いやな猫
もふもふきなこ
<がんばる猫ちゃんのお話>
覚えのない電話番号からの着信を気まぐれで受けてみると、高校時代の友人浅田からだった。そこそこ仲は良かったが、大学に進学してから一度も会っていない程度の関係であった為、大学さえ卒業し十年経った今、名乗られてから思い出すまでに少しの時間を要した。
浅田も自分を覚えてもらっているとは思わなかったらしく、自ら名乗り、案の定私が沈黙するとポツポツとヒントのような自己紹介を始めた。第五ヒントまでいったところで、ようやく私の記憶の引き出しがガラリと開かれ、彼を思い出したのだ。…だからと言って弾むような話題はなかったが。
「それにしても本当に久しぶりだなぁ。俺の電話番号残しててくれたのか。浅田の、消してしまってごめんな」
駅前の居酒屋にてビールを乾杯したところで、私は電話口での会話と全く同じ言葉を発した。正直、それくらいしか会話の糸口が見つからなかったし、当時から浅田は自分から話し出すタイプではなかった。それは自分から相談したいことがあると設けたこの場ですら変わらない性質らしい。
「いや…高校の時から番号が変わってなくて助かったよ。一か八かで電話したんだ。驚かせて悪かった」
「それでどうしたんだ?十数年ぶりに連絡くれたってことは、かなり大変なこと抱えてるんだろ?」
「ああ…」
浅田はよれたスーツに皺を寄せてビールを一口飲み込んだ。あまり酒が得意でないのか。何となく飲み慣れていない感じがした。
約十年ぶりに会った浅田は、正直に言って老けていた。実年齢より上に見える要因は、丸まった背中や目の下のクマだけではないような。精神的な要因を思わせる。
「吉村、猫飼ってるよな?」
「は?」
「今も飼ってるか?」
「あ、あぁ…さすがに高校の時飼ってたヤツは死んじゃったけど、就職してから飼い始めた猫とは今も一緒に住んでるよ」
「猫のことを相談したいんだ。あいつらが何を考えているのか教えてほしい。猫に詳しそうな奴を思い出したけど吉村しか思い当らなかった」
「……」
一瞬、何をふざけたことを話し出すんだと笑い飛ばしそうになったのだが、何とも滑稽なことに、語り出した浅田の目は本当に疲れきっていて、独身だからと何十年も身内の介護を押し付けられている中年男のように弱っていた。猫など少しSNSを見ればいくらでも自分の飼い猫の写真を乗せてる友人がいるだろうに、どうやらそんな存在も居なければ、ネットで検索する能力すら持ち合わせていないらしい。
悲しくなった。私にはこの飲み会を終わらせて家へ帰れば明るい部屋でおかえりと言ってくれる存在がいる。猫も玄関先まで来てにゃあと一言声をかけてくれる。温かい風呂、台所に準備された翌日の弁当、今まで当たり前だと思っていたそれらの光景を、浅田は一度も見たことがないのだと思うと、勝手ながら胸がざわついた。私は浅田の家族環境を聞きもせず判断し、頼りなく背中を丸める同級生に同情した。
「浅田、猫がどうしたんだ?」
「…近所に野良猫が居るんだ。そいつのことは一度見かけた時から覚えていた。あの時俺は何としてでも始発電車を逃すわけには行かなくて死にもの狂いで走っていた。もう膝が上がらないってくらい走って何とか間に合いそうになった時、踏切前で休んでいた俺を一瞥してあざ笑うかのようにそいつが線路に飛び出したんだ。お陰で電車は一時停止、ちょろちょろする猫がどけるまで三十分も止まりっぱなしだった。あまりにも腹立たしくてあの猫の顔は忘れられなかった。これがすべての始まりだった」
憑りつかれたように浅田はまくし立てる。私はあまりの剣幕に言葉を失った。
「それからと言うもの、あいつは何故か俺の後を付けてくるようになった。仕事帰りに歩いているといつも遠くから後ろを付けてくるんだ、ギリギリ俺に攻撃されない距離を保って。歩道を歩いてるのが馬鹿らしくなって車道を歩こうとするもんなら、俺を追い抜いて車道に飛び出しやがるから俺が運転手に煽り倒される。何発クラクションを浴びたか数え切れないくらいだ。
家に着いたって安心はできない。いつの間にか奴が部屋にまで入り込んでるんだ!確かに俺は扉を閉める時確認しているし他の窓も一切開いてないのに。もういいと無視して風呂に入ろうと湯を溜めようとすると、あの排水口を塞ぐ鎖に繋がれた栓あるだろ?あれをどうしたのか千切って栓の部分だけ咥えて部屋を駆け抜けてたんだよ。信じられるか?俺は別に猫が好きでも嫌いなわけでもない、猫になんて特別な感情を抱いたこともないのに何でかあいつは俺に付きまとうんだ!
