名のない死
パシハーバル。彼のことを、筆者は想像する。このウィトゥカ大会戦における彼の行動についての理由は長年、人の議論の題材となってきたが、ここでは筆者の想像をもとに彼のことを描く。
筆者は、議論を全く好まぬ。もとより真実を暴こうなどと大それたことは思わぬし、歴史においてある時点で誰かが定めた真実が、数年後にはまた別の真実に書き換わっているなどというようなことは日常茶飯事だからだ。ゆえに、ほんとうはどうであった、などと声を荒げて口に唾する意味合いがきわめて薄いような気がするのだ。
筆者がするのは真実の提示ではなく、文字の中の存在となった彼らに、再び血と心と魂を与えること。
そういう目で、パシハーバルのことを描く。
彼は、遠く混沌が渦を巻く戦場を見ていた。戦いというものがこれほど恐ろしく、無残で、一方的なものであるとは思わなかった。
スヴェートの力量は、認めざるを得ないものがあった。用兵についての知識は皆無と言ってよいがその幕僚に恵まれており、なによりそういう逸材を惹きつける何かが彼にはある。ラーレに言われて模擬戦をしたとき、パシハーバルは完膚なきまでに叩きのめされた。あれが実戦であったら、瞬く間に首を取られていただろうと思う。
スヴェートの軍とは、かつてのウラガーン軍がこのようなものであったのだろうということを思わせるようなものであった。それが、わけの分からぬ武装で飾っただけの、馬が曳く車にいいようにされている。
一万を超える兵のうち、何人が死んだのか。敵の戦車は、何台あるのか。そういうことを、見通そうとした。しかし、見えるのは、ただ無造作に土煙の中に積み上がる、死。
そうするうち、王の軍が動き出した。それが目指す方を顧み、黒い墜星までもがこの戦場に来着したことを知った。王の軍の位置から、どうやってそれを見ることができたのかは分からない。よほど注意深く探査していたのか、はじめから知っていたのか。
スヴェートの救済のためではなく、その迎撃のため、王は動いた。
その瞬間、パシハーバルの中で何かが崩れた。
スヴェートが自軍を敵の猛攻に曝しているからこそ、王は動くことができるのだ。それゆえ、黒い墜星に向かい、矢のように駆けている。しかし、それは即ち、スヴェートを餌にしてバシュトー軍に存分に食らわせ、自らが動くことのできる時間を得たということである。
──王ですら。
パシハーバルが信じ、しがみつき、理想としてきた世界は、張り裂けた。
次の瞬間、驚くべきことを口にしていた。
「もはや、これまで」
黒い墜星がここに来たということは、戦いの女神ラーレは撃破されたということである。人に触れることのできぬ武が、大精霊の盾を破るほどの力を、十聖将の全てを失ったパトリアエはどうしようと言うのか。
宰相サヴェフの死。それも、大きい。なんでも王はサヴェフの死を声高らかに叫び、弔い合戦のようにしてここまで軍を進めてきたというが、馬鹿な話である。
パトリアエというのは、いわば宰相サヴェフ一人で保たれていたようなところがある。それが死ねば、国は荒れるに決まっているのだ。このようなときはしっかりと腰を据えて目先の戦いを終息に向け、その先の政治というものを見定めねばならないのに、王は自ら戦いに出た。
そして、いのちを曝している復活の巫女の軍をおとりのように使い、自らは思うようにして動いている。
──王ですら。
これまで、王とは尊いものだと思っていた。しかし、違った。王とは、武でもって人を統べるだけのもので、ただ己の思う通りにしか生きられぬただの人なのだと思った。
愚である。これ以上、それを続けて、どうする。
全てが、腹立たしい。そのように無価値で勝手で利己的なものですら、自分を認めようとはしない。
いや、認められぬのだ。自分を認めれば、己の誤りをも認めることになるからだ。だから、自分はいつまでも光のないところで
世の理が見えた気がした。それは、自分を辛うじて支えていたものを破り、打ち捨てるには十分なものであった。
復活の巫女。なにが蘇るというのか。
あの恐ろしい黒い墜星は、それを求めている。それならば、差し出してやればよい。そうすれば、この天地から争いは消え去る。
王も、英雄も、巫女も、何も必要なかった。それに依りかかってきた己を嗤いたいし、それを一としかせぬスヴェートを唾棄したいほど憎んだ。
「もはや、これまで」
史記に記された、このときの彼の唯一の言葉である。それが、上のような心持ちを物語っている。
まず、自らが馬を進ませ、駆けさせ、復活の巫女を取り巻く五百ほどの兵に剣を付けた。あとに続く者も、それと同じ行いをすることがこの地獄のような戦場から解放される唯一の手段であるという将帥の思考に同調したのか、同じようにした。
河の方では戦車が殺戮を繰り広げ、背後からは黒い墜星。勝ち目など、あるはずがないのだ。あるならば、復活の巫女を捕らえ、差し出し、降伏することしかない。誰もが、それを信じた。
一人、二人、三人。パシハーバルは、自ら手にかけた者を数えるのをやめた。
