罪な嘘

 山の中腹。緩やかな勾配を転げるように駆け降りる人物が二人。

 山中には馬車が通れるほどの山道が設けられているのに、その二人は生い茂る低木ていぼくを掻き分け、一目散に麓を目指している。まるで何かから逃げているみたいだ。

「若様! こちらです! 足元に気を付けて!」

 二人のうち、手を引いて先導しているほうの男が言った。

 両者とも外套をすっぽりと被っているため定かではないが、身長差と体格差から鑑みるに、先導しているほうが大人で、後ろに続いているほうはまだ子供であろう。

「なぜだエイモン! なぜ逃げねばならない! この僕を誰だと思っている!」

 手を引かれながら、子供が憤った声を出した。

 その声音から歳は十二か十三といったところだろうか、若く上ずってはいるものの、勇敢そうな少年のそれだった。

 少年は吐いた言葉の通り、今にも手を振りほどいて来た道を引き返さんとしているが、それを先導する男が許さない。

「いけません! 若様をお守りするのがわたくしめの使命! それに山は日暮れが早く、すぐに暗くなりましょう! 此度こたび何卒なにとぞこらえていただきたく!」

 男の必死な請願は、顔を見なくともその形相が浮かんでくるようで、少年は「くっ」と奥歯を噛み締めた。

 そして悔しさを滲ませたまま、ひたすら走る。

 木立こだちの合間を縫うようにして、時には茂みに構わず突っ込み、ただひたすらに疾走し続けた。

 先導する男の言う通り、山の日没は早い。

 今でこそ明るいが、すでに日は傾きかけている。じきに暗くなることだろう。

 理由はこの山が地平線より高いからではなく、ここが森林であるからだ。

 樹海と呼ぶに相応しく、鬱蒼と生い茂ったこの森は、樹木が密生している割には明るい。

 苔むした樹幹じゅかんにはいかめしく蔓が巻き付き、それぞれが空を隠すように枝を広げているが、そのこずえに視線を向けてみれば、緑に透けた木漏れ日が目に沁みるほどだった。

 だが、やはり遮るものが多いほど、その陽光は届きづらくなる。

 いくらここが明るい森だといっても、それは動かぬ事実、変わらぬ道理なのだ。

 そして暗くなれば、穏やかな山は一変、危険がひしめく魔窟となる。

 かといってひらけたところに出れば安全とも言い切れないのだが、そこに一縷いちるの望みをいだくしかなかった。

 となれば、今はこうして文字通り、道なき道を走るほかない。

――まずい、やはり人の足では日暮れまでに山を出られん……!

 男は密かに焦っていた。

 それほど危険な相手と遭遇してしまったのだろう、このままでは使命をまっとうすることすら叶わないとまで思っていた。

 だからといってあきらめはしない。しないが、無意識下で段々とその色がちらつき始めたとき、一筋の光明が差し込む。

――助かる……これで助かったぞ……!

 この場合、光というよりも、それは音だった。

 全力で逃げながらも神経を尖らせていた男の聴覚に、福音がもたらされたのだ。

 もはやなりふり構ってはいられない。この機を逃せばどうなることか、これはまたとない絶好の好機だ。みすみす逃す手はなかった。

「若様! こちらです! お急ぎを!」

 男は言い表せない感情でぜになりながらも、少年に声をかけるのだった。


 鬱蒼としている割に、けれど明るい山道。モカはかつてないほど興奮していた。

 なにせ視界一面が鮮やかな緑なのだ。

 苔むした樹木も、それに巻き付いたつるつたも、青々とした低木ていぼくや草花も、地面に蔓延はびこる雑草も、余すところなく緑が広がり、陽光を浴びて光っているようにさえ見える。

 それにこれらの緑は風が吹き抜ける度にさらさらと鳴り、様々な音色で奏でられる鳥のさえずりと相俟あいまって、目をつむって息をするだけで心が洗われていく気分になるのだ。

