遥かなるロープウェイ

菊郎

遥かなるロープウェイ

 秩父の奥深くに山があった。

 荒々しい山肌に急な斜面、見通しにくい山中は、訪れる登山者をことごとく拒み、近年はロープウェイが敷かれたこともあり、歩いて登る者は長くいなかった。最初こそ人の手が入っていた登山道は雑草で埋め尽くされ、獣道という言葉がふさわしい惨状であった。敬遠されてもおかしくない。だが、山頂から見える眺めは全国でも指折りという噂で、ロープウェイは日々忙しなく客を運んでいた。

 その山の麓の近くに置かれたベンチに、立花源次郎は腰かけていた。乱れた息を整えると、ステンレス製の水筒から茶を飲んだ。くるまれたラップを取り払い、焼き鮭の入った握り飯をひとつ頬張った。帽子を脱ぎ、額や真っ白な頭に浮かんだ汗をタオルで拭う。しばらくすると彼は立ち上がり、帰宅した。彼は、確かな手応えを感じていた。

 源次郎は、明朝四時ちょうどに目が覚めた。桜の蕾こそ芽吹き始めたが、若干の寒さの残る室内では暖が欠かせない。机の右に置かれた石油ストーブを点け、椅子に座って小説を読みながら、体が温まるのを待った。

 六十七歳の体に、老眼鏡は不可欠だった。だが、素直に老眼鏡をかけて読書をしている自分の非力さに、心底腹が立つ。よく考えてみると、目が悪くなる癖に遠くの物は割りと見えるのは奇妙だ。なぜ、遠近両方とも悪くならない。それならばいっそ諦めて、老眼鏡に頼るものを。老化が人間をなぶって楽しんでいるのだ。忌々しい。

 時折そう思っては老眼鏡を取っ払い読書を試みるのだが、数分と経たずかけ直すのが関の山だった。

 寝室を出て台所へ向かうと、手短に朝食を済ませた。源次郎はスマートフォンで今日の天気を確認した。降水確率はゼロパーセントで、天候は晴れだ。源次郎は満足げに頷き、用意した服に袖を通した。

 呼び鈴が鳴り、源次郎は玄関へ向かった。ドアを開けたさきには、新聞配達員がいた。二十代半ばの、健康そうな男性だった。人懐っこい顔が微笑み、

「立花さん、おはようございます」

「おはよう」

 源次郎は配達員から新聞紙をもらい、

「いつもご苦労さん」

「それはこちらのセリフですよ。毎日早く起きて、身体に障ったりしませんか」

「逆だ、逆。むしろ調子がいい」

 そう言って、彼は右肩を勢いよく回して見せた。

 世間話に花を咲かせていると、遠くの山から太陽が顔を覗かせた。ふたりは目を細めながら、眩い光を見つめた。

「お天道様とともに寝起きをする。長生きの秘訣だ」

「平成生まれには無理ですね」

「老体に知恵を拝借してはどうだ」

「もう長話はしないと誓っていただけるなら」

 源次郎はにんまりと笑った。

「喜べ、今回は無理だ」

 男は源次郎の身なりを見た。

「そういえば、今日はずいぶん着込まれていますね。いつものジョギングですか」

 源次郎は西を指差した。荒々しい山肌が、朝日を一身に浴びている。

「あそこに登る」

「にしては重装備のような」

「そりゃそうだ。登山だぞ」

 配達員は、はっとした顔つきで源次郎を見た。

「え、歩いてですか」

「もちろん」

「馬鹿な」



「念のため、社内で情報を共有しておきます。知人の死亡記事なんて読みたくないですからね」

 配達員はそう呟くと、バイクに跨り去っていった。

 源次郎は自宅を出た。道路に沿って目的の山を目指す。ただでさえ人の通らない近辺の道路には、鳥のさえずりばかりが響く。耳を澄まそうが、エンジン音も、人の喧騒もまるで訊こえない。まだ午前六時である。

 二十分もすると、登山道の入口を示す鳥居に着いた。昨日源次郎が座っていたベンチが、朽ちかけた鳥居の右手前に置かれている。門の先に見えるのは、好き放題に伸びた草。名ばかりの登山道からはずれると、背の高い樹林が鬱蒼と茂っていた。視界は澄んでいる。振り返れば、舗装された道路とガードレールを挟んだ眼下には深い森林が広がっていて、東一帯を、家々が埋めていた。街から少し南へ下ると、源次郎の家が、小さく見える。

