冬と月と、窓枠の

進藤翼

冬と月と、窓枠の

 今夜は曇りだ。だから天窓から月明かりは差さない。そのせいで部屋の中はやけに寒々しい。いつもならフローリングには、四角く切り取られた月明かりが降ってくるはずなのに。

 誰も座らないソファはクセがついて少しへこんでいる。その前の四角い木製のテーブルにはクロスがかけられていて三冊の本が重ねられていたがホコリがかぶっていた。本の隣にはクジラの描かれたマグカップ。コーヒーを飲んだ形跡があった。底に乾燥した茶色いものが残っている。デッサンの途中で投げ出されたスケッチブック。先のとがった鉛筆も二本転がっていた。

 隣の食卓には、開かれたままの新聞紙。天気予報と、絶滅したと思われていた植物が発見されたという見出しが見えた。それに一組の手袋、飲みかけのペットボトル、卓上カレンダー、風呂敷の上に並んでいる木の実、チョコレートのしまわれた箱と、それを食べた後の包み紙。木のかごには果物が詰め込まれている。リンゴにみかん、それにパイナップルだ。

 奥にあるキッチンの蛇口からは、締め方があまいのかゆっくりと水滴が垂れ続けていた。洗われたまま放置されている食器の水気はとっくになくなっている。上の棚にはウイスキーの瓶が並んでいた。

 壁の一面は本棚になっていて、上から下まで隙間なく収納されていた。それらは目についた気になったものはとりあえず購入していると主張するように雑多な種類に溢れている。

 しかしこの部屋の主はもう、三か月も戻ってきていない。

部屋の主になにが起こったか、それは私にはわからない。私にできるのは観察することだけだ。私はここから動けないのだから。

 私は窓枠に置かれたサボテンだ。小さい鉢に植えられた家庭用のサボテン。一年ほど前、主に買われこの部屋にやってきた。ちょうどこの部屋を一望できる位置にある。隣には狐の置物、反対には霧吹きがある。私のために用意されたものだった。

 壁に掛けられた時計は午前二時を指していた。秒針の動く音がやけに大きい。暗い部屋はひっそりとしており、沈黙に満たされている。生活感はあるのに呼吸が止まってしまっているような奇妙な部屋だった。

 主は白髪の混じる五十代の男だ。いつもジーンズにワークシャツを着て腕まくりをしていた。ほどよく焼けた肌のおかげで実年齢より若々しい。体つきも同年代よりよほど引き締まっている。とはいえ顔にはしわが刻まれていて、過ごしてきた時間を体現していた。自然を愛する誠実な男だと、私は思っている。

 主は毎朝、窓の向こうを見て私に話しかける。「やあ」「昨夜の雨は止んだようだな」「今日は風が強いぞ」「ご覧飛行機雲だ」「夏草を刈らねばなあ」「や、猫が迷い込んできたぞ」「いつ見ても君の針は立派なもんだ」「太陽の眩しいすばらしい朝じゃないか」「雲の流れがゆったりしているね」「あれはなんて鳥だろうか」「冬は冷え込むが、今朝は特に寒い」「今日は自転車の手入れをするんだ」そう言って私の鉢の土の乾き具合を確認する。もし乾ききっていたら、霧吹きでしっとりとするまで土と私を湿らせた。

「サボテンは乾燥に強いとはいえ、水を全く必要としないわけじゃあないから気を付けないといかん。そうだったな」

 そう言って満足そうにうなずくのだった。

 私は街で開かれたフリーマーケットで売られていた。春先のことだ。そのときの私は枯れかけていた。以前の主はあまりにも怠惰で水やりをせず、なにより私に飽きていた。そのとき主がたまたま通りがかり、私を見つけたのだった。おかげで今は元気になり、針もこうしてほかの者に負けぬくらいトゲトゲしている。主は私を救ってくれた。だから私は主を深く尊敬している。

 私に限らず、主には植物の知識があった。家の裏は森が広がっていたが、散歩ついでに木の実や山菜を取ってくることがよくあった。

「こいつの葉はそのままだと渋みが強くてとても食べられないが、茹でるとその渋みがなくなる」「この木の実は腐りかけが一番うまいから、取ってもすぐに食べず放置しておくのがいい」

 主の住まうのは街から外れた、湖のそばにある古ぼけた家だ。主はここで自給自足の生活をしていた。畑を耕し野菜を育て、ときには湖で魚を釣った。慎ましい暮らしだったが、主はそれで十分事足りているようだった。

 主はレコードを好んだ。部屋の一角にはレコードボックスが置いてある。主はそこから一枚を慎重に選び出して、針を落とす。曲名はわからないがそれがクラシックということは知っていた。

