松山狸首落とし事件

KisaragiHaduki

松山狸首落とし事件

 一平、という青年はいつだって、狸とともに育ち、狸のために生きてきた。

 狸、といってもただの狸ではない。一平の住む集落を守る神様、として、代々一平の家で守り、崇め、奉る狸だった。


 平平一平(ヒラダイラ イッペイ)は、誰の目から見ても、冴えない青年という言葉の似合う、ぱっとした所のない、掴み処のない青年であった。


 一平は、整った形状の瞳と、高い鼻、すらりとした容姿から、近所では有名な美青年、であった。そして、誰しもが一平に期待した。いつの世にも、美青年や美女は、勉学や運動に優れたものが多かった、という統計が採れていたからだろう。

 しかし一平は、周囲の期待に反して、勉学や運動ができる、ということはなかった。

 勉学はそれこそてんでダメで、小学校で学習するレベルの問題ですら、一平は稀に解けないことがあった。

 運動は、走るのは速かったが、それ以外は全く出来なかった。水泳では足がもつれ、いつだって溺れかけた。球技をすれば顔に球が当たり、鼻血が出た。

 唯一出来ることと言えば、動物に懐かれやすいので、動物の世話、くらいだった。しかし、そんなものは社会に出たとして全く役に立たない。容姿が整っているだけの、無能で運動音痴な少年。そんな一平が職にありつけたのは、環境のおかげもあったのだろう。

 一平の暮らす集落は、古い習慣が多く残る田舎町で、集落内は日々バキュームカーが往来し、未だに『村八分』という風習が残っていた。そして、面接や試験などは殆どなく、集落に昔から住んでいる人間なら、どんな人間でも就職できた。

 一平は、集落内にある、最も発展した技術がある、という食品会社の工場に就職した。いや、工場長の恩恵で就職できた、という風が正しいだろう。「……今日から入らせて頂きますた、一平です――どうぞ、よろしくお願いします」

 軽く自己紹介を澄ませると、一平は一礼する。頭を上げ、工場で働く職員の顔をちら、と見回す。大体が一平より年が一回りも二回りも離れた者ばかりだ。若者、と呼べるような年齢の人間は、一平を除いて一人もいない。

 本当に、就職先をこんな所にして、良かったのだろうか。一平は、先週までの自分の軽率さを嘆いた。頭が悪くてもできる軽作業だ、と聞いて、すぐさま飛びついた自分を。

 そんな一平の肩を、小太りの工場長がぽん、と叩く。

「一平くんは経験不足で、慣れない……こともね、多いと思うから、みんな、手伝ってあげてね!」

 うい、という気だるげな返事が他の工場員たちから漏れる。不安に駆られる一平の背を、工場長がまた、ぽんぽん、と二回叩いた。

「じゃあ、一平君はこっちで作業してね!」

 工場長の太い指の先を、一平は目で追う。其処には、ベルトコンベヤーの上を延々と流れる豚バラ、そしてそれを一枚づつ摘み上げ、発泡スチロールの上へと乗せていく男達。

「アソコの主任は……あぁ、森崎くんかぁ……」

 困ったように工場長は呟くと、ポリポリ、と音を立てて頭を掻いた。

 そして、一平と自分から一番離れた場所で作業をする青年に大きく手を振った。その青年は周囲の情景の変化に敏感なのか、工場長のサインを目で据えると、すぐさま飛んできた。

 工場長は青年に目配せすると、一平のことをちらり、と見た。一平はそれに反応した様に体をびくり、と身体を震わせると、一歩前に出た。そして、ゆっくりと口を開き、動かした。

「――今日から此方に所属となりました、平平一平、と申します……」

 おずおずと自己紹介を澄ませると、一平は体を三十度に折り曲げる。

「はい! よろしくお願いします。僕は、此処の主任で……森崎、陽、と申します! どうぞ、よろしくお願いします、ね」

 にっこりと、明るい笑顔を浮かべつつに、青年こと、森崎はそう自己紹介をした。名は人を表す、というが、かつてこれほどまでに『陽』という名の似合う青年が居ただろうか?

 青年は、目尻が垂れており、鼻は高く、全体的に穏やかな顔立ちをしていた。しかし、声はまるでラジオやテレビで見る芸能人のように芯が通っていて、聞いているだけで何処か勇気づけられる様な気がした。

 極めつけは、その歯だ。青年の歯は、驚くほどに白かった。インプラントで治療した歯よりも、ずっとずっと。

 

 一平がそんなことを考えている間も、森崎は何かを話し続けていた。時折一平は相槌を打つが、話の内容は一切頭に入っていない。一平の頭の中は、青年の歯は、どうしてこのように白いのか、という疑問でいっぱいだった。

 

「では、これで説明は終わりです。僕の隣に一平さんの席を用意しておいたので、まずは其処で僕が手取り足取り教えます。解りましたね?」

 一平の意識が戻ったのは、森崎がそう言って数分に及ぶ話を終えた、その時だった。一平は大きく首を縦に振ると、森崎のその大きな背を追った。こうして見ると、森崎はガタイもいい。

 

 一平は席に座ると、流れるベルトコンベヤーの上を流れる豚バラ肉を、ゴム手袋の点けた左手でつかんだ。そして、時折森崎の方を見ながら、ゆっくりと発泡スチロールの上に下す。難しい動作、とは言えないが、一平にとってそれは、とても難しい作業の様に思えた。

 一個、二個、三個。ゆっくりとだが、しっかりと、確実に一平は発泡スチロールの数を熟していく。それを森崎は、にっこり、と優しい笑みを浮かべながら見守っていた。


 その日一平は、家に帰ってすぐ、自分の将来を誰より心配してくれた、母に、仕事場で問題を起こさなかった、ということを報告した。

 母は誰より喜んで、「これで一平ちゃんも大人の仲間入りねぇ」と、食卓で褒めてくれた。その出来事は、一平にとって、絶対に忘れられない、大切な思い出、となった。


 一平はそれから其処の精肉工場に十年程、勤めた。一度もリストラの危機に晒されたり、首を斬られそうになったことはない。きっと、あまり難しい作業ではない、ということが幸いしたのだろう。

