緑の蓋の

ハル

第1話

「お前、本当に辞めるのか?」


人と関わることが苦手な潤伍にとって、足取りは鉛を引き摺るようで、何かのバリアでも張ってあるのかと思われる居酒屋の入り口を漸く潜り抜けたのに、乾杯後の開口一番がコレだった。

発したのは、潤伍より半年遅れで同職になった羽鳥昇太郎だ。

近いとはいえ、潤伍より2つ年下の彼は最初から馴れ馴れしくタメ口だった。

不味いビールを一瞥してから、潤伍は短く「ああ」と返事する。

羽鳥は少ないメニューからいくつか見繕いながら、「もったいないなぁ」と呟いた。


2020年、11月2日、9時38分。

東京オリンピックの熱が冷めやらず、世間がまだ浮き足立っていた中でアレは起こった。

[スーパーフレア]

太陽表面にて最大級の爆発現象[フレア]、その何百ないし何千倍のエネルギーを発するのがスーパーフレアである。

フレアは、太陽における黒点に蓄えられた磁場エネルギーが一気に放出される現象で、この時、太陽からは破壊的なまでの大量の粒子が放出される。

その粒子が地球磁場圏に衝突、侵入すると巨大な磁気嵐が引き起こされ、通信システムの障害等を引き起こす。

近年では1859年の3月。

カナダのキャリントン州を中心に、フレアによって大規模な停電が発生し、600万人が被害を受けた。

これは[キャリントン・フレア]と呼ばれる有名な話だ。

2020年に起きたスーパーフレアは、憶測でキャリントン・フレアの500倍はあったのではないかと言われている。

なぜ憶測なのかは簡単な話だ。

スーパーフレアが発したプラズマ粒子は、地球の磁場圏やオゾン層すら破壊し、停電、ナビゲーションシステム、GPSは乱れて交通網は大混乱を起こした。

飛行機はおろか、地球軌道を周回している全世界3000個強の人工衛星は全て墜落。

電車は止まり、勿論コンピューターネットワーク等と云うモノは機能せず、この現象を正確に把握、観測するに可能な機器等は役立たずだったからだ。


その年、小幡潤伍は内定も決まらないまま最後の大学生活を送っていた。

内定を貰えなかったのはただの怠慢だった。

2年半同棲した彼女が亡くなってから、彼は抜け殻同然となった。

蒼井夏。

オリンピックを楽しみにしていた夏は、その名の通り潤伍にとっては爽やかな初夏の風のような存在だった。

大学近くの弁当屋でパートをしていた彼女に一目惚れをし、らしくもなくナンパした結果。


「私、軽い男って嫌いなんです」


しかし、これまたらしくもなく毎日昼夜の弁当を求め、また彼女をも求め続けた。

遂に失笑交じりに受け入れた彼女の笑顔も、潤伍にとってはまだ新鮮だった。

涙脆くて、困ったように眉を下げながら、でも臆面もなく大口を開けて笑う。

ブランド品には興味を示さず、服も家具も中古を求めることが多かった。

テレビっ子でインドア派かと思いきや、アウトドアでもおおいにはしゃぎ、細かい事を気にせず、少しずぼらな面も気に入っていた。

何をしてもあっけらかんと笑う夏が、潤伍の全てになった。


同棲から半年、潤伍の母親が胃癌で亡くなった。父は高校最後の冬、受験に勝利した後にやはり病が原因で亡くなっていた。

おしどり夫婦とはやされ、息子が恥ずかしくなるくらいに仲の良かった2人だ。

後を追うように静かに逝き、彼女を紹介する事も出来なかった。

普段はすぐ泣くくせに、その時の夏は泣かなかった。

ただじっと、喪主の潤伍を抱き締め続けた。

夏は孤独だった。

小学生の時に両親を事故で亡くし、親戚をたらい回しにされた挙げ句、結局は20歳ハタチにもならない歳で自らの生計を立てていたのだ。

夏のそんな強さに、優しさに更に溺れていく。

そんな直後、彼女は茶トラの子猫をも拾ってきた。霧雨の中、湿ったダンボールで丸まる子猫を放っておけないと。

動物好きの夏だ。気持ちは潤伍にも解ったが学生用の1Kのアパートで猫などもっての外だと里親探しを勧めたが、結局負けたのは彼の方だった。

郊外にある平屋の古民家を買ったのは、猫、夏との生活、親の遺産、いろんな要因がそうさせた結果だった。

とはいえ、親の遺産が大金のわけもなく、空き家を買ってスッカラカンになった彼らはリフォームを自らする羽目になる。

しかし、それもまた夏のお陰で楽しい作業となった。

潤伍のバイトと夏のパート。

いずれは会社勤めをして、結婚するのだろうな。

漠然とした、しかし確信的な想いがあった。


なのに…。

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