柔らかな熱
雨。いや、血。それが天から降り注ぎ、身体を濡らしてゆく。
自らもまた、血を流していた。どれだけ流したのかは、分からない。まだ気はしっかりしているから、死ぬほどのことではないと思った。
自分の血と、天から降る血の境が分からなくなり、やがてそれらは完全に混じった。
自らに伸びてくる、手。
それを掴もうと、腕を伸ばす。しかし、どれだけ追いかけようとも、掴みきることは出来ない。
恐れているのだ。自らの手でそれを取ってしまい、その白く美しい手すらも、血で汚してしまうことを。強く引き寄せて抱きしめてしまい、その身体を血で濡らしてしまうことを。だから、ただ血を浴び続けるしかないのだ。
その手は、はじめから血で汚れていたのかもしれない。
しかし、それに、自分の手にこびりついた血を重ねることは、してはならぬような気がした。
だから、叶わぬと知りながら、心のうちだけで、求め、その両の眼にいつも映していよう、と思った。
そして、微笑む彼女を、自らの眼に映していたい、とも。
彼女の立つところには、旗。旗には、斧と盾、龍と精霊。それらは相反するものでありながら、同じものでもあった。
うっすらと、眼を開けた。まぶしい、と感じた。ヴィールヒの気持ちが、分かる気がする。
そこに、伏せられた旗が見えた。
「――アナスターシャ?」
言って、喉がひどく乾いていることに気付いた。
「ザハール?」
すぐ近くで、声。自らの手を取る、柔らかな絹のような肌触り。
「ザハール、気が付いたのね!」
ザハールの手をそっと外し、弾むように立ち上がり、アナスターシャは大声を上げた。
「サンラット!ザハールが」
サンラットという名に、うっすらと記憶が刺激された。ぼんやりとした意識の中、肌に戦いの感覚が蘇る。
戦い。
――剣は。
次に思ったのは、それであった。鉛のように重い腕を動かし、枕元を探ると、ちゃんとそこには剣があった。
起き上がらねば。
剣を自らが横たわる地につき、上体を起こす。
そのまま、身体を持ち上げようとしたが、支えきれず、転んでしまった。
「まだ、無理だろう」
アナスターシャが、誰かを連れ、戻ってきたらしい。
訛りの強い言葉。うつ伏せの姿勢から、顔だけを上げ、その声の持ち主を見た。
褐色に近い肌。長身で、全身をしなやかな筋肉が覆っている。見ただけで、南方の騎馬民族の者であると分かった。そして、その姿にも、声にも、サンラットという名にも、覚えがあった。
「久しいな。このようなところで、会うとは」
答えようとしたが、声が上手く出ない。よほど、消耗しているらしい。
「このような状態でも、剣を握るか。見上げたものだな、ザハール」
サンラットが屈みこみ、ザハールを仰向けの状態に戻した。
「嬢。喜べ。お前の男は、助かるぞ」
お前の男、というのにやや苦笑を浮かべながら、アナスターシャは喜んだ。
「よかった、ザハール」
再び、アナスターシャがザハールのそばに座り、その手を取った。
「済まぬ」
ザハールが、小さく、それをのみ言った。
「やっぱり、謝ってばかりね、あなたは」
それが、嬉しかった。アナスターシャは、もしかすると、これきりザハールが死んでしまうのではないかと思っていた。ザハールは、きっと生きる。そう信じてはいたが、それだけで不安を拭い去れるほど彼女は強くない。
「強い毒だった。この男のいのちの力は、とても強い」
待っていろ、と言い、何かを用意するため、サンラットは幔幕を去った。
ようやく、世界の色と音が、戻りつつある。
身体は起きているのに、眠りの中にあるような感覚であった。目覚める直前、何か夢を見ていたような気もするが、よく覚えていない。夢のことなどどうでもよいが、目の前にアナスターシャがいるという喜びを確かめたくて、必死でまた閉じてしまいそうになる眼を開け続けた。
「少し、眠ってもいいのよ」
それを察したアナスターシャが声をかけてくるが、小さく首を振り、言った。
「見ていたいのだ。このまま、お前を」
声に力がないため、よく聞き取れなかったらしく、アナスターシャはザハールの口元に耳を近付けてきた。
「迷惑を、かけたな」
別のことを言った。アナスターシャは小さく笑って頷くと、また姿勢を戻した。
しばらくして、サンラットが戻ってきた。