「思い出の曲なんだ。若い頃のね。この曲を聞くと、一気に気分が二十代に戻る。かつては私も恋をしたものだったよ」

 主は少し寂しげに笑って、その曲のメロディーを鼻歌でなぞった。

 私の日常は主のもとで暮らすようになってからひどく穏やかなものになった。それは窓から見えるこの湖のように波のないものだ。刺激のない日々といえばそうかもしれないが、私にとってはその安定がなにより居心地の良いものだった。

 それから半年が経った頃、主がその姿を消したのである。

 食卓のカレンダーは九月のままだったが、すでに今は十二月の半ばだった。

 あの日のことはよく覚えている。夏の暑さが残る日だった。まだかすかに蝉の声が聞こえて、むせかえる青いにおいがあった。

 いつもとなにも変わらない朝だった。主の朝はコーヒーから始まる。インスタントコーヒーをカップに注ぎ、電気ケトルで沸かしたお湯を注ぐのだ。そのついでに乾いている私に霧を吹きかけると、ソファにかける。そこで十五分ほどコーヒーを堪能しながら、本のページをめくったりデッサンをしたりするのだった。そのあと食卓に移動し新聞をめくるのだが、カゴの中のりんごを手に取ろうとしたとき、急に血相を変えて立ち上がり、慌てて奥の部屋に引っ込むと、そのまますぐに玄関から飛び出していった。そこから三か月だ。


 ふと部屋の中央に、四角く切り取られた光が降ってきた。天窓からの明かりだ。はっと窓の外側を見れば雲が切れ、月がその顔を出していた。私は思わず月に話しかけた。

 君よ、そんなに高いところにいるのなら、私の主を探しちゃくれないかね。きっとどこでも見えるのだろう?

 悪いがおらぁ目が悪い。老眼てやつだ。あんたより長生きなもんでね。力にはなれないが、代わりにきちんとここを照らしてやる。あんたの主が迷わないようにな。

 なるほどそいつは助かる。ありがたいな。

 いいってことさ。道を照らすのはなにも太陽のやつだけじゃねえんだぜ。

 その日も主は戻らないまま、朝日が昇ってきた。

 私は考える。針の一本一本に意識をめぐらせ、ピンと張りつめさせる。主の戻らない理由とはいったいなんであろうか。もしかしたらけがをして身動きが取れないのかもしれない。しかし私にはなにをすることもできない。

 そうして朝が来て夜が来て、また太陽が顔を出し月が顔を出した。天窓の四角い光が降り、それが薄くなり見えなくなる、かと思えば、またその光が降ってくる。そんなことを何度数えたことだろう。

 夢十夜のようじゃないか。私は思った。夏目漱石だ。主が以前朗読していたのを覚えていた。主は短い話を、声を出して読むのを好んだ。ほかにもトカトントンや高瀬川を聞いたことがある。病気で死んだ女が死ぬ前に男に向かってこう言う。百年待っていてくださいと。男はそれに応じ、庭に石を積み上げ一日一日と数えるのだ。そしてある日庭に花が咲いたかと思うと、その花は男に口づけをする。男はそこで、ああ、百年はとっくに過ぎていたのだなと気づくのだ。

 美しい話だ。しかし残念だが、私はそれほど待つことはできない。

 誰かを待つというのは、一種の祈りに似ているように思う。心にその人だけを浮かべ、ただ一心不乱にその人が現れることを望むのだ。しかし一体だれが私の祈りを見ていてくれようというのか。

 私は自分が少しずつ弱っていることがわかっていた。これだけ長い期間水分を取れていないのだから、それもしかたのないことだった。

 このまま私は衰弱していくのだろうかといやな考えが頭をよぎる。しかしそんなわけないと思い直す。主はそんなことをする人間ではないと、私は信じていた。主は植物を、つまり私を放り出しはしない。

 年が明けるとしばらくすると雪が降った。月は顔を出せないようだった。天窓にも雪が積もり、部屋はいつも以上に暗く、冷えた。生活がなくなると部屋というのはすぐにダメになる。私はこの部屋がそのまま崩れ落ちるのではないだろうかという不安に駆られた。垂れ続けていた蛇口の水滴はいつの間にか止まっていた。

 窓の外側では白い塊が次から次へと落ちてくる。それはなにもかもを覆い隠し見えなくした。湖にも積もっている。ああ、あの水面さえも凍りついてしまったのか。森も畑も、全て隠されてしまう。私は主が消えてしまうような気がしてどうしようもない気持ちになった。しかし私はここから動けない。私はただのサボテンだった。

