アレウス廻国記
高橋太郎
第一話 虎豹騎
その日、アレウスは朝から嫌な予感が止まらなかった。
少なくとも昨夜までは何ともなかった。
朝起きてから、何かチリチリするような感触が後ろから迫ってきている、間違いなくそう感じていた。
後ろから感じると言う事は前に進み続ければそれから逃れられるかも知れない、そう思っていた時期もあったが、刻一刻とどんどんそれが迫ってきているという強迫観念めいたものが心中に湧き起こるのを抑えられなくなるに至って、アレウスは諦めた。
相棒のレイが何か言いたげそうな顔付きで自分を見ていたが、今は一刻を争う。
休憩を宣言した雇い主の下に向かい、
「悪いが俺は抜ける。違約金が必要なら払う」
と、宣言した。
「何を云っているのだ? 契約は──」
猶も何か言い募ろうとしている雇い主に向かって、アレウスは金貨の入った袋を投げつけ、己の荷物を纏めて先を急ごうとした。
「あーあ、良い儲け口だったんだけどなあ」
大きな溜息を付きながら、名残惜しそうに同じく金貨の入った袋をレイは雇い主に押し付けた。
二人の行動を見て一部の傭兵たちはざわめきながらも慌てて違約金を捻出しようと荷物を引っ繰り返し始める。
その異常な雰囲気に何事かと状況を理解できていない傭兵たちが浮き足立つ。
「それでアレウス、どうなんだい?」
女と見紛うような中性的な美貌は異性に耐性のない男相手ならいとも容易く蕩かしてしまうだろう。そんな
「昨日までは何ともなかったのだがな。今日に入ってから後ろの方からヒリヒリとする何かが迫っている感じがする。……まあ、此の儘直進すれば確実に死ぬだろうな」
大したことでもないと言いたそうな表情でアレウスは肩を竦めながら予見する。
その言葉を聞いた途端、慌てて違約金をひねり出していた傭兵達は有ろう事か数など数えず金を無造作に袋へと詰め込み、依頼人にその袋を叩き付けると、急ぎ身支度をしてアレウス達に続く。
「ま、待て! 儂は契約破棄を許してはおらんぞ?!」
雇い主の商人は立ち去ろうとしている傭兵の数の多さに驚き、縋り付くかのように追いかける。
アレウスは真顔のまま、
「金で命は買えん。勝てる相手なら兎も角、絶対に負ける勝負はお断りだ」
と、商人にそう言い放ち先に進もうとした。
「まあ、待ちなよ、アレウス。生き残れれば問題ないんだろう?」
何か思いついたのか、レイがにやりと笑う。
「明らかにもう時間は残されていないぞ?」
「休憩を取りやめて急いで進んでも?」
「直進し続ける限り、何者かに肉薄され捕捉される。そうなったら最期だ」
「じゃあさ、こういうのはどう?」
レイはアレウスと商人に視線を向け、「この先に分岐があるから、そこでアレウスが安全だと思う方に暫く進もうよ。何人かに安全じゃ無いと思う道の方を見張って貰っておいて、その後の行動はその時に決めるってどう? アレウスの云う通りになったら、違約金を返して貰った上で、最初の約束通りの報酬を貰う。逆に何事もなかったら違約金を返さないで良いし、報酬も要らない。その上で、今すぐに急いで分岐まで向かう。それが僕達が出せる最大限の譲歩だけど?」と、交渉に見せかけた恫喝を仕掛けた。
逃げだそうとしていた傭兵たちも、レイの提案に商人がどう答えるかを見守るために足を止めた。
「いや、だが、しかし、だなあ」
猶も何か言わんとする商人に対し、
「悪いが時間はない。レイの提案を勝手に乗るか乗らないかだ。俺は行かせて貰う」
と、アレウスは答えを待たずに先を進む。
