②
†
ある日のことであった。いつものように誰かが小窓の向こうに座る気配がした。
「告解ですか?」
エレオスは読んでいた本を置いて声をかける。しかし、相手から返事はなかった。
――冷やかしか?
ここにいる神父が見習いのエレオスだと知っている幼馴染みが、時折彼をからかいにやって来ることがあった。またその類いか?と少し苛立ちながらも、そうでないととんだ無礼を働くことになるので、彼は仕方なくいつものように優しい声で言う。
「大丈夫、どんな罪でも必ず神は許します。どうぞ、嘘偽りなく告白してください」
そう言っても返事はなかった。エレオスは苛立ちを募らせながらも、黙って相手が口火を切るのを待っていた。
すると、小窓の向こうの誰かが立ち上がる気配がした。いよいよ冷やかしかとエレオスは忌ま忌ましそうに唇を噛む。バタンと扉を閉める音がしたので、彼は心底不愉快そうに舌打ちをした。
その時だ、
「師匠を救えなかったよ……」
弱々しい声が聞こえてきた。聞き覚えのあるそれに、エレオスはハッとして閉められた小窓の方を見つめた。
「俺の、罪だ。最初にして最大の罪。それは……」
医者が、救える命を取りこぼしたことだ。
言葉の最後は嗚咽混じりで判別しがたかったが、確かにエレオスはそう聞いた。エレオスは慌てて小窓を開いた。告解を聞いているときはけして開いてはならないと定められているその小窓を……。
その向こうには小さくて頼りない少年とおぼしき影が扉の前に膝を抱えてうずくまっているのが見えた。
「俺だけしか、救えなかった。医療魔法を使って命を分け与えることは、俺にしかできないことだ。死ぬことなんて怖くない、そう思っていたのに……っ!」
必死に涙を拭いながら、影は告解し続ける。
「いざとなったら、身体が震えて動かないんだ。死にたくない、って誰かが叫ぶんだ!あんなに世話になっておきながら、最期の機会を、俺は無下にして……っ!」
こんなことになるなら、医者なんていらない!自分なんていらない!用無しの無能の役立たずだ!
悲痛な叫びだった。エレオスは唇を噛み締め、声をあげて泣き出したその影に言った。
「医者とて全能ではありません、神は貴方を許します」
「許してくれるなら、俺を殺してよ!命を奪った俺は、命を奪われて当然の身なんだから!」
「……っ、甘えるんじゃねぇ!!」
気づいたらそう怒号をあげていた。泣いていた影は怖がるように身をさらに縮めて肩を震わせている。
「てめえが死ぬことで何になる!救える命をさらに捨てさせるつもりか!?」
「……レオにはわからないよ。大切な人を救えないで、何が医者だ」
「だから、俺に殺されるためにわざわざ来たってのか!?ふざけんじゃねぇ!」
エレオスは小窓の向こうに出る扉を開けて、小さな影と相対した。
それは彼もよく知っている幼馴染みの少年、告解したのは人を救えなかった罪だ。しかし、彼はけして許しを得るために来たのではなかった。
「命を捨てて許されようなんて、お前それでも医者なのかよ!それは、許しでも何でもねぇ!ただの逃げだ!」
「……っ」
そう、彼はただ現実から逃げ出したいだけ。死んで許されるというとはそういうことだ。
時には逃げたっていい。足掻いて足掻いて、その苦しみの果てに自分が狂ってしまいそうなら。だが、なにもしないで逃げるのはただの甘えだ。
「逃げて罪の意識から救われるくらいなら、てめえが救える命を救って見せろよ!それが贖罪ってもんだろうが!」
「贖、罪……」
「そうだ。いるかいないかもわからない神に許しを請うても、てめえは納得しねぇに決まってる。だったら、てめえがてめえを許すまでやるしかねぇだろうが」
告解したから、神はてめえを許す。だが、俺はてめえが命を粗末にしたことを許さない。だから、てめぇのことは絶対殺してやらねぇ。生きて償え馬鹿野郎。
そう言ってエレオスは少年の頭にげんこつを降り下ろした。優しく、叱るような、げんこつだった。そしてその手で、彼は少年の頭をそっと撫でてやった。
「頑張ったな……」
彼の言葉に少年は大粒の涙をこぼして泣いたのだった。
告解室に来る者は人でなしばかりだと思っていた。救う必要も許す必要もない人間ばかりだと思っていた。しかし、どうしようもなかったことに悔い、苦しみ、時に自分の命を投げ出そうとする者もいるのだ。
自分の勝手で苦しむ者を許す必要はない。だが、どうしようもないことを悔いて苦しむ者は、誰かの救いの手が必要なのだ。
許し、それは咎めないことだ。また、罪を咎めずその気持ちを救うことだ。
――神なんていない。だから、神じゃなく俺が、許す。……それで少しでもどうしよもない苦しみから救われる人間がいるなら、この仕事も悪くねぇかもな。
嘘つきのエレオスがどうして教会に固執するのか。それはまた別の話である。
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