 毎年、二、三人が退職し、一人が入社する。それを幾年か繰り返す内に、気が付けば一平は、森崎の次にベテランに、なっていた。


 一平はずいぶんと老け込んだ。同じ作業の繰り返し、というストレスと、親が近頃死んだ、ということが関わっているのだろうか、まだ二十代後半なのに白髪が増え、髭の一本も生えていなかった筈のあごには、もじゃもじゃとした髭が生えて来た。かつて「可愛らしいお坊ちゃまだこと」と隣人に褒められた一平の雰囲気は、もう何処にも残っては居なかった。   

 だが、対照的に森崎は、何も変わらなかった。あの大きな背中も、聞いているだけ明るくなるようなあの声も、振って間もない雪のように白いあの歯も。

 一平は、森崎とよく呑みに出掛けた。森崎は気前が良く、給料前、だ、というのに飲みに一平を連れ出したり、夕飯をごちそうしたりもした。

 森崎は笑いのセンスもあり、集落の中に沢山あるスナックで働く女子たちは殆ど森崎に惚れているようだった。森崎に思いを寄せる女性たちの居る其処を何件も梯して、一夜を明かしたことも、よくあった。その都度森崎は酔いつぶれた一平のことを家まで送り届け、布団にまで寝かせてくれた。

 そして朝起きて、狸に餌をやり、仕事場へ向かい、仕事をする。そして、仕事終え、最も信頼のおける仲間、森崎と共に、飲みに出かける。

 そんな繰り返しの日々。持ち家もあり、家宝もあり、仲間もあり。一平は、幸福だった。

 

 そんなある日のことだ。一平が、三軒隣に住む与作爺、に呼び出されたのは。

「おい、一平。どうかお願いじゃけん、正直に答えてくれねぇか?」

 与吉爺は嘆息を吐くと、その細長い目で一平のことを睨みつけた。

「昨日、畑が荒らされていたぞなもし。野菜は食いちぎられ、新芽は踏まれ、土は掘り返されて、な」

「そして、じゃ。ある村人が、畑に罠を仕掛けてたんじゃ。其処の家は、昔から猪やら、熊やら、猿やらの被害にあっていたげな……」 

 本題がそれたな、と与作爺は苛立ちながら頭を掻き毟る。そして、うんざりした様な表情で一平の目の前に、ごろり、と何かを差し出した。一平はそれを見て思わず目を疑う。何故ならそれは、昨日まで一平の家に居た筈の『お狸様』だったからだ。

「こいつは、お前が飼ってた……その……狸様、か? それとも、野生の――」

「俺の『狸様』です」

 与吉爺の言葉を遮り、一平は答える。与吉爺は『やっぱりな』とでも言いたげにまた大きな息を吐いた。そして、怒りで震えているのであろう声で、一平への叱責の言葉を口にした。

「おどりゃぁホンマに馬鹿だなぁ!!何度もオラ達はゆうたやろ? 狸は畑を荒らす、って害にしかなんない、ってよぉ!! おどりゃぁそれを聞きもせずに……」

 そこまで言って、与吉爺は我に返った様だった。次から次へと口から飛び出そうとする譴責の言辞を呑み込み、できる限りの落ち着いた声で一平に言う。

「もうええ、お前はもう家に帰れ。あとは他の奴らと話し合う」

 一平は何も言わずに頷くと、冷たくなった狸様の遺体を抱えて、与吉爺の家を後にした。帰り際、僅かな襖の隙間から、与吉爺の手に『共同絶縁状』というものが握られているのが見えた。


 まるで氷のような狸を抱きしめながら、一平はとぼとぼと歩く。

「すいません、すいません……狸様……俺が、俺が不甲斐ないばっかりに……」

 狸様の遺体に頬擦りする。ゴワゴワとして、お世辞にも『心地がいい』とは言えない毛皮、ビー玉のように丸い瞳。硝子の様に、冷え切った体。気が付くと一平は、涙を流していた。きっと明日には自分は、共同絶縁――所謂『村八分』にされてしまうだろう。一平はかつて村八分にされた移住者達の姿を思い浮かべた。

 あるものは簀巻きにされ、身動きの取れないままに川へと流された。あるものは行方不明に見せかけて猟銃で殺された。あるものはバキュームカーの中身に埋まるようにして死んだ。あるものは、あるものは、あるものは……。脳裏に浮かんでは消える今までの村八分の被害者。気が付くと一平は――逃げ出したい。そんな弱音を吐いていた。

それなら逃げればいいじゃないか。狸様の遺体が一平に語り掛ける。

――あぁ、これはきっと俺の妄想か。

 一平はそう考えると、狸の問いに答えた。

「俺が逃げたら、他の狸様はどうなる?」


「殺されるだろうなぁ」

 ほら、みろ。一平は不貞腐れたように呟く。

「狸様は、父様と、母様、その前からず――っと守られてきたものだ。俺の代で、そんな大切な狸様を殺すわけにはいかねぇ」

 馬鹿なやつ。と、一平の腕の中の狸が嗤った。

 それから一平は、狸と言葉を交わすこともなく、黙々と道を歩いた。月はただ、そんな一平の背を、静かに照らしていた。

 

 一平が目を覚ましたのは、後日の日曜日の午前十時だった。

 憂鬱感に苛まれる体を無理やり起こし、寝間着のままで、ふらふらと外へ出る。

 そして、玄関ドアのすぐ横にあるポストを覗き込むと、中に入っている新聞を手に取り、また、家の中へと戻った。

 新聞を片手にリビングへ向かい、テーブルを見向きもせずに、新聞を乱雑にテーブルの上に投げる。ぽさん、と音がして、新聞が着地したのを横目で見ると、一平は洗面台の前に立った。

 蛇口をひねる。冷たく透明な水が、蛇口から出て来た。

 一平は、タオルの位置を右手で確認すると、その冷や水で、顔を洗った。冬だから当然なのだろうが、この時期の水は尋常じゃない位に冷たい。今月だけで蛇口が三回も凍った。

 タオルで顔を拭きながら、どうにかなんねぇもんかなぁ、と蛇口の口を指でとんとん、と突いた。


 顔に付いた水気を全てふき取ると、一平はリビングへと踵を返し、テーブルの上に置かれたやかんを手に取ると、また洗面台へと引き返した。

 中に水を入れ、コンロにやかんを掛ける。そして火を点けると、キッチンタイマーを五分後にセットし、その場で座り込んだ。

 キッチンの収納スペースの中を漁りながら、一平はふと、昨日の与作爺のことを考える。帰り際、与作爺が手に持っていた、『共同絶縁状』。あれは確かに、村八分をする、という宣言書だ。