「先に云っておくけど、アレウスの予感が外れた試しはないよ? それを知っている連中が慌てて付いてきているわけだから、護衛は半分抜けると考えた方が良いね。この先の道中、何事もなければ半分でも大丈夫だろうけど、何か起きるなら全員揃っていても怪しいと思うんだよなあ? どちらにしろ、ここで休憩していたら全滅は確定しているから、アレウスが足を止めるまでは一緒に来た方が良いと思うよ。あ、これは善意の忠告だから、情報料を寄越せとまでは云わないさ。ただ、あの世までお金を持って行ける術を持っていないなら、急いだ方が良いと思うよ? 多分、今日の調子からして、アレウスはかなりぎりぎりまで云い出さなかったワケだと思うしね」
アレウスの態度を見て、レイは交渉の続行を諦めた。
ただ、レイも海千山千の傭兵である。完全な没交渉にならない様に、相手に敢えて情報を与えることで自分が望む行動に出るであろう意識誘導をそれとなく仕掛けて立ち去る。
狙い通り、それまで何が起きたか分かっていなかった傭兵たちも何の相談もなく一斉にアレウスの行動に追随した。
こうなれば雇い主の方が傭兵に合わせざるを得なくなる。
レイは密やかにほくそ笑みながら、見かけ以上の早足で行くアレウスに追い付くため小走りで先を急いだ。
二股の分かれ道に到達したアレウスは悩む事無く本来の目的地に通じる道を無視して、隣邑へと向かう道に入った。
「こっちは大丈夫なのかい?」
レイの問い掛けに、
「いや、まだ駄目だ。多分、この森で完全に視線が断ち切れる辺りまで行けば安全圏ではないか、と思うのだが……行ってみなければ分からんな。まあ、確実な死を感じはしないから、明らかにそちらよりはマシだ」
と、歩みを止めずに答える。
「後ろから何か来るなら、誰かにここで隠れて見張って貰っていた方が良いんじゃない?」
先程依頼人相手に提案した内容を再び相棒に提案する。
「君がさっき主張した通りにかね」
アレウスは左右を見渡してから、「隠れるならばこの木立の奥、少なくとも街道から直ぐに立ち入れない辺りまでは引いておくべきだろうな。あと、視線の高さにも気を付けるべきだろう。この迫り来る速さを考えれば“
「今のことを総合的に鑑みて、誰か志願者居る?」
敢えて周りに聞こえる声で話し合っていた事を利用し、レイはそのまま周りに問い掛けてみた。
「それでは、あっしがもう少し入り込んだところの木に登りやす」
「じゃあ、俺がその下で控えておくわ」
二人と付き合いの長い傭兵二人組が自分たちの荷物を二人に渡してから、森へと入り込む。
「まあ、待て。どこで合流するかぐらいは決めておこう」
荷物を受け取りながら、アレウスは思わず苦笑した。
「この先に丁度休むのに向いた場所がある。好都合なことにそっちの街道からは森を隔てて見通せない位置だ。まあ、流石に火を焚いたら居場所に気が付かれると思うが」
土地勘のある傭兵が直ぐさまに助言を飛ばす。
「差し迫る死が遠ければ、そこで小休憩するとしよう。危険そうならば、無理をしてでも進み続ける」
「そんなにやばいのか?」
アレウスと付き合いの長い傭兵が真剣な面持ちで尋ねる。「俺としてはあの雇い主の胡散臭さに耐えられなくなった口実に見えたんだが?」
「商人はあの程度が良いよ。なまじ腹の奥で何を考えているか分からない
付き合いが長い分アレウスも易い態度で応じる。
「……初陣って、噂の陣場借り、か? 俺は直接見ていないから知らないが、あの、噂の?」
畏れを含んだ目つきで男はアレウスを仰ぎ見る。
「ま、貴殿との付き合いはそれなりだが、かの“迷宮都市”に俺が居着く前辺りからの付き合いだったか」
アレウスは傭兵をちらりと見ると、「俺の初陣を直接知っている傭兵仲間は大抵討ち死にしているからな。噂の独り歩きが酷くなっていることは否定出来ないが、火のない処に煙は立たないのもまた事実。大っぴらに云えぬ事もあるよ」と、問いに直接答えずににやりと笑って見せた。
「カペー戦役の最序盤の出来事だからなあ、アレ。人中の──」
