2
俺は警察車両をタクシー代わりにし、館科かおりの死体が見つかったという荒川の堤防道路にやってきていた。一応まだ容疑者という立場なので、クレオたちも一緒だ。
用意のいいもので、クレオは本来極秘であるはずの捜査資料を持ち出していた。つまりこの男は、初めから俺が依頼を受けるであろうことを見越していたというわけだ。俺も自分の行動が見透かされているようで、なんだか気分が良くない。
「何か?」
「いいや」
気持ちがそのまま顔に出ていた。そんな面白くなさそうな顔でクレオを見ていては、どんな人間だって気にならないはずがないだろう。俺は肩をすくめてやって来た堤防から河川敷へと視線を移した。
「ここが館科かおりが殺されてたって場所か。グラウンドにサイクリングロード……至って普通の河川敷だが、こんな場所でなぜ館科かおりは死んだんだろうな」
「資料によれば、当時日も暮れて帰ろうとした小児が、用具を片付けに小屋を訪れたところ、扉が開いていたので中を覗いたら彼女が倒れていたようです」
「あれだな」
顎をしゃくって、俺はグラウンドから少し離れた場所にある小屋を指した。クレオも捜査資料をめくって、撮られ写真と照らし合わせた。
「ええ。行きましょう」
クレオを先頭に、俺は部下二名に見守られながら河川敷へ降りると、窓から小屋の中を覗いた。用具入れの小屋とはいうが、むしろ河川敷公園の管理小屋といった向きで、十数人が入っても十分に詰められる程度には広い。
中は、冬には暖められるよう今時珍しい石油ストーブや小さな簡易テーブルに、パイプ椅子が三つ、それに小型のテレビも置いてある。それと、河川敷の広場を使うにあたって必要な、スポーツの小道具なんかも一通り揃っていた。
資料の写真には、その窓にすぐ真下にもたれ掛かるように、背を壁にして倒れていたらしい。しかも、おかしなもので彼女は一切人目がつかないよう、用具入れの中の物を使って、隠れるように倒れていたようだ。
(何かから逃れるためか?)
そんな疑問が浮かんだ。しかし、だとしてもこんな監視小屋兼用具入れの小屋に潜むなど、少しおかしな気がしないでもない。しかも、わざわざ身を隠すため、中で一種のバリケードを築いてまでするようなことだろうか。
その時、向こうから管理人らしい老人の男が、怪訝に眉をひそめながらこちらへと向ってきた。
「あなたはここの管理人ですか?」
「そうだけども、あんた方は?」
「失礼、私どもはこういう者です」
そういってクレオが取り出したバッヂに、思わず彼も身を固くした。しかし、その表情はすぐに何かを悟ったようで、小さくため息を漏らしながら言った。
「ああ、四ヶ月前のあの事件のことかね」
「ええ、そうなんです。もう一度事件を振り返るために、ここへ」
「そりゃご苦労なことだね。あれはあたしにとっても驚いたよ。その日はたまたま非番だったから詳しくは知らんけどね。なんだったら中に入ってみるかね?」
「是非」
そういって、老人はドアを小屋のドアを開けて俺達を招き入れた。もう四ヶ月も前のことだから、当時そのままが残されているわけではないが、それでも念のために調べておくべき、ということだろう。
「特にこれといった物はなさそうだがな」
「ええ。資料にも特別重要になりえそうなものはなかったようです。ただ、バリケードを築いたのは彼女本人だった。あちこちに彼女の指紋が検出されたので、それは間違いない」
俺達は特に何を見つけられそうにもない小屋の中をぐるりと見て回った。しかし、何か変わるわけでもない。俺がふとした疑問が思い浮かんだのは、写真と現在の様子だ。
「爺さん。ちょいと聞きたいんだがこのカーテン、いつも閉まってるのか?」
「カーテンかね? いや、その日は非番だったんで良く知らんが、普段カーテンなんぞ閉めとらんよ。中はこの通り、金目の物なんてないからね。
