第8章 忘れられない瞬間(1)
「なによそれ!」
万沙子のヒステリックな声が、部屋中に響いた。
だが、彼女の叫びは尤もだろう。財産に関与していない僕でさえ、思わずそう叫びたくなったからだ。
東郷家の他の人達も、顔を見合わせたり困ったような顔をしたり、怒った風な顔の人もいる。
その場にいた全員の視線を、一身に集めていた守屋は、意外に落ち着いていた。こうなる事は最初から予測していたに違いない。
食事などをしていた大部屋に、僕達は全員移動していた。
一番奥に、椎名刑事と並んで座っていた守屋は、無言で鞄を膝にのせ開き、中から少し大きな茶封筒を二通取り出した。そしてそれを、両手に持ち掲げた。
「皆さんの驚きもお怒りも最もです」
守屋はまず右手で持った封筒を前に出した。
「こちらが皆さんに、最初にお見せした遺言状です。そしてこちらが」
言いながら、左の方の封筒を軽く揺すった。
「もう一つの遺言状です」
「どういう事なんだ? 読んでも構わないんでしょう?」
「勿論ですが……その前に刑事さんから少しお話を…」
半分手を出した状態の一志だったが、大人しく座りなおした。だが何か言いたげに、守屋を睨みつけている。
「では、どうも。先程は皆さんお疲れ様でした」
椎名が軽く頭を下げると、全員が無言で頭を下げた。
「守屋さんのお話の通り、遺言状は二通あるみたいですがね……まあそれの前に、聞いていただきたい事がありますので」
コホン、と一つ咳ばらいをすると、椎名は黒っぽい手帳を取り出した。
「東郷弘二さんですが、死亡推定時刻は午前一時から五時のあたりです。死因は首吊りによる窒息死。弘二さんの体から微量ですが睡眠薬と……お酒も残ってましたので、随分飲まれたみたいですね」
「弘二って睡眠薬飲んでたの?」
万沙子が少し驚いたように、悦子に聞いたが、悦子は首を振った。
「知らないわ」
「東郷正将さんの死亡の時と、同じ睡眠薬とわかりました」
「え? じゃあ弘二は父さんの薬を…?」
万沙子が独り言の様に、そう呟くと隣で胡座をかいていた彬が言った。
「じゃ、おっさんは誰かに薬を飲まされて寝ていた所を、誰かに首吊られたって訳だ。そーだろ?」
彬の顔は歪んでいる。笑っているのだ。
「何言ってるのよ…」
「その可能性もあります」
誰かに飲まされて―――という事は、東郷家の誰かが―――という事になる。正将氏が飲んでいた睡眠薬の事は、外部の人間が知ることはないのだから。
「弘二さんは、お酒の中に睡眠薬を入れられ、眠った所で首を絞められ殺された可能性が高いのです」
「なに? じゃあ私たちを疑ってるって事?」
悦子が身を乗り出すと、万沙子が迷惑そうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「私たちだって? 冗談じゃないわよ。父さんが睡眠薬を飲んでたのは知ってるけど、それがどこにあるかなんて、あたしたちにゃわからないわよ? 悦子さんは知ってたでしょ? ずっと一緒に住んでたんだもの!」
「どういうことよ!」
「万沙子…! お前俺たちを疑うのか?」
一志と悦子の夫婦に睨まれても、万沙子は怯まない。
「誰もあんた達とは言ってないじゃない? ははん? そうやって慌てる所が怪しいもんだ」
「万沙子!」
「よせよ、万沙子姉さん!」
険悪なムードの三人に、賢三が割って入った。
「まだ刑事さんの話が途中だろ?」
「なんだい、いい子ぶっちゃってさ。財産だってそんなにいらないとか何とか言ってたけど、お前だって本当は欲しいんだろ?」
「………その遺言状の事、早く聞きたいなら黙ってろよ」
「……」
遺言状、という言葉に万沙子は漸く口を閉じた。
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