「今一度繰り返すが、それに関しては関係していないとしか俺は云えないのだがな」
苦笑しながら昔なじみの男に言葉を制するかの様に右手を振ってみせる。「勝手に関連性があると紐付けることは構わんが、俺は遣っていないとしか云いようが無い。何せ、未だにあの件を根に持って真相を追いかけている連中が居るのだからな。完全な濡れ衣とまでは云わぬが、確証もなく言い掛かりで襲われるのは気分の良いモノではないぞ?」
「違いない。俺達傭兵は純粋な名声よりも噂で畏れられる程度が丁度良いからな。名は時として下らん実まで付いてくる。実は実でも金のなる木なら歓迎なんだがね」
「相変わらず貴殿は上手い事を云う。正に正に」
くつくつと笑いながら、朋輩に纏まった話を伝えに行く男をアレウスは見送った。
「間に合いそうなのかい?」
思ったよりは余裕のある態度を示しているアレウスにレイは些か疑問を覚えた。
「まあ、これが幾つかの商会が寄り合って出来た大きな隊商だったら無理だったが、個人商会が数十人を雇い入れてある種の確実性よりも速さを求めた編成。只まあ……個人商会の隊商如きで数十人って時点で怪しむべきだった。碌でもないモノを確実に運びたがっている。それも、如何なる手段を用いてでも奪い取ろうとしている相手が存在する、そんな極めつけの危険な代物だよ」
終わりの方を辺りを窺うかの様な小声で締めながら、アレウスは毒突いた。
「偶に思うけど、アレウスってどこまでも深読みするよね」
呆れた顔付きでレイはアレウスを見詰める。
「何、上の兄の受け売りだよ。あの人なら、まあ、そうだな……。話を聞いた時点で大体のことを予測し当てて、その上で結果を知るために雇われただろうなあ。まだまだ俺は修行不足ってこった」
険しい顔付きで肩を竦め、アレウスは大きく溜息を付いた。
「どんなお兄さんなんだよ、それ」
思わずレイは真顔でアレウスを見た。
「俺が知り得る限り当世随一の英傑だろうよ。ま、世評の云うところの“覇者”殿は中原の大将軍、我が親愛なる兄上は田舎貴族の長男でしかないんだ。誰が知ろうぞ、
「やっぱりアレウスは学もあるし、礼儀作法にも通じているし……只者ではないよね?」
「それが分かる時点で自分の出自を半分明かしているようなモノだな、レイ」
くつくつと笑いながら、アレウスは首の後ろ辺りを右手でぺたぺたとさわり、「もう一急ぎしよう。それなりに遠ざかったが、まだ捕まる可能性がある。様子見に残った連中が捕捉されなければ云うこと無しなのだがな」と、足を緩めずに先を急いだ。
「ほう、ここならば……」
街道脇の広場を見て、アレウスは一つ頷く。
街道同士を遮る林は最早鬱蒼とした森と言って良く、向こう側を見る事も感じる事も何らかの異能を持っている者でもなければ察する事は不可能と言えた。
己の首から悪寒がほぼ消え去っているのを確認してから、
「火を熾さなければ、問題ない、か?」
と、今一度辺りを見渡してみた。
「大丈夫そうかい?」
思っていた以上の強行軍であった為か、レイも流石に息が上がっていた。
「問題あるまい。状況が判明するまで火は熾さない様に。後は──」
更に細かい指示を出そうそうとしたアレウスは思わず絶句する。
レイは何事かとアレウスの視線を追って、やはり絶句した。
追い付いてきた傭兵達は二人の様子を怪訝に思い、
「お二人さん、一体どうしたんだい?」
と、恐る恐る声を掛けた。
アレウスは何も言わずにそのまま傭兵達の背後を指差す。
それに釣られて全員が後ろを振り向き、何もない事に怪訝な表情を浮かべ、そして直ぐさま異変が遙か後方の上空にあると気が付いた。
怖ろしい勢いで土煙が産まれては後ろへ棚引いていった。
その発生源は恐るべき速度で近づいてきており、直ぐさまに全員がそれが何を意味するかを察した。
「あの速さから、並の騎兵ではないな」