 が、しかし。今の自分は、村八分にはあっていない……。外に出れば、それを実感するのかもしれないが、家の中に限り安全だろう。

 その時、狸小屋から、ダッターン、という轟音が響いてきた。これは……確か猟銃の音、だろうか。一平は直感すると、狸小屋へと走り出した。

 軒下に置かれたサンダルを履き、雪を踏み進み、肩で息をしながら、一平は狸を大量に飼育している小屋……所謂『狸小屋』へと向かった。

 そして、其処の様子を見て、一平は言葉を失った。

 ――狸が、数匹、死んでいるのだ。胸、頭、足、胴。そんな所から血を流し、狸達が死んでいる。

 一平は慌てて辺りを見回した。

 すると、数十メートル先に、誰かが猟銃を片手に逃げていくのが見えた。

 

 大きな背中。何処かで見たような気もする。一平は呆然とその背中を見届けた後、狸小屋の中に目をやった。

 死んだ狸の死骸を、他の狸が食べている。

 ――あぁ、これで死体の処理に困らない。一平は溜息を吐くと、軽く苛立って、狸たちの餌皿を蹴り飛ばした。餌皿は壁にぶつかって、床に落ちた。

 なんだか一平は、とても空虚な気分になった。

 一平はもうとっくに沸騰しているやかんをコンロから外すと、中に入っているお湯をさっき用意しておいたカップラーメンの容器に注いだ。

 蓋をして、キッチンタイマーをセットした後、一平は外に視線をやり、大きな嘆息を吐いた。あれもまた、村八分のせいなのだろうか。

 ――俺に何かしてくるのはまだ構わない。だが、狸様を殺すのは、どうか、どうか辞めて欲しい。そう、与作爺に訴えてこようか。一平は考える。

 ――いや、訴えても無駄だろう。村八分にされた者は、口もろくに利いてもらえなくなる。話しかけても無視されるし、手紙などを投函しても無視される。

 そういえば昔、村八分なんて辞めるべきだ、と訴えた移住者が居たな。一平は不意にその移住者のことを思い浮かべる。確かその移住者は、「昔からの習慣にケチをつけるとは何事か」と村八分にされたんだっただろうか。

 それ程までに此処の村人たちは墨守で、他の習慣や考えを否定しているのだ。

 一平はまた無意識に吐いていた。溜息を。


「あ」

 気が付くと、キッチンタイマーはもうとっくに鳴り響いていた。


 長くなったラーメンをすすりながら、一平は必死に打開策を模索した。

 どうしたら村八分から免れることが出来るか。そもそも、村八分を免れた人間なんて居るのか。そんなことを考える。

 ――せめて、せめて狸だけでも救えないか。一平は其処まで考えて、思考を停止した。

 だめだ、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに考えても、打開策は思いつかない。

 一平はラーメンを啜り終えると、その容器を机に叩き付けた。まるで波の立つ海のように、スープが揺れる。

 どんなに考えても自分の無能さ。今になって村八分の異常さに気付く自分の鈍感さ。それに一平は苛立っていた。

 一平は自分の左手側にある棚から無地の紙を取り出すと、テーブルの上に見て取れるボールペンを手に取った。

 紙の上部に、『直訴』と書き、下に以下のような文面を記した。

「直訴。私は現在、共同絶縁……いわゆる村八分、にされています。私と私の飼育している狸が悪い、というのは重々承知しております。ですが、私の狸に手を出すのは、どうか、どうか辞めて頂きたいのです。我が家の狸は、先祖代々、我が家系の人間が守り継いできたものです。私は如何様な目に遭っても構いません。ですが、どうか、どうか狸たちに手を出すのは、辞めて頂きたいのです。平平一平。」

 

 そして、その紙を封筒に仕舞うと、家の前にあるポストへと投函した。

 そのポストの前で、掌をぱん、ぱん、と、神社にでもするように叩き合わせる。

「……どうか、どうかこの手紙が、与作爺の家に届きますように」

 一平はそう祈ると、顔を上げた。周辺に人は誰一人として居ない。一平はそれを確認すると、自宅へと駆け足で引き返した。

 ポストの前には、一平の点々とした足跡が、ずっ、とつづいていた。

 

 玄関のドアを開き、一平はリビングの中へ一歩、二歩、と足を踏み入れた。テーブルの上には、冷めきってしまったカップラーメンのスープと、ボールペンがある。

 一平は何も変わらない部屋の様子に安堵した。よかった、荒らされていない。一平の当時の視界には、いつもと変わらない自宅が、映って見えた。

 ふらふらと千鳥足になりながら、一平はテーブルの横に置いた椅子に、腰を下ろした。その時である、一平の鼻孔を、血腥い謎の臭いが通り抜けたのは。

「……ンだァ? この臭い……?」 

 間髪入れずに椅子の上から立ち上がった一平の脳裏に、今朝、狸小屋で見たあの光景が蘇る。

 ――もしかしてこの臭いは、血の香り、だろうか。

 一平は狸の身を案じながら後ろを振り返った。そして、言葉を失った。 

 

 ――其処に在ったのは、生首、であった。家畜の、それも丑の、生首――であった。

 一平はいつの間にか自分が安堵の息を吐いている、ということに気が付いた。これが、狸でなくてよかった、と自分が考えている、ということにも気が付いた。

「……なんだよ、それ」

 ぽつり、と一平は唱える。

 自分のせいでこんな幼気で可愛らしい豚が殺された、というのに、自分はそれを悲しむどころか、あろうことかその生首を見て安心している。

 一平は、腹を立てた。動物の死を安堵した自分への悲憤慷慨。そして、動物たちをこんな目に遭わせた犯人への憤り。一平は断面から血の流れる豚の生首を抱き上げると、軒下から庭に降り、その中心に大きな穴を掘った。

 そして、その中に豚の生首を入れてやった。

「……ごめんな、俺のせいで」

 昨日も言ったような気がするその台詞を反芻し、此方を睨み付ける豚の顔に、ショベルでそ、っと土を被せた。

 