 源次郎の家はログハウスである。四十七年にわたって務めた建築業から身を退いた際に手に入れた金のほとんどをつぎ込んだ。

 退職して間もなく、妻は彼を遺して旅立ってしまった。彼は呆然とした。涙は出なかった。悲しくなかったわけではない。信じられなかったのだ。

 息子夫婦の家に移ってからは、酒にも賭け事にも溺れなかったが、愛らしい孫と時折遊んでは、一日の大半を、縁側に座ってただ空を見つめることに費やした。そんな日々が、一年以上続いていた。

 気の毒に思ったのか、息子の正嗣まさつぐは「自然に触れてみては」と言った。源次郎は微笑み、

「そうさな。それもいいだろう」



 源次郎はリュックを背負い直し、鳥居を潜った。吐く息はかすかに白かったが、麓に来るまでの運動で、体は十分に暖まっていた。

 三十分ほど登ると、源次郎の額からは汗が流れてきた。しばらくは、緩やかな斜面が続く獣道同然の道を登った。

 秩父に住み始めたのが五年前。源次郎はかねてからこの山に挑戦したがった。というのも、この山の登山道は険しいと有名だったからだ。彼は登山家ではない。ただ、難しい、危ない、と言われるものに挑むのが好きだった。気ままな年金生活は、彼にとってはあまりに退屈だった。

 暇な時間を見つけて近所をジョギングし始めてから三年が経ち、ようやく源次郎は例の山に挑むことを決めた。

――ここまでは順調だが。

 そう思いつつ見つめるさきには、源次郎の腰ほどにも届きかねない岩があった。亀裂からは雑草が伸びていて、その奥には別の岩が立ち塞がっている。迂回しようにも、左右の杉林と、踏み外せばどこまでも転がっていきかねない急斜面があっては無理だった。長方形の朽木に、細長い棒状の木が散らばっている。昔は階段だったのだろう。相変わらず辺りは、水を打ったような静けさだった。

 源次郎は深呼吸すると、岩の縁に手を当て、思い切り地面を蹴った。

「ふっ」

 老体が浮き、右足が乗った。唸り声をあげながら、そのまま体を横ばいにして登り切った。

「ああ、くそ。腰に響く」

 そのまま、二段目も乗り切った。

「よし」

 果てなく続く登山道を逸れ、源次郎は傾斜の緩い斜面に生えていた切り株に腰かけた。手持ちの水筒で喉を潤し、周囲を観察した。朝靄に包まれた森は不思議な雰囲気に包まれていた。木々の葉が風に揺られ、乾いた音を立てた。それ以外に音は訊こえなかった。そんな中で響く、蓋に注がれていく水の音は、なんと風情のあることかと、源次郎はしみじみ思った。

 静かだ。

 しばらく余韻に浸っていた彼は立ち上がり、リュックを背負い直した。登山道の道筋を見出すと、再び歩き始めた。太陽が、杉林に濃い影を落としていた。

 険しい登山道を進んでいく。岩肌がむき出しの道が増えてきた。首に巻いた白いタオルで何度も汗を拭いながら、源次郎はまだ見ぬ山頂を目指し、歩き続けた。

 源次郎は立ち止まると、左に映えている杉の木に釘付けとなった。

 小鳥が、こちらを見ていた。

 シジュウカラであった。白と黒の羽毛が体を包み、首から腹までは黒い縦線が伸びている。源次郎との距離は二メートルもない。老眼で衰えた目でも、シジュウカラを覆う柔らかな羽毛が見て取れた。枝に止まって首をかしげるような動きを見せてはいるが、視線は明らかに源次郎を捉えていた。

「どうした――」

 源次郎は、小鳥に咄嗟に話しかけた自分に驚いていた。動物を飼ったことはない。だから、犬や猫に話しかける人が理解できなかった。人の言葉を解さぬ連中に話しかけるのは、年端もいかぬ子供が、人形とおしゃべりをするようなものだと思っていたのだ。