アレウスは冷静に見立てる。「その上、あの濃さ、幅、落ち着く様子の無い事から少なくとも数千騎と見立てるべきか。あっちの本街道を直進しているところから、目的地は……」
「僕達の本来の目的地と同一と考えるべきだね。そして、多分、連中はソーンラントの正規兵ではない。目撃者を平然と消しかねない勢力の騎兵、かな?」
「おそらく、な。俺の嫌な予感はそれで説明が付く。だが、ソーンラントの中心部に近いこの辺りで何者が何の目的で用意したのか、これが分からない」
土煙を見上げた儘、アレウスは真剣な顔付きで悩み込む。
「いや、あの土煙見ただけでそこまで分かったら最早人間じゃないでしょう、それ」
「兄上ならばこの時点で既に全てを見極めただろうよ」
「比べる相手が悪すぎませんかね?」
呆れた顔付きでレイはアレウスを見た。
「どちらにしろ、あの土煙が通り過ぎるまでは何も出来ないな」
アレウスは開き直り、そのまま大木を背にして座り込み、佩刀を掻き抱く様にして目を閉じた。
「確かに、遣る事ないなら休む方が得だね」
一つ溜息を付いてから、レイはアレウスの隣に座り込み、荷物を広げて手持ちの武器の手入れを始めた。
呆然としていた周りの傭兵達も我を取り戻した者から銘々に休み始める。
少なくとも、アレウスの様子を見る限り阿呆な真似をしなければ命に関わらないと確信したのだ。息を潜めて身を休めた方が良いと誰もが理解していた。
更に付け加えるとすれば、今の内に休めるだけ休まないとこの後どうなるかが分からなかった。目に見える脅威が現れた以上、何時どんな時に何が起ころうとも最善の動きが取れる状態を維持していなければあっさりと死ぬ。それをこの場に居る誰しもが完全に自覚したのである。
暫くして、生真面目に雇い主を守りながらやっと到着した傭兵達も、先行した者達がそれなりに寛いでいるのを見て気が抜けたのか、倒れ込む様にしゃがみ込んだ。
その後ろから、何故か青白い表情の雇い主が周りをきょろきょろと視線を泳がせ、アレウスの姿を見つけるや否や慌てた様子で駆け寄ってきた。
レイはそれを横目で見て、何事もなかったかの様に再び自分の作業へと意識を戻した。
「あ、アレは何だ?」
土煙の方を指差し、商人はアレウスに詰め寄る。
「……俺が知るか。アンタの客だろう?」
地獄の底から響く様な冷めた声でアレウスは目を閉じた儘、商人に吐き捨てた。
「な、何を──」
猶も何かを言おうとする商人相手に目を瞑った儘アレウスは器用に鞘に入れたままの太刀を突きつけ、
「黙っておれ。今、気を探っている」
と、歴戦の傭兵でも思わず得物を構えそうになる殺気を飛ばして行動を制した。
短い悲鳴も上げられずに、そのままぺたんといろんなモノを漏らしながら商人は腰を抜かしながら気絶した。
「……器用なモノだな」
妙に感心した口調で、未だに目を閉じた儘なのに全てを察したかの様な発言をアレウスはする。「俺が気を飛ばして気絶させると踏んでいたのか?」
「いやあ、君ほどじゃないんじゃないかな。誰だって、こうなったらこうすると思うよ?」
レイは商人がアレウスに詰め寄った瞬間、店仕舞いを慌てて開始していた。今は臭いが気になるのか、風上がどちらか素早く探し出してそちらへと避難を始めていた。
「この程度の隠し芸は一つや二つ持っていなければ傭兵として侮られるのでな」
つまらなそうに吐き捨ててから、アレウスは目を開き、「怖ろしく練度の高い騎兵だな。
「うわー、そりゃ明らかに真っ直ぐ行っていたら捕捉されていたね。後は、連中の正体が知れたら楽なんだけど……」
「それは残った奴らが上手い事戻ってきてくれるのを待つしかないな」
アレウスも又、何事もなかったかの様に立ち上がると、風上の離れた場所へと迷わずに進む。
「何で風上がそんなに簡単に分かるんだよ!」