 一平はその日、晴れない気分のままで布団に籠った。明日からこんなのこともなくなるだろうか、という希望と、もしかしたら明日には、もっとひどいことがされているのではないだろうかという不安でなかなか眠れなかったが、午前〇時を回ったころ、一平はすっかり寝付いていた。


 鳥の優しい囀りと、虻の飛びまわる喧しい音で、一平は目を覚ました。

 閉め忘れた窓の淵に鳥が止まっている。鳥たちは外を見ながら、チュン、チュン、と優しい声を挙げている。

 一平がそのほほえましい光景に頬を緩めたその瞬間、鳥たちは一斉に外へ羽搏いていった。きっと、一平の視線に気が付いたのだろう。

 一平はその鳥たちの痕跡を暫し見続けた後、次は虻の飛びまわる音に意識を集中させた。

 ブ――――ン、という喧しく、けたたましい音。この音からして、一匹ではなく二匹、三匹……少なくとも七匹は居るだろう。

 なんてったってこんなに沢山虻が? 一平の脳裏に浮かんだそんな疑問は、次の瞬間、解決されていた。

 窓から覗く、巨大なバキュームカー。あ、という声が自然と一平の口から洩れる。

「発射ァァァァァ!!!!」

 誰かのそんな叫び声と共に、一平の鼻を撫でる、悪臭。そして、ドドドドドドドドド、という轟音が、一平の耳を貫いた。


 ――バキュームカーを逆流させ、俺を生き埋めにしようとしている。

 一平がそう察知するのに、そう時間は掛からなかった。

 

 考える間もなく、一平は窓から飛び出していた。此処は二階だから、着地に失敗しても、大怪我にはならないはずだ。だんだんと近付いて来る地面を呆然と眺めながら、一平はそんなことを考える。

 

 地面が来る。顔面に、足に、地面の気配が近付いて来る。一平は思わぬ恐怖に、一平はぎゅっと固く目を閉じた。


 ――――ボサン。

 そんな音を鳴らしながら、一平は地面へと着地した。玄関の方角を見てみる。

 其処には、与作爺、そして数人の若者が、一平の家の玄関にバキュームカーの噴射口を付け、何かをしている。いや、何かではない――あいつ等は、俺の家に、バキュームカーの中身を噴射しているのだ。一平はそう考えるが否や「……逃げなきゃ」そう呟いていた。そして、一平は走り出した。

 両親との思い出が詰まった家が。他人の糞尿に埋もれ、破壊されていく。雪に脚を取られて上手く走れない。一平は肩で息をして、必死で逃げた。

 何度も、何度も転げそうになった。その都度振り返ってみたが、与作爺達は全く気付かず、家の中に排泄物を噴射し続けている。その姿ははたまた気狂いのようだ、と一平は感じる。

「おーい!!! 一平!!!!」

 突如聞こえて来たその声に、一平はびくり、とした。何処か聴き慣れた、柔らかく、爽やかな声。

 一平は、もしかしたら与作爺の仲間だろうか、などとどぎまぎしながら顔を上げた。

 そして、ほっ、と安堵の息を吐いた。 

 数メートル先に居たのは、森崎陽、であった。一平の先輩で、陽という漢字が恐ろしい程に似合いすぎる男。

 一平は、自分で自分が笑みを浮かべている、ということに気付かなかった。それでも一平は、明るい笑みを浮かべながら、手がはち切れんばかりに激しく森崎に手を振る。何度も、何度も手を振る。

「一平!!! 此処まで来い!! 俺が匿ってやるから!!!」

 森崎のその大きな声に、一平は首をぶんぶん、と縦に振った。

 助かった、という安心感からか、一平の目から自然と涙が零れ落ちる。鼻水が垂れて来た。それらを一切気にせず、一平は涙で顔をぐちゃぐちゃにして、森崎の元へと駆け寄った。

 この人なら、信頼できる。この人なら、信頼できる。あの村人たちとは、この人は違う。一平はそう呟くと、森崎の広い胸へ飛び込んだ。

「こわかっただろう……まだこんなに若いのに……与作爺さんもひどいことを……」

 自らの胸でわんわんと声を挙げて泣きわめく一平の頭を撫でながら、そう呟いた。

「俺の家は其処だ、とりあえず俺が暫く匿うから、お前はゆっくりしとけ」

 森崎のその言葉に、一平は何度も、何度もうなずいた。


 森崎の家は、彼の両親が遺産、として彼自身に遺してくれたものらしく、そしてそれは囲炉裏のある、昔ながらの古民家、といった雰囲気の家、であった。

 水道と電気は通っているらしいが、ガスが通っていない。台所は薪を使って火を出さなければならないし、風呂なんて交代で火の番をしなければいけない。

 部屋は茶の間と寝室の二室のみ。布団は薄っぺらい煎餅布団が二枚だけ。

 傍から見れば不自由な生活だっただろう。それでも、一平は、怯えずに暮らせる今の環境に、満足していた。

 


 ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん……。水の滴る音。

 一平は蛇口を固く締めると、くるり、と踵を返した。


 現在は、草木も眠る丑三つ時。一平は、壁に掛かって居る古時計を見ながらそう口内で唱えると、厠のドアを開けた。

 今が夏、ということもあってか、近頃よく腹を壊すなぁ。一平はぎゅるるるる、と鳴る腹を擦りながらふぅ、と息を吐いた。

「……狸様は、無事、だろうか」

 不意に口を点いて出た言葉に、一平ははっ、とする。 

 近頃気が付けば、あの家に置いてきてしまった狸の事ばかり考えている。

 もしかしたら餌が尽きて、飢えているのではないか。もしかしたら、あの時バキュームカーから逆流してきた排泄物に埋もれて苦しんでいるのではないか。もしかしたら、村人たちに虐待されているのではないか。もしかしたら……、もしかしたら……。

 そんなことを考えていてはキリがない。一平は靄が掛かったように暗い自分の脳をリセットするため、ぶんぶん、と頭を横に振った。

 

 何かもっと明るいことを考えよう。一平は自分、という青年について考えることにした。

 では、自分はどんな人間なのだろうか。ぺらっぺらで薄っぺらい、平らな人間なのだろうか。それは確かに合っているな。一平は苦笑する。

 

