第10話 病室にて

 十、病室にて


 すみれが目覚めたのは病院のベッドの上だった。あれから丸一日がたっていた。ようやく薄く目を開けると、それに気づいた万寿が心配そうに覗き込んだ。

「目覚めたか?良かった」

 と、万寿は安堵のため息をついた。

「ここは?」

 ようやくすみれはかすれた声を出すことができた。

「瑛太の父君の医療所だよ」

 万寿が優しく囁くように続けた。

「お前は刺されたんだ。だが、久美様がすぐに瑛太に電話してくださり、俺たちが此処まで運んできたんだ。我らがここで身分を明かす訳にはいかないことは久美様もよくご存知だからな。それに、今の医術がなければお前は助からなかった。お前がいないと一景様の使命を果たす事も出来ないのだからな」

 万寿が涙ぐんで、さらに続けようとするのを瑛太が遮った。

「一度にあまり話すと疲れるよ。まだ麻酔も切れてないし、もう少し寝かせてやろう。すみれ、助かって本当に良かったよ」

「ありがとう、瑛太」

 すみれはそれだけ言うとまた眠りに落ちていった。安心したのだろう。


 すみれが運び込まれた滝外科医院は、寺と市街地の中間あたりに位置し、大病院ではなかったが、三十床ほどの入院設備の整った近代的な病院である。院長は瑛太の父、晃一で、他にも優秀な外科医が何人かおり、その地域の中核病院となっていた。

 翌朝、すみれは朝日とともに目を覚ました。そして一昨日刺された脇腹に白い清潔な包帯が巻かれているのを確認した。かなりの痛みがあるはずなのに随分眠る事が出来たのは現代の医療と薬のおかげか、などとぼんやり考えていた。

 その時、部屋の外でコツコツと足音が近づいて来て、すみれのいる個室の扉が開き、院長が入ってきた。

「おお、目が覚めたかな。すみれさん、よく眠れましたか?」

「おはようございます、晃一様。此度は本当にありがとうございました」

 すみれは瑛太の父とは家で何度か顔を合わせていたが、このような形で世話になるとは思ってもみなかった。

「傷が思ったより浅くて良かったよ。でも瑛太たちが君を抱えて運んで来たときはびっくりしたよ。あぁ、君たちのことは親父から聞いたよ。最初は信じられなかったけど、あのご先祖様の手紙のことは親父から聞いたことがあったんでね。この事は身内だけの秘密にしておこう。安心して、まずは傷を治そう」

 院長の微笑んだ顔が少し一景に似ている。血の繋がりがあるのだから当然なのだろう。その事がすみれを安心させた。

「もう少ししたら久美が来るよ。多分万寿君もね。僕もまた見に来るから、ゆっくり休んでなさい」

 そう言うと院長は外来があるからと病室を出て行った。すみれはベッドの上で頭を下げたが、少し動くだけでまだかなりの痛みが走り、否が応でもあの時の無念さと悔しさがこみ上げてくる。

 この病院は個人病院で完全看護の為、夜になると全館施錠され、警備員もいる。そのため面会時間までは忙しく動き回る看護士の他には誰も来る者はいない。

 白く清潔な寝具、見たこともない器具や、薬の匂い。当然の事ながら、初めてのことばかりで夢の中にいるようだった。

 やがて、面会時間に入ったのだろう、何人かの人の足音や話し声が聞こえる。そのうち一人の足音がすみれの部屋の前で止まり、ノックする音が聞こえた。

「はい」

 すみれが返事をすると、そっと引き戸が開いた。久美か万寿が顔を見せると思っていたのだが、そこにいたのは坊主頭の少年だった。黒い学生服を着て、カバンを脇に抱えている。少年は少し開けた戸口からじっとすみれを見つめていた。