荷物をガチャガチャ言わせ、レイは悪態を吐きながらアレウスの向かった方に慌てて付いていく。
「
「偶に思うけど、君の云う兵法というモノは、魔法なんかよりも随分とおっかないよね」
「一つの技を極めれば魔法と同じ様に見えると云う。ならば、俺自身道半ばとは云え、頂に最も近かった方々から手解きを受けた者なりの遣り様というモノもある。何、
最後の一言を呟きながら、アレウスはレイが見た事もない様な渋い表情を浮かべ、「いや、忘れてくれ。どうにも、愚にもつかぬ事を口走っているらしい」と、苦笑した。
暫くして、木の下に控えていた男が息せき切って休憩地点へと文字通り転がり込んできた。
近くにいた傭兵が気を効かせて水袋を渡すと、男は勢いよく水を飲み干した。
「それで、どうだった?」
「こ、
その言を聞き、誰もが一瞬の内に真顔となった。
「虎豹騎とは、あの虎豹騎か?」
アレウスは静かに確認する。
「ああ、あの“覇者”の切り札の虎豹騎に間違いねえ。あんなモンが二つとあって堪るか」
男はアレウスにきっぱりと断言した。
その受け答えを見て、様子を見守っていた傭兵達は近くにいる仲間と顔を見合わせる。
誰しもが困惑した表情を浮かべ、次の一手をどうしたものか悩んでいた。
只一人、アレウスを除いて、だが。
「そうか、あれは虎豹騎であったか。
何故か満足そうに何度も頷き、「それで、数は? 向かった先は間違いなくネカムで、ルガナの方から進発している様であったか?」と、矢継ぎ早に問い掛ける。
「数の方は分からねえ。木の上で見張っているザスの野郎が数えていたはずだ。俺はとりあえず、連中に見つからない様に気を付けてこっちに第一報を届けに来たに過ぎねえ。こっち側に折れてきていないって事はネカムに向かっているとは思うんだが、上から見ていたザスじゃねえとはっきり分からねえな」
「それだけ見えていたなら上出来だ。少なくとも、ネカムに向かうのは死地に等しいと確定したのだからな」
未だに気を取り戻さない商人を眺めながら、アレウスは思案顔になる。
「ザスが戻ってきたら、此の儘前進?」
「そうだな、此の儘先ずはミールに向かうべきであろう。流石に都であるラヒルを無視してネカムからミールに向かう真似はすまい。それに、本気でソーンラントを落としに来ているか、まだ分からぬからな」
「どういうことだい?」
「ルガナを落とすための陽動。あの速さで動いていれば、平時のネカム程度の政庁ぐらいあっさりと制圧できよう。城門が閉まる前に城内に入り込めば後は虎豹騎ならばやりたい放題であろうさ」
「
「本命はルガナだからな。別に陥落したからと云って、維持しなければならないという責務はない。ルガナへの援軍をネカムで足止めできるならば十二分に働いたと云えようが……無理してまで行う策ではないよなあ?」
自分で理由を説明している内に、アレウスは思わず首を傾げる。「それならば、もっと楽な他のやり方があるはずだな。“帝国”からの亡命者達に貸し与えているルガナのためにソーンラントが本気で援軍を送るか? それも奇襲じみた騎兵による機動戦でラヒルの喉元に当たるネカムを占拠するのは些か度が過ぎていないか? ……やはり目的は別な処に在ると見るべき、か?」
アレウスが自問自答を始めた頃、漸く向こう側の街道上空を覆っていた土煙が晴れ始めて来た。
息を潜めてじっと身を潜め続けていた傭兵たちはそっと息を付いた。
それなりに腕に自慢ありといった彼らでも彼の“覇者”が自慢とする虎豹騎相手とならば死を覚悟するのが当たり前である。かの“帝国”の政争で東方諸侯の元に亡命を図りカペー動乱の緒戦で討ち死にした人中のリチャード・マルケズが率いていた
そんな相手に対してこのままこの場に居る者たちが相手にしたらどうなるか?