 雪はそのまま三日三晩降り続け、やっと空が落ち着きを取り戻した。しかし降り積もった雪の量はかつて経験したことがないほどのものだった。

 玄関はその半分が雪に埋もれ、湖は湖面の境目がわからなくなっている。あまり雪の降らないこの地方にとって、この降雪量は前代未聞だろうと思われた。

それ以降天候は安定したが、昼間でもなかなか雪は溶けずその場に留まっていた。私の気分も雪に押しつぶされていた。

 夜がやってきた。四角い光はまだ降ってこない。室内は色濃い闇が包み込んでいる。私はなにもかもがいやになった。動物は冬眠といって、春まで眠るらしい。いっそ私もそうしてしまおうかなどという考えさえ浮かんだ。

 また日が昇れば、二月だ。卓上カレンダーはいまだに昨年の九月を示していた。

 急に辺りが眩しく照らされて、私ははっとした。窓から空を見上げれば、そこには月がにかっと笑っている。

 君、なにをする。

 やいやいやい、しょげた顔をしているんじゃねえやい。情けのないこっちゃ。

 落ち込むことくらい許されたっていいだろう。私はもうひどく疲れた。

 ふうん。ならばおれがあんたを励ましてやろうじゃないか。

 なにを適当なことを。

 決めつけるもんじゃねえぜ。おらぁあんたの憂鬱を吹き飛ばす術を知っているのさ。

 どうせ大したことではない。

 まずおれの老眼が回復したってことだ。太陽から新調したからって古い老眼鏡をもらったのさ。あいつ、いけすかないやつだと思っていたけど案外いいやつかもしれねえ。

 それは確かにいいことだが、私には関係のないことだ。

 いやいや目が見えるっていうのは、あんた、いいことだぜ。当たり前に見えるということは日ごろから感謝しなくちゃならんとおれは思うね。

 だからそれが私となんの関係がある。

 まあまあそう焦りなさんな。いいかいよく考えな、おれの目が良くなったってことはだぜ、いったいどういうことだと思う。

 さあな。

 つまりおれはあんたの主様とやらを探せるということだ。

 なんだと。今なんと言ったかね。

 おおっと待て待て驚くのはこれからだ。そうこれは嘘じゃない、ホントのことだ。だからこそおれはあんたに伝えに来たわけだが……、なあよく聞きなよ。あんたの主様、見つけたんだぜ。

 私は身体の針が全て抜け落ちるような気がした。それは私がなにより聞きたかった言葉だった。主がいる。

 無事なのか。

 ああ無事さ。ここから海を渡ったずいぶん遠い国にいるところをな、見つけたのさ。太陽とちょうど入れ替わるときだ。奇跡的なタイミングだったぜ。主様はジャングルにいてな、西日を避けるように物陰に隠れていたんだが、暗くなって姿を現したところを、ばっちりおれが見ていたってわけさ。

 主は、どこに。

 私はそう言うのが精いっぱいだった。聞きたいことが多すぎて、言葉が出てこなかった。

 まあ安心しな、元気にしてる。きっとこの雪が全て溶け切る頃には帰ってくるだろうさ。サプライズ付きでな。さあもう夜が明ける。朝が来る。なああんた、もう下を向くことなんてないんだぜ。

 君よ、ありがとう。

 なに大したことじゃない。あとのことは太陽のやつに任せるよ。

 その言葉通り、三月がもう目の前にやってきたとき、湖の向こう側に人影が見えた。それは間違いなく主だったが、不思議なのは隣にもう一人誰かがいたことだった。サプライズとはこのことか。

 私は喜びに針が震えんばかりだったが、しかし主の帰宅の前に意識を失った。私はすっかり衰弱しきっていた。

 

 目が覚めたとき、部屋にはいつものクラシックが流れていた。私は自分の鉢植えがしっかり湿っていることに気づいた。きっと主が精いっぱい面倒を見てくれたのだろう。

 主はキッチンに立っていた。私に背を向けている。インスタントコーヒーをつくっているであろうことは部屋に立ちこめるにおいですぐにわかった。白髪の本数が増えていた。首や腕も以前より焼けていた。おそらく暑い国に行っていたに違いない。目の前に主がいた。

 私はそれを少しの間飲み込むことができなかった。本当に帰ってきているということが信じられなかった。

 空が明るい。壁掛け時計を見ると昼を少し過ぎたあたりだった。私はどれほど眠っていたのだろうか。

 部屋に電気がついている。当たり前のことだというのにあまりにも久しぶりのことで私は感動していた。卓上カレンダーが今年のものになっていた。クジラのマグカップは洗われ、放置されていた食器とともに収納棚に収められている。部屋が一段と明るく感じるのは電気だけではなく掃除をしたからか。ホコリっぽさがなかった。

