魔王の卵
聖霊ネネイより突き出された右掌には、美しい模様をした淡く輝く石……いや、「卵」が握られていた。
まるで受け取れと言わんばかりに差し出されたそれを、しかし勇者エルスは即座に受け取れずにいた。
それもその筈で、つい先ほど「魔王」と呼ばれる魔族の王をその手で討ち滅ぼしたばかりなのだ。
その興奮も冷めやらぬうちに、「魔王」と名の付く卵を受け取ることなど出来よう筈も無い。
いや、それ以前に、勇者であるエルスが魔王の卵なるものを受け取れる道理が無かったのだった。
一向に動き出さないエルスを見て、聖霊ネネイは静かに突き出していた右手を下ろした。
「……ねぇ、エルス……? あなたがこの卵を受け取らなければ、世界はどうなると思う……?」
だがその動きは、彼に卵を託すことを諦めたからでは無い。
まるで失笑を堪えるかのような笑みを湛えて、ネネイはそんな質問をエルスに投げ掛けた。
「……は……? どうって……」
しかしエルスには、ネネイの質問する意味が即座に理解出来なかった。
もし……魔王の卵を……受け取らなかったら……?
「魔王の卵」と銘打っているのだ。疑いようもなく、その卵からは次代の「魔王」が生まれるのだろう。
エルスがその卵を受け取らなければ、当然の事ながら魔王は生まれない……筈だ。
魔王が生まれなければ、人の世に魔族の脅威は訪れない。
全くのゼロ……と言う訳はないだろう。魔界と人界がどの様な形であれ繋がっている以上、稀に魔族が人界に迷い込む事はあるはずだ。
そうなれば、少なからず人里には被害が齎される。
完全に平和と言う訳にはいかないだろう。
それでも、魔王が魔族軍を率いて人界に侵攻して来る事を考えれば、その脅威は比べるべくもない。
ならば、魔王が生まれるであろう卵を
エルスは疑う事無くそう考えたのだが……。
「それは違うわよ、エルス?」
まるで彼の思考を読んだかのように、聖霊ネネイは嗜虐的な光の灯った瞳でエルスの目を覗き込んだ。
ゴクリ……と、知らずエルスの喉が鳴った。
「あなたがこの卵を受け取らなければ、確かに魔王はこの世に誕生する事が出来ない。自然に孵化するには、それは長い時間を要してしまう。恐らくこの先数百年は、人間は魔王の脅威に晒される事は無くなるわね」
正しくエルスが考えていた事を、聖霊ネネイは言葉にして説明した。
そしてエルスも、その考えに肯定的だった。
「……でも、残念。魔王が現れなければ、程なくして人間世界では戦争が起こり、この先魔王が出現するまで、人間同士で殺し合う『血の歴史』が綴られてゆく事となるわ」
だがその後に続いた聖霊ネネイの説明は、エルスの想像の埒外にあるものだった。
「な……んだ……って……?」
余りに酷い“想像”を語られ、エルスはその情景を想像する事が出来なかった。
少なくとも、今現在では人族は一つに纏まっている。
統一国家を樹立し、各国家から選出された優秀な人材が魔族に対して手腕を振るっている。
被害を受けた町村の救出、復興。
魔族に対する為の軍整備。
武器防具の輸送調達。
治安の維持と、住民生活の安定。
そのどれもが、統一国家ならではの包括力と迅速性で執り行われ、大きな傷を負った世界を修復しようと一丸になっていた。
そんな人界が戦乱に苛まされるなど、今となっては想像出来ない事だった。
「うふふ……驚いてるわね? でも、ざ―――んねん。人間は、それ程利口な生き物じゃないのよね―――」
漸く、その声音はエルスの良く知る“聖霊ネネイ”の物へと戻った。
しかし話しているその内容は、どこか人間を馬鹿にし、蔑んでいる様にも思えた。
「あなた達が最終決戦へと……魔界へと旅立った時期を同じくして、人間界では各国家間で『勇者パーティの処遇』について、幾度も会議が開かれていたわ―――」
「しょ……処遇だって……?」
エルスにとっては、全く以て初耳だった。
エルス達に惜しむことのない協力をし、様々な方法で力づけてくれた統一国家の面々が脳裏に浮かぶ。
そのどれもが、国難に際しているにも拘らず、力強く微笑んでエルス達を勇気づけてくれる物ばかりだった。
