ラスト・エピソード 冷たい平和 (#1~#21)
#1
震撼する世界とはまるで無関係に美怜から連絡が入りました。うちに来てくれと言うのです。夫である高槻翔でなく、私に助けを求めるのがいかにも怪しかったのですが、気が抜けた声で狼狽している様子が浮かびます。
「あの愛人がうちに来ているの、エントランスで何度も呼び鈴ならしてね」
「翔はどうしているのさ」
少し間が開いて、知らない、と言いました。
「こっちが聞きたいくらい。会社からも連絡がつかないらしくて」
震える声で美怜は続けました。
「私が何かしたって思いこんでいるのよ。お願いだからちょっと来て欲しいの」
何とも困った事態になった。そんなことにかまっていられるほど暇ではありませんでしたが、彼女たっての願いをむげに断るわけにもいかず、とりあえず警察に連絡しておくように言い、私は美怜が教えてくれた住所まで出向くことにしました。
彼女の邸宅は渋谷区広尾にあるマンションでした。地下鉄日比谷線の広尾駅から外に出ると、目の前が小高い丘になっていて、紅茶で染めたような洒落たマンションが立ち並んでいます。信号を渡り軽い坂を登っていくと、目が青い何人かの外人に出くわしました。この辺は大使館が多いと聞いたことがあります。閑静な高級住宅街に大使館を置き、住み心地はどうなのでしょうか。世界情勢も悪くなる一方でこんな暮らしをしている人もいるのです。その落差に少々戸惑いました。
指定されたエントランスにはすでに警察官が来ていました。その女の髪は薄いブラウンに染めてあって、肩の辺りをヘアフォームで巻髪にしていました。額が隠れるくらいの大きく濃い茶色のサングラスをかけ、黒のインナーを着て薄手のジャケットを羽織り、ボトムは花の刺繍のあるデニムとやたら高いヒールのサンダルを履いていました。よく知りませんがどこかで見かけたことのあるブランドもののワンポイントが目を惹きました。警察官は骨太でがっしりとした体で日焼けした肌に汗ばんで流れる汗を拭きながら説き伏せているようです。
「だから、みんな迷惑しているんですから」
「そんなのアンタに言ういわれはないわ、私はこの女と直接話がしたいのよ。絶対何か知っているんだから。アンタも警察ならこの女をしょっ引くくらいのことしなさいよ」
一言言うごとに十倍くらいの言葉を浴びせ高級そうなバックで叩いていました。その女に警察官は辟易しながら肩を落とし、ほとんど無謀とも思える説得を試みています。
「だったら捜索願を出したらどうです」
「どうせなんか書類が必要なんでしょう。そんなのこの女がみんな持っているのよ。出来ないからこうして出向いているんじゃない」
おそるおそるその間に私は割り込みました。
「あのう、高槻美怜さんについてですか?」
二人はこちらを睨みました。しばらくの十数秒の沈黙の後、
「お宅は?」
警察官は質しました。美怜の友達だというと訝しみながら応じてくれました。
「さっき連絡があったもので、それで来たんですけど」
女は、ダサい格好だこと。アンタ、あの女のヒモ? と言い、また背を向けて警察官とまた口論を続け始めました。
「呼ばれているんですから、入ってもいいですよね?」
女はきっとこちらを睨みました。サングラスをはずすと、そのサバンナの猛獣のように凄まじいまでにとがった眼が現れました。唇は真一文字に結んでいます。
「アンタは入れるわけ?」
女は至極冷静に眼で殺そうとしています。怖じ気づくとやられると直感し、私も同様に、
「一応呼ばれてきたものですから、入れてくれると思いますが」
と私はなるべく低姿勢で女に接しました。すると、
「なんであたしが入れないのよ、一番の当事者なのよ、私は」
(不倫しているだけだろ)と言いたくなりましたが、はあ、などとお茶を濁して落ちつかせようとすると、女は私に飛びかかってきました。警察官は背中に回って止めました。それでも高そうなバックを投げつけ、抵抗していました。落ち着いて、落ち着いて、と警察官は何度も言います。そして、
「君、何が起きたか知っているのかい」
私は首を横に振り、知りません、と言いました。警察官は戸惑いながら、実は、まあ、と釈然としない口ぶりで、
「ここにいる横山絵里さんの話によると、ここしばらくここの高槻翔さんと連絡がつかないらしいんだ。それで、まあ、ここの奥さんが何かしたんじゃないか、なんて言って心配なさっているんだ」
「絶対あるわよ、あの女なら殺すことだってあり得るわよ」
「それはいつからですか」
「もう二週間くらいになるわよ」