わしらが道具の管理と、ここらの河川敷公園の管理をしてるってだけで、いちいちカーテンなんて開け閉めしないよ。第一閉めとったら向こうから見りゃここが閉じとるように見えるわいな」
そいって老人は窓を指差した。確かに、その方向からこの小屋を見ると、カーテンが閉まっていれば人がいるかどうか分かりにくい。老人の指摘はごもっともだった。
「じゃあ、このカーテン……彼女が閉めたってことか」
「確かにそうですが、それがどうしたんです?」
クレオは俺が何かに気付いたらしいことを察し、その説明を求めた。俺も俺で、その思いつきを実戦するために館科かおりが倒れていた辺りに体をやり、同じような姿勢で倒れ込む。
「どうだクレオ、ここでカーテンを閉めてみてくれ」
そうしてカーテンが閉められると、中は一気に薄暗くなった。分厚いカーテン生地は、ただでさえ日が入りにくい小屋から、あっという間に日の残光を遮ったのだ。
しかし彼女が見つかったのは日が落ちた、宵の口だ。彼女は見つかった段階で、こんなバリケードを作っていたわけだが、なぜそうまでしなくてはいけなかったのだろう。バリケードを女一人でこれだけ作るには、それなりに時間がかかるはずだ。つまり、彼女は日が暮れる前よりもここにいて、これを作ったということになるが……。
仮にここを仮宿にするにしても、夜になるのにこんな面倒なことをしなくてはならない理由はないはずだ。なぜならここらは夜、人が来ることなどほとんどないはずだからだ。そのための管理小屋なのだから、夜、ここで潜伏するのならバリケードなど作る必要がない。せいぜいカーテンを閉めるだけで十分だろう。
しかし、写真を見る限りでは、そのカーテンが動かないようガッチリとバリケードを築いているのは、何かもっと大きな意味があるように思われる。その中で背を丸くして、隠れるように倒れていた彼女の行動は、あまりに不可解だった。
「こんなことをしなきゃいけなかった理由は何だ」
俺の呟きに、小屋に沈黙が降りた。そんなの誰にも分かるはずがない。少なくとも現状では。だが、人間が起こす行動には何かしら理由があるのも事実だ。つまり、こうしなきゃいけない理由が絶対にある。なくてはおかしいのだ。
「あれかねぇ。今起こってる吸血鬼だって事件、日に当たるのを極端に嫌がるって話もあるだろう? それとは関係ないのかね?」
沈黙に耐えかねてか、老人がそんなことを口にした。もちろん、荒唐無稽な話を真面目に受け取るわけにはいかない。しかし、つい昨日の夜に起こった出来事を思うと、俺はふと思い立つことがあった。
半ばひったくるように、クレオの持つ捜査資料を取った。まさかとは思うが、やはり思い立ったことはどうしても確認しておかなくては気が気でない性分だ。
「大神さん、どうしたんです」
資料をペラペラとめくっていくと、死体の状態が箇条書きで記されていた。
「背中付近の首筋に、二つの穴……」
俺はそこにあった文をつぶやきながら、その写真を見つけた。確かに、彼女の右側の首筋の奥深い部分に、小さな穴がぽっかりと開いていた。それはパッと見、ホクロのようにも見えないではないが間違いなく皮膚に穿たれた穴だった。
俺は昨晩の港での出来事と重ね合わせ、一つの答えに辿り着いた。確証などない。荒唐無稽だというのことも、もちろん理解している。しかし、どうしてもこれしか俺には思い浮かばなかった。
「……吸血鬼、だって?」
クレオも老人も、俺の口からまさかそんな答えが出てくるとは思わなかったろう。神妙な顔で、こちらを見つめていた。
車内には重苦しい雰囲気に包まれていた。俺の脇に陣取る二人の男は当然として、助手席に座るクレオはなんだか面白くないといった顔つきで、前方を見つめている。
運転手含む部下三名は良いとして、クレオにまでそんな態度を取られるとは心外だった。よほど先程俺が導き出した答えが気に食わない様子だ。もっとも俺自身、確証を得ているわけではないのでそれを説明できる段階でもないのだが。