それで栓を取り返そうと部屋の中を追い掛け回すと至る所に悪戯されてるのに気付く。洗面所に置いていた薬が床に散乱していて、更にコップに溜めてあった水だろうな、あれもぶち撒けて薬は全部おじゃんだ。台所の包丁やまな板も床に無残に落とされていて、百円均一で買った脆いセラミック包丁は真っ二つに割れてたよ。ガス栓に繋がってる管も噛み千切られてた。
ああ思い出すだけで苛々する、禿げそうだ、キャンプ用に準備していた着火剤や炭や用具も力の限りボロカスにやられてた。あの小さな顎のどこにあんな力があるって言うんだ!なぁ吉村、教えてくれよ、あのクソ猫は何の恨みがあって俺にそんなことをする?俺があいつになにしたって言うんだ!?」
激昂した浅田は言い終わるや否やビールを一気に喉に掻き込んだ。ダンッと大げさにジョッキを叩き付けて、私を睨み付ける。まるで別人だった。相当精神がやられている、今の大演説を聞いた私の感想はその一言に尽きた。
「一旦落ち着こう。まぁ、それだけを聴いても一概には何とも言えないけど…本当にその猫とは以前に会ったことも見かけたこともないのか?」
「ないよ。俺は今のアパートに住んで野良猫を見かけたことは一度もない。今回のことでさすがに大家に相談したんだが、他の住人からそんな苦情は受けたこともないし野良猫なんてそこら中に居るからと取り合ってもらえなかった」
「ふん…となるとやっぱり何かのきっかけか、特に理由もなくか、とにかくその猫に好かれてしまったとしか考えられないなぁ」
「好かれる!?」
浅田はまた大声を出す。賑わう店内とは言え、流石に人目を引いた。俺は宥めるようにその時運ばれてきたビールを勧める。
「あいつの栓を咥えて走り回る時の顔が忘れられない・・・俺を心底馬鹿にしたような、舐め腐ったような顔でこっちを見てたんだぞ。俺が嫌がるようなことを的確に知り尽くしてあんな悪戯をしでかしているに決まってる。猫は好きなやつにはゴロゴロ甘えたりするって昔吉村言ってただろ?」
「まぁー俺だって悪戯されまくってるぞ。構ってやれない日とか続くと尚更だ」
「それはお前が飼い主だからだろ?俺はあんな奴見たこともないんだ」
「もしかしたら前の住人とか・・・」
「俺はもう十年もあのアパートに住んでる」
「ふうん・・・」
「吉村、家族はいるのか?」
唐突な質問に不意を突かれた。こんな話題を切り出す奴だったかと一瞬ビールを持つ手が止まったが、私は答えた。
「ああ。奥さんと五歳の娘が一人いるよ」
「その家族にも猫は懐いてるのか?」
「ううん、そういえばどうだったかな。すっかり俺以外に懐かなくなった頃に奥さんと知り合って・・・」
それから私は、目を見開いて私の話を一切聞き漏らさんとする浅田の迫力に気圧され当時を思い出すように身の上話をした。思えば最初の猫はまだ仔猫の時に拾って、暫くは実家の母親に面倒見てもらっていたので、一人暮らしを始める時も実家に置いてくるつもりだったのだが、どうにも母親より私に懐いてくる不思議な猫だった。
そんなにペットとのコミュニケーションに熱心な方ではなかったし、一人暮らしに連れていったものの仕事仕事で放ったらかしにしていたのにずっと私に甘えてきていた。母親に懐けばもっといい暮らしが出来たろうに。
そう思うと猫という動物は人間には理解し尽せない生体なのかもしれない。あいつらの行動原理は不明だし、基本人間を蔑んだ目で見ている。甘えてくることなど腹が減った時、寒い時だけだ。部屋に入れろ入れろと煩いから重い腰をあげて猫を迎えいれると、部屋をぐるりと一周してすたすたと入ってきたばかりのドアの向こうへ消えていくような連中なんだ。
