彼らのこと

 スヴェートは、咎めを受けることはなかった。中央軍でも特に変化があったような噂はないから、パシハーバルも出奔は不問にされたのだろう。

 あの黒い影の一団がアナスターシャを連れ戻しにやって来たということは中央にラーレの動きを知られたということになるが、ラーレも何か処分を受けるようなことはなく、いつも通りの表情で軍営の中を行き来している。


 スヴェートは、このとき、あたらしい任を命じられた。なぜか、スヴェートに命を下すのはいつもラーレ自身だった。

「精霊の巫女とその娘の館を、護れ」

 何から護るのか。やはり、分からない。死んだことになっている精霊の巫女の館には武装をせぬ使用人がいくらか付いている程度で、ろくな護衛などがない。一見、普通の中規模の官吏の館くらいにしか見えぬから、まさかそこに処刑されたはずの巫女が軟禁されているなどと思う者はいない。

「守兵ということですか」

 まあ、任務の失敗を咎められて首を刎ねられるよりはましである。しかし、戦場からは遠ざかるということになる。仕方ないと諦めようとしたスヴェートの眼を、ラーレが射った。

「そうではない」

「どういうことでしょう」

 マーリである。この男はいつも、スヴェートのためできるだけ状況を詳しく掴もうとし、そのために細かく質問をする。

「守兵ではない。武装して門外を固めるようなことがあれば、ここに重要な人物がいるぞと喚き歩くようなものだ」

「では──」

「館の中だ。表立って剣を佩いたりすることは許さん。しかし、何かあるときは巫女の側に必ずいろ」

「何か、とは、具体的に何があるのでしょう」

 ラーレは、答えない。マーリはそれで想像を巡らせた。

 もしかすると、ラーレは、今回の独断専行の咎めを受けぬ代わりに、何か条件を付けられているのではないか。そのために、スヴェートを使おうとしているのではないか。

「巫女を、護る。結局、仕事は続いてるということですね」

 スヴェートの明るい声が、マーリの思考を破った。そう単純に考えられれば苦労はないが、そうであるからこそスヴェートが人の上に立つ器であると確信できる部分もある。

 東のラスノーを出て軍に入り、時間ばかりが経っている。昨年の戦いには出たが、名もなき雑兵の一人である。ようやくスヴェートが什長になったと思えば、よく分からぬ任を命じられて失敗している。

 思うように進まぬ苛立ちと焦りはあるが、スヴェートは必ず人の上に立つ。これは、マーリとリャビクの共通の思いであり、あの戦場で呆気なく死んだラスノーの頃からの仲間の願いでもあった。

 しかし、よりにもよって館の使用人とは。これでは戦場に出ることも叶わず、名を売る機会もない。

「スヴェート」

 ラーレの声。やはり色はなく、屋外の世界を叩く雨音にやわらかく混ざっている。

「龍は再びその姿をあらわし、天にその声を轟かせようとしている。それを、避けることはできぬ。わたしもまた、いつか、その声に混じり、牙となって暴れる風を呼ぶだろう」

 かつて彼女がウラガーンであったとき、十聖将という鱗のひとつだった。しかし、今度は彼女が牙のひとつとなると言う。

「戦いの女神と言われるあなたが、龍とは」

 マーリが、重々しく驚嘆した。ラーレの為すべきことはパトリアエ軍最強の軍を率いる身として大精霊の翼となり、国土と民を護ることではないのか。

 龍と言うなら、まるで乱れを呼び、世を壊すようではないか。それを彼女が言うのは、意外だった。

 マーリは、ものを観察する眼が優れている。いつも端的な物言いしかせぬラーレが龍だとか牙だとかいう表現を用いるのはこれまで見たことがない。

 ──ラーレ様の、言葉ではない?

 それを確かめることは叶うはずもなく、スヴェート隊は人知れず精霊の巫女の館に入った。武器は、厨房に隠した。館の者はあらかじめ何事かを言い含められているらしく、彼らについて詮索することはなかった。

 これが、ノーミル暦五〇七年六月。



 史記のこれからのくだりには、スヴェートとパシハーバル、それにシトやジェリーゾ、リシアという新しい世代の人間が多く登場する。そして、古い世代の者も、未だ退場することなく。彼らのどちらをも描くことで、筆者は時代の移り変わりを、そしてそこに生きていた人に再び血と魂を与えようとするわけだが、ノーミル暦が五〇〇年を数えてからは、彼らのことが全くもって分からなくなった──と言うとそれ以外の時代の人のことは理解しているようであるが、そのようなことはなく、一様に彼らは不可解で理不尽で、気高く、筆者の理解を超えている──。分からぬから、より急ぎ、より深く追いかけたくなるのが人情というものである。

 中央軍に戻ったパシハーバルは。南で開拓を再開したシトは。間諜になるべく修練を積んでいるジェリーゾは。あちこちに眼を向けなければならぬから、もういっそ目を閉じて紙くずを屑箱に放り入れるようにして誰のことに目を向けるのかを選ばねばなるまいと思いはじめている。そうして定めた点と点──それもまた、星のようである──を、繋いでゆく。それこそが、この史記の核心に迫ることに繋がるのではないかと。

