龍になる巫女
「アナスターシャ」
ザハールは、沈痛な面持ちである。ノーミル暦四八五年は、もう夏になっていた。
「どうしたの、ザハール」
このところ、毎日のようにザハールと会話をするようになっているアナスターシャが、心配そうな顔をした。いつも一緒にいる二人だから、当然、兵の間でもあれこれと想像を巡らせ、噂をする者も現れている。ザハールはサヴェフに頼まれて、アナスターシャに接近している。戦いのため、ラハウェリの兵を統合するということに対して、彼女を乗り気にさせるためだ。それはすなわち、彼女を、戦いに賛成させ、名実ともにウラガーンにしてしまうということだ。しかし、話せば話すほど、ザハールは彼女の思考が純粋で、平明で、美しいものであることに感じ入っており、むしろ血塗られた己の生や行いについて考えさせられる思いであった。
「ユジノヤルスクに、向かうことになった」
ユジノヤルスクとは、このラハウェリやノゴーリャがあるグロードゥカ地方の隣、ナシーヤ国内でも有力な地域である。
「戦いを、するの?」
ユジノヤルスクはグロードゥカとは仲が悪く、ナシーヤ国内で一番の勢力となるため、いつも小競り合いを繰り返し、その領土を奪ったり奪われたりしている。
「そこになだれ込むことで、この二つの地域を、更に乱す」
「乱して、どうするの」
「案ずるな」
とザハールが言うから、アナスターシャは少しほっとした。もし、この二国が互いに激しく争うようなことがまたあれば、今度こそ間違いなく王家の軍が出ることになる。その指揮は丞相ニコであるから、アナスターシャにしてみれば今自分が生活を共にしている者どもと、自分を妻にしたいと言い、抱いた男が戦うという構図になる。それは、とても心が痛むことである。
「乱すことで、二つの地域を、一つにするのだ」
「そんなことが──」
正直、不可能であると彼女は思ったことであろう。いや、彼女のみならず、長く争い続けてきたこの二国が一つになるなど、当時の人々からすれば夢物語に近い。
「出来る。人と人は、手を結べる。分かり合える」
アナスターシャは、生真面目な武人だとばかり思っていたザハールに対し、少し目を開く思いであった。
「ただし、それには、依り代が要るのだ」
彼は、背後に翻る旗を見上げた。そこには盾と斧、精霊と龍が共存していた。
「――上手く、できぬものだ」
「何を」
アナスターシャは、東の山の稜線のように美しい目許を飾る睫毛を瞬かせた。
「正直に言う。俺には、無理なのだ」
「ザハール。話してみて」
アナスターシャが、ザハールの手をそっと取った。他意はない。ただ、彼女が世間知らずであるがゆえに取った行動である。ザハールは慌ててその手を引っ込めながら、
「正直に言おう。俺がこのところ、お前と関わりを強く持つのは、サヴェフに言われたからだ。ラハウェリの兵をも、取り込みたい。おそらく、ユジノヤルスクを攻めるためだろう。そのためには、お前が兵の前に立ち、一緒に戦おう、と声をかけてやることが必要なのだ。それをさせるために、俺はお前に近付いた」
アナスターシャは薄い色の髪を蒸れっぽい風に遊ばせながら、ザハールの次の言葉を待っている。
「だが、俺にはそのような細かなことは向かん。お前を偽り、我らの思うさまに行動させることが、良いことであるとも思えん」
「あなたは、優しいのね」
ザハールは、沈黙している。
「もっと、果断な人だと思っていたわ」
「迷い。俺が剣を振るうのは、自らが迷っているからに他ならない」
今、ザハールは、アナスターシャの前で、心のうちを覆い守る全ての鎧を脱ぎ捨て、丸裸の状態になっている。しかし、それでも、心の中で握る涙の剣を手放すことは出来なかった。
「だから、俺は、そのままをお前に伝えることにした。そういう風にしか、俺には出来ぬ。その上で、お前が嫌なら、しなくていい。俺は、黙って罰を受けよう」
「わたしが従わなければ、あなたはサヴェフに罰せられるの?」
「いや、そのようなことはないだろう。しかし、サヴェフは、また異なる手段でもって、お前を口説きにかかる。俺は、ウラガーンの一員として、サヴェフの頼みを引き受けておきながら、それを叶えてやれなかった。だから、その責は負うつもりだ」
サヴェフには言わないでくれ、とザハールはばつが悪そうにした。
「あなたって」
アナスターシャが、呆れたように笑った。
「ほんとうに、変わった人なのね」
変わる、変わらないを判じられるほど、アナスターシャは人間を知らない。ただ、言葉の流れで、そう言った。
「わたしが、皆に声をかけ、一緒に行きましょう、と言えばいいのよ。それを、わたしはするわ」