 主がくるりとこちらを向いた。手にはコーヒーカップを持っている。問題はその数だった。二つ。二つだ。私は自分が意識を失う前のことをすぐに思い出した。やはりあのとき私が見たのは見間違いではなかった。主の隣に確かに、誰かがいた。

 主がおーいと奥の部屋に声をかけると、はーいと返事があった。女性の声だった。部屋にやってきた女性は四十代ほどだろうか。肩ほどまでの髪の毛に、ゆったりとした服装をしていた。きれいな人だった。

 女性は主からありがとうとカップを受け取り、二人並んでソファに腰掛けた。

「またこの曲をなの?」

「いいじゃないか、すきなんだ」

「私と聞いていたからでしょう」

「まあね」

 やけに親しい雰囲気だった。以前からの知り合いというにはいささか距離が近く、恋をしているのだという結論に至るのにそう時間はかからなかった。

 そして私はこの女性をどこかで見たことがあった。しかしそれがどこだったか思い出せない。

「炎がついたんだよ」

「それは、まあ」

 主が大真面目に言うと、女性は面白そうに笑った。

「炎というやつは一度ついたら消すのが難しい。どんどん周りのものを燃やして、規模も勢いも加速するばかりだ。そのせいで僕は、なにも用意せずに家を飛び出る羽目になってしまった」

「びっくりしたんだから。最初あなたが現れたとき、私きっとどうかしたんだと思った。だっているはずないもの。でも見ればみるほどあなただった」

「そう、僕は君に会うために無我夢中だった。家の中のものを全て忘れてしまうくらいにね」

 そう言って主は、本棚の下の段からなにかを取り出しだ。それは新聞紙で、日付は主のいなくなった日のものだった。つまり食卓の上にずっと置かれていたあの新聞紙だった。

「まさかこんなところで君を見つけるなんて、想像もしていなかった」

 主は新聞紙をめくる。例の、絶滅したと思われていた植物が発見されたという見出し、その隣に写真が貼ってあった。そこに映っていたのは今ここにいる女性だった。その植物の発見者だと記されている。私は新聞でこの女性を見ていたのだった。

「これを見たときの僕の気持ちがわかるかい? なにもかもを君に支配されたんだ。今すぐ会いに行かなきゃと、炎がついたんだ」

 昔の話。女性と主は交際していた。女性は植物学者、主は農家。女性がフィールドワークでその地を訪れたとき主と出会った。二人は恋に落ちたがやがてすれ違い別れ、違う道を歩み始めた。そのまま何十年と時間が流れ、主はあの日、新聞で彼女を見つける。

 シンプルな話だ。主は女性を、女性は主を忘れてはいなかった。再会は主だけでなく女性にも炎をつけ、そうして、今に至るわけだった。

「ねえ、あなたを見つけたとき、私がどんな気持ちになったかわかる?」

「夢だと思った?」

「カラカラの大地に雨が降ってきたような気分よ。すっかり干からびていた私の心が、一瞬で潤ったの」

「土砂降りだ」

「まったくね」

 二人はコーヒーが冷めるのも構わず話した。やがて日が暮れて湖面が鮮やかに色づき、そしてそれが夜の闇に隠されても、二人は止まらなかった。

「ねえこのサボテン、元気になったみたい」

 女性は私を見た。私も女性を見た。やはり美しい人だった。

「そうか、それはよかった。悪いことをしたからね。枯れなくてよかったよ」

「簡単に枯れたりしないものよサボテンは」

 忘れたの? 彼女はそう主に尋ねたが、主はよくわからないといった表情を浮かべた。

「花言葉」

 主は少し考えて、すぐに破顔した。

「なるほどね。いくつになっても君は面白い人だ。さあ夕食をつくろう。野菜を煮込んであるんだ」

 二人は食卓に移ってからも、会話に花を咲かせた。

 正直なところ、放置された腹いせに針の一つや二つぶすりと刺してやろうかと考えていたのだが、私はすっかり毒気が抜けてしまった。あまりにも平和で、これ以上私の出る幕はなさそうだったからだ。とにかくありがたいことに私は生き永らえ、こうして再び主と会うことができた、これ以上は望むまい。

 ところでサボテンの花言葉とは以下のようなものだ。「燃える心」「枯れない愛」。

 なんだか偶然とはいえ、私が二人に影響与えたような気分になって、それは悪くない感情だった。

 私は窓越しに月と挨拶を交わして、春が来るのを待つことにした。


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