ふとカレンダーを頭に描くと、それは最後に高槻と飲んだ日とほとんど重なっていました。
「その日は僕も彼と飲んでいましたけれど」
そういうとその絵里とかいう愛人は飛びかかってきて、
「いつ、どこにいたのよ、言いなさいよ、言いなさいよ、早く」
また警察官が間に割り込み、
「それは本当かね」私は頷きました。
「それじゃ君が最終目撃者ということになるね」続けて、
「どうだろう、ちょっとその辺のことを話して、奥さんから聞き出して欲しいんだ。それで捜索願を出すよう説得して欲しい。事件性が高いからね。こちらから伺うこともあるかも知れないが、その時君も協力して欲しい」
そして警察官は絵里に向かい、
「まあ、そう言うわけですから今日のところは彼に任せるとしましょう。捜索願が出れば我々も動きやすくなりますし」
そういうと渋々肩を落として、最後に私を睨み黙って出て行きました。
「じゃあ、よろしくお願いします」
そう言い残し敬礼すると、二人はこの場から消えていきました。私はインターホンを鳴らしました。
「どう、帰ってくれた」
ああ、とだけ私は言うと、エントランスのドアを開けてくれました。ドアは無垢の天然木で出来ており、蓮の花のような模様が彫り込んでありました。部屋の前でベルを鳴らすと、鍵を外す音がしました。
#2
「ありがとう」
美怜は高級住宅に住むマダムといった感じで、気さくに私を迎えてくれたのですが、妖しい表情をのぞかせていました。それは以前夢に出ていた美貌の生き写しでした。私は生唾を飲みました。漆黒のサマーセーターの隙間から肌が露出しています。すらりとした長い赤いタイトなレザースカートには大胆なスリットが入っていて、ショーツが見え隠れしていました。目のやりどころに困った私は、そのまま帰ろうかとも思いましたが、美怜の吐息が耳から離れません。よかったー、と美怜は私に抱きつきました。まるで少女のような甘え方で面くらい、慌てて体を離そうとするとたわわな乳房に触れてしまいました。離そうとすると、俯いて私の掌をつかみます。うなじかアロマローズの香りが漂ってきました。ガチャとドアが閉まりました。オートロックがやたら冷たく響きました。玄関は一面大理石で玄関から軽い段差があり、そこからはフローリングになっていて、直接リビングへいくと、また左右に廊下が伸びていて三つほど部屋があるようでした。リビングに入って右手にカウンター形式のダイニングキッチンが備え付けてあり、奥にはベージュのソファーと強化ガラスで出来たテレビ台の上には大画面テレビが、脇にはスピーカーがついていました。雑誌のラックの他、食器棚など棚のようなものが数個あるだけで、意外と片づいた部屋です。
美怜は私をダイニングカウンターに促し、椅子に座りました。
二週間前から連絡がつかないとあの女は言っていましたが、美怜がいうには、もう三週間も連絡がないと言います。会社で怒鳴り合っていたあの日から、女が毎日のように電話をかけてくるので、すぐ変更してしまったそうです。
(私たち別れることになると思う)
と言い俯いていたことが頭をよぎりました。なぜか、既に、私は美怜に何でも協力するつもりになっていました。
「あたしはてっきり、あの女の家にいるのかと思っていたわ」
「でも二週間くらい前に俺と二人で飲んでいたんだ。僕は途中で帰っちゃったけど」
美怜は顔を上げ、ただ「そう」とだけ言いました。
「会社は辞めたらしいよ」
無表情でまた「そう」と繰り返しました。どうやら退社したことも知らされてないようです。心配と裏腹に憎らしさも同居していました。無理もないでしょう。二人は夫婦でありながら、もう生活は破綻しているのですから。
「一応捜索願は出した方がいいよ」
私の提案に美怜は何も答えませんでした。美怜はそのなまめかしい表情で私を見つめ、そして何かを振り払うかのようにしてキッチンに立ちコンロに火をつけ湯を沸かしましていました。そしてティーセットを棚から取り出そうとした時、体を崩して倒れてしまいました。カップの割れる音がして、私はすぐに傍らに寄り添いました。彼女は笑っていました、そして涙を流していました。美怜は何を欲しがっていたのでしょうか。美怜は私の胸に顔を埋めて吐息のような鳴き声がしましたが。服にしみた涙がやたらぬるく感じます。
「行かないで」
と美怜は言いました。いけない、そんなことは許されない、と何度も言いました。しかし美怜のその可憐な振る舞いと哀れに潤んだ瞳を見ているうちに、彼女への想いが蘇生していきます……