 そんなことを考えている内に、腹痛はすっかり収まり、代わりに一平の脳には、また暗い靄が掛かってしまった。

 ぎこちない動きで、一平は寝室へ引き返す。

 厠を出てまず直進。突き当りを左へ曲がり、そこにあるドアを開けたら寝室。

 いつかに森崎から教わった道順を唱え、一平は森崎の自宅を徘徊した。

 

 直進。お世辞にも広い、とはいえない廊下を。

 突き当り。壁に空いている穴を無視し、左側のドアを開く。


 其処には、森崎と自分の布団が並ぶ、無機質な寝室がある筈だった。

 しかし、目の前に広がるのは、多種多様な種類が取り揃えられた猟銃と、様々な動物の剥製が並ぶ、不気味な部屋、であった。


 一平は、森崎を怪しむよりも先に、恐怖を感じるよりも先に、なんだこの部屋は。と疑問に思った。

 なぜなら一平は、森崎にこんな部屋の存在を知らされていなかった。突き当りの右側にある部屋は物置となっていて、ドアを開けた瞬間、物が雪崩の様に流れ出てくる危険な部屋だ、と聞いていたからだ。一平はおずおずとその部屋に踏み入った。

 一歩、二歩。歩を進め、この部屋の中にあるものをまじまじと観察する。

 

 鹿の剥製、一平の腕程はあるであろう猟銃。猪の剥製、赤さびの目立つ猟銃。熊の剥製、ピカピカと輝く猟銃。

 それらの剥製と様々な猟銃を、まるで博物館で絵画や彫刻でも見るかのような動作で一平は閲覧した。そして、とある剥製の前で目を留めた。

 それは、狸の剥製だったからである。その狸には見覚えがあった。足に傷を負っている。かなり前、与作爺に捕らえられ、殺された狸ではないか。

 一平はふらふら、と後ろによろめいた。一平の細身な身体が壁に激突し、一本の猟銃が床へと落ちた。

 なぜ、なぜこの狸が此処に居る? なぜ、こんなところにある? あの時、自分は確かに……。

 其処まで考えて、一平の思考はフリーズした。

 ――訳が、分からない。

 そう一平が口内で唱え、その場に座り込んだのとほぼ同時期に、この部屋のただ一つのドアから、ガチャリ、という重苦しい音がした。その音を聞いた途端、一平の身体はぶるり、と震える。

 一平ははっとした様に音の元を見ると、そこには、そこには――、不機嫌に顔を歪ませる、森崎が、居た――。


 ――その日、三月九日。警察官、戸田与四治(トダ ヨシハル)は、集落内唯一の駐在所に居た。

 時刻は、午後〇時。暖かな日の差す、穏やかな春の日。『それ』はやって来た。

「もしもし? こちら、松山駐在所ですが……、どうしました?」

 与四治は何十回、何百回と言ったその台詞を受話器に向けて言い放つと、首を傾げ、受話器を肩と顔の間に挟むと、半開きになっていたデスクを見た。

 そして、空いた右手でボールペンを、元から空いていた方の手でメモ帳を取ると、意識を受話器から漏れ出る音声に集中させた。

 受話器からは、人の声は一切合切聞こえてこず、代わりに、がた、どごっ、という鈍い音が聞こえて来るのみだ。悪戯……だろうか? 与四治がそう勘ぐった時、その直前まで受話器の向こうで鳴っていた打撃音が止み、代わりに息も絶え絶えな男の声が、聞こえて来た。

「……助け、助けて――ッ、一平が、一平があっ!!!」

 ――悪戯では、ない。そう判断した与四治は、受話器の向こうに居る人物に呼び掛ける。

「大丈夫ですか?! 何が……何が、起きているんです? そこで?!」

 しかし、どんなにどんなに待っても、与四治がした問いかけへの答えは、帰って来なかった。代わりに、受話器の向こうから、「ぐぐぐ……ぐぐ」という、先程の人物の苦しそうなうめき声が聞こえて来る、のだった。

「うっ……がぁ……がぁ……ぐぐっ」

 そんな声が聞こえてくる。だというのに、与四治は、一切動けずに居た。どうすればいいのか、分からない。何より、何が起きているのかが、分からない。

 与四治がそんなことを考えながら間誤付いていた時、プッツン、という、まるで絹の糸を手で千切った時のような、そんな音が受話器から聞こえて来た。それと同時に、さっきまで重苦しく与四治の耳に響いていた呻き声がぴっ、たりと止んだ。そして、ツーツー、という音が、与四治の耳を撫でた。


 そのまま与四治は、その場から動けなかった。

 何が起きたのか、何処で起きたのか、誰が起こしたのか。それを必死で考えようとするも、脳がそれを拒否する。

 どうすれば、自分は、一体全体どうすれば、どうすれば、いい――? 与四治は、ツ――ツ――と機械音を垂れ流す受話器を耳に当てながら、それを必死に考えた。

 本部に連絡して、逆探知、とやらをやってもらおうか? 集落にある家一軒一軒訪ねて、住人の安否を確認して回ろうか? それとも、見なかったことにしようか?

 どんなに、どんなに考えても、名案、といえるような案は出ない。

 

 それから数分後、与四治は、自転車に跨っていた。電話の向こうに居た人物が発した『一平』という名。一平と言えば、集落に、『平平一平』という青年が住んでいた筈だ。

 その青年の家を訪ね、青年に話を聞けば、さっきの通報が嘘なのか、本当なのかが確認できるではないか。一平はそう考えながら、自転車を漕いだ。漕いで、漕いで、漕ぎ続けた。

 

 一平の自宅、に近付くにつれて、与四治は吐き気を催す程の異臭を感じていた。糞尿が織り交じったような、そんな異臭を。

 ――ここは田舎だから仕方がない。きっと、バキュームカーの中身が逆流でもしたのだろう。

 与四治は一度自転車を止めると、古びた鞄の中から集落内の地図を取り出し、広げた。

 田んぼ、畑、古い民家、スナック『たぬき』。それらをすり抜けていった先に、平平、という家があり、其処が一平の自宅である。そのことを確認すると、与四治は地図を四つ折りに戻すと、また鞄に戻し、自転車を漕ぎ始めた。


 ――これは、可笑しい。

 与四治は、だんだんと一平の自宅に近付くにつれ、だんだんと強くなる異臭を感じながら、そうぽつり、と呟いた。明らかにこの臭いの度合いは、バキュームカーを誤って逆流させてしまった、というようなものではない。故意に何かにバキュームカーの中身を拭きかけている、としか考えられない。

 そう考えた時、与四治の脳裏に、ふと、就任したての頃、先輩警察官から聞いた話を思い起こした。

 

「この村ではまだ、村八分が残っているから、気を付けなさいよ」

 そう、先輩警察官こと博一は、まるで独り言のように言うと、お茶を一口啜った。

「村八分ン?」

 口をあんぐりと開き、そう反復する与四治。村八分、といえば、映画や小説などでよく出てくる、ひとつの村で、ひとりの人間に集団で嫌がらせをしたり、共同で無視したりする、あれ?