驚きと怒りと憎しみが入り乱れた目から光が消え、墜ちてゆくのを見るのをやめた。
五百の兵である。いかにそれが精強であったとしても、万からなる中央軍の猛攻を受けて長くはもたない。すぐにそれはこの地上から消滅する。
そのはずであった。
パシハーバルは、見た。ひときわ大柄な一騎が鬼神のごとく暴れ狂うのを。
兵がわっとそれに集まり、一斉に刃を付けた。馬が倒れ、その鬼神は槍の、矛の、剣の、斧の林の中に沈んだ。
それでよい。それこそが、パシハーバルの行いの正当性の証明。彼は、思わず笑んだ。しかし、次の瞬間、その笑みは凍りついた。
将とおぼしきその一騎に群がっていた兵が、枯れ枝のように吹き飛んだ。三人、いや、四人か。
続けて二人。さらに三人。
無骨な輝きを曇天に向けるその姿が、再び露わになった。
それは人の背丈ほどもある大剣を携え、獣ですら縮み上がるような咆哮を上げている。
剣だけを残すようにして、左足で踏み込み。遅れて、剣が主を慕うようにして旋回を始める。鎧が火花を吹き、腰が大きく回転を始め、荷重が剣にのしかかるのが目に見えるようだった。
高らかに上がる右脚。それが地を叩く前に、上がり続けている咆哮がさらに高くなった。
右脚を地にめり込むほどに強く踏み込ませ、同時に、大剣が唸る。
パシハーバルは、硬直した。これが武なのであれば、自分が今まで見ていたものは何であったのかと思うようなものが、そこにあった。
鎧を纏った兵が、その鎧ごと、しかも複数、ばらばらに粉砕されたのだ。それは斬撃というようなものではなく、なにかもっと別の名を与えられるべき一撃であった。
──
そう、呟いていた。
大剣が振り切られるその勢いに身を預け、さらに一歩。身体ごと一回転させ、次の一撃。それで、またさらに兵どもがばらばらになって吹き飛んだ。
たった二振り。その二振りで、万からなる中央軍の寄せが止まった。誰もが、生まれてはじめて見るものを前にしたときのように、息をすることを忘れて静止している。
復活の巫女を取り巻く者は、もう半数ほどに減っているか。しかし、それに向かって、大剣の将は声をかけた。
「このリャビクの剣の向くところ、中央軍も黒い墜星もねえ。打ち砕け、ぶち壊せ。自分の生を、剣で結べ。お前たちは、そのためにここにいる。そうだろう」
見る間に殲滅されるかと思われた復活の巫女の取り巻きが、それで一気に勢いを得た。勢いを得たことで中央軍はそれに対する反作用を示すようにして再び気勢を取り戻し、乱戦になった。
リャビクの戦いぶりは、史記にも濃く残されている。文字通り竜巻のような一撃を与える度、何人もの中央軍の兵が消し飛んだ。
十人、二十人とリャビクの兵はその数を減らしている。いかに気勢を上げようとも、万からなる猛攻を、どうすることもできないらしい。しかし、やはり普通の状態ではないらしく、中央軍にも考えられぬほどの損害──たとえば数千からなる精鋭に当たるときほどの──が出ている。
「やれ。殺し尽くせ」
リャビクの指揮は、凄まじい。パシハーバルは、ただ血を流し合う両軍を見ているしかなかったという。このときの彼の心のうちというものは、どういうものであったろうか。
剣のひとつが、リャビクの肩を薄く斬った。それで弱まるかと思われた竜巻の勢いはさらに増し、振り撒かれるリャビク自身の血と敵兵の血を混ぜ合わせた。
一創、二創。リャビクは、どんどん傷を受けてゆく。彼の剣は一撃必殺で、このような場において複数の方向から来る刃を受けたり流したりするような巧緻さはないから、突き出される槍や振り下ろされる戦斧ごと弾き飛ばすような
だんだん、疲れてきている。疲労と失血のために手に痺れが来ているのか、片方ずつ柄から離して唾をし、固く握り直した。
もう、復活の巫女の取り巻きは数えるほどしかない。そのほどんどが屍となり、この原野に転がっている。それの倍ほどの中央軍兵も、同じような姿になっている。不思議なもので、そうなるとどちらがどちらであるのか見分けが付けづらいとこのとき生き残った誰かがのちに述懐したと言うが、まさにその通りであろう。
死ねば、ただ屍となる。そこに国も思想も正義も質量も意味もない。リャビクが、またそれを生み出した。今このときにおいて、彼はそのためだけに存在した。
復活の巫女を、守る。そのことしか、彼の思考は向いていない。
どうなれば、守ったことになるのか。万を超える中央軍を、殺し尽くすことか。
彼は、自らの振るう大剣がそれほど長くは保たぬことを知っている。では、彼は、何をもってして復活の巫女を守ろうとしているのか。
「リャビク!」
その叫び声が、パシハーバルの耳にも届いた。それほど、人は減ってきているのだ。ざっと見て、中央軍の損害は、千を超えているようだった。そのうち百はリャビクの大剣によって葬られたであろう。もはやその刃は鈍り、斬るということはできぬような状態である。しかし、それでもその尋常ではない質量で兜や胴鎧を叩かれれば即死する。
