やさしきもの
風で水面が揺れるように。それがぶつかり合い、波になるように。そのようにして、パトリアエ中央軍がバシュトー軍に与えた衝撃は伝播していた。それに逆らうようにして突出してきた一騎は、紛れもなくシトであった。
どうにもならぬ波に抗い、それをすることで、己の何かを示す。そういうつもりであるのかもしれない。
その馬の操り方と剣技は、凄まじい。黒い墜星というものは人の中に畏怖とともに存在しているから、その向かうところに当たる兵には恐怖が生じるものらしく、それをいとも簡単に叩き落としている。
なにか、声を張り上げている。バシュトー人を、鼓舞しているのだろう。スヴェートの知らぬ言葉を、長い戦いの中でシトはその骨身に染み込ませているのだ。
シトがバシュトー語でなにかを叫ぶたび、軽騎兵は声を重ね、勢いを増した。
史記に描かれる情景としては珍しいことであるが、このとき、空を覆っていた雲が切れ、陽が差したという。旧暦二月のことであるから、おそらく、傾きを見せつつある頃であろう。
それが、シトだけをぽっかりと浮かび上がらせるようにして、それを後ろから見たバシュトー人は狂喜し、奮起した。
よく、史記を題材にした絵画などにおいてはこのときのシトの姿が描かれる。それは黒馬を棹立ちにさせ、剣を振りかざし、陽光を浴びて何事かを叫んで頬を歪めている。それを、滅びゆくものが見せる最後の輝きであるとする者もいるが、果たしてどうか。
──星、星、星。そればかりではないか。
スヴェートは、不服そうに呟いた。
──それが落とす影。死にこだわる生。これこそ、歪みではないか。
剣を。もはや、マーリの策はいらない。もう、そういう段階ではないのだ。
「最後にしてやる」
言葉にした。何人もの人が、それを耳にした。
なにを、最後にするのか。この無残で無意味な戦いか。抗い、戦うことをやめぬシトの生命か。それをしなければならぬ世のことか。
「我がために奪うなら、それは賊と同じ」
彼の決起のときの言葉である。彼の理屈では、その意味ではザハールもその辺の賊も変わりない。彼が知ったのがリシアという存在であるなら、彼は、同時に、知った。
──人であるなら、人のために与えなければならぬ。
それが生であり、いのちの原則であると。
国など、後から付いたただの理屈である。志など、もともと弱く、我が足で立つことすらままならぬ赤子のような人が暴れる風の中で立つための口実に過ぎぬ。
龍も、大精霊も、どこにもいない。
ラーレは、死んだではないか。ザハールも、おそらく。リャビクも死んだ。それ以外にも、多くの、あまりにも多くの人が。
そして、今生きている自分も、この戦いを終えたとしても、やがてザンチノのように老いる。それは、人というものが産まれたその瞬間から、死に向かって進んでゆくからである。
産声を上げた瞬間、自分はどんなだっただろう、と思った。そのとき、今こうして片目を失い、片腕が上がらぬようになりながらなお戦場にあり、死を積み重ねていると思っただろうか。自分の産声を聴いた人は、自分にそれを願っただろうか。
自分は、今まさに右手に感じるような、骨を断ち切っていのちを終わらせる手応えを感じたいと願っていただろうか。たとえば自分を育てたザンチノに、老いた体に鞭を打ってまた戦いの場に赴いてほしいと願うだろうか。
リシアに、それを願うだろうか。
自分がリシアに願うのは、ただ、その生に幸あれと、そのことのみではないのか。
生きるとは、願うことではないのか。
我がいのちを、我が知る人のために。それは、投げ捨てることではない。星になって、自分の歌を人が歌うようになるときは、今ではない。
シト。決死の形相で、迫ってくる。明らかに、自分を狙っている。将の首を取れば、なるほど、戦いは終わる。シトもまた、自分と同じ思いを抱いていて、それがために自分のところに少しでも早く至ろうと中央軍の激しい攻撃を突破しようとしているのだろうか、とふと思った。
