第5話 雲之助
五、雲之助
慶長の世に入り数年が過ぎようとしていた頃、天下の覇権はすでに徳川が握っていた。豊臣側についていた雲之助の主人は友軍であるはずの多くの大名達が寝返り、徳川に下っていく中、頑ななまでに主家を守ろうと策をめぐらせていた。それは一度誓いを立てた君主は決して変えぬという武士の信念、または意地のようなものであったかも知れない。しかし、その意地ゆえに兵たちは疲弊し、一族は方々に散り、もう来ぬかもしれない平安の時をじっと息をひそめて待っていた。
徳川方の追っ手はすぐそこまで来ていたかもしれない。そのような折り、一族の血を絶やすべからずという命を受けて家老の一人がやっと5歳になる主人の子を連れて逃げた。その子の乳母、世話係りの女、そして若き主を守るべく数人の家来を連れての逃避行であり、根津雲之助もその中の一人だった。彼らはその家老が昔、主人の共をして狩りの途中に立ち寄った庵を目指していた。そこは信濃のはずれで、今まで戦場となったこともなく、はるか昔から全く変わらないような景色、土地であった。
彼らがこの庵に落ち着いて数週間。世話係りの女と男が夫婦と偽り、近隣の農家から野菜や米などを調達しながら、戦の状況などの噂話しを拾い集めていた。まずはこの辺りまで追っ手がくることはないように思われたのだが、その包囲網はじわじわと確実に狭まってきていた。
雲之助とその配下、忍びの技に通じた者達が常時木々に紛れ、庵を守っていたが、敵方の兵が一度に何十人と襲ってきたら到底持ちこたえられるものではなく、何かしらの策を講じる必要があった。そのような時に思い浮かんだのが雲之助が生涯、好敵手と独り決めしていた滝一族の長、滝一景だったのだ。
雲之助と一景には面識があった。かつて、一景の主君と雲之助の主君がまだ友軍同士であった頃、大阪城の庭において技試しの試合が行われたことがあった。
それは酔狂の域を出るものではなかったのだが、大勢の心得ある者達の中で彼ら二人が勝ち残り、最後まで決着がつかなかった。いや、決着がつかなかったのではない。それはその場での勝者にはならぬ方が良いと判断した一景の思惑だったと雲之助にはわかっていた。それほどの術者だったのだ。その一景は今では忍術はもとより、武術や知略にも抜きん出ていることから、徳川方の大きな力となっている。
今、信濃のはずれに居て、追いつめられた雲之助には頼るものが何もなかった。ただ、この地から滝一族の本拠地まではそう遠くなく、雲之助らの足ならば半日もあれば行くことが出来るだろうなどと漠然と考えていた。そして突然思い出したのが、かつて風の噂で聞いたことがある滝一族の秘伝の書のことである。それは滝一族の本拠地の寺の、おそらくは隠し棚か何処かにあるはずだった。その書の具体的な内容までは知らなかったが、この行き詰まった状況を打破出来る何かがあるかもしれない、今となっては藁をも掴む思いで、それに賭けてみるのもいいかもしれないと思い始めていた。
主人から何の沙汰もつてもなく、家老の顔には焦りが見え、それが雲之助達の不安を助長させていた。
五歳になる主人の子、昌幸は父、母と離された境遇を嘆き続けることを止め、今では庭で侍女を相手に遊んだり、字の手習いをして過ごしている。村の子供達と同じような着物を着て、草履ではなくわらじを履き、城にいた頃には出来なかった遊びを楽しんでいるように見えた。可愛い盛りの昌幸の無事と幸せを誰もが心の底より望んでいた。
雲之助が家老の許可を得て、二人の忍びと共に街道を上っていったのは次の日の夜のことであった。
彼らにとっては走り続けてもさほど大した距離ではなかったが、滝一族の土地に近づいた頃には東の空が薄明るくなってきていた。
農作業や旅の続きに出る者、または街道に店を出す者たちが動き出し、表に出てくる頃である。
雲之助たちは街道脇に広がっている田のはずれに使われていない作業小屋を見つけ、休みをとった。短い睡眠と食事をとった後、雲之助は二人を残し、ひとり寺の偵察に出た。
小商いの行商人のように、用意してきた塩を売りながら里の中に入り込み、言葉巧みに寺の様子を聞き出している。常に寺には何人位いるのか、主人の一景は今どこにいるのか、昨日今日と魚、野菜はどの位寺で買い込んだか、などなど。人の良さそうな里人たちは、見慣れない塩売りにも親切で、いろいろとこの土地で商売する時のコツなどを教えてくれた。あっちに崖があるとか、川があるとか、多くの情報をここで得た。そして一番の収穫だったのは、一景が今日は城に登っており、寺を留守にしているらしいということであった。
雲之助が小屋に戻ったのは、日が西に傾きかけた時分であった。
