豪炎の名を持つ龍
「やあっ!はっ、たあぁっ!!」
勇ましい声が響き渡ると共に、銀色に光る鋒が空を切り裂く。
闇に溶ける黒髪、漆黒に染まった軍服。血のように紅いルビーの勲章を胸元に煌めかせるその人影は、今までのどんなものより鋭い一閃で空気を唸らせたあと、勢い良く地面に寝転がった。剣術の鍛錬でできた豆や蛸だらけの赤くなった手に、夜露でひんやりとした草が心地いい。ひとしきりその感触を楽しんだ後、髪に絡んだ草花を払う。
彼女の名はアラン。いたって普通の、どこにでもいるような少女である。子供の頃から抱いてきた夢を大人になっても一心不乱に追いかけ、毎日剣術の稽古に明け暮れるような、そんな少女だ。今日も今日とてその夢の為、彼女は門限ぎりぎりまで自主訓練に励んでいた。
鍛錬に夢中で気付かなかったが、日はとうの昔に暮れていたらしい。地平線すれすれに絹のリボンのように長く伸びた雲に宿っていた夕焼けの橙も消えかけ、夜空には徐々に星が煌めき始めている。いくら彼女が騎士であるとはいえ、夜勤の者以外はそろそろ帰路につく時間だ。自分も帰らねば、家族に心配をかけてしまうだろう。特に門限を守らなかった日には、夕食抜きの刑が待っているかもしれない。次の日の朝まで食事ができないなど、育ち盛りのアランに耐え切れるはずもない。
「…よし!帰るか!」
なんて誰もいないのに、他人にかけるような言葉を一人発してみる。無論隣には誰もいないのだけれど。
家への帰路は走って帰ろうが飛んで帰ろうが、さして差が出る距離でもない。ならば鍛練の為、走って帰るが吉だ。腹も減るであろうし、まさに一石二鳥である。そう早々と決断し、解けかけていたブーツの紐をしっかりと結び直し駆け出そうとした刹那のこと。
「止まれ、アラン・クラウフォード!」
不意に響きわたった鋭い一声が、踏み出そうとする彼女の足に静止をかけた。自分の知らないその声に交感神経が刺激され、反射的に戦闘態勢に入った。幼い頃、騎士としての道を志した時から骨の髄にまで叩き込まれた反応だ。無意識に、腰に携えていたレイピアの柄に手が伸びる。
「誰だ!」
低く鋭い唸りのような声が喉から漏れる。正体を表さない相手へ向けて。
暫しの沈黙の後、その声は背後から再びかかった。
「…驚かせてすまない。だがどうか、警戒しないでくれ給え。私は――神龍の使いだ。」
はっとして背後を振り返る。そこには、先程まで居なかったはずの人物が立っていた。一体いつの間に現れたのか、想像も出来ぬほど一瞬の出来事であった。
全身が淡く光を放っており、暗闇からその容姿が一際浮かび上がって見える。その人物は優しげな微笑みを浮かべたまま、そう言葉を紡いだ。その首には、神龍の忠実なる家臣である印の"爪痕"が刻まれている。それが何より…火を見るより明らかな証拠だった。
反射的にアランは地面に片膝をつき、深々と頭を垂れた。無防備に下ろした自分の手が、小刻みに震えているのが分かる。まさか神龍の使いともあろうお方に敵意を向けるなど、なんという無礼を働いてしまったのだろう。
「申し訳ございません!敵国の襲撃かと思ってしまい、あのような御無礼を…!!」
「いや、構わない。唐突に声をかけた私が悪かったのだから。どうか、顔を上げてくれ。」
その声色の優しさを信じて、恐る恐るアランは顔を上げる。相変わらずに穏やかな微笑みが、目の前の人物の顔には浮かんでいた。
ほっと安堵の息をついた刹那、恐怖と驚愕によって押さえられていた疑問が次々とわいて出てくる。
「…私のような者に、何か御用でしょうか?」
一番の疑問はそれであった。
神龍とは読んで字の如く、天より神に等しい力を授かったこの世界、そして自分の生きるこの国「ドラテオトール・カルナー」の守護者のことである。万物を見透し、この世界の生きとし生けるもの全ての頂点に君臨する支配者、それが神龍だ。それくらいは、生まれて数十年しか生きていない、龍の中でもひよっこであるアランでも当然知っていた。
そんな神龍の使者ともあろう人物が何故、自分などの目の前に現れたのか。騎士団テール―自分の所属する騎士団の駐屯地まで道案内しろ、と言うならば納得できないこともないが、それでも何故わざわざ子供である自分を名指しする必要があったのかという疑問が解決できない。ここ、シュトルーフェは軍事基地がある上にこの国の首都でもある。故にもう少し歩けば、民家でも店でも幾らでもあるのだから。
もやもやとした感覚が払拭できず、七分の好奇心と三分の疑問に動かされて、アランはそう使者に問いかける。使者は待っていたとばかりに、だがそれにしてはひどく浮かない顔をして、口を開いた。
「…申し訳ないが、それは私の口から伝えることはできないのだ。誠に恐縮なのだが、私についてきてはくれまいか。」
「…どちらへ?」
「"世界樹"までだ。」
その刹那、これが夢か現かと疑ってしまったことは許されると信じたい。
世界樹。神龍とその忠義な家臣のみが住まうとされる、一般の臣民の一切の立ち入りが禁止された場所。言うなればこの世界の要、この世界で一番謎に満ち溢れた場所だ。その場所に自分がまさか、生きているうちに行くことができると?
使者の言葉を分析した脳はそうだ、イエスだと告げるが、混乱した心は有り得ない、ノーだと告げる。きっと誰だってそうなるだろう。庶民であった人間が突如何の前触れもなく、王宮に召し上げられるようなものなのだから。
「頼む、このとおりだ。」
不意に使者が頭を下げる。慌てて声を出そうとしたが、舌が貼りついたように声が咄嗟に出ない。焦りの募る中使者は、ただ一言呟いた。
「……この世界に、必要なのだ。豪炎の名を持つ龍が。」
その言葉を聞いた瞬間――否、それでは語弊がある。
使者が現れた時から、とっくに心は決まっていたのかもしれない。
神龍の臣民の一人に過ぎぬ自分が直々に呼び出された意味など、無論自分には理解できていない。だがまだ見ぬものへの不安よりも、好奇心がそれに勝った。好奇心は猫をも殺す…と言うが、それはまだ踏み込んでみなければ分からない。
「分かりました。喜んで、参ります。」
そうしっかりと言葉を紡げば、使者の安堵したような笑みが瞳に映った。
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