まともな指揮官もおらず、もし仮に連携を取ったとしても泥縄にすらならないお粗末な状況下でぶつかり合ったとしても、犬死ににすら満たない何とも形容しがたい終わりを迎えるだけだろう。
それが分かるだけに、何とかやり過ごしたことがどれだけ運が良かったのか誰しもが理解していた。
それ故に、その運をもたらした男が次にどう動くか、それだけが今の注目の的であった。
「んー、分からん! あちらさんが次の手を打つまでどう出るかが読めん。正解が分からない以上、次善の策で動くべきだな。とりあえず、この儘ザスを待つか」
一つ頷いた後、汚物塗れで気絶している男をちらりと見てから、「処で、誰か汚物を片付ける気はないか?」と、アレウスは周りを見渡した。
だが、誰一人としてアレウスと視線を合わせようとしないのであった。
「成程な、然う云う事になっていたか」
ザスの報告を聞き、アレウスは大きく一つ頷いた。
「へい、木の上から見た感じだとそんな風に見えやした」
「下で控えていたヘイグの話も併せれば、大体の処は見えてくるが……本当に何が目的なのかは見えてこないな、全く」
渋い表情を浮かべ、アレウスはその場で忙しなく左右に歩く。
「それは今本当に重要なことなのかい?」
「……まあ、今の最優先事項ではないな」
レイの問い掛けにアレウスは真顔で答える。
「ならなんで今悩んでいるんだい?」
呆れた顔付きでレイは問う。「悩んでいても仕方ないだろうに」
「今日みたいな奇襲はお断りなんでな。成る可く、連中とは絶対に関わらない行動を考えておきたいのだ。その為にも、一手目を間違えたくない」
「そんな完璧超人が居て堪るかああああああ!!」
真面目な顔でとんでもない返事を寄越したアレウスに対し、レイの堪忍袋の緒が遂に切れた。
「いると云ったはずだが?」
何でレイの癇癪が起きたのか理解できないと言った表情でアレウスは首を傾げた。
「君は違うでしょうが! どうにもならない事はならないんだから、虎豹騎推定五千騎、ルガナ方面から進撃してきた様子、進軍先は明らかにネカム、余程のことがない限りミールやソーンラント王都ラヒルには進撃してこない。これ以上の情報を持った“覇者”とは違う陣営の集団は僕達しか居ないんだから、この情報を一刻も早く、高く売り込みに行くのがどう考えても正解でしょう!」
一気に捲し立てるレイをぽかんとした顔付きで見てから、
「……ふむ、確かに一理あるな」
と、我に返ると同時にアレウスは大きく頷いて見せた。
「だったら──」
「先ずは雇い主を説得して報酬をせしめ取るとしよう」
レイに皆まで言わせず、アレウスは即断したことを宣言する。
「……ねえ、最初から分かっていて遣っていたでしょう?」
レイは間違いなく笑顔であるはずなのだが、時折洩れる得体の知れない気配に周りの誰しもが怯えた。
「そこまで買い被られてもな」
そんなレイ相手に別段変わったところもなくアレウスは肩を竦め、「お前の忠告の御陰だ。優先順位を変えたからこそ、こうもすんなりと決断できた。感謝するぞ、レイ」と、笑顔を向けた。
「……まあ、分かっているなら良いんだ、うん」
先程までの威勢はどこへやら、レイはなんでかにやけそうになる顔を
「誰も汚物の処理をしていないが、先ずは起こすとするか」
アレウスは汚物で足を汚さぬ様に踏み込み、商人の上半身を起こすと活を入れる。
一つ咳き込んでから、商人は何が起きたのか把握しない儘目を覚ます。
「さて、御機嫌如何かな?」
アレウスはこれ以上ない爽やかな笑顔を浮かべ、「御目出度う、ネカムに向かっていたのは虎豹騎だったよ。身に覚えはあるかね?」と、寝起きに聞きたくないであろう情報を平然と聞かせた。
「な、な、な……」
「無きにしも非ず、かな? さて、我々としては、違約金を払った儘この仕事を降りても良いのだが、些か事情が変わってね」
ニコニコと笑顔を浮かべた儘アレウスは本題を切り出す。「ネカムに向かったのは虎豹騎推定五千騎。どう考えても近隣を制圧するために送り込まれた軍勢ではない。まあ、この後本体がネカムを接収に来る可能性は否定出来ないが、そうだとしても本格的にここいら一帯を制圧開始するのには少しばかり時間が掛かると思われる。言ってしまえば、我々の命は先程までと違ってネカムにさえ行かなければある程度の安全が確保されたわけだ。故に、ミールまでならば違約金を返して貰えるならば御同行しよう。ミールより先は要相談と云った処だな。我ながら悪くない取引だと思うのだが、如何かね?」