百が百十となり、百二十となった頃、槍の一筋がリャビクの脇腹を深く捉えた。リャビクは一瞬動きを止めたが、さらに太く叫ぶと、なお荒れ狂った。
彼は、守ろうとしている。
彼は、守るということを知っている。
それが、もうすぐここに来る。
驚くべきことに、パシハーバルの直属の兵が、ほとんど屍となっていた。
馬上、思わず、腰が引けた。その様子を見て取ったリャビクが、しっかりと眼を合わせてきて、言った。
「守り切ったぜ」
パシハーバルは、周囲を見回した。王の軍は矢のように飛び、西から来着して今まさに戦場に介入しようとしている黒い墜星の軍に当たろうとしている。その将ザハールを一息に討ち取るつもりなのかもしれぬ。
あの、戦車によって蹂躙されている戦場は。そこにある、スヴェートは。見渡したが、どこにスヴェートがいるのか、生きているのか戦車隊に粉砕されたのかは、分からない。
しかし、異様なものを見た。
たった一騎。たった一騎の騎馬が、戦車隊に蹂躙される混沌の場から飛び出したであろう一騎が、このわずかな隆起となっている本陣を目指して疾駆している。
「守り切った」
リャビクが、満足そうにまた言う。襲い来る斬撃を受けることができず、肩口から深く斬られた。もう、鎧もその下の衣も自らの血と返り血で真っ赤になってしまっている。
膝をつきかけたが持ちなおし、なお剣を振るう。
槍で突かれても、剣で斬られても、どれだけ血を流しても、その竜巻は赤さを増すばかりで止むことを知らぬようだった。
地響きを立てて、大剣が地を打った。もう、それを振るう力がないらしい。
腕を差し出し、振り下ろされる剣を受けた。肉に刃が入った瞬間にリャビクがその腕に力を入れると、膨れ上がった腕によって刃はぴたりと止まり、押すことも引くことも出来ぬようになった。驚いて慌てる兵からその剣を奪い取り、また屍を作った。片手で血煙を巻き上げながら荒れ狂い、いくつもの死骸を自らの足元に重ねた。なにか目に見えない線があって、復活の巫女に至ろうとしてそれを越えようとするものに応じて屠っているようであった。
もう、声もない。その力がないのだろう。それでも、リャビクは剣を振るうのをやめない。一振りする度に肩から、脇腹から、脚から、口から血を吹き出している。その度に、いのちが終わりに近づいてゆく。
永らえることなど、考えてはいない。守り切ることだけを、考えているのだ。
王が先頭に立って疾駆を見せる一軍が、黒い墜星率いる新手にぶつかった。それを横目で見て、パシハーバルは馬を進めた。
この鬼神のような大男を、どうにかしなければならない。すでに、それは死線を越えている。今さら死を厭うようなパシハーバルではない。自らもまた死地に身を置くことでしか、この暴れる風は止められぬと思い、馬ですれ違いざまに首を飛ばしてやろうと思った。
戦車が蹂躙する戦場から抜け出したであろう一騎は、どんどん迫っている。もう、それが何者であるのか、パシハーバルには分かっている。それがここに至る前に、復活の巫女を手に入れなければならない。
馬。地を蹴り、速度を上げた。
リャビクの姿が、手が届きそうなほどに近くなる。呼吸は浅く、もはやそのいのちは消えかかっているのだということが分かった。
すれ違う。
血飛沫が激しく飛んだ。
パシハーバルは、何かを斬った手応えを感じていた。しかし、同時に、自らの身体が宙に放り出されていることも知った。
リャビク。首の付け根を斬られ、血を吹き出させている。それほど多くない。血柱を上げるほど、血が残っていないのだろう。パシハーバルの斬撃は、彼の首を胴から離すことはできなかった。
その代わりに、パシハーバルの馬が姿勢を崩し、転んだ。リャビクによって脚を斬られたらしい。
リャビクは、剣を振り切った姿勢のまま、静止している。
復活の巫女が、何かを叫んだ。何と言ったのかパシハーバルが知覚しようとしたところ、自らを見下ろす影に顔を上げた。
スヴェートである。単騎であの混沌を抜け、ここに来た。
「皆が、行けと言った。自らのいのちを盾にして、リシアのもとへ行く道を俺に与えた」
全身、血にまみれている。傷を受けたのか、片目が潰れているらしい。左腕も上がらぬのか、右手だけで手綱を握っている。しかし、静かな声である。この声を聴くたび、パシハーバルの心は波打った。
「リャビク」
短く、呼んだ。
「こういうとき、士として呼んでやるべきお前の名を、俺は知らない」
リャビクは振り返ろうとして身をよじり、そのまま我が身を支えきれずに倒れた。
誰もが、分かった。
死んだのだ。
彼が死したあと、大精霊の前で名乗るべき名を知る者は、どこにもない。だから、彼は、ただのリャビクとして史記に刻まれている。ただ、その真名が何であったのかということ以上に、彼が何のためにそのいのちを燃やしたのかということは史記を見る全ての人の知るところとなっていることは確かである。
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