そして私と美怜は寝室でひとつに交わりました。性器はすでに夥しく濡れていました。優しく包み込みながらだんだん体を露出させていきました。淡い間接照明に現れた体は青白く輝いていました。乳房をなでた時、美怜は吐息を漏らし、服を脱がして現れた乳房に触れるとたわわに膨らんでいました。体中にキスをし、なめらかに掌を滑らせると、やがて吐息が荒くなり、私の肉棒もはち切れんばかりに大きく固くなりました。また性器をなでながら体を正面に向けて抱きしめました。深く、深く、えぐるように押し込むと、彼女の吐息はさらに大きくなり、美怜の穴を攻めました。このクィーンサイズのベッドで高槻翔と美怜は何度体を交えたのでしょう。背徳が頭をよぎるとその興奮は痺れるように高まり、美怜の喘ぎは涙を伴っていました。美怜は何を求めていたのでしょう。彼女の可憐さを思うとさらに興奮は高まり、乳房をこねくり回し、大きくはね回る体を荒くにねじりました。それがむしろ興奮を呼び、美怜は汗で濡れた髪をかき上げ、私を挑発するように睨みつけました。目を大きく見開き、私を呑込むような瞳でした。その挑発で性器を締め上げ私のペニスを絞り上げていきます。くねらせ、呑み込んでいく肉棒の刺激は脳髄に達して全身が痺れました。ああ、と私は息を吐きました。すると美怜は吐息混じりに、もっと、と言いました。体を胸にしがみつきます。美怜は掌を握り、指と指を間に挟みました。私は強く握りしめました。そしてそのまま頭へと押し回し唇と唇を会わせました。むしゃぶりつくように手荒く舌を入れる、その周辺を舐め尽くしました。こんな恍惚感は初めての経験でした。体をくねらせ美怜を上に座らせると、髪を振り乱して大きく跳ねました。我慢が出来なくなり、体を満ちあげ美怜を後ろに倒し、大きく体を前後させ美怜の穴を壊さんばかりに激しく攻め、そして猛獣のような雄叫びを上げて吐精したのです。
翌、朝靄に隠れるようにして私はマンションを出ました。美怜は寝たふりをしていたのかもしれません。私は逃げねばならない、離れなければならないと思いました。背徳がそうさせるのか、誘惑に落ちていく自分が怖いのかよく分かりませんでした。コンビニに寄ってイートインでおにぎりを食い、二日酔いのような鈍い頭に頬杖をつきながら食いました。昨夜のことを悔いていたように思います。ふらりとユウジの顔が浮かびました。その時の私はあのころの記憶を明滅させて罪悪感からやたらだるくなり、私は一線を越えてしまったのだという恐怖に襲われました。なんとしても高槻を見つけなければならないと思いました。見つけられたらどうするのかまでは考えられません。ただ元の鞘に収まってくれれば、私の罪が軽くなる気がしたのです。まったく弁解にもならないこじつけです。そしてユウジにも連絡しましたがつながりませんでした。その時は別段たいしたことはないと思いましたが、なぜかこれ以降連絡が取れなくなります。ますます美怜との関係を持つことに恐怖を覚え、そのままほとぼりが冷めるまで放っておくことにしました。問題をより複雑にするしかないのに、私はそういう単純なことさえ思慮が及ばなくなってしまったのです。
#3
美怜から警察に捜索願を出した、と連絡がありました。その時何がそうさせるのか、美怜の声が吐息混じりでやたらねっとりとした声質になっていました。あの夜のことが思い出されました。あの興奮と恍惚感で肉感が蘇ってくるようでした。
昼ごろ、自分の部屋で寝ていると、突然ドアにノックがあり、寝ぼけ眼で目覚めました。外には警察官がいました。あの女、絵里とかいう女と一緒にいたあの警察官でした。
「や、どうも先日は。奥さんから捜索願が来ましてやっと本格的に捜査ができるようになりまして」
「はあ」
私は寝ぼけていて何を聞いて何を言っているのか、よく分かりませんでした。
「先日あの高槻翔さんと一緒に飲まれていたんですよね?」
警官はその時大きな咳払いをして、私はビクッとして目が覚めました。
「……失敬。それは六本木のバー、『アール』じゃないですか」
「ああ、実はよく分からないんですよ、あまりああいうところで飲んだことないので、高槻の後ろをついて行っただけでどんどん細い道に入っていくし、夜で暗いし、電灯もネオンもなかったし」
「ほらこういう店ですよ。何となく隠れ家的で、地下に降りていくとドアがこう無垢の木目調で普通の家のような作りの外観で」
確かに言っている内容はこんな感じだったと覚えていました。ですが写真を見せられて、いまいち感じが違うようにも思えます。
「まあ、そうですな。昼間の写真ですから夜とはまた雰囲気も違うでしょう」警察官は続けました。
