第十五章 龍の牙

選ぶもの

 ジーンが、死んだ。

 その報せは、ラハウェリに衝撃をもたらした。

「読み違えた」

 サヴェフは、そう言い、地を叩いて慟哭したという。

「まず、我々が思うように動けぬように。雨の軍彼らは、そう考えたのだ」

 いくら後から分析を重ねても、その事実を消し去ることは出来ない。

「まさか、ジーンが——」

 イリヤも、顔を真っ白にしている。傍らではベアトリーシャがそれとなく立ち、横目でそれを見ている。

「良い男だった。ほんとうに。己という人間について苦しみ、それを決して人に押し付けたりせぬ。そういう男だった」

 森の賊であった頃からの付き合いであるザハールも、落涙を禁じ得ない。アナスターシャが、その背に手を添えて、同じように涙を流している。


 ジーンは、このラハウェリの裏門近くの細道の脇の茂みで見つかった。胸を一突きされていた。

 しかし、その右腕には、傷があった。そして、その髪も血で染まっていた。

 戦ったのだ。敵の血を、浴びたのだ。傷を受けてなお、げず。それほど多くの敵を屠ってきたわけでもないのに、彼は、自らの握る剣を敵の方に向けたのだ。


 それに、意味などない。

 ヴィールヒが、ぽつりと言った。

「戦って死のうが、後ろから殴られて死のうが、凍った水たまりに足を滑らせて死のうが、どうでもよい」

 どうでもよい、という言葉に、サヴェフの眼が上がった。いつもの眠ったようなそれではなく、燃え盛る炎を湛えて。

「貴様」

 ヴィールヒの胸ぐらを、乱暴に掴む。

「人の、志を同じくする人の死に対して、言うことか」

 ヴィールヒは、顔色ひとつ変えず、サヴェフを見ている。

「ジーンのみではない。私たちは、多くの同志を死なせてきた。影に陽に、彼らは生き、戦い、死んだ。それを、私たちは、何事もなかったかのようにして通り過ぎることは出来んのだ」

 ヴィールヒは、困ったように笑った。

「サヴェフ」

 盟友の名を、呼んだ。

「人の死は、ただ、死。俺は、そのことを思っているだけだ」

 ヴィールヒの胸ぐらを掴むサヴェフの拳が、緩んだ。

「誰がどこでどのように死ぬか、誰にも分からぬ」

 何故か、悲しい声であった。

「病で死ぬのか。敵に斬られて死ぬのか。馬に蹴られるのか、崖から足を滑らせるのか。人は、自刎でもせぬ限り、己の死に様は選べぬのだ」


「そんなこと——」

 分かっている。そして、ヴィールヒが何を言おうとしているのかも、この賢人は分かっている。

「ジーンに、それを選ぶことは出来なかった。あいつが選ぶのは、いつも生であったからだ。それは、人が生きる中で自ら選ぶことのできる、たった一つのものだからだ」

 誰もが、おやという顔をした。ヴィールヒとはどちらかと言えば厭世的で、人の生死などに眉を動かしたりはせぬものだと、勝手に思っていた者が多い。

「俺たちは、知っている。あいつが、何を選び、ここまで来たか。今思うべきは、あいつがどう死んだかということではないはずだ」

 違うか、とヴィールヒは、サヴェフの好きな議論の形式でもって問いかけ、口の端を歪めた。

「お前の、言う通りだ」


「なあ」

 サンスである。ぽつりと発せられたその言葉に、サヴェフは拳をヴィールヒの胸ぐらから離す機会を得た。

「ジーンは、いい奴だった。俺は、好きだったね。ちょっと頼りないところもあったが」

 だが、と顔の古傷を引き締めて、この博奕打ちは言った。

「そんな奴でも、死んじまう。俺は、今まで、色んなやつの死を見てきた。気のいい博奕仲間なんかも、何人も殺された。なあ、皆。やっぱり、どうかしてるよ」

 この国は。そうサンスは、涙を堪えもせず言った。彼は、街で長く暮らしており、軍人や盗賊でもない。ゆえに、彼ならではの国の見方というものがあるのかもしれない。


 その彼が、更に言葉を継ぐ。

「悪い奴から、俺はずっと金を巻き上げ、弱い奴にくれてやっていた。そのことに、意味なんてなかったのかもしれねぇ」

 だけどよ、と彼は街者まちものならではの言葉を使い、垂れ落ちるはなを強く啜り上げた。

「俺が金をくれてやった奴は、皆喜んでたぜ。一度なんて、痩せた小さい子供を連れていた女に金をくれてやったとき、その女は、これでこの子に食べ物を与えられる、と俺を拝みやがったんだ。俺は、そういう、意味のない意味を、これからも積み重ねていきたい」