だから尚更猫のことで参っている浅田が不憫になった。その悩みは不毛なのだ。理解し尽くせないのだから。
もう彼の悩みを馬鹿馬鹿しく思う気持ちなどなく、どころか私は妻との馴れ初めからちまちまと話進めてしまったのに熱心に相槌を打ってくれるものだから、尚更言葉が弾んだ。仕事の話となれば、職を転々とする私に対し同じ職場に十数年も勤めているらしい浅田は、羨ましいという言葉と共に今の状況から抜け出す勇気が出ない自分の悩みを打ち明けてくれた。気付けば妻にこれくらいには帰るだろうと伝えていた時間はゆうに超えていた。
「悪いな、吉村。家庭あるのにこんな時間まで付き合わせてしまった」
「いやいや、俺もかなり楽しませてもらったよ。なんなら今から浅田の家行って、その猫見てみようか?どうせ居るんだろう?」
「え…」
その時の浅田の表情を、忘れることはできない。指で顔を弾かれたように驚き、それから放心して、そして私の勘違いでなければ浅田は、目に涙を浮かべていた。
「い、いいのか、でも」
「いいよいいよ。どうせもう終電も過ぎたからタクシーで帰るし、明日は遅出勤なんだ」
「そうか・・・」
この控えめな男のことだからてっきり遠慮するかと思いきや、浅田は唇を震わせて感激に湧いていた。そんなにその猫が嫌だったのか、ずっと苦しんでいたのかと思ったが、違ったんだ。
浅田との交流はこれから続くだろうと、いわゆるフィーリングで感じていた。話してみるととても居心地が良く、普段の人付き合いで感じる気遣いや間の悪さが嘘のように楽しかった。猫の話を忘れてお互いの話に夢中になっていたから、きっと浅田も同じ気持ちに違いなかった。人間の縁とは不思議なものだと深々と思った。
ほろ酔い気分で徒歩十分の浅田の家へ向かう途中、くだらない話をしながら周囲を確認したが例の猫の姿は見当たらなかった。そもそも警戒心の強い動物だから、見知らぬ私がいては近づいてこないのかもしれないと思っていると、浅田が改まって私の名前を呼んだ。
「実は俺、友達を自分の家に招くことが夢だったんだ」
照れくさそうに微笑む浅田の様子が、明らかに出会った時とは違くなっていることに気付く。肩の荷が下りたような、浅田に取り憑く何十もの悪霊が一気に消滅したような、軽やかな表情だった。
「気持ち悪いだろ、こんな歳で。でも酔ってるからな、なんでもアリだ」
けたけたと笑い、浅田は縁石の上をバランスを取り歩いていく。危ないぞと声を掛けながら、私は久しぶりに味わえた素晴らしい時間を脳に焼き付けていた。
やがて浅田のアパートに到着し、階段を上り二階の通路に案内される。もう少しいい家に住めるだろうに。失礼ながら、浅田らしい簡素なアパートだと思った。201号室と掛かれた部屋のドアの鍵を開けた浅田の後を追い「お邪魔します」と足を踏み入れると、浅田は慌てて目前のテーブルの上にあった便箋をぐしゃぐしゃにしてごみ箱に突っ込んだ。新品のように綺麗だったのでいいのか、と訊くと「もう要らないからいいんだ」と浅田は答えた。
ゴミ箱の中であふれかえる紙屑の一枚からは、折れ曲がった「遺書」の二文字が辛うじて見て取れた。
「…!」
その瞬間、心臓が熱く脈打った。普段気にもしない心臓の存在を確かに感じた。どくんと跳ね、未だじわじわとした熱が血液と共に体中に流れていく。
遺書?浅田は、死のうとしていた?