「ただね、あなたのことを店のマスターはよく覚えていらしてね。何か、なんて言うんですか、口論になってカウンターを叩いて出ていった、と言っておられまして」
私はまさか自分が疑われているのではないか、と思い背筋が寒くなりました。
「何があったんですか」警察官と問いかけに、
「そんなことも話さなきゃいけませんか」
と言い返しました。
「ええ、出来れば。こういう職業柄いろんなことを聞き込みしてると、繋がりがでてきましてね、何というか――『点と線』っていう小説ご存じですか?――こういう所から糸口にかかる、なんてこともよくありましてね」
ややこしい話をしたくなかったので何度も頭を掻いてごまかしていました。するとその警察官の眼光がにわかに鋭くなり、私は体が硬直しました。私はそれに驚いて口を開きました。
「まあ口論ですよ」
「口論、ね、なるほど、どんなことで喧嘩になったんですか」
「それは、あまり言いたくないな」
「なるほど、で、口論になってカウンターを叩いて出て行ったわけですか」
「そんなところです」
「それでどこへ行ったんですか」
「家に帰りましたよ、ここです」
「誰かそれを確認できる人はいますか?」
私は何か追いつめられているような気がして、より恐ろしくなってきました。私には友人があまりいませんし、それから電話をかけたりすることもない、私にはアリバイがなかったのです。
「いませんね」
「いない」
警察官はメモをとりながら私の目をじっと見ていました。まるで私が殺人犯であるかどうか見極めているような目です。
「そうですか、そうなるとやはりその口論の内容を確認したいですなあ」
私はため息をつくと、仕方なく簡単に話しました。
「私の働いている清掃会社でトルコ人がいるんですが、この男が高槻の働いているオフィスで暴れたんです。それでまあ、個人的にわびを入れたりしながら話していたんですけど。そうしたらあいつが会社辞めるなんて話になって、夫婦生活は大丈夫なのかって質したら、まあ、自分の問題だから美怜には関係ないなんて言うので、それは酷いだろう、と。そうしたら金で解決すればいいなんて言い出すものですから、ちょっと苛ついたんです」
「ほう、高槻さんの奥さんと関係があるのですか。どんな関係で」私は思わず吐きそうになりました。私の背筋は凍りそうになるほどの冷たい汗が伝っていきます。
「高校時代のクラスメートです」
「なるほど」
警察官は真剣にメモをとっていました。その姿を見てなぜか心臓の拍動が激しくなっていきました。
「分かりました。で、卒業した高校は私立弘学館高等学校でいいんですよね」
私は頷くと、失礼しました、と足早に去っていきました。私は深く深呼吸をして、落ち着きを取り戻そうとしました。怪しまれているとしても、事実高槻のことは何も知らないのだから大丈夫だ、と言い聞かせていました。ただ美怜と肉体関係があることがばれるのが怖かったのです。夫婦仲が悪くなっているところで、自分が美怜と肉体関係にあるとしたら、それだけで疑念が生じてしまう。私はしばらく美怜と合わない方がいいと判断しました。
#4
会社がつぶれ、仕方なく私はコンビニでバイトを始めました。バイトをしながら就職先を探そうとしたのです。アパートから十分ほどの所にあるコンビニで、あまり人通りがないので仕事はさほどつらくはないのですが、いろいろと覚えなくてはならないことが多く慣れるまで時間がかかりました。搬入された商品を確認したり、それを陳列しながら、レジ打ちをしたり、宅配便の受付、掃除、そこにはいろいろと手順があり、忙しい割には時給九百円程度にしかなりません。高槻は中東の戦争中は仕事をしないと言っていました。私はこの東京にいる以上、働かねば暮らしていけません。高槻にはそれだけの稼ぎがあるのはあの身なりで分かります。羨ましさがどうしても残りました。あの絵里という女とどうやら不倫関係にあるようでしたが、本当のところはどうなのでしょう。また別なところに女を作って居着いているのではないか、そんな不埒なことを想像していました。
ある日レジで女性客から千円札を受け取り、釣り銭を渡した時に指がその女性に手に触れて瞬間、手を引っ込めてしまい小銭が散ってしまいました。
「ああ、申し訳ありません」
私は慌てて転がっている小銭を拾ってその女性に渡しました。その女性客は怪訝な顔をしながら店を出て行きました。