 死んだジーンのことではない。今なお生き続ける己のことを、言っている。


「ヴィールヒ。お前は、俺に、小さな悪者から金を巻き上げて弱い奴に与えるという小さな善が、無意味だと言ったな」

 名を呼ばれたヴィールヒが、眼を一層細め、首を傾げた。覚えていないのだろう。

「言ったんだ。お前は、たしかに。同じ博奕をするなら、同じように奪い、与えるということをするなら、もっと意味のあることをしろ、と」

「言ったかもしれん」

「ジーンは、死んだ。あんな良い奴でも。それが、間違ってる。俺は、決めたぜ」

 ヴィールヒは、サンスから眼を逸らせた。興味を失ったのだろう。代わりにサヴェフの眼が、また眠ったようになった。

「俺は、とことんまで奪ってやる。この腐り果てた糞みてぇな国の、尻の毛までむしり取ってやる。そして、死ぬべきじゃない、いや、生きるべき奴に、生きてゆける国を、与えてやる。思い上がりとでも、何とでも言え。だけど、ジーンが死んで、平気でなんていられねぇ。それだけだ」

「それも、博奕か」

 サヴェフの眠ったような眼が、問うた。

「応とも。当たるかどうかなんて、分からねぇ。だが、俺は、やる」

「その博奕のかたに、お前は何を張る」

「知れたこと——」

 俺の、この安い命一つさ。そう言って勢いよく立ち上がり、出て行った。これから自室に引きこもり、男泣きに泣くのだろう。



「なあ、サヴェフ」

 散会し、皆が思い思いのところへ引き上げていったあとで、ペトロはサヴェフに言った。ヴィールヒは、この広間の隅に変わらず座り、壁にもたれかかっていびきをかいている。

 彼らにとっての正しい座り方は胡坐であるが、このとき、ペトロは膝を抱えるような姿勢を取った。今から言うのは、だとでも言わんばかりに。


 サヴェフの眉間の皺が緩んだ。思えば、この男は、それこそ十八で世に放り出されて以来、ずっと眉間に皺を寄せ続けているようであった。

の話をする」

 道別れ、というのは分岐点のことであろう。

「ジーンのことが無かったとして。たとえば、ニコが王となって、この国をより良く導いていくとしたら、俺たちもまた、それに加わり、助けるというようなことは、あるのだろうか」

 ジーンのことがなかったとして、と絶対にあり得ぬ前提を持ち出した。ゆえに、これは、戯れ言なのだ。


「無い」

 サヴェフは、即答した。

「ジーンのことだけではない。今、私たちがニコに従うことは、私たちの生を、そのまま否定することになる」

「俺たち——?」

 その曖昧な語が指す範疇を、ペトロは定義付けようとした。

「そうだ。今ウラガーンとして生きる者。この国から、なにかを奪われた者。それに抗い、死んだ者。私たちが従うことは、それら全ての生を否定することになる」

 ペトロは、おや、と思った。サヴェフならば、もしかしたら、合理的手段のためにこれまでの目的を曲げるということもあるのではないかと思ったのだ。しかし、サヴェフの意思は堅いらしい。そして、それは、ペトロがはじめに出会った頃のように頑固で、透き通っていた。