俺はこの雰囲気に嫌気が差して、クレオに言った。
「よほど俺の答えが気に食わなかったようだな、クレオ」
「当然です。吸血鬼? 時代錯誤も甚だしい。そんなものは想像上の産物に過ぎない。それをまさかあなたが、よもや一般人を前に言葉するなんて……あなたこそ何を考えているんです」
「きっと、俺が狼男だからかもな」
ニヤリと笑みを浮かべながら言った。しかし、クレオの奴はくすりともしない。よほど、呆れているらしい。
「とにかく、きちんと仕事していただきたい」
「分かってるさ。さっきはただの思いつきだ。証拠なんてないぜ」
「当然です。吸血鬼という証拠など見つかるはずがない。存在しないんだから」
「全く、夢のない奴だな、お前は。そんなんじゃ早くに老けっちまうぜ」
やれやれだと肩をすくめたところ、ふと馴染みのある匂いが車内に漂った。それを嗅ぎ取った瞬間、俺は車を急停止するよう前座席の間に手をやって叫んだ。
「止めろ!」
車が急停止したことで、中の俺達は前のめりになって軽く体をぶつけてしまった。俺はそんなことはお構いなしに、脇の監視役の男の横を強引に這って、急ぎ車を飛び降りる。
転げるように飛び降りた俺は、行き着く間もなく走り出した。急停止した辺りは夜のネオン街にほど近い、雑居ビルが密集した地区だ。その何処かから、血の臭いが漂ってきているのだ。
もう新月期に入ってきている頃だが、それでもまだこの血腥い臭いには敏感のようだ。突然車を止めて勢い良く飛び出して走りだした俺の背後を、慌てて追ってきたクレオたちを半ば振り切るように、その発生源であるビルの路地に入った。
この一帯では比較的大きなビルとビルの間に挟まれるようにあった路地裏は暗く、灯りも届かないために先は暗闇そのものといってよかった。俺はその中を、慎重な足取りで進んだ。ようやく遅れてやってきたクレオたちも息を切らしながら後をついてきていた。
「どうしたっていうんです、大神さん」
訳も分からず、クレオは混乱した様子で話しかけてきたが、俺は無視するように路地裏を進み、角を曲がったところで見つけた発生源に眉をしかめた。
「なんてことだ……」
そういった俺の肩越しから、クレオはその先にある血溜まりを目の当たりにし、大きく顔を歪ませた。ビルと壁との間に、薄暗くても見て分かるほどに赤黒く染みができているのだ。
「ちっ、遅かったか」
血溜まりからは、強烈な死臭が漂っていた。大量の血液が現場一帯を赤黒く染めている。ビルの路地裏ということもあり、灯りが少ないせいで影の部分に飛び散った血液は、夜の色と同化しているように見えた。
クレオは背後で応援を呼び、一帯を封鎖するよう部下に指示を出し、てんやわんやになっていた。俺は表情を歪めながらも血溜まりへと進んだ。
ビルの裏口を照らす防犯灯は、飛び散った血を被ってしまい、照明としての機能を半ば意味のないものにさせている。そのせいで、余計にこの場の雰囲気が異様だった。
また、ところどころに肉片が転がっているため、現場はホラー映画さながらのおどろおどろしさになっている。
「大神さん」
現場に足を踏み入れていた俺を、クレオは制するように呼び止めた。しかし、一度立ち入ったところを戻れとはそうそうできるものでもなく、俺は現場をじっくりと観察した。もちろん、俺の観察眼は通常の人間の見方とは違うが。
「……服」
「え?」
「服がないな。それに、こんなにも血が流れてるってのに、肝心の肉体はどうしたんだろう。見たところ、所々に被害者のものと思われる骨や肉片が飛び散ってるが、体の大部分が見当たらない。どこに行ったんだ」
どの部分かも分からない手の平大の肉片と一緒に、ぶよぶよとした粘膜の塊のようなものも落ちていた。これが人間――臭いから間違いないが――なら、内蔵部分だろう。特に、腑物の臭いが強い。
