五〇九年二月八日の朝
全軍、展開。距離を保っているから、王の軍が下船の隙を突いて襲ってくることはない。シトは、二万からなる自軍の兵のうち半分を、さらに四つに分けて方陣を組ませた。守りの陣形である。
残りの一万は、未だ船に留まって、何か作業をしている。一万の方陣は、それを王の軍から守るため。そういう構えであるように見える。
父は、どうなったか。そのことは、あまり思わなかった。もしかすると、もう決着がついているのかもしれず、まだ睨み合っているのかもしれぬ。どちらにしろ、父が負けるようなことはない。百度戦って負けなかったのなら、百度一度戦っても負けはしないと思うのだ。
船からは、続々と食糧や物資、馬が降ろされている。百五十艘の船に搭載してきた馬は、一万五千頭。いくらその構成員のほとんどがバシュトー人であるとはいえ、二万の軍には多すぎるほどの数である。
荷や馬を降ろしても、兵はなお船に取り付いて作業をしている。そして、奇妙なことに、あちこちに泊めた船のほとんどが、岸に乗り上げるような格好であった。これでは、再び進水するときに苦労する。
後方がそういう状況であると報告を受けたシトは、満足そうに頷き、
「王と、じきじきに差し向かうのだ。気を緩めるな」
と眉を厳しくした。
そこで、ふと思った。
王の軍は、一万。自分が連れているのは二万の兵と、一万五千の馬。さらに、秘策中の秘策であるペトロの船もある。
──それがあれば、勝てるのではないか。
答えるものはない。口に出してはいないからだ。
──いや、勝てるぞ、これは。
講和をするにしろ何をするにしろ、王の軍が出てきているのだ。それを撃破したとあれば、戦いはもうそれで決着するではないか。
そう思うと、自分が父に言いつけられた通りの動きしかしていないことが歯痒くなってきた。
──父は、自分の戦いをしてきた。俺も、そうあるべきだ。
もう、従うべき軍師はいない。その死を悼む暇すらない。父も、自分も、ペトロの死を知り、そのあとどうするのかということを人前ではさかんに話し、それが終わって夜になってから、星を見上げて泣いた。
星を見上げながら涙が目に溜まると、全ての星が滲んでひとつになる。ひとつひとつの星はそれぞれ別に光っているはずなのに、その光がひとつになって滲んで見えるというのは、彼らを思う己の心が一つだからなのかもしれぬと想像した。
──父の剣は、まさしく、涙の剣だ。
父は、おそらくこれまで何度となく星を見上げて過ごしてきたのだろう。その度に、星の光は一つになり、その視界を覆い尽くしていたのだろう。
死を思い、それが紡いだ生を繋ぎ合わせ、一枚の布にするような。剣を振るうということは、そういうことであるように思えた。だから、父の剣は、まさしく涙の剣と名を与えられるに相応しいのだろう。
早く、その悲しき業から父を、己を解き放たねばならない。そして、復活の巫女などとして祭り上げられている妹と共に、母のもとへ。
それこそが、自分の求める光。世のために戦った先にある、己の姿。
積荷を降ろしきったと報告があった。まだ、王の軍は動く気配はないという。
不気味である。人が語る英雄譚というのは黒い墜星ザハールや戦いの女神ラーレをはじめとした十聖将のことのみであり、その首魁ヴィールヒが一体どのような用兵をし、戦ってきたのか誰も知らぬのだ。王とは、そのようなものであろうと思うから、そのことを不思議がる者もなかった。
しかし、今、王は自ら出てきている。
まるで、この船の来着を知り、待ち構えていたかのように。そうであるならば、なぜ荷を降ろしている間に急襲せぬ。王はこの船に秘められた仕掛けを知らぬであろうが、放っておけば大変なことになるのだ。
荷下ろしが終わり、戦闘態勢を整えきった。工兵は、次の作業に移っている。それでも、王の軍は動かなかった。
──何かを、待っている?
シトは、前方に絶えず斥候を放ち続け、後方の工兵が行なっている作業の進捗を確認し続けた。
──もしラーレ候が兵を分けて進発させていたなら、このままでは明日にでもここに到着してしまう。
船を発したことをラーレが知ったなら、通常なら兵を分けてそれを追わせる。それならば、ここに王の軍が布陣している意味が分かる。行く手を塞ぐ王の軍と、追ってきたラーレの軍で挟撃できるからだ。
しかし、ラーレは容易には兵は割かぬだろうと踏んでいる。なにせ、父ザハールがそれに当たっているのだ。その力を知りすぎているラーレは、軍を分けてこちらに差し向けてくるはずがない。かならず、全力で父との決着に向かうはずだ、と確信に似たものがある。
シトは、知らない。自分の背後を目指して、二万からなる軍がここに急行していることを。そこに、自らの妹である復活の巫女の旗が立っていることを。
戦略的見地から見れば、今ここでただちに軍を発し、王の軍を破るべきである。しかし、シトはそれをしない。
ラーレの思考を読み違えているのではない。自らの力を驕っているのでもない。シトもまた、待っているのだ。
「いつ、できあがる」
後方からの報告の兵に、端的に問うた。
「夜通し、作業をしています。このぶんでは、明日の夜明け前には」
「無理はするな。しかし、急いでくれ」
「王の軍の間諜でしょうか、妙な者が、うろついています」
「おそらく、雨の軍とかいう連中だろう。火付けなどが怖いが、捨ておけ」
「よろしいのですか」
「構わん。どうせ、夜通し作業をしているのだ。それに、我らが作っているものが何であるのかを知ったところで、王はどうすることもできぬのだから」
「たしかに」
全ては、明日決まる。父はどうなっただろうか、と、また見えもせぬのに西の方を振り返った。そこには、自ら率いる兵が、戦闘態勢を保ったまま、居並んでいるだけだった。
「明日の朝、出撃する。心せよ。我らが対するのがパトリアエ王なら、むしろ好都合だ。バシュトー王の志を、大軍師ペトロの願いを、そして我らの光を、直接その目に見せてやれ」
兵一人ひとりもまた、光。それぞれが、それぞれの求めるもののため、この地を踏んでいる。彼らの全てと眼を合わせ、差し向かって言葉をかけるようなことは今はできぬが、それでも、できるだけ多くの者の心に届けるようにして声を発した。
それは、希望。あるいは、安寧。秩序であり、自己実現でもある。中には、この戦いで名を挙げ、どうにかよい暮らしをしたいという欲のために武器を取るような者もいるのかもしれない。しかし、それらは全て、人が抱くもの。
それを、誰も奪うことはできぬ。そうあるべきなのだ。
これで、最後にする。これが、最後になる。父祖の志を、今こそ。
夜がきて、星が人を包んだ。朝までは、雨は降らぬらしい。船に取り付いて作業を急ぐ者は、陣をわずかに緩めはしても気は緩めることなく、積載してきた最低限の食糧のうちのほんの少しを口にする者は、何を思うのだろう。
星は、人が気づかぬ間に、動いている。東にあったと思ったものが、いつの間にか頭上に来ていたりする。
それらはやがて朝に覆われ、消えてゆく。
夜明けが近づいた頃、後方で船を触っていた工兵から、報告が入った。
全ての準備が、完了した。
「ゆくぞ」
シトは、高らかに声を上げ、軍を進発させた。
この五〇九年二月八日の朝、彼らは王の軍に向かってゆく。そのことを描く前に、その三日前、ちょうどシトらがこのウィトゥカの地に上陸した日のコスコフの二人のことを、描いておく。
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