 呆然と博一の事を見る与四治のことを、細い目でじっ、と寡黙な瞳で見返した。

「あぁ、村八分だ。お前は移住者だし……気を付けた方が良いぞ」

 それっきり博一は何も語らなかった。与四治は与四治で博一の言っていたことを冗談だと思っていたし、博一は博一で、これ以上語ったら命が危ない、とでも思ったのだろう。

 

 それから五年経ったが、村八分、について、与四治は一切知らなかった。村八分にされた人間がこの村に居る、ということも知らなかったし、村八分にされたこともなかった。

 村八分の被害者がされた、という嫌がらせの中に、『敢えてバキュームカーを逆流させ、中に入っている糞尿を家の中等に円満させる』という物がある。

 ――もしかしたら一平は、それをやられているのではないか?

 鼻が曲がりそうな程の悪臭に耐えながら、与四治はそんなことを考えた。

 だとしたら、あの通報はいったい何なんだ? どんなにどんなに考えても、答えは一向に出ない。 

 与四治は、ごちゃごちゃとこんがらがる思考を一度放棄し、目の前にある自転車をこぐことに集中した。

 行けばわかるさ、行けばわかる……きっと、きっと……。そんなことを、呟きながら。


 そして、一平の自宅に辿り着いた与四治は、其処に広がっている光景に愕然とした。

 其処には確かに、『平平』という民家があった。――しかし、その家は、糞、尿、様々な排泄物に埋もれ、全く外観という外観が見えず、そこにはただ、『家』があったのであろう痕跡と、糞尿の山、その二つのみがただ、存在していた。

 与四治は、少しよろめきながら、平平邸の玄関へ向かうと、其処に位置するチャイムを、指で押した。

 こんなことをしても無駄だ何の意味もない。確かに与四治はそのことを分かっていた。が、身体が認めようとしない。――今の与四治は、そんな状態に陥っていた。


 案の定、いくら待っても返事はなく、与四治は途方に暮れた。

 一度駐在所に引き返し、本部に連絡を取るべき、だろうか。それとも、隣人や近所の人間に、一平のことを聞いて回ろうか。

 自転車に跨りながらそんなことを考える与四治は、ふと、自分の居る位置から数メートル先に、人影を見た。

 その人影は肌色の何かをまるで遺骨でも抱えるように大事そうに抱えて、こちらをじっ、と見つめている。

 与四治は、じっ、と目を凝らした。あの人影が持っているものが知りたい。そんな一心で。

 しかし、どんなにどんなにどんなに与四治が目を凝らそうと、その人影の正体は判然としない。

 与四治は自転車を漕ぐと、だんだんと近付くその人影を見た。

 そして、その正体に茫然自失した。


 その場所には、『首のない死体』があった。椅子に座らせられ、自分の首を大事そうに抱えた、首無し死体が、あった。

 与四治は、訳が分からない、と。この村で一体全体何が起きているのだ、と。心の底から感じた。

 

 一平は、まるで蛇にならまれたカエルの様に、その場から動けなかった。

 森崎はその大きな瞳を不機嫌気に細めながら一平のことを睨み付けている。どう弁明すれば。どう誤魔化せば、いいのだろうか。一平はあたふたとする。

 そんな中、静寂を切り裂いて、声を挙げたのは、森崎の方だった。

「――お前……、ここで、何しよった?」

 核心を突く森崎のその問い掛けに、一平の心臓はどくん、と高鳴った。

「厠の帰りに迷って……ここに来たんです。そしたら……猟銃とかあったし、気になって……その……」

 どもりながら返答する一平に対してか、森崎は大きく歎息した。その直後、入り口に最も近い位置にある猟銃を手に取ると、ポケットの中から弾を取り出した。そして、ガチャリ、と音を出して猟銃の中にその弾を入れると、一平に、猟銃を、向けた。

「ごめんなぁ、一平。お前の狸……数匹殺したの、あれ、俺だ」

「お前のこと村八分にしないと、俺の方があぶねぇからよぉ……」

 何故か一平は、はは、と乾いた笑みを浮かべていた。状況が呑み込めない。

 一番信頼できる、優しい人。森崎陽。その正体は、他の村人と同じで、我が身可愛さに人のことを削除しようとしてくる、悪人だったのか? いや、だとしたら、なぜ森崎は自宅を追われた自分を匿ってくれた? 何で? 

 愕然とする一平の心を読んだ、というように、その疑問の答えは、森崎の口から直接発せられた。

「あのなぁ、お前……ほら、女の子みたいだろぉ。可愛いし、傍に置いておいたら損はないかなー、と思ったんだよ」

「でもなぁ……お前、それに気づいちゃったかぁ……残念だったなぁ……」

 扉を間違えた自分を恨めよ、そう言って森崎は笑みを浮かべ、引き金を持つ指に入れる力をぐぐっ、と強めた。

 ――逃げなきゃ。

 そう何度も、何度も何度も何度も何度も何度も、一平は小声で念じた。しかし、足はガタガタと震え、動かせるような状態ではない。上半身も、恐怖で硬直してしまい、一寸も動かせない。

 

 ダッ、ダ――ン

 一平が身体を動かせたのは、そんな音が鳴った丁度その時、であった。

 一平はしゃがみ込み、頭を手で覆いながら、森崎のことを睨み付けた。森崎は表情を一切崩さず、いつものように爽やかな笑みを浮かべている。

 それを見た瞬間、ありきたりな表現ではあるが……、一平の中で、何かが、斬れたような、感覚がした。


 一平はキョロキョロ、と辺りを見回すと、その場にあった、狸の剥製を手に取った。そして、それを思いきり、森崎の頭めがけて投げつけた。それらは回転を加えながら森崎の元まで飛んでいき、森崎の頭に、当たった。