「何でしょう?」

 すみれが問いかけると、やっと口を開き何かを言いかけたが、人が近づいて来るのを見てとっさに

「部屋を間違えました。ごめんなさい」

 と言い、病棟の奥の方にかけて行ったようだった。

 かわりに部屋に入ってきたのは万寿だった。

「あれは誰だったんだ?」

「わからない。部屋を間違えたと言ってたけど。知り合いがここにいるのかも。今日は万寿だけ?」

「いいや、久美様と霧人もいるよ。晃一様のとこに寄ってから来るよ。瑛太は予備校に行ってる。で?具合はどうだ?」

 すみれは笑顔を見せて頷いた。ちょうど部屋に入って来た霧人と久美もその様子に安心したようだ。

 久美が花を活けに部屋を出ていってから、霧人が話し始めた。

「お前がやられた日からずっと、寺の周りに敵の気配がしている。顔まではまだわからないが、様子を探っているのは間違いない」

「一人?」

「一人だけだ。我らが寺にいることが知られている以上、滝様のご家族に危害が及ぶこともありうる。なるべく早く敵の居所も掴まねばならぬし、また皆様もお守りせねばならぬ。だから俺はなるべく寺にいて、相手の出方を見ることにする」

 万寿が霧人の後を継いで話し始めた。

「俺が毎日ここに来るから安心しな。早く治して巻物を取り戻すぞ」

 すみれは自分たちの世界から遥か遠くまで来て、この仲間が一緒にいてくれることが心から嬉しかった。


 すみれがこの病院に運ばれてきてから二週間ほどがたち、もう病室の中なら歩き回れるほどには回復している。久美はほぼ毎日病院に来て、なんやかやと世話を焼いてくれるし、瑛太と万寿も日に一回は顔を出してくれる。寺の方にもその後変わった動きはないようだった。

 だがこの平和な時間の中で、どうやったら使命を果たすことが出来るのかと、すみれは気持ちが重くなっていくのを止めることが出来なかった。

 面会時間になり、部屋の外は家族や友人の見舞いに来た人の足音が賑やかになってきた。そのうちの一つがすみれの部屋の前で止まり、ためらうようなノックの音が聞こえた。

「どうぞ」

 久美たちが来る時間にはまだ早いが、殺気のようなものは感じなかった。

 ゆっくり扉が開いて少年が入ってきた。すみれが目覚めた朝に間違えて部屋に入ってきた少年だった。

「あなたは。また部屋を間違えたのですか?」

「いいえ、今日はお姉さんにお話があって来ました」

 少年はすみれの問いかけにまっすぐな眼差しで返事をすると、部屋に入ってきた。そして丁寧に扉を閉め、深々と頭を下げた。

「お姉さんを刺したのは僕の父、いえ、僕の従者です。本当にすみませんでした」

 突然の告白にすみれは言うべき言葉が見つからず、ただ目を見開いて少年を見つめた。

「僕の名前は真田幸昌といいます。みなさんと同じ時から来ました」

 一瞬、病室の空気が凍りついたようだった。

 すみれは混乱した考えを整理するようにようやく口を開いた。

「あなたがあの若君なの?まだ五つほどの童と聞いていたのですが」

「僕たちがこの平成の時代に来て七年経ちます。その前に別の時代でも二年ほど過ごしました」

「それで」

 怪訝な表情を浮かべ、緊張しているすみれの様子を見て、幸昌は床にひざまづき手をついた。

「本当にすみませんでした。彼は僕を守ってついて来てくれ、この時代では父として暮らしています。お姉さんを殺めようとしたのも僕を守るためです。全て僕の責任なんです」

 幸昌は床に手と額をついて詫びを入れている。元服したかしないかの若者だが、その態度はまさに戦国の武士のものであり、胸を打たれた。だがすみれたちにとってはまだほんのひと月くらいしか経っていない今、この少年の詫びを一存で受け入れる訳にはいかない。

「あなたの言い分はわかりました。私の仲間にも話してみます。ですがまず、巻物を返して下さい。私たちの使命はあれを取り戻すことなのです」

「巻物?すみません、僕は何処にあるのか分からないので、じいさんに聞いてみます。ちゃんとお返し出来るように、じいさん、つまり雲之助を説得します」

 言うべきことを言って、やっとホッとしたのか、幸昌の顔が少しほころんだようだ。時を越えてから九年程経つとはいえ、彼らにとっては決して楽な年月ではなかっただろう。この少年も全てをのみこんで、この時代に生きているのだとすみれは思った。では、と帰りかけて幸昌はすみれに振り返った。

「本当は最初に伺った日にまず謝るべきでした。だけどお仲間が来て僕、怖くなってしまって。ごめんなさい。また来ます」

 そう言った顔はまだ幼さの残る少年のものだった。



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