「政治家って、ほんっとに“上っ面”を取り繕うのが上手よね―――」
エルスの心情をまたも探り当てたかのように、ネネイがそう捕捉する。
そのように付け加えられれば、エルスにも何が本当だったのかが分からなくなる。
優しい笑みの裏で、何を思っていたのか勘ぐってしまいそうになるのだ。
「いい、エルス? あなたは、あなた達の力について考えた事があるかしら?」
一足飛びに話が変わるネネイの言葉に、エルスはすっかり翻弄されている。
自分達の力について、特に深く考えた事など、彼にはない。
ただ魔族を倒す。
その為に授かった力なんだと、今の今まで彼は疑った事など無かった。
「あなたの力は、人間たちにとって脅威そのものです。為政者たちは、あなたとあなたの仲間達をどのように処するか、今はその事に頭を悩ませています」
自身の力が、人々にとって脅威の対象であるなどと考えた事の無いエルスは、ネネイの言葉に少なくない衝撃を受けていた。
しかも人々はエルス達を、ともすれば良い具合に処理したいと考えている。
制御や従属は勿論だが、その考えの中には当然の事ながら処分……つまり殺害すると言う事も含まれているだろう。
「そしてあなた達の処分が決定し、『勇者の脅威』が無くなったと確信すれば、今度は再び複数の国家へと別れて争いを開始するでしょう……。そう……終わりの無い戦いを」
聖霊ネネイの言葉は、今のエルスにとってどれも俄かに信じられるようなものでは無かった。
彼にはどうしても、必ず人界が戦禍に飲まれるなど思えなかったのだ。
それ程に、彼は「人」と言うものを信じていた……いや、信じたかったのだ。
「でも残念ながら、必ずそうなります。それも、そう遠くない未来にね」
そんな気持ちを嘲笑う様に、ネネイはエルスの考えを否定した言葉を語った。
他の誰が言うのではない、神の眷属たる聖霊ネネイがそう言い切る事には他にはない重みがあり、説得力がある。
そしてエルスには、彼女の言葉を否定して言い返す材料を持ち合わせていなかったのだった。
「あなたの仲間達は……辛うじて御す事が出来るでしょうね。でもあなたは違う。勇者であるあなたの力は、それこそ魔王に匹敵する程強いものよ。あなたが存在するだけで、人々は落ち着いて眠る事も出来ない。あなたを巡って人々は策謀を巡らし、あなたを倒す事に人々は頭を悩ませるのよ」
もはやエルスに、ネネイの言葉に反論するだけの思考は存在していなかった。
ただ彼女の言われるがままに、呆然と聞き入っている。
「あなたがいても争いは起こり、あなたがいなくなっても争いは起こる……。勇者としては悩ましい処よね―――」
頬に手を当てて、悩まし気な溜息を吐きながらそう零すネネイだが、その仕草はどうにも芝居掛かっており、心底心配している様には見えなかった。
それもその筈で、聖霊たる彼女にとっては、どれも「人界」での出来事であり、「人界」の問題である。
つまりは……関係ないのだ。
「でもね―――……。ここで人界を救う方法が、この『魔王の卵』なのよ」
パッと表情を明るくした聖霊ネネイは、再びエルスの前に右手を差し出し、その手に握っていた「魔王の卵」を彼の前へと晒した。
「あなたがこの魔王の卵を持ち、魔王を孵し、魔王を育てれば、人類の敵は正しく『魔王』と言う事になり、その団結が衰える事は無いわ。新たな勇者の誕生を待って“魔王討伐”を果たすまで、世界は一致団結して新たな魔王に対するでしょうね」
ネネイがゆっくりと口端を吊り上げる。
それを見たエルスは、今までに感じる事の無かった気分となりゾッとしたのだった。
それは優しく笑い掛けると言うよりも、楽しい玩具を見つけたと言った嗜虐的なものだった。
「さぁ……選ぶのです、勇者エルス! 人族同士が争い続ける世界か! それとも、新たな魔王を生み出す為に人類の敵となるのかを!」
もはやエルスには、ネネイは聖霊ではなく、悪魔にしか見えなくなっていたのだった。
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