 そうか、こういうことか。

 仕事に耽っていた源次郎の人生に、息子の入る余地は少なかった。子育ては妻に任せきりで、週末に帰っては大半を寝て過ごした。時間ができても、居間でいっしょにテレビゲームかボードゲームで遊ぶのがせいぜいであった。遊んでとねだるように歩いてくる正嗣の眼には、いつも源次郎の背中が映っていた。そのような後ろめたさもあって、彼は息子の提案を受け入れた。息子の視線から、逃れたかったのだ。

 源次郎は近場の岩に腰かけるとリュックから握り飯を取り出し、ひとかけらを摘まんで左の手のひらに乗せた。

「腹、減ってないか」

 シジュウカラは飛び立つと、源次郎のてのひらに乗った。小さなくちばしで、小さな白米の塊に食いついた。手に当たる嘴が痛かった。

「どうだ」

 シジュウカラは源次郎の問いに答えることなく、白米の塊を食った。平らげると飛び去り、さきほどと同じ場所に止まった。少しばかり源次郎を見つめると、元気よく鳴いた。

  源次郎は大きく舌打ちした。

「俺を都合の良い飯の種と思ってやがるな」

 源次郎は欠けた握り飯を食べ終え、登山を再開した。そのあいだも、タダ飯食らいのシジュウカラは源次郎の後をつけてきた。わざわざ枝と枝とを飛び移りながら、である。

「野郎、俺を馬鹿にしてんのか」

 しばらく歩いた源次郎は、近くの枝に止まっているシジュウカラに向けて言った。

「その翼はなんのためにある。あれか、地べたを這いずり回る人間を見て嘲笑ってんのか、ええ? さっさとどこへでも飛んでいきやがれ」

 シジュウカラはさきほどと同じように鳴くばかりだった。

 源次郎はなおのこと歩き続けた。腐りかけた木製の階段を上り、軋みながら揺れる吊り橋を渡った。眼下には、直上に登った太陽の光を反射した川が流れている。シジュウカラは川に飛んで行ったかと思うと、すぐに戻ってきた。嘴には、蛾がなにかのさなぎが咥えられていた。恩返しかと思い薄く笑った源次郎だが、そのまま獲物を丸呑みしたので、舌打ちで返した。

 中腹にたどり着き、源次郎は広場を見つけた。登山道を右に逸れた先にあり、これまでの傾斜とは違い、平面だった。膝に痛みを感じ始めた源次郎はその場に座り込んだ。シジュウカラは近くの切り株に座った。

 リュックから握り飯を取り出した源次郎は、ひとつまみを、切り株に置いた。シジュウカラはそれをおいしそうに食べた。清々しいその様子に、源次郎は思わず笑った。

「まったく、現金な奴だ」

 和やかな雰囲気を、鋭い音が貫いた。規則的な駆動音が響いたかと思うと、斜面に平行に引かれたワイヤーが動き、巨大な鉄の塊を運んできた。塊はガラスに囲われ、その中で若い男女がなにかを話しながら辺りを見回しては、手にしたスマートフォンで撮影している。

「お前、どう思う?」

 シジュウカラはただ源次郎を見つめている。源次郎はため息をつくと、

「バカバカしいな」



 体力の限り歩き続けた。山頂に近づくにつれて斜面はより厳しくなり、老体に鞭を打った。木々は減り、陽は容赦なく、源次郎に降り注いだ。

 汗が弛んだ頬を伝い、地面へ落ちた。首に巻いたタオルでいくら拭おうと、汗は止まらなかった。心臓の鼓動がよく訊こえる。息も荒い。膝も腰も痛い。ロープウェイの音がする。西を見ると、例の塊が悠々と斜面を滑っていく。今度は家族連れだろうか。室内で小さな子供が父親らしき男に肩車をされながら、双眼鏡で遠くを見ている。