 森崎が悲鳴にもよく似た呻き声をあげながら蹲る。それを見た一平はここぞ、とばかりに森崎に飛び掛かった。

 狸の剥製を拾い上げ、森崎の上に馬乗りになる。

 そして、顔を抑え呻き声をあげる森崎の顔面目掛けて、何度も、何度もそれを振り下ろした。何度も、何度も、何度も、何度も。

 

 打撲した回数が五十回を超えてもなお、森崎は生きていた。

 森崎の生に対する執念がすごいのか、それとも、自分の力が弱いのか。

 ――おそらく、後者だろう。

 そう判断すると、一平は森崎の身体の上から降りた。そして、何か確実なものはないか、とビクン、ビクン、と痙攣する森崎を横目に、何か武器を漁った。


 ハンマー、出刃包丁、ピアノ線。

 何でこんなものがあるのだろうか。一平は首を傾げた後、その武器一つ一つを選別した。

 ハンマー、これは駄目だ。重くて、仮に反撃されたとき、素早く抵抗することが出来ない。

 一平はハンマーを工具箱の中に収納した。

 

 出刃包丁。一見手軽で楽なように見えるが、これも駄目だ。一撃で殺してしまう可能性がある。これでは森崎が犯した罪と見合わない。

 一平は出刃包丁をキッチンの戸棚の中に収納した。

 

 ピアノ線。それを見た瞬間、一平の瞳はきらり、と輝いた。尋常じゃないほどの痛みを森崎に与えることが出来るし、何より軽いから力の弱い自分でも扱える。一平は纏められたピアノ線を片手に、さっきまで森崎の居た場所へ嬉々として引き返した。

 ――が、そこに森崎は居なかった。さっきまであれほど弱っていたのに……。ほぉ、と感嘆の声を挙げると、一平は床を見つめた。

 まるで引き摺られたのかの様に、血の痕が外の部屋に向かって続いている。

「這って――行ったのかな」

 そう呟いた後、一平は都市伝説のテケテケ、を思いだし、一度吹き出すと、また狸の剥製を手に取ると、それで壁を打ちながら、血の痕を辿った。

 痕跡は、寝室を通過し、茶の間へと向かっている。


 茶の間に踏み入った一平は、森崎の姿を視線で探した。まだ朝になっていないからか、室内は薄暗い。

 ――こりゃあ、視覚は頼りにならないな。

 一平はそう見切りをつけると、目を閉じ、周囲の音に耳を澄ました。

 ぶつ、ぶつ、と、押し入れの向こうから森崎の声が聞こえる。

「……そこですかぁ、森崎さぁん」

 どん、どん、と押し入れの戸を剥製で二回たたいた。がた、っ、がたがた、とそれに反応した様に戸が揺れる。

 ふふ、と笑みを零すと、一平は押し入れの戸を開き、ピアノ線をぴん、と張らせた。そして、一平に背を向け、壁に向かって何やら言葉を発する森崎の首に、ピアノ線を巻き付けた。

 そして、何が起きているのか分からず震えている森崎に巻き付けたピアノ線を握る力を、ぐぐっ、と強めた。森崎の首に、だんだんとピアノ線が喰い込んでいくのが分かる。ぐいぐい、ぐいぐい、ぐいぐい――。一平は自らの指に喰い込んでいくのも気にせず、夢中になって森崎の首を絞めた、絞め続けた。


 しかし、森崎の首が千切れてしまったことで、その作業は中断せざるおえなかった。ドバドバと、首と首の断面からあふれ出る血液。

 顔にも掛かるそれを袖口でぬぐい取ると、一平は、森崎の首をつかみ取ると、その苦悶の表情をじっ、と眺めた。

 こいつは、自分を騙し、欺いていた。自分の信頼を利用して、内心嘲笑っていた。一平は森崎の頭部を睨み付けると、近くにある椅子の上に、それを一旦置いた。

 そして、暫し名乗り惜しそうにその椅子を見つめた後、森崎の家から出た。

 頭の中を絞めるは、あの自宅を汚物まみれにされたあの日、家に置いてけぼりにした狸たちのこと、ただそれだけだった。

 警察に捕まるかもしれない、という恐怖は一切なかった。ただ、もしかしたら狸がひどい目に遭わされて居るのではないか。それだけが心配だった。

 

 一平はかつてこの家に来たように、雪を踏み越えて、自宅へと向かった。自宅に近付くにつれて、だんだんと強くなる異臭に、一平は危機感を覚えていた。

 自分が森崎の家に来てから十二日間。仮に、狸たちが他の狸たちの死骸を食べてたとして、もって七日程。狸たちは今、飢えているのではないか。もしかしたら、共食い、という、恐ろしい行為を行っているのではないか。もしかしたら……もしかしたら。

 そんなことを考えている内に、一平はかつての自宅……汚物の城、に辿り着いた。

 一平は息を切らしながら狸小屋へ向かうと、目の前にある、赤錆びた扉を開いた。


 幸い、狸小屋の内部は、汚物に侵食されてはいなかった。汚物による被害は、皆無だった、と言えるだろう。

 ただ、それはあくまで――汚物による被害は――という話、である。


 一平が扉を開けた時――もうそこに、生きている狸は一匹として居なかった。

 胸、足、頭……様々な所から血を流し、ぐったり、と倒れている狸が、其処に居た。


 一平はいつだって、狸とともに育ち、狸のために生きてきた。


 一平は、森崎に対する怒りに震えた。何故なら、狸の身体に付いている傷跡は、かつて、森崎に射殺された狸たちの身体に付いていた傷跡と、全く同じだったからだ。

 ――あの卑劣な男め。

 死んでいる狸たちもそのままに、一平は踵を返した。向かう場所は、森崎の自宅、ただ一つ、であった。

 

 一平は森崎の遺体と生首をリヤカーに乗せて運ぶと、それを、庭に置いていた椅子の上に座らせた。ただ置くだけではつまらないので、胴体に首を抱きかかえさせる、という方法を取った。

 