 ここにいるだけで活力が湧いてくるというか、己のなかの生命力が充填されていくような、そんな感覚がする。

 言うなれば、雪の白で埋め尽くされた白銀の世界を「静」としたとき、この山は「生」だ。

 それくらい、萌ゆる緑は「生」で満ち、みなぎり、溢れかえっているのである。

 歩調の揺れから察するに、心なしかディアトリマたちも機嫌がよさそうだ。

「フィーネさんすごいねここっ! うはぁあ~っ! フィーネさんここに住んでるんだぁ~」

「そ、そうね……いいとこでしょここ……。ねえ、それあと何回言う?」

 モカトリマにゆっさゆっさと揺られながら、両手を胸の前で祈るようにして組んだモカが言うと、同じくモカトリマの頭の上で揺られているフィローネが疲れ切った返事をした。

 もう何度目かという会話に、フィローネはたいぶお疲れの様子だ。

 そんなことは知ってか知らでか、モカは気にせず身体をくねくねさせているが、フィローネも実はこれで満更でもなかったりする。

 というのも、あれから二人はすっかり打ち解け、過去の遺恨など元からなかったというくらいに親交を深めているからだ。

 経緯としては、時を遡ること数時間前、フィローネの要求したにより綺麗な蝶を捕まえることになったのだが、そのときモカの捕まえた蝶がことほか美しかったのである。

 それで機嫌を直したことに端を発して、モカの「なんで蝶を捕まえるのか」という問いに、フィローネは小人フェアリーの生活の一部を話して聞かせた。

 例えば小人フェアリーにとって蜘蛛と蝶は、欠かせない資源であるということ。

 蜘蛛の糸は衣服をはじめ多種多様な生産物や加工に使われ、蝶の翅はそのまま使うのとは別に、その鱗粉が着色料や保温剤、果ては撥水はっすい剤などにも役立つのだとか。

 フィローネの語る話はまさに生活の根幹にあたるものばかりで、ここまで聞かされてはさすがのモカも夢がどうのとは言わなかった。

 むしろ蜘蛛の糸であつらえたワンピースを蝶の鱗粉で染色し、温かくて水まではじくとなると、新たな夢を獲得したかのような反応を見せた。

 そんなこんなガールズトークで、最悪な出会いから一転、和気藹々と今に至るというわけだ。

 ただ、やはりと言うべきか、ノロが付け直したのではフィローネの翅はうまく機能せず、捕獲した蝶の運搬も兼ねて、こうしてフィローネの住む郷の近くまで送るはめになった次第である。

「……まあ、どうせ山越えする予定だったし」

「んー? なにノロなんか見っけた?」

「いや、なんでもないよ」

「そっかー、なんか見っけたら言ってね!」

 ノロの独り言が耳に届いてしまったのか、モカの能天気な声が返ってきた。

 本当は、厄介事に巻き込まれなくてよかったと一安心していたノロだったが、その楽しそうな横顔を見ていると、抱えていた自己欺瞞も前向きな考えへと転化されていく。

 これもこの山の効果なのだろうか。

 それにしても、この山道は一応それなりに使われているはずなのだが、車轍しゃてつには雑草が蔓延はびこり、お世辞にも整備が行き届いているとは言えないありさまだ。

 山なだけあって傾斜も加わる悪路だが、そんな悪路をもろともせずぐいぐい進んでいくディアトリマに、なるほど「森を抜けるならディアトリマ」と言われるのも合点がいく。

 そうこうしているうちに日も傾いてきた。今日はこのくらいにして、適当なところで夜営の準備でもするかと思い立つと。

「もし! そこのお二方ふたかた! お待ちください、どうかお助けを!」

 外套を着た男が、脇の茂みから現れた。その後ろにはもう一人、子供の姿が見える。

 先ほど胸を撫で下ろしたばかりだというのに、そうは問屋が卸さないみたいだ。

 ノロはすぐにフードを被ると、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているモカに目配せをした。

 それを受け、モカも旅立つ前にしたを思い出し慌ててフードを被ると、やっとノロが口を開く。

「どうしましたか。食糧なら少しお分けできますが」

「ああ、ありがたい……。実は途中で尽きてしまって、こうして山の幸を調達しようと思っていたのですが、うまくいかず困っていたのです。この子の分だけでも構いません、何卒なにとぞお恵みを……」

 ノロは男と子供を交互に見た。

 この二人は親子だろうか、丈違いの外套をすっぽり被っているせいで、姿を見ただけでは読み取れる情報量が限定される。

「……ノロ……」

 隣でモカが、「可哀想だよ」と目で訴えてくるので、ノロは仕方なく男に応えた。

「ちょうど休もうとしていたところです。よければご一緒にいかがですか」

「ああ! なんとありがたい! 感謝致します! 申し遅れました、わたくしエイモンと申します。こちらはのヘンリー。この度は重ね重ね……いや、なんとお詫びしたらよいものか……」

「いえ、旅は助け合いと言いますし、お気になさらず。俺はノロです。こちらは。どうぞよろしく」

 お互い、言葉を交わすのは代表者だけだった。

 その意図はどちらも同伴者を守りたいという一点でのみ合致し、けれどそのため食い違う。

 このとき、この場においての、誰の嘘が罪なのか、ではない。

 先に罪を暴くのは、である。

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