解任

* * * * *

 大婆様の遺体を前に、隣でカヤやほかの侍女たちが啜り泣く声を聞きながら、大婆様と交わした昔の会話や、過ごした日々を思い返していた。

 時が止まったようだ。瞬きをするのも、息をするのも億劫。

 私の身を案じ続け、死に行く間際までまほろばとの一件に関してうわ言で反対し続けていた私の母代わり。私を大事に、娘のように守ってくれていた大切な人だった。誰よりも、巫女としての私を理解してくれていた、たったひとりの人。

 カミは目に見えなくとも我々を見ているということ。我々はどこから生まれ、死んでいくのかを教えてくれたこと。手を引いてもらい、森を仰ぎ、その美しさを教えてくれたあの姿。もうどこへ行っても、会うことも見ることも叶わない。大婆様もまた、違うことなくこの森の土へ還り、また別の命を繋いでいく役目となったのだ。



「沙耶」


 足音の後に兄の声がした。空虚だった思考が元に戻り、その声に意識は引き戻される。振り返り、現れた自分の家族に軽く礼をすると、兄の後ろから母も顔を出した。一年ぶりに目にした二人の表情は沈んでいた。


「こんな時期に突然すまない。無理を言って入れてもらったのだが、話せるだろうか」


 大婆様の安らかな顔を一度見やり、それからすっくと立ちあがる。


「場所を変えましょう。大婆様の眠りを妨げたくはありません」


 カヤに命じ、部屋を準備させて母と兄をそちらに案内した。二人が何を言わんとしてここへ来たかは察しがついていた。心の準備もしていた。だが、いざ目の前にするとどうしようもない感情で胸がいっぱいになる。どちらも大好きな人たちなのに、今だけは会いたくないと思ってしまう自分がいる。

 兄は私と向かい合って座ったまま、しばらく己の膝に視線を落としていた。カヤの鼻を啜る音だけが時たま聞こえてくる。


「お前も、察してはいるのだろう」


 相手がようやく口火を切った。


「このままでは、ムラはもたない」


 いくら大婆様が私を社から出そうとしなかったとは言え、話には聞いていた。ムラは貧困に陥っている。まほろばから無理難題を押し付けられ、作っても作っても自分たちが食べる分がない状態が続いている。母親たちも食べられないせいで乳が出ず、赤子に乳をあげられないという。子供たちはひもじさに泣いているという。戦で人の数は減り、更に飢餓で人が死ぬと思うと胸が抉られる思いだった。昔ならば想像もしなかった光景が生まれ故郷であるムラを蝕んでいる。あの戦いのせいでこんなにも変わり果ててしまったのだ。


「沙耶、どうか落ち着いて聞いてほしい」


 小さく返事をした。


「ムラの皆と話し合い、お前の巫女としての任を解くこととなった」


 ──ああ。


 大きく息が口から洩れた。全身の力が抜けた感覚だった。覚悟をしていてもこれほどまでにずっしりとどうしようもない気持ちに押し潰される。大きく泣き出したのは私の後ろに控えていたカヤだけだった。大婆様がどれだけ反対していたかを知っていた彼女だからこそ、最後の足掻きと言わんばかりに大きく嘆いた。


「お前は普通の娘に戻れるんだ」


 普通の娘。森にいる必要がなくなる、自由な身分。


「まほろばの男が、巫女ではなくなったお前を妾にほしいと言ってきている」


 きっとそれは、私の知る夫婦とは違うものなのだろう。


「お前がまほろばの遣いのもとへ行けば、貢ぐ量を今の半分以下にしてくれると言う。森も荒らされることはない」


 巫女としての任を解かれても私の役目は終わらない。

 恨みだとか怒りとかそういう感情はない。ただ、どうしようもない悲しさがあった。それをどこに投げたらいいか分からなかった。


「相手はお前に普通の女としての暮らしを約束してくれると言っていた。不自由のない、今までにない裕福な暮らしをさせてくれるそうだ」


 兄は何度か、その人に会っているようだった。会って、良い人だと思ったからこそ決断したのだろう。何が兄やムラの人々をこうさせてしまったのか。何が、今までの平和を崩してしまったのか。


「沙耶……許してちょうだい」


 母が泣きながらそう言って俯いた。父を亡くした母はひどくやつれ、今にも倒れてしまいそうな表情だった。随分と泣き晴らしたに違いない。目元だけが赤く腫れていた。


「……母様」


 前屈みになって泣き出す母の背を兄と擦った。


「沙耶、頼む」


 近づいた兄は頭を下げて私に懇願した。


「その父親は非道だが、お前を欲しいと言っている当人はそれなりの男だ。お前を大事にすると何度もこちらに伝えて来てくれている。屋敷へ入れば、非道な父親と会うことはないはずだ。社もこのままにして、森には手を出さないと約束してくれた。それもお前は、自由のない巫女の役目から解放される」


 昔から、兄が私に普通の女と同じように暮らしてほしいと願っているのは知っていた。でもそれは。それの意味するところは。


「森とムラのためだ」


 杭で胸を打たれた心地になる。

 ムラを救うことができるのは、私だけ。森を守ることができるのは、私だけ。皆もそれを望んでいる。

 森を襲い、ムラを追い込み、父を殺し、ムラの人たちを殺めた、まほろばの住人のもとに私一人が行けば、すべては守られる。

 もう、どこにも行けない。何も私を守ってはくれない。私は森とムラを守らねばならない。私は──。


「……仕方がありません」


 膝に置いた手を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。


「沙耶さま!」


 カヤが私の衣を掴んだ。けれどそれを無視して私は兄に向って静かに言い放つ。ただひとつだけ残された、ムラの人々が私に望んでいる答えを。


「その人のもとへ参ります。それでムラと森を守ることが出来るのなら」





 兄と母は帰り、その後私は侍女たちに手伝ってもらいながら数少ない荷物をまとめた。大婆様の葬儀に関しては兄に頼み、遺品の整理を社の侍女たちに任せた。もしかすれば別の巫女が入ることもあるかもしれないと、巫女の役目を綴って残すことをした。

 そうして社で過ごす最後の夜に、森の奥にある泉に行った。大婆様とよく身を清めた泉だった。振り返ることなく裸足で森を走り抜け、辿り着くこの場所。

 昼間に来れば透明な、底まで見える美しいところだが、夜では木々の間からこぼれてくる星明りをこれでもかと映している。足先を水面につけ、そのままゆっくりと身体を水に埋めていく。水はまるで生きているように暖かい。私を包み、受け入れてくれる。

 そのまま夜空を仰いだ。森の葉に囲まれた夜空から星明りが私を照らし出す。この星の輝きを忘れぬようにと空を仰いでいたら、涙が流れた。

 泣くのはこれで最後だと、自分に言い聞かせた。

 輝き誇る地を踏みしめ、多くの命の囁きに耳を傾ける。そうやってめぐる季節を見送り、今生きる喜びを噛み締める。そうして過ごしてきた日々が、終わるのだ。


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