「これを食え」
なにかよく分からぬ、どろどろとしたものが入った椀を、差し出してきた。アナスターシャがそれを受け取り、匙にすくい上げ、息を吹きかけて冷まし、ザハールの口に運んでやる。その辺に生えている草そのものを食っているような味で吐きそうになったが、運ばれるままに口の中に入れていると、身体の中が温まってきた。
全て食い終わると、ただ激しく疲れているだけのような感覚になった。
「ザハール。まだ駄目よ」
起き上がろうとしたザハールの身体を、アナスターシャが押し留めようとする。
「いや、大丈夫だ」
起き上がってみると、少し眩暈がする。しかし、どうということはない。空腹と疲労と失血により世界が逆さになる中、戦場を生き延びたこともあるのだ。
「ほんとうに、驚いた。大したものだ」
サンラットが頷き、幔幕を去っていった。もう一晩寝かせれば、回復すると見たのであろう。
「何日、眠っていた」
ザハールは自らの顎に手をやり、髭の伸び具合を確かめた。
「四日よ」
「そうか」
身体が、臭う。湯か何かで濡らした布で、強く拭いたいと思った。アナスターシャがそばにいるから、余計に気を遣う。
「ほんとうに、よかった」
また、アナスターシャが手を握ってきた。
旅を続け、そして四日も寝たままの手であるから、汚れているに決まっている。その手で触れてはならぬと思った。
目覚める前に見た夢も、そのような内容であったような気がした。
「あなたが死ねば、わたしは」
涙ぐんでいる。それを拭うことも、汚れた手では出来ない。
「ニコが聴けば、
どういう意味で言ったのかは、分からない。しかし、ザハールの手では、アナスターシャを抱き寄せることは出来ない。そして、アナスターシャは、ニコの妻になろうとしていた。だから、言葉でもって、なにごとかを整理しようとした。
「怒ってもいい」
アナスターシャの声は、強い。
「ニコがどれだけ怒っても、わたしは、あなたが生きていることを嬉しく思うもの」
ザハールは、それ以上、言葉を発することが出来なかった。
毒は、もう抜け切ろうとしている。しかし、まだ胸の深いところだけが、苦しい。
「俺が眠っている間、変わりはなかったか」
「ええ。サンラットが、いろいろと手当てをしてくれたわ」
「あの男が――」
「二人は、どこかで会ったことがあるの?」
「ああ。かつて、戦場で。ペトロやイリヤと出会ったのと同じ頃だ」
「五年前ね」
アナスターシャは、ザハールの話をよく覚えている。
「鉄の棒を使う、南方の傭兵。その話を、してくれたことがあるわね」
「それが、あの男だ」
「不思議ね」
互いに戦場で向かい合って立ち、その命を奪い合う。しかし、次に会ったときには、片方がもう片方の命を助けた。そのことを、アナスターシャはそう表現した。
「敵などというのは、いつも、そのようなものだ。互いに手を取り合ったかと思えば、明日には命を奪い合わなければならぬということもある」
「そうね」
「だが、その中で、変わらぬものもある」
「変わらぬもの?」
「たとえば、心。あるいは、魂。そして、己」
アナスターシャは、答えない。ほんのわずかに、ザハールの手を握る力を強くしたのみである。
「俺は、もう少し眠ってみようと思う。お前も、休んだ方がいい。疲れた顔をしているぞ」
アナスターシャは、空いている手で、自らの頬を擦った。
「本当?」
「ああ、ひどい顔さ」
アナスターシャが、くすくすと笑った。
彼女がそれで立ち去るものと思い、ザハールは再び身体を横たえ、眼を閉じた。
しかし、自らの手に伝わってくる柔らかな熱は、いっこうに去らない。また、うっすらと眼を開けてみた。そこには、変わらず自分を覗き込んでいるアナスターシャの姿があった。
「何を、している」
「見ていたいの、このまま、あなたを、ね」
そう言っていたずらっぽく笑うアナスターシャの瞳に映るザハールの顔は、さきほどまでの蒼白なものとは違い、紅潮していた。
彼女に言って、聞き取られなくてよかったと思っていた言葉を、実は彼女がしっかりと聞き取っていたのだということが分かり、赤面したものであろう。
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