私はその女性の肌に触れた瞬間、あの美怜の掌を固く握りしめた場面を思い出してしまったのです。三角関係に割り込むのは危険だと頭では分かっているつもりでしたが、本能というか衝動というか、体は美怜を求めているのです。自分の掌を見つめていると、あの眉間にしわの寄った面と、固く体を抱きしめて胸の中に顔を埋めている様が思い浮かぶのです。自分の掌は震えていました。あの肉感から逃れられないと感じました。するといつぞやの警察官が店の中へ入ってきました。私はひぃっと呼吸が止まり、体が震えます。
警察官は敬礼して、私を見つめていました。私が狂句して軽く頭を下げますが、またまた申し訳ない。近くにいたものでちょっとご挨拶を、と思いましたが、ははっと笑顔を見せ近づいてきます。
「ここで働いていましたか。一応聞いてはいましたが、会社が大変なことになってしまったそうで」
私は黙って頷きました。もう一人の店員である中年の女性が、その様子を見て危険を感じたかも知れません。全く迷惑なことになりました。
「あの、ここだと、その、商売に迷惑なので帰ってもらえますか」
私は頼むように言いました。警官は帽子を取り汗が溜まった頭を掻きながら、
「いや、これは失礼しました。何時に終わりますか、それまでその辺をパトロールしていますので」
どうやら何かをつかんでいるらしい、と直感的に頭をよぎりましたか、
「一応五時には終わりですけど……」
思わず受けてしまい、本当に私が睨まれているのではないか、と恐怖と怒りが腹の底からわき上がってきて、呼吸は乱れ、心拍が上がり、そして緊張感で吐き気を覚えました。
「じゃあ、そういうことで。五時にあなたのアパートの前でお待ちしています」
警察官は出て行きました。すぐにおばちゃん店長がやってきました。小声で、
「何、アンタ、なんか悪いことでもしたの」
私は全く憮然として、友達が行方不明になったことを言いました。ですが自分が最後の目撃者であることは隠しておきました。話して何か勘ぐられては、ここもクビになると思ったからです。「あぁ、そうなの。ふぅ~ん」
#5
「ああ、そう、全く怖い世の中になったものねえ。で、その人は見つかりそうなの?」
ババアの店長は昼間のワイドショーでも見るような好奇心溢れた表情を私に向けます。全く……大きくため息を漏らし、よく分かりませんと言っておきました。
仕事が引けてアパートに戻ると、警察官が敬礼しました。まったく面倒くさい……
「何なんですか、もう私が知っていることなんてないですよ」
警察官は恐縮したように、いや全く、などといい、笑顔で茶を濁しているのに苛ついた私は階段を上ろうとしましたが、そこは体を乗り出してふさぎ、始まりました。
「倉敷裕治さんをご存じですよね」
それはユウジの本名でした。まさかこの警察官からユウジの名前が出るとは思ってもみませんでした。
「高校時代の同級生でした」
少し間をおいて、彼に何が関係あるのか食い下がりました。
「いや、高校時代の人間関係をつぶさに調べていたらその方の名前にあたりましてね」
私は驚きながら拍動が上がってくるのを感じました。
ユウジが高槻翔を殺す理由は確かにあります。高校時代のことでもう何年もたっていますが、最後にあの秋葉原で美怜への想いを問い質した時に、明らかに狼狽していたのが気になりました。もしかしたら、という思いは募りました。しかし美怜との接点は高校時代を最後で、彼にはないはずです。私も教えませんでしたし、教えようとも思いませんでした。誰かの仕業でつなぎをつけたのかも知れません。しかし彼は高校時代の友人はほとんどいませんでしたし――胸中は動揺を隠せません。不意を突かれて思わず逐一質問に答えてしまいました。そしていろいろと思いめぐらせていると、また思わず口を滑らせてしまい、警察官は頷きがら熱心にメモをとっています。それがそのまま私の頭にフィードバックしてまた余計なことを喋ってしまうのです。
その時携帯電話が鳴りました。アッと思わず声をあげてしまいました。電話に出ると、つまらない電話料金の督促でスマートフォンに変更すると通話料が安くなる、といった内容でした。「どちら様で?」警官は聞きます。あんたには関係ない、と反射的に言ってしまったのです。怪しいと睨まれてしまう、ということで思わぬ反応してしまったと後悔しましたが手遅れです。これが済んだらケータイにある彼女の番号は消去せねばならない、と何度も自分に言い聞かせました。
「……じゃあ倉敷裕治さんと高槻翔さんとその妻の美怜さんとをつなげる接点はない、と」
少なくとも自分は知る範囲では、という一言を告げておきました。警察官はペンを使って耳の上のあたりで掻いています。私は口元をでかかった疑惑を、ぐっと堪えました。なぜ美怜が知っているんだ? ユウジとどういう関係なんだ?