おまけに、明らかに人間のものでしかありえない、左手首が落ちている。その手首からは、被害者が女であるらしいことが分かる。男とは思えない指の細さ、キメの細かい肌、丸み。それらが全て女の条件を満たしていた。
「……なのに、なぜ体の大部分が消えちまってる?」
そして、この血液の飛び散り様だ。異様なまでに飛び散っている。しかし、ある一箇所方向にだけ血液の飛び散り様が少ない。つまり、この惨状を作り出した犯人は、ここで、地面に向ってトマトを叩き落としたかのように、死体を地面に叩きつけて潰したとでもいうことになる。
しかし、そんなこと可能だろうか。結論から言えば俺ならば可能だ。しかし、当然ながらそんなことはやらないし、やってないので違う。どっかの力自慢のタフガイが、嫌がる女をたった一撃の元に地面に叩き潰した、こういうことになる。
地面の、血溜まりの中心あたりは特に毛髪や細かい肉片、それに小さな小骨らしきものが散らばっている。やはり、俺の推測は当っているように思う。だが、果たしてそんなことが可能な奴が存在するのか、それだけがこの推理の決定的な問題だった。
別の可能性を考えてビルの屋上を見上げた。高さは六、七〇メートルといったところだろうか。自殺したにしろ、突き落とされたにしろ、これだけの高さがあれば間違いなく大抵の生物は死ぬ。ましてや人間なら確実だ。しかも、下はコンクリートなのだ。
しかし上から落ちてきたのなら、こんな風に血が飛び散ることはないし、こんなにも細かく体がバラバラになることもない。何より、死体がないということが一番の問題になる。死体の存在が何よりの物的証拠になり得るのだが、それが無いのが一番の問題なのだ。
まさか、死体を回収した連中がいるとでもいうのか。だが、ここに踏み込んだ俺達以外に、この場を訪れた者がいたらしい形跡は見当たらない。あれば、この血溜まりではすぐに足跡が見つかるはずだ。
だから、どう考えてもこの場に誰かがおり、そいつが女を叩きつけて殺した、そういう結論にしかならないのだ。もちろん、そうだとしても足跡という疑問も無くはないが、それについてはある程度は解決できないわけでもない。
つまり俺の脳裏にはやはり昨日出会った、あの死臭を振りまく死体野郎の存在がちらつくのである。そんなことはあり得ない。常識ならそうだろうが、半ば俺自身がその常識から逸脱しているくらいの人間なので、その可能性も否定しきれない。
しかし確証がない。現行犯逮捕でもしない限り、それは不可能なのだ。それほどまでに、大凡常識というものがない現場だった。
「……しかし、一体誰がこんな……」
一通りのことを終えたクレオが、その死体の一部を目の当たりにながら呟いた。俺にも分かるはずがなく、ただ小さく首を振るだけだったが、一つだけ確かなことがあった。
「どうやら、こいつは昨日の件と関わりがありそうだ」
この現場にただ一つ、俺にしか理解できない痕跡があった。ビルの壁とは反対、路地を仕切るブロック塀の上部に、強く握りしめて出来たらしい砕けた跡があった。それを見つめながら、昨夜出会ったあの死体野郎のことを思い出していた。
奴の驚異的なジャンプ力、それにとんでもない力も、俺の推理を可能にしてくれる数少ない対象だった。いや、唯一と言っていい。さらに、奴は「食事」だと言っていた。
当然これは、人間を食べるということを意味しているはずだ。ならば、ほとんど肉体が無くなっているのも、それで理由付けが可能なのではないか。そんな漠然とした推測が浮かんだ。
逃げた奴が今どうしているのか判然としないが、食人が奴にとっての食事というのなら、まだ腹を空かしていたはずだ。こんな残虐に人を殺すことだって十二分にあり得るのではないか……。
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