「こ、虎豹騎五千騎だと?! 莫迦な、虎豹騎は“覇者”の手元にいるはずでは?」
「我々が知らない情報をお知りの様だ」
アレウスは傍目から見ると表情を変えないまま、くつくつと笑い声を上げる。
その指摘を受け、商人はあからさまに余裕のない表情を浮かべ、アレウスから逃げようと後退る。
「何々、今は気にしておりませんよ、今は、ね」
アレウスは意味深長な笑顔を浮かべたままで、「それで、返答は如何?」と、返答を迫った。
商人は左右を見渡した後、観念したかの様に首を縦に振るのであった。
程無くして、一行はミールに向けて出立した。
アレウスの読み通り、ミールまでは何事もなく到着し、虎豹騎がルガナ方面からネカムに向けて進軍したという話は傭兵
「それで、相談とは何ですかな」
アレウスは宿の部屋までやって来た商人を冷たい目線で迎え入れる。
「ネカムの無事が分かり次第向かいたい──」
「何を以て無事というのかお聞きしたいところですがね? 俺としては止めた方が良いとしか云い様がありませんな。少なくとも俺はラヒルに帰りますよ。死地に向かう趣味はない」
商人の台詞を遮り、アレウスはきっぱりと断る。「どうにもあちらからは嫌な予感しかしない。然う云えば、貴殿、興味深いことを口走っていたな。虎豹騎が“覇者”の手元にいないとおかしい。我らがルガナを立った時は攻囲されていなかった。それ以前に、“覇者”殿が攻め込んでくるという噂一つなかった。仮に、“覇者”殿が直接ネカムを狙うとしたならば、あの街道を使う理由がない。ルガナが“覇者”殿の攻囲を受けているとなれば話は繋がるのだが。さてはて、誰か答えを知っている方はいないものかな?」
「それは、その……」
「まあ、ネカムやルガナに向かう気が無いから俺には関係の無い話であったな。レイ、お客様がお帰りの模様だ。送っていって差し上げろ。少なくとも俺達がこの街から出るまでは野垂れ死にされると外聞が悪いからな」
同室の相棒に指示を出すと、アレウスは再び机に向かい何やら書付らしきものを記し始めた。
レイはアレウスの指示通りまだ何やら言い募ろうとする商人を部屋から追い出し、そのまま無理矢理商人が泊まる宿に送り届けようと外に出かける支度をする。
「それじゃ行ってくるね」
「気を付けてな。……どうやら知りすぎている様だからな、“覇者”殿の手の者がどう思っているか想像も付かん」
「やっぱり、ここにも入り込んでいるかな?」
ここに至ってはレイとて“覇者”が既にソーンラントを攻略する意思を固めていると考えざるを得なかった。誰しもが南のカペーを優先すると思っていたのだ。中原王朝の密偵が入り込んでいるにしても動向を探る程度と高を括っていたが、様々な調略を為すための腕利きの忍びの者が入り込んでいると想定して行動を取る状況であろう。
問題は、“覇者”がどこに重点を置いているかが見えてこないところであった。
「俺が“覇者”殿の立場なら当然やる。ならば、俺より優秀な方がそれをしない理由を見出せない。まあ、思い切ったことをするにしても、もう少し泳がせてからかもしれんが……流石にこの時点で指示を求めずに思い切ったことはすまい。最初から指示が出ているのならば兎も角、な」
「成る可く態度に出ない様にするよ」
アレウスの言いたいところを察したレイは、「要は自然体でいつも通りの動きをしておけって事だよね。見張っているだろう密偵相手にこっちが居ると想定して動いていることを気取られずに用心して」と、言外の言葉を自分なりに翻訳して見せた。
アレウスはレイを一瞥し、一つ頷いて見せてから書付へと意識を向ける。
得物を腰に佩き、自然体のままレイは部屋を出て行った。
開け広げられた窓から流れてくる風を感じながら、アレウスは書状を書き上げ、
「兄上の想定通りの流れかい?」
と、顔を上げながら問い掛けた。
「察知が遅れ申し訳ありませんでした」