 源次郎は近くに手ごろな岩を見つけた。だが、座り込みそうになる自分を止めた。

 ここで座れば、諦めてしまう。山頂まではまだ距離がある。

 リュックの下に括り付けていた登山用の二本の杖を取り出すと、源次郎は渋々、両手で握った。寄る年波に勝てない自分を恥じた。

 背後で鳥の鳴き声が訊こえた。

「まさか」

 源次郎が振り返ると、

「嘘だろ」

 シジュウカラがいた。白米を食わしてやった奴と同じとは考えにくい。だが、生まれ持った翼を使わずにこの急斜面を登ろうとする酔狂な鳥が、世界にどれほどいるのだろうか。

 前を向いた源次郎は、歯を食いしばりながら歩いた。軋む関節を無理やり動かし、砂利が転がる岩の上を歩いた。杖を地面に突き立ては、上に向かって登り続けた。重心を移動させ、両足で地面を踏みしめた。あと少し。そう自分に言い訊かせた。

 やがて、源次郎の視界が澄み、黄昏が飛び込んできた。開けた場所には源次郎ひとりしかいない。あのカップルや家族は帰ってしまったのだろう。

 近くには小さな細長い板が地面に打ち付けられ、「頂上」と書かれている。看板から左へ百メートルほどには、ロープウェイの施設があった。

 北を見れば山々が軒を連ね、いくつもの送電線が等間隔に置かれている。電線には鳥が止まっていて、耳を澄ますと鳴き声も訊こえる。

 風が強く吹いた。強く吹いた風は山を揺らした。葉がこすれ、浮かぶ雲を薙いだ。風は源次郎の首筋の汗を流し、太陽が骨ばった顔を暖めた。源次郎はすこぶる気分がよかった。膝の痛みも、腰の痛みも、すべてはこのためにあった。幸いなことに、頂上に人はいない。源次郎は大きく両手を広げると顔を仰いで空を堪能し、その場に座り込んだ。

 ふと右を向くと、シジュウカラがいた。大きな岩の上に立っている。リュックに手を伸ばそうとすると、元気に鳴いた。引っ込めると、無言になった。源次郎は小さく笑った。

「……酔狂だと思うか」

 小鳥は動かない。

 リュックから取り出した最後のおにぎりをそのまま地面に置いた。作った当初と比べて五分の一程度の大きさだ。小鳥はおにぎりの上に乗り、がっつき始めた。

「二本足が、四本になって、足ですらなくなって、今じゃ足がなくなりそうだ。なあ、俺はどう見える。二本足で歩いているか。地面で、踏ん張っているか」

 源次郎は首のタオルを両手で持ち、思い切り捻った。汗が流れ落ちた。

「……浮いたサウナ代は天覧山に充てるか」

 シジュウカラはおにぎりの一部を食べ尽くしている。あとで飛べるのだろうか。源次郎は少し不安になった。鳥を脇見しながら、彼は雄大な光景を見つめていた。

「ガキの時に運動会で一位を取ったときの感覚。あれだ。運動会の当日まで必死になって練習した。毎日土まみれになって家に帰ったな。母ちゃんにしこたま怒られてよ」

 源次郎は大きく伸びをした。そのまま立ち上がると、

「さっき山頂からの眺めを見たとき、同じ感じがした。いい気分だ」

 シジュウカラが握り飯を食べ終えたのを見届けた。源次郎は、右手でつくった握り拳を思い切り振り上げた。驚いたシジュウカラは飛び上がった。あっという間に小さくなり、遥か北へ飛んでいった。その様を、源次郎はしばらく見つめていた。

「達者でな」

 スマートフォンを取り出した源次郎は、今朝の配達員が勤める会社に電話をかけた。訊き慣れない従業員が出たので、彼に取り次いでもらった。

『立花さん、いまどちらに』

『例の山頂』

『嘘だ』

『てめえ、この音を訊いてもそれが言えるか』

 強風が吹いた時を図り、源次郎はスマートフォンを掲げた。再び耳に押し当て、

『どうだ』

『扇風機でしょうか』

 源次郎はため息をつきながら一度通話を切ると、今度はテレビ電話に切り替えた。

『おお……! なんという絶景か。御見逸れしました。今度ぜひ、冒険談を訊かせてください』

『長話は嫌なんじゃないのか』

『時と場合によります』

『調子のいい奴め』

『まあいいじゃないですか……、今週末は休みなので、お宅へ伺いますよ』

『無駄骨だ』

『そう仰らずに』

『訊かせてはやる。だが、お前は二番目だ』


 






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