新月の漆黒の闇の中、雲之助とあと二人、街道から寺に向かって獣道らしき小道をひた走っていた。昼間確認し、安全と思われる道を選んで寺に近づいて行ったのだが、同行の女が一景の仕掛けた印を踏んだのには全く気がつかなかった。そのほんの僅かなことで、遠く離れた城下にいた一景に、すぐさま知れることになろうとは、さすがの雲之助も予想しなかっただろう。
寺の周りにいた見張りの目を避けながら、敷地に侵入し、彼らは床下へともぐり込んだ。しばらく様子を見た後、寝静まって人のいなくなった台所の床板を油を使って音をたてないように外した。目指す隠し棚は本堂裏の蔵の中であろうと察しがついた。同行の男は錠前をはずすことに関しては並ではない。全く音もなく重い扉を開けた。そして二人が蔵の中にはいり、残る一人は外で見張りをしていた。
蔵の奥にある灯り立てに、わずかに指の跡がついていた。雲之助にはそれで十分だった。油を垂らし、気づかれぬようにそれを倒した。はたしてその奥に隠し棚が現れた。中は六段ほどの棚になっており、箱や書物、脇差しなどが置かれていた。その中に黒い漆の箱があり、中には五本の巻物が納められてあった。そしてそれぞれの表には何の巻物かが書かれており、雲之助はその五本のうち三巻を選んで懐にしまった。その後、隠し棚、座敷蔵、床板など寸分たがわず元に戻し、来た時と全く同じ道を三人は戻っていった。
前日辿った道を、今度は休むことなく、急ぎ信濃まで駆け戻った。明け方、庵に戻ってからも雲之助は休むことなく、奪ってきた巻物を調べ始め、周りの者たちがねぎらう声や、食事を勧める声さえ届いていないようだった。雲之助には自分たちの寺への侵入がすでに一景に知れ、彼らがここに姿を表すのも近いと分かっていたのかもしれない。昼前には雲之助はひとり、裏に流れる川の上流にある滝に打たれに行った。精神を研ぎ澄ませ、集中し、周りにある世界すべてを自分の中に取り込もうとしているようだ。それは何時間も続き、呼びに行った者たちも声をかけることが出来なかった。
そろそろ日が落ちようかという頃になり、ようやく雲之助は庵に戻ってきた。その後しばらくの間、家老と何かを話していた。家老の顔には苦渋の色が浮かび、いろいろと思い巡らせていたようであったが、やがて侍女を呼び何やら支度をさせ始めた。ちょうどその時、見張りに立っていたはずの一人が大慌てで庵に飛び込んでくると、一景らの追跡が迫っていることを告げた。
「まさか、こんなに早く知れるとはな…」
雲之助にも予想できなかったほど追っ手はすぐそこまで来ていたのだ。もはや一刻の猶予もなかった。雲之助は寺に一緒に忍び込んだ二人を呼び寄せた。男の名は
三人は囲炉裏の横に車座に座り、二人が両側から雲之助に手をかけていた。そして雲之助が印を結んで何か唱えたとたん、一瞬空間が歪み、地震のような地鳴りと共に四人の姿が消えた。彼らを取り囲んで見守っていた者たちはただ呆然とその空間を見つめていた。
最初に時渡りをした時のことを雲之助はぼんやりと思い出していた。初夏とはいえ、まだ肌寒い日が続いていて、川の向こうに沈んでいく夕日も暖かさを残すほどには力なく薄だいだいへと移り、霞がかった闇が庵一帯を覆い始めていた。あの時、一景たち追っ手があと一日、いや半日でも遅く現れていたら、もしかしたらあの場にいた全員連れてくることができたかもしれない。あんなに幸昌をかわいがり、命に代えてもと、守り続け大切にしていた老人や女達の顔を今でも忘れることができない。雲之助が最後に見たのは彼らの寂しげな、すがるような目だった。戦場において幾人もの命を奪ったときも、あのような目を見たことはなかった。あまりに長く共に過ごしたせいで、情が移ってしまっていたのかもしれないし、またはあの懐かしい、狂おしいほどに恋しいあの時代に最後に目が写した光景だったからかもしれない。
雲之助はあまったるい慕情の念を振り払うように首を振り、
「まずは若君だけでも守り得たことを良しとしなければの」
と、早朝の温かい布団の中でため息をついた。
だが、先ほどのあの感覚。あれは間違いなくあの時代からの追っ手なのだろう。しかし一方でそれが一景本人であるはずがないこともわかっていた。雲之助たちがこの時代に来て以来、この情報にあふれる社会に適応していきながら過去の歴史をいろいろ調べてきた。その中で、滝一景は江戸時代初期に生き、そして死んでいったことは歴史上明らかにされていた。ゆえに追っ手がくるという不安は近頃ではかなり薄れてきていたところだったのだ。
閑静な住宅街の中でも、とりわけ広い敷地に建つ洒落た一戸建てに雲之助はいた。その二階家は白い土壁にオレンジ色の洋風瓦で、建物の北側には煙突があり、中に暖炉があることが伺える。一階には南に向けて広いテラスがあり、瓦と同じ色の煉瓦で敷き詰められていた。そこには小洒落たテーブルセットが置かれていて、その先の庭の芝生はきれいに刈り整えられている。近所の他の家と違って目を引くのは敷地をぐるりと囲む植え込みで、隙間なく並ぶ丈高の植栽が外からの視界を遮っている。