いつの間にやら部屋に入り込んでいた男は丁寧に一礼した。
「構わないよ。どうせ兄上から聞いているんだろう? 命に関わる事ならば、誰よりも勘が働く、と」
アレウスは呵呵と笑い、「それで、調べは付いているのだろうね?」と、真顔で問い掛ける。
「“覇者”はルガナを包囲しております。只、その中にバジリカの精兵が居りませぬ」
「……ルガナを本気で攻めているのに中核になる軍がいないだって? どこに居るかは分かっているのか?」
アレウスはその報告を聞いて思わず考え込んだ。
“覇者”が中原王朝で実権を握るに至るまではそれ相応の権力闘争があった。中には当然武力で以て追い落とした者も居り、その時に尤も頼りになった兵が騎馬は虎豹騎、徒はバジリカ兵であったとされる。
中原の東端にあるバジリカ州はバジリカ大漢と呼ばれるぐらい発育の良い大男が有名である。そのバジリカ州で起きた大規模反乱を隣州の刺史であった“覇者”が見事に治め、その時に勇戦していた反乱兵を私兵に組み入れたのが天下に名だたるバジリカ兵の発端と言われている。
以降、“覇者”が赴く戦場には虎豹騎とバジリカ兵が付き従っていた。
「残念ながら」
主の弟に対し、男は恭しく応対する。
「余り宜しくない兆候だな。主立った将はルガナにいるのか?」
「虎豹騎を率いているのがルシュア・ベルラインである事を除けば」
「独眼竜か?」
アレウスは今耳にしたことが本当なのか冷静に二つ名の方を口にして確認を取る。
「盲ベルラインの方です」
男もまた、ルシュア・ベルラインの天下に知れたもう一つの二つ名を答えた。
「成程。後詰めに何処からかバジリカ兵が来たら本気でソーンラント西部を制圧する気だと確定するな。ソーンラントは東方にある旧都オーグロとの連絡線を回復させる為に東部戦線へファーロス一門を投入したことが仇となっているか」
「“江の民”を長年無視し続けてきたツケでしょうな」
男は静かに首を横に振った。
中原北部のアーロンジュ江は南のジニョール河と違い上流からの土砂が少なく、下流域に多くの湿地帯を生じさせる要因となっていた。この湿地帯に
「良くも悪くもソーンラントは中原の風習を受け入れすぎた。人間至上主義が何の役に立つやら」
アレウスはつまらなそうに首を横に振る。
本来中原と呼ばれていたのはジニョール河下流域の大平原地帯であり、古くから人間だけが住まう地域であった。その為、他の地域で他の人類種や亜人種に出会うまで世界は人間のためにあると考える文化文明を育んできた。他の種との交流の末、中原にも人間以外の人類種が入植してきたのだが、ある時とある宗教家が人間以外は人類種にあらず、蛮族なりと打ち出した。これに大衆が迎合し、中原で人間以外の人類種を虐殺するという妄挙が吹き荒れた。この動乱が収まるのに相当な年月が掛かり、中原に住まう人間と近隣の人類種や亜人種との溝が大いに深まった。
今でもこの種の諍いは収まったとは言い切れず、法の下による融和路線を邁進する西の“帝国”の勢力が
「本来ならば、ソーンラントは人類種の寄り合い世帯と言うべき政体でしたからな」
ジニョール河と違い、アーロンジュ江は“江の民”を始めとした人間以外の人類種や亜人種が流域全体に居住しており、ソーンラントの成り立ちにも関わっている。しかし、ソーンラントが拡充しジニョール河を祖とする国と境を接した時、交流が始まり入ってこなくて良い文化も流れ込んできた。
その一つが人間至上主義である。
それに
「“覇者”殿は南を無視してソーンラント併合を先に選んだのかな、こうなると」
「急ぎ情報を集めますれば、暫しお待ちを」
「それを兄上がどう判断なさるか、か。やれやれ、次も間一髪になりそうだな」
「誠に申し訳なく……」
恐縮する男に、
「これが今回の報告書だ。兄上に宜しく頼む」
と、書状を手渡した。
「承知仕りました、アレウス様。必ずや若様にお渡し致します」
男はそう言うと、現れた時と同じ様に一陣の風だけ残しその場から消える。
アレウスは暫し窓際に
「やれやれ、何で俺は争乱に巻き込まれるかね」
と、苦笑しながら窓を閉じた。
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