第17話
そこは酷く寒かった。
それは外気温が低いせいもあるだろうが、心の震えは、何処か別の場所から来ている事を彼は知らなかった。
ヴェルトは逃げた。自分さえ居なければと、それがリヒトの為だと信じて必死で逃げた。
リヒトで世話になって、ヴェルトは幸福だった。
声をかけてもらえなければ、野垂れ死んでいたかもしれない命を彼女が拾った。
だから、天使アンジュの世界を貰った自分にヴェルト《せかい》と名付けたのだ。
その名で呼ばれる度に、愛しい重さが増えていく。しかし、幸せになればなる程同じ位の恐怖がヴェルトを襲った。
今迄抜け殻同然の自分に突然流れ込んで来た幸福とそれを失う恐怖。
そして、その恐怖が現実になろうと鎌首をもたげている気配に、ヴェルトは逃げ出したのだった。
アンジュの笑顔が好きだった。
彼女が笑う度、心の霜が溶けるような心地良さ、その感覚に抗えない自分に不思議ではあったが決して不快ではなかった。
天使の微笑みを失わせる訳にはいかなかった。クロトやヘリオス、ブリゾの皆もその暖かな世界の住人だったのだから。
ヴェルトは逃げる事で守ったと思っていたが、同時にその世界を失った事に気付けずにいた。
失ったが故の、心の震えなのだと…。
不意に彼女の声が聞こえた気がした。
ビクリと一瞬の怯えと、たった1日しか離れていないのに、酷く懐かしい想いがない混ぜになる。
来ないで欲しい。来て欲しい。
心が2つに割れてしまいそうだった。
と、後方から馬車の滑走する轍わだちの音と共に、確かに声が届いた。
「ヴェルト!」
冷たい風と共に聴こえる声に振り向くと、夕日に照らされたアンジュが馬車から賭けて来る。
一瞬身を引いたが、そこから動けずにいたヴェルトに抱きついた。
「アンジュ…どうして…」
その言葉に、ヴェルトの頬を思いっきり張った。
「どうして?こっちが聞きたいわよ!」
ヴェルトは張られた頬もそのままで呆気に取られている。
「…どうして…ーしたの?」
「…え?」
「どうしてキス…したの?…どうして、これで最後みたいなキスしたのよ!」
「……最初で最後だと思った……アンジュにキスしたかった」
素直に胸の内を明かすが、アンジュは広い胸板を叩きながら叫んだ。
「ふざけないで!人の初めてを奪っておいて、最後とか勝手な事言わないでよ!」
「は、初めてだった…のか。す、すまない…」
ヴェルトはあからさまにオロついた。
「すまないって何よ!初めてじゃなかったら良いっての⁉」
「いや…その…」
アンジュはこれでもかと胸を叩くと、急に静かになった。
「…何で…最後なのよ…」
「…アンジュ…」
「勝手にキスして…勝手に最後にして…あたしの気持ちはどうなるのよ!」
「アンジュ…すまない。……俺は怖かったんだ…」
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