 パシハーバル。このラーレの子のことを、まず。


 気炎を渦巻かせ、憤慨しながら戻った彼を、彼の教育係であるリュシャは責めることはなかった。罪に問わぬよう、上から命じられたらしい。それもまた、彼を苛立たせた。

「私は軍にありながら、務めに背きました。これは、命をもってしてしか償えぬ罪。どうぞ、お裁きください」

 と大声で喚き立てるパシハーバルをリュシャは宥めるが、朋輩どもは冷ややかな眼で見た。

 ──ラーレ軍の厳しさに音をあげ、逃げてきた。

 彼がラーレ軍で何をしていたのか教えるわけにはゆかぬのだから、そう見られるのも無理はない。

 ──リュシャ様のでなければ、よくて追放、悪くすれば死罪だ。それを、自らああして騒ぎ立てることで罪を軽くしようとしている。

 彼への風当たりは、日に日に強くなっている。そうして七月になった頃、彼に新たな配属が与えられた。

 パトリアエ中央軍の後方にあり、輜重や兵站のことをする部署。

 戦場から遠ざけられた。その思いが、彼をまた鬱屈させた。

 こんなことならば、潔く自刎していればよかった。彼はそう嘆いたと史記は言う。だが、今さら自刎するようなことはしない。ただ黙々と作物のことを調べ、備蓄の量と各地から運び込まれる量と兵らの費えとを数え、書き留めることを続けた。

 そこにいる上官や朋輩どもは、これでも兵かと思うほどにひ弱で、ろくに剣すらも振るえぬのではないかというような者ばかりだった。

 だが、彼が中央軍に戻ってから、五日に一度のリュシャの稽古は、続いていた。その時間だけが、彼の救いだった。


「面白からず。そう顔に書いてあるな」

「なにを面白がることができましょうか」

 リュシャは、パシハーバルの理解者だった。彼の心をよく汲み、欲しい言葉をかけてくれた。それはときに厳しいものであるが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

「お前は、いずれ天下にその翼を広げて羽ばたく。そのとき、兵站のことも知らぬようでは、ろくな将になれまい」

 将帥たるもの自軍の兵站のことを理解せぬまま戦いをすることはできない。口に入れて命を作るものがどのようにして作られ、運ばれ、費やされてゆくのかを知らず、当たり前にあるものとして捉えている将は意外に多く、そういう軍は決まって兵が飢え、いざ戦いというときになって思うように進退ができぬものだ、とリュシャは説いた。

「それは、そうですが」

 露骨な慰めは要らない。リュシャには、そう正直に伝えることができた。

 父というものを知らずに育ったが、もし自分に父があれば、それはこのリュシャのような者なのだろうか、とふと思った。

「お前が望むお前になるために、必要なのだ。そう思い、今は耐えろ」

「――リュシャ様は、ラーレ候をご存知でしたね」

 いきなり話題が変わり、リュシャは構えた棒切れを下ろした。

「ああ、知っている。ラーレ候が私を知っているかどうかは、分からぬが」

「ラーレ候とは、どのようなお方なのでしょうか」

「なんだ、いきなり」

「答えたくなければ、構いません」

 リュシャは訝しい顔を引っ込めて、遠い戦場を思い出すような線を目尻に浮かべた。

「美しく、強く、気高い人であった。正しきを為し、悪しきを許さず。ただ前のみを目指し、あのお方に遅れまいと大勢の兵が死にもの狂いで従った。あのお方こそが、我々の旗であった。あのお方の翼のもとに少しでも長くいたいと、誰もが願っていた」

「それほどの人でしょうか」

 正直、パシハーバルが思ったラーレ像とは、かけ離れていた。今リュシャが言ったようなことなら、街の子供でも知っている。

「お前は、あのお方を知らぬ。あのお方の軍に属し、知ることもあったろうが、それであのお方を知ったことにはならぬ。かく言う私も、知らぬ。だが、あのお方は、ただ美しく、戦いが上手いだけではない」

「どういうことでしょうか」

「あのお方は、優しい」

 正直、パシハーバルが思うラーレに、最も似つかわしくない言葉である。灰色がかった目は何者にも興味を示さず、生きていること自体がつまらぬというような具合にしか瞬かなかった。それがどう優しいというのか、彼には理解できない。

「あのお方は、悲しみを知っている。なぜ私がそう思うのかは、分からぬ。だが、あのお方は、悲しみを抱き、それゆえに優しい。優しさのためなら、己すらも要らぬ。そういうお人だと思う」

 パシハーバルは、面白くない。リュシャがラーレに心酔しているのなら、彼には居所がない。

「光を。あのお方は、そう言った。誰もが、誰かの光なのだと。それを守るために剣を取り、敵に立ち向かうのだと。己の姿をその眼に映して笑む人のために戦えと。わたしは、そうすると。仰ったのだ。かつて、戦場にあるとき、我々に」

 もう、新兵の指導を行うリュシャの顔ではなく、一人の将校の顔になっている。

 その目は、パシハーバルの知らぬものを映している。

 そのために、人は戦うのか。

 月が傾いたので、稽古は終わりである。宿舎への帰路、パシハーバルはしきりと何かを考えていた。

 国。兵。軍。戦い。将。人。光。

 まるで昼寝のときの夢のようにまばらに散らばるそういうもののことを頭に描くが、すぐにそれらはまとまりを無くして霧散してしまう。

 傾いた月が、隠れた。

 雨が降るのかもしれぬ。土の匂いが、それを知らせていた。

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