家があるのは滝一族の九竜寺よりさほど離れていない中堅都市である。雲之助たちが時渡りをしてこの時代に降り立った時、追っ手の可能性を考えこの地に住まいをすることに決めたのだ。敵から遠く離れるのではなく、まずその場所の地形、道、情勢などを先に調べ尽くしておくことが、唯一生き残る道につながると雲之助たちは信じていた。追っ手が来た時、その動きを掴み、予測することで返り討ちにすることもできるはずだ。そして最も重要なことは、その追っ手が来た事を知ること。雲之助の能力では遠くに離れてしまってはあの時代からの時渡りを察知することができない可能性があった。それゆえに雲之助の感覚が届く範囲内に寺があることは住まいを選ぶ上で重要なことであったのだ。
外観の洋風な造りとは異なり、雲之助の部屋はその二階にある広々とした純日本風の和室であった。ゆっくりと起き上がり、しばらくの間布団の上で座していた。階下では朝食を準備する音がかすかに聞こえている。少し痛みのある膝をさするように立ち上がり、部屋の引き戸を開けて階段を降りていった。
「雲之助様、おはようございます。今日はお早いですね」
時渡りをして過去から一緒に連れてきた雪音が薄茶色のワンピースにオレンジ色の花柄のエプロンをして、朝食の用意をしていた。竹弥は庭で身体を動かしているようだ。
「うむ…。お前たちに二人に話しがある」
雲之助がその一言を言い終わらないうちに、竹弥と雪音はそれまでしていた仕事を止め、雲之助の前に来て、真剣な眼差しで次の言葉を待った。それは一般家庭の朝としては異様な素早さであった。
「今朝早く、とうとうあの時代より追っ手が来たらしい」
竹弥と雪音は一瞬こおりつき、顔を見合わせた。
「間違いないのですか?」
雲之助は少し眉をひそめ、問いを発した竹弥に目をやったが、その問いには答えなかった。
「かねてから調べてきた通り、一景本人が来たとは考えにくい。それに今朝感じたのはあやつの気ではなかった。だが、誰かがあの時代より来たのは確かなのだ。今のわしではそれ以上のことはわからんがな」
と、雲之助は口を結んだ。
「では、まず私が調べてまいります。どんな者が来たのか、早急にご報告致します」
竹弥が言った。
「そうしてくれ。このように勝手の違う世界に来て、すぐさま動き始めるとは考えにくいがな。まずはお前の報告を待って、次の手を考えるとしよう」
竹弥と雪音の二人にも先ほどの雲之助のように焦りと懐かしさの入り混じったような感情が沸き起こっていた。帰りたくても帰れない、遠い故郷を想う気持ちが、閉じ込めていた箱から漏れ出るようだった。
その時、そんな三人の静寂を破るように二階からトントンと軽い足取りで人が降りてくる音がして、台所に入るドアが開いた。
「おはよう。あれ?今朝はじい様も早いんだね」
幸昌である。彼が台所に入って来た時には雪音はもう味噌汁の味見をしており、竹弥はテーブルに座り新聞を広げていた。
「父さん、母さん、おはよう」
「おはよう、幸くん。ごはん、もう出来るから顔を洗ってらっしゃいな」
と、いつものように雪音が声をかけた。
「はいはーい」
「はい、は一回だけでいい。きちんとした日本語を使いなさい」
と竹弥が新聞の向こうで叱った。
「おまえも大した父親になったな、竹弥」
雲之助が嬉しそうにふふっと笑ったが、その目は厳しかった。
この平成の時代に来て以来、彼らは竹弥を父、雪音を母、そして雲之助を祖父として幸昌を育ててきた。時渡りをした時は幸昌は五歳であったから、本来ならば自分が彼らの主人であることは重々わかってはいたが、世の中に紛れて生きていくにはこの方が都合が良かったのだ。
幸昌は十四歳になっていた。
家族全員でいつものように朝食を終えると、幸昌は学校に行く支度を始めた。
「今日は剣道部の朝練がないから、父さん、一緒に行ける?」
幸昌は中学二年生で剣道部の主将をつとめていた。
「あ、いや。今日は店に行く前にちょっとお客さんのところに行かなくちゃいけないんだ。父さんの方が先に出るよ」
「そう。じゃあ、じい様、ちょっと庭で剣道の練習付き合ってよ。もうすぐ秋の大会なんだ」
「いいよ。だけどこんなじじいに勝てたこと一回もないよな。まず、わしを負かさないと大会は望み薄いぞ」
幸昌は苦笑いをしながら、
「実戦で剣の腕を磨いていたじい様に勝てなくても当然でしょ。じい様に勝てる時が来たら、僕は日本一だよ」
そう言われて雲之助は嬉しそうに竹刀を取りに行った。
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