第85話 君だけがいない宿

 お風呂から上がると、俺はすぐに就寝の準備をする。

 宿で用意してくれた寝巻きに着替え、歯磨きをするなど、色々としていたら11時になってしまった。

 明日になる前に、寝ることができたので、これは早く寝るということになるのか?

 思えば小さい頃に比べ、段々と夜遅くの感覚がズレてきている気がする。

 当たり前といえば当たり前だけどね。


 このベッドで寝るのは2回目で、体に馴染んで来ているのが実感できる。

 そうして俺は初日よりもスムーズに眠りにつくことができるのであった。


 *


 不意に目が醒める。

 普段こんなことは無いのにと思うが、その理由はすぐに明らかになった。

 俺の左肩が小さな何かを押し当てられ、さすられている。

 頭がまだ覚醒していない状態で、かつ無理やり起きたため痛む頭のまま視線を左に移す。

 部屋の明かりは消されているため、視界は悪いが、確かに分かる。

 月夜に照らされフワフワとしたクリーム色の髪を輝かせる整った顔立ちの女の子が……アイリが俺の肩を揺らしていた。


 俺はゆっくりと体を起こし、突然の来訪者に話しかける。


「ん。アイリ、どうしたんだ?」

「その…………先生?」


 そうして、彼女は俺の手を握る。

 途端に、外から聞こえてくる種類不明の鳥の鳴き声のボリュームが大きくなる。

 これはアイリの加護ギフト、【感覚操作センスコントローラー】が発動し、俺の聴覚が強化されたことを示している。


「お、お手洗いに行きたい……のですわ。でも…………」

「あ、分かった。丁度俺もトイレに行きたかったんだ。ついて行っていい?」

「ありがとうございます……ですわ」


 アイリが小声で話すので、俺も小声で話すとアイリは苦笑いを浮かべる。

 しっかり者だと思っていたけど、夜中トイレに行くのが怖いという可愛らしい一面もあるんだな。


 部屋を出て、左に曲がる。

 トイレは各階に1つあって、俺たちが宿泊している二階には一番端のクレハの部屋の前にある。

 あまり足音を立ててクレハを起こしてはいけないと思うので、忍び足でトイレに向かった。

 すり足とか結構得意だったりする。


 アイリがトイレに入ると、俺は耳を塞ぐ。

 幼女のおしっこ音を聞く趣味は俺には無いんだ。

 保育園でのアルバイトをしていた時は流石に聞かざるを得なかったし、低学年の子たちは聞かれていることに羞恥心を覚えていなかったように思える。

 しかし、アイリはそもそも保育園にいるような年齢じゃないし、ちゃんと恥ずかしい気持ちがあるはずだ。

 だから、そこら辺はきちんと配慮してあげないといけないという意味でも、俺は耳を塞ぐのだ。


 アイリがすっきりした表情でトイレから出ると、次は俺が入る。

 別にトイレがしたかったわけじゃ無いけど、トイレに入ると、自然に出るもの出るよね。

 条件反射的なものがあるのかも知れない。


 俺がトイレから出たところで、アイリが何か怪訝な表情を浮かべていてたことに気付く。

 クレハの部屋の扉に耳を当て、中の音を聞いているようだ。

 盗み聞きはあまり感心しないな。


「こら、アイリ。勝手に人の部屋の音を聞くのはデリカシーがないと思うよ」

「ごめんなさいですわ……でも、先生。何かおかしいですの」

「おかしい? 何が?」

「クレハさんの部屋から何も聞こえてこないのですわ。まるでもぬけの殻のように」


 そう言って、アイリは俺の手を優しく握ると俺の聴覚を強化する。

 俺の聴覚は壁越しでもアイリの部屋の中の音が聞き取れるほどに強化され、しかし、それでも中からは何も聞こえない。


「確かに……本当だ。寝息すら聞こえないってのは変だな。中にクレハがいないかもしくは……」


 そこまで考えて俺は今日の午前中にあった出来事が脳裏に浮かぶ。

 確かこの近くで殺人事件が起きて、殺人ギルド『アンノウン』がこの近くに潜伏しているという話を警察官が話をしていた。

 まさかクレハが殺され……?


 そこまで考えて俺は背中から嫌な汗をかいていることを自覚し、後頭部からゾワゾワとした感覚が襲う。

 そして、俺は彼女の部屋の扉を力強く開けた。


「クレハ! …………あれ?」


 扉を開けたがそこにはクレハの死体はない。

 それどころか、誰も部屋の中にはいなかった。


「タケル先生。もしかしたらクレハさんは外に出ているのかもしれませんわ……」

「その可能性は……あるな。だとしたら……」


 次の言葉を発しはしなかったが、アイリも事の重大性に気付いているはずだ。

 彼女もこの近くに殺人ギルドがいることを知っている。

 危機感を感じた俺の足は勝手に動き始めていた。


「アイリ、ちょっとクレハを探しに行ってくる!」


 部屋に戻り、速攻で服を着替えると、俺は二階の窓から夜の街へ飛び降りた。

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