。『死亡者完全撤廃条例』の第十項目は、そういう意味らしいぞ」


 僕はそこで盗み聞くのを止めて、一人思考に耽る。

 そう、『死亡者完全撤廃条例』とは、それを可能にさせた。つまり死んだ人を、誰かに移植して、死んだ人間をその誰かとして生かす。

 紅 紅葉が自身を『死』を超越した存在だと、そう語ったのは、そういう意味。いや、この場合は既に違うか。

 それは既に、紅 紅葉自身の言葉では、無かった。


「そう言えば三組にいた紅。あいつ自殺したんだってよ」


「……お前よく清水のいる前で言えたな」


 クラスの視線が、僕に集中する。そう、あの日。僕が彼女に連れられ公園に行ったその日。紅葉は目の前で首を切った。どうすることも出来なくて、気が付いたら僕は警察署に。それからのことは、よく覚えていない。


「おい、清水」


 顔を上げれば先程まで話していた一グループが、僕を取り囲んでいた。その瞳は好機と憐憫とに満ちており、僕は何とはなしに、その後の展開を察してしまう。


「た、大変だっただろ。お、俺たちと飯でも食わねえか。今日の学食、BLTサンドらしいぜ」


「そうだ、晴れて俺たちは彼女がいないという共通点も生まれたわけだからな。どうすればそんなにモテるのか聞きたいし。それに、なんか雰囲気丸くなったというか」


 僕は彼らと特別親しかったわけじゃない。話しはするけどそれだけ。昼食を一緒に摂る仲では無かった。

 やはり何か、変わったのだろう。僕は彼らに対して、距離感を図りながらも、笑う。


「良いね。でもBLTは無しだ。トマトは食べられない」


 僕は、他人に対して。

 らしくない笑顔を振りまいた。

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死亡者完全撤廃条例 @fall_grass

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