「しかし」
「わたしの意思で、そうする」
「それでは、道理に合わん。お前がそれをする理由がない。我々には大いにあるが」
「それを聞かないと、納得出来ない?」
「うむ。それを聞かぬ限り、やはり、我らが強いてお前に望まぬことをさせるということになる」
「やっぱり、優しい人ね」
アナスターシャはまた呆れたような顔になり、少し考えた。やがて意を決したように、口を開いた。
「王家の軍とあなた達が戦うことを、わたしは恐れている」
「たしかに。彼らは、強大だ。以前は、我らをただの賊としか思っていなかったから、勝てた。しかし、我らが大きくなれば、それ相応の準備の上──」
「違う、違うの」
アナスターシャが、人の言葉を遮るのは、珍しいことである。
「わたしは、丞相ニコに、妻になって欲しいと言われていたの。わたしも、そのつもりだったの」
ザハールは、絶句した。だとすれば、ウラガーンは、二人を引き裂いたことになる。志のため、正義のため。そのために、悪を行う。それが、彼らが立つ定義である。しかし、それは、ただ懸命に生きるだけの人から全てを奪い去るような世を正すためではなかったか。想い合う二人を自らのために引き裂くようなことをするのは、ウラガーンにとって憎むべき悪ではないのか。そういう思いがよぎった。
「済まん、アナスターシャ」
「あなたが、謝ることじゃない。わたしも、ヴィールヒがやってきたとき、自らの意思で従った。あのとき、彼の持つ刃に自ら身を預け、抗うことも出来た。しかし、わたしは、それをしなかった」
ザハールは、答えることが出来ない。ただ沈痛な表情をより暗くし、長い髪を垂らすのみである。
「だからね、ザハール」
その逞しい腕に、細く白い手を添えた。
「わたしは、ほんとうのところ、あなた達の顔色を窺っているの。ニコと、あなた達が、戦わなくてもいいように。わたしが兵を一つにし、ユジノヤルスクに入る。そして、グロードゥカもユジノヤルスクも一つになる。そのことは、ニコにとって、良いこと?悪いこと?」
「とても、悪いことであると思う。しかし、そうすれば、王家の軍も我らに手出しはしにくくなるから、我らを押し潰すために大挙して兵を寄せ、血で血を洗う戦いはせずに済む。それは、間違いない」
事実、そうなることであろう。現代の言葉を用いるなら、抑止力というわけである。王家の軍の武力は、現代の軍における核保有に等しい。それに対抗し得るだけの武力を、ウラガーンは持つつもりでいる。そうすれば、互いに手を付けることは実質不可能になる。
ウラガーンの基本方針は、蹂躙ではなく、融和であるとザハールは思っている。その方が、兵も民も国土も損なわず、国という目に見えない仕組みだけを代謝させるのに合理的だからだ。そう考えていることも、アナスターシャに伝えた。
「わかった。やるわ」
「いいのか」
「ええ。あなた達と王家の軍が戦えば、どちらもただでは済まないということくらい、分かる。わたしがあなた達に深く参加することで、それを避けられるなら、しない手はないわ」
「お前は、強い女だな」
「いいえ」
アナスターシャの髪が、垂れ込める真昼の雲に見下ろされ、銀色になっている。それを、ザハールは美しいと思った。
「ニコのためよ」
「俺たちが大きくなれば、もう二度とニコのもとには戻れぬのかもしれんのだぞ」
「ええ。でも、戻るため、わたしに出来ることをすることなら、出来る」
これほど、清く、強く、美しい存在を、ザハールは見たことがない。丞相ニコとは、それほどの男か、とも思った。
「どうなったって、あの人があなた達と戦い、死んでしまうことよりは、ましよ」
「わかった。頼む」
アナスターシャもまた、サヴェフには言わないでね、と言い、少し笑った。
「断じて、言わぬ」
「わかっているわ」
二人、曇天の下、歩きはじめた。
その先には、ペトロから今後の方針についての説明を受けている、ウラガーンとラハウェリの兵がいる。その後それらは解散し、ウラガーンの兵にのみ、具体的な策と必要な準備についての指示が与えられるはずであった。
そこに、二人、乗り込んでゆく。ペトロも、言葉を止め、二人を見た。つられて、兵も、二人を見た。ペトロが立つ、壇上へ。
そこから見渡すと、兵が、湖のように見えた。あるいは、夜の空にある星のように。
アナスターシャが、息を吸い込む。
それは言葉となり、吐き出された。
「──皆、聞いてほしいことがあるの」
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