 それらの作業を終えた後、一平は何故か、嗤っていた。これでもう、失うものは何も ない。両親が遺してくれた自宅も、家宝である狸も、信頼できた友人も、なにもかも。


 ここの村人たちに、復讐してやろう。

 一平はそう決意すると、ふら、ふら、と、まるで酔っ払いのような動きで、歩き出した。

 向かう場所は――村八分を他の村人たちに持ち掛けた、あの男……与作爺、の家。


 与四治は、その遺体を見て、自分がどう行動するべきなのか、解らなかった。

 首のない遺体。静まり返る周辺。積もっている雪。

 そんな状況が数分続いた時。与四治の背後に、糸を張ったような、そんな音が聞こえて来た。


 一平は何度も転げながら、与作爺の家の前までやって来た。

 手の中にあるピアノ線を強く握りしめる。

 一平は、玄関のチャイムを鳴らしても、与作爺は素直に出てこないだろうな、と考えた。

 与作爺は近所でも有名な偏屈爺さんだ。チャイムを続けて十回。一秒以上の間隔を開けずに鳴らすと出て来るらしいが、そんな面倒な事はやってられない。

 そう考えた一平は、与作爺家の周りをぐるっ、と一周した。

 開いている窓はないか。鍵がなくても入れそうな勝手口などはないか。それを捜し歩いてた一平は、与作爺の家の丁度裏で、足を止めた。

 台所にあるベランダが、開きっぱなしになっている。

 きっと、こんな偏屈爺さんの家に泥棒に入る人は居ない、と踏んだうえでの開放なのだろう。

 一平はふふ、と笑い、そのベランダから頭だけを与作爺の家に居れた。

 そして、まるで交通安全に注意を払う小学生のような動作で右、左、と辺りを見回すと、与作爺が中に居ない、ということを確認し、家の中に入っていった。


「よさーくーはきをーきる、ヘイヘイホー、ヘイホー、ってね」

 そう口ずさみながら一平は、与作爺を捜した。与作爺は無色だから、仕事に行っている、という訳ではないだろう。友達もあまりいない方だから、友人の家に遊びに行った、という訳でもなさそうだ。

 一平は足音を殺して一階から二階へと上がり、一つ一つのドアを開き、其処に与作爺が居るか居ないかを確認した。

 しかし、どんなに、どんなにどんなにどんなに探しても、一向に与作爺は見つからない。

 そのことに苛立って、一平が大きな息を吐いた。その時だった。

 二階の隅にある部屋から、「台吉か?」という、与作爺の声が聞こえて来たのは。

 台吉、というのは与作爺の息子、だったような気がする。がっしりとした体立ちのくせに、声が甲高く、小動物などの可愛らしいものを好む、そんな青年だ。

 なるほど、俺と、あの台吉を間違えてやがるな。一平はしめた、と思い、声をできる限り高くした。

「あぁ、父ちゃん。俺だ、台吉だ……」

「そうかそうか、台吉か。今父ちゃんは部屋で焼き芋をしているから、こっちへおいで」

 そう自分を誘うその猫撫で声に「分かった」、と返事をすると、一平はピアノ線をポケットから取り出した。

 そして、そぉっ、と襖を開いた。

「父ちゃん……なーんてね」

 一平はそう言うと、唖然とする与作爺に飛び掛かった。じたばたともがく与作爺を抑え込み、ピアノ線を首にめり込ませて行く。

 何度も、何度も与作爺はもがいた。暴れた。抵抗した。しかし、所詮は老人だ。村の中で少しばかり威厳がある、というだけで、ただの老人だ。まだ若い一平に敵う筈がない。

 一平は与作爺の喉から血が噴き出すのを見届けた後、与作爺の上から降りた。

 テレビで見たブラッド・シャワー、というのとよく似てるなぁ、と一平は感じる。

 

 そして一平は与作爺の遺体を起こすと、その首にピアノ線を回し、力を加えた。

 ぶち、と、森崎と同じように与作爺の首が取れる。何となく一平は、与作爺の首のない遺体を近くの椅子に座らせると、その胸に首を抱かせた。これで森崎と同じだ。

 一平は、視界をふさぐ与作爺の血液をまた袖で拭い取り、一階へと下りて行った。

 

 その時、であった。仕事から帰って来たのであろう台吉と、血塗れの一平が顔を合わせたのは。

 唖然とし、あのとき、森崎に狙われたあのときの自分のような表情を浮かべる台吉。

 一平はほくそ笑むと、ピアノ線をピーン、と張らせた。



 一平は、それから何人も殺した。

 隣人、職場の同僚、工場長、近所の駐在所のお巡り。村八分に関わってそうな奴らは、殺しては、首を取り、抱かせてやった。

 特に意味はない。ただ、その方が、一平が行った一平とその狸のための復讐だ、ということが解り易いか、と思ったからだ。


 二十二人。一平は二十二人目、の男の死体を処理したとき、殺された狸の頭数と、殺した人数が合致する、ということに気が付いた。

「そろそろ、辞め時、だろうか」

 一平はぼんやりと呟いた。ここの集落は山に囲まれている。移住者だって滅多に来ないし、旅行者、他県の人間が来ることは滅多にない。

 じゃあ、自分の逮捕はまだまだ先か。一平はふぃ、と大きな息を吐いた。

 逮捕され、死刑になりたい。十二人目の女を殺した時、一平はそう考えるようになった。

 死んで、天国に行けば、狸たち、父と母に、会えるだろうか? 一平は男の自宅。遺体のすぐ傍でごろり、と寝転がると、そう天井のシミに向けて問い掛けた。

 そのシミはどこか、いつか与作爺のせいで死んだ狸の顔によく似ている。

 天井のシミは答えた。

「はぁ? 何言ってるんだお前。お前が天国に行けるはずないだろう。お前は地獄に堕ちるんだよ、じ、ご、く」

 そうかぁ……。と一平は呟く。そして、体を起こすと、その場で蹲った。

「死ぬのは、いやだなぁ……」

 天井のシミは、お前は何を言っているんだ。とでも言いたげな顔でこちらを見ていた。


 一平は、人を殺すにつれて、自分の精神が可笑しくなっている、ということを、何となく理解していた。

 それでも一平は、人を殺すのを辞めなかった。何が、一平の怒りをそこまで膨張させたのか、今だ確かではない。 

 信頼できる筈の仲間に裏切られ、家族との思い出を奪われ、自らの拠りよりどこを殺され。そのどれが一平の心を破損させたのかは分からない。


 ただ、一平はあることを決意していた。

 明日、海で泳ごう、と。

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