歩兵が追いついてきてしまえば、もはや手遅れである。傷付いたバシュトー軍は、飲み込まれるようにして消滅してしまい、シトは望むものの方を向いて死ぬことすら叶わぬだろう。
そうなる前に、少しでも前へ。腕を伸ばして。もしかすると、届くかもしれぬ。掴めるかもしれぬ。それが、彼の希望なのだろうか。
差し込んだ陽の色は、先ほどよりも濃い。日照の少ないパトリアエでは、よくあることだ。
どこにでもある、ありふれた陽の下、どこにでもある、ありふれた死を積み上げる。スヴェートも、シトも、互いにそれをした。彼ら以外の全ての人も、同じようにした。
陽を受けて、血が光り輝いている。踏みつけられ、ぱっと散り、なお輝かんと、その跡を遺さんと欲するかのように、滴になる。それを見て、スヴェートは、眉をひそめた。
次の瞬間、馬腹を強く蹴った。周囲で戦っている兵が、あっと声をあげた。なぜだろうと思い、自分が傷ついているからだと思った。この戦場にあり、自らのいのちを血と泥の中に投げうつような行いをしながら、なお自分が傷付いた体で戦おうとすることを案ずる。それができるのは、人だからだ。このような場においても、人とは、やさしい。
ぐんぐん近づいてくる。シトまでの距離を、妨げる者はない。いや、無数の武器が突き出されてくるが、スヴェートを捉えることはできない。
その刃の林を抜けた先、ぽっかりと空いたところに、旗が翻っていた。その中で、黒い龍が天を目指し、風を受け、強く揺れていた。
「お前そのものだな」
見上げ、声を。
「パトリアエ復活の巫女の軍、スヴェート殿とお見受けする」
こんなにも若いのだ、と思った。そういう声だった。自分よりも、歳は下なのだ。血染めになってはいるが、白銀の軍装をしていて、混血の色をした肌を見て、自分がスヴェートであると言い当てたのだろう。その口許には、歓喜と言うべきものが浮かんでいた。
「我が父は、おそらく死んだろう。人が英雄と呼んだ黒い墜星は、パトリアエに謀られ、叛かされ、奪われてはならぬものを奪われたのだ。それを
スヴェートは答えず、片手で器用に馬を輪乗りにしている。
「妹を、返せ。母の身を、開放しろ」
それが、シトの望み。この場にあって願うことのできる、たったひとつのこと。
「謂れなくして奪う。いや、人が人から奪うという行いは、この世にあってはならぬもの。私は、父よりそう教えられ、育った。それを正すことが我が為すべきことだと思い定め、ここまできた」
刃の厚い剣が、光を吸った。ところどころ欠けている。それが、少し開いた。
「なぜ奪う。なぜだ」
問われて、スヴェートは困惑した。自分は奪うどころか、むしろ奪うことなく守り、与えていたいのだと思った。
かつて、まだスヴェートが何者でもなかった頃に剣を交えた賊のことを思い出した。それと向き合ったときのような苦さが、噛んでも噛んでも飲み込めぬ肉の筋のようなものが、ふと蘇った。
「私は、お前たちを、決して許さぬ。妹は、巫女などと言って人の前に立つべき者ではない。母はかつて同じようにしたというが、しかし、ただ父を愛するだけの女なのだ。妹や母だけではないはずだ。あまりにも、多くの者が。そして、あまりにも、理不尽。お前たちは、それをし、身を肥らせ、ここまで来たのだ」
殺意。それが、鮮やかな色で塗られ、香った。スヴェートは無意識に剣を向けた。そういう身体に、そういう存在になってしまっていた。
「来い、スヴェート。私のものを、奪いに来い。真っ向から受け、己が正しさを示してやる」
スヴェートは、いちど瞑目した。瞼で風を嗅ぎ、それを開き、唇をも開いた。
「望むとおりにしてやる」
白馬が首を下げ、駆けはじめる。
長剣を、低く開く。
シトの目鼻が、はっきりと分かる。そこで、また声にした。
「ゆくぞ、やさしきものよ」
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