「生を認めるため。そのためのものであるべきなのだ、死というのは。全ての生を認めるために、全ての死があるべきだ。私は、そう考える」

「悪かった。妙なことを言った」

「ジーンが死に、己の進む道を、疑いたくなるのは分かる。しかし、私は、それをしない」

「砂の上に城を建てたところで、か」

「その通りだ。もう、眠る」

 流石のサヴェフも疲れているのか、立ち上がり、自室へ戻っていった。


 残ったペトロは、ヴィールヒのいびきだけが存在する広間の天井を見上げている。

「進む。退く。そのどちらかを、選ぶ」

 独り言である。顔の半分を隠す前髪の奥で、くぐもった声が漏れた。

「選ぶ以外に、道はないのだろうか」

 答える者は、誰もない。

「選ばぬ、ということを選ぶことは、出来ないのだろうか」

 ジーンは、死んだ。彼は、何を選び、そこに至ったのだろうか。

「まだ、見えない」

「決して、見えぬさ」

 不意に、声。はっとして、その方を見た。


 ヴィールヒ。壁に背を預けたまま、じっとペトロを見ている。

「お前の眼では、何も見えぬさ。お前が見ているものが、ただ見えているだけなのだろう」

「何を、言っているんだ」

 当たり前のことを、言う。自分が見えているもの以外のものを知りたいからこそ、人は考えるのではないか。

「お前には、お前の見るもの以外のものを見ることは、出来ん」

「そりゃあ、そうだけど」

になったつもりだ、ペトロ」

 ペトロの神経を逆撫でるようなことを言う。だが、ペトロは落ち着いている。ジーンの死を受け、最も落ち着いているのは自分なのではないか、と思うほどに。

「さあ。自分でも、わからない」

 ヴィールヒは、小さく笑った。

「選ぶ、選ばぬ、という話だが」

 ペトロが、苦笑した。ヴィールヒというのは、いつも人の思わぬことを思い、人の言わぬことを言う。今度はどのような言葉が出てくるのだろう、と思ったのだ。

「選ばぬ、ということを選ぶことは、無い」

 まず、ペトロの自問を真っ向から打ち消した。

「人は、かならず、選ぶ。今この瞬間においても、言葉を選び、この先どうするのかを選ぶ。生とは、選択なのだろう。それを失うことは、それは、死」


 ヴィールヒとは、不思議な男である。向かい合う者の心を映したかのようなことを、いつも彼は言う。

 彼が他者に向けて言うことの殆どは、その言葉を受けた者がはじめから知っているようなことである。しかし、それは往々にして、自分自身で認められなかったり、あるいは別のものの中に埋もれてしまっていたりする。ヴィールヒとは、いつも他者のその部分を見て、声をかけるのかもしれない。


 彼は、ものぐさで、面倒を嫌い、厭世的で、この世に存在する己の形を、歪んだものと捉えているようながある。だが、その眼が見るものは、いつも物事や人間の奥の、最も原始的な部分であるように思う。


「お前が決して選べぬことを、世が選んだとしたら――」

 ペトロの背筋が、寒くなった。その先は言うな、と言おうとして、言えなかった。

「――お前は、何を選ぶのだろうな」

 壁の隅が作る暗がりの中で、ヴィールヒは静かに肩を震わせた。これも、笑っているらしい。


「あんたは、何を選んでいる。何を、選んでゆく」

 しばらくの沈黙の後、ペトロが、反問した。

「俺か」

 ヴィールヒは、自分のことに話題が向くとは思っていなかったらしく、眼を細めた。

「俺という人間は、まだこの世にいない。これから、産まれるのかもしれん。もしくは、もうずっと前に産まれていて、俺という人間は、グロードゥカの地下の闇の中に、まだ居るのかもしれん」

 そこで、数えているのかもしれん、と言い、笑った。何を数えるのかは、ペトロには分からない。ただ、言い様のない寂寞と焦燥と不安と悔悟のようなものに襲われ、少し身震いをした。

「お前には、お前の眼に映るものしか、見えん」

 ヴィールヒが、また同じことを言った。

「だが、お前の眼に何を映すのかは、お前が選ぶのだ、ペトロ」

 ペトロは、はっとした。

「俺を、見るな。サヴェフを、見るな。ザハールを、ルスランを、見るな。お前は、まずお前を見ろ。そのお前の眼に何が映るのかを見、そして選べ」

 この言葉が、ペトロのこの先の運命を決定したのかどうかは分からぬ。

 だが、彼は、ヴィールヒの言う通り、この先、自らの眼に映すべきものを、自ら選ぶ。



 もともと、彼は観察が好きであった。こそ泥であった頃は忍び込む家のことを何日もかけて観察したものであるし、軍師となってからよりその傾向は強くなっている。しかし、それだけに、彼は、人のことばかりを見るようになっていたのかもしれない。人の行動を、いや、その選択を取る意思を、他者が操作することは出来ない。だから、考えてしまう。こうなったらどうなる、こうしたらこうなる、と。それは彼の軍師としての役目にとっては無くてはならぬ思考であろうが、それと、彼自身の意思をどこに向けるのかということは別の問題である。


 彼は、その観察眼でもって、このとき既に見ている。ウラガーンが、この先、どこへ向かってゆくのかを。それは、国を倒し、作った後のこと。

 彼には、どうしても、ウラガーンが向かおうとしているものを選ぶことは出来ない。

 それならば、彼に選ぶことが出来るものは、一つしかないということになる。


 史記のまだ先のことではあるが、今この場において、そのことをのみ記しておく。

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