「汚い部屋で悪いな、今お茶出すよ。それにしても吉村はよく登録もされていない番号の電話出てくれたよな。正直吉村でダメだったら諦めようと思っていたんだ」
見てはいけないものを見てしまった動揺を隠すことに必死で相槌が打てない。浅田に不審がられないよう、せめてもの張り付いた愛想笑いを浮かべる。浅田が私に目線を寄せずに台所に向かってくれたおかげで助かった。
諦めようと思っていた。何を?
『俺はその日なんとか始発電車に間に合いたくて死にもの狂いで走っていた』
その時、私の心の中で絡まっていた疑問の糸がぶつりと断ち切られた。
よく思い返せ。浅田の発言を。
『歩道を歩いてるのが馬鹿らしくなって』
『床に散乱した上に水浸し』
『鎖の付いた栓』
『百円均一で買った脆い』
『キャンプ用に準備していた』
浅田の邪魔ばかりしていた猫のいたずら。
始発電車。車道。風呂。薬。包丁。ガス。練炭。
(守ってくれていたのか…)
「吉村!」
「えっ!?」
弾かれたように顔をあげると、目の前にはお茶を片手にいぶかしげにこちらを見詰める浅田がいた。
「大丈夫か、まだ酔い冷めないのか?ほら、プーアール茶飲めよ」
「え、あ、ありがとう…プーアール茶…」
「俺の声聴こえてなかったろ。ずっとひとりで喋ってたよ」
「そ…それは悪い。なんだっけ、もう一回言ってくれ」
「だから、なんで吉村はあの電話出てくれたんだ?見覚えのない番号からの着信なんて普通出ないだろって」
私は雑談どころではない胸中を悟られぬよう必死で浅田のセリフを脳内で反芻させた。「なんで吉村はあの電話に出てくれたんだ」あの電話とは、浅田からの電話。「見覚えのない着信なんて」見覚えのない着信なのは、浅田の番号を遠い昔に消去してしまっていたから。「普通出ないだろ」そうだ。普通なら出ない。せいぜい着信が止むまで待ち、その後番号をネットで検索して営業電話なのかを確認する程度だ。
私があの時、通話ボタンを押した理由―――それは。
「実は…ただの気まぐれなんだ」
浅田はふっと吹き出すように笑った。
「そうなのか。猫みたいだな」
そう言って一口茶をすする。私には熱すぎてまだ飲めそうにない。マグカップを持ったまま呆然としていた。そういうことか。まんまとバトンタッチされたのだ。
「とりあえず…浅田、ラインのインストールの仕方、教えるよ。もう誰も電話だけでやり取りしないから」
「あぁ聞いたことはあるよ。でもやり方教えてもらったところでできるかどうか」
「大丈夫だよ。こまめに連絡するから、分からないところがあったら教えてくれ」
「それは助かるけど…あれ、そう言えばあの猫、出てこなかったなぁ。人を毎日苦しませておいてなんで今日に限って・・・とことん気まぐれな奴だ」
浅田の家にも、自宅への帰路にも、猫は居なかった。
おわりだにゃん
いやな猫 もふもふきなこ @chimimi1020
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