「……じゃあそういうことで。今日は大変失礼しました。またお伺いするかも知れませんが、その時は連絡しますので。あの店の店員さんにもよろしくお伝え下さい。怪しまれると大変ですからな」
警察官は満面の笑みでそう言うと帰っていきました。瞬間、私は思わず、
「ユウジはどうしているのか、本当に分からないんですか」
などとまた余計なことを発してしまいました。警官はゆっくりと振り返る、その姿を見てしくじったと手首で頭を叩くと、警察官はゆっくりと真正面に振り向きました。手帳とペンを持ったまま。何をメモしたんだ?
「……ええと、実はまだ連絡が取れないんですよ。彼の自宅にも実家にも伺ったんですけど、誰も知らないんですよねえ。全く、どこにいるのやら」
警察官は困った表情を浮かべ笑って再敬礼すると行ってしまいました。嫌な予感がよぎりました。この事件の三角関係の当事者に、私ももう一つの点となって加わった。ややこしい関係に加わっていることに酷く困惑を覚えると同時に、美怜の肉感がにわかに滲み出て関係を切ろうにも切れません。想いを蘇生させていたので、苦しくなりました。
頭の中に私を含めた点が何個か現れ、それを結んで一番可能性のあるつながりを考えました。その複雑な連立方程式を解こうとしても、字数と立式が足らず答えは出ません。しかし、私はいつまでも頭を抱えて、言い聞かせるのです。少なくとも自分は実行犯ではなく、私はただ巻き込まれただけだ、と。
落ち着くことなどできませんでした。あの手帳が気がかりでした。あの手帳には何が記載されているのか気になって仕方がなく、布団の中でまた字数の足りない方程式を解こうと躍起になりました。実はユウジについて何か知っていて、すっとぼけているだけではないか。全知全能の神を除いては解けるはずがない方程式なのだと分かっていながら。そしてあの肉感が、どうしても拭いきれず、抱き締めたい思いに囚われていきます。
#6
翌朝はあの口うるさい不倫相手の横山絵里とかいう女がアパートにやってきました。扉を開けると黒いタンクトップに薄手の白いニットを羽織り丈の短いデニムパンツという出で立ちで、腕を組み、首を右へ傾げていました。そのまま女は赤いハイヒールを土足で上がり、まだ片付けていないコタツの天板に右足を叩きつけるや、さあ白状なさい、と語気を荒げました。どうしてここが分かったのでしょうか?
「一体何です。出て行ってください。僕と高槻の間には何もありませんよ」
「あなたが最後に会ったんでしょう。言っていたわよ、警察が。一緒に飲んでいたバーにも行って、マスターにも話を聞いたわ。あなたが、翔と喧嘩したってことも」
(やはり巻き込まれている!)
絵里は組んだ腕を外し、顔を目の前にまで近づけました。厚めに化粧した顔にもぽつぽつと毛穴があいていました。強いにおいの香水とこの部屋の汗ばんだ空気が混ざり合い、鼻のあたりをしかめると、いきなり女は頬を叩きました。
「何よ、何なのよ、その顔。やっぱりアンタよ、アンタしかいないのよ。何があったか知らないけど、あなたが私の翔を殺したんでしょう。さあ、白状なさい!」
女はそう言うと、顔を離して同じように鼻のあたりをしかめながら、あたりを目配せしていました。いかにも汚く、汗くさい部屋をいかにも馬鹿にしていました。
「知りませんよ」
私はぐっと歯を噛みながら、唇を動かし語気を押さえて発しました。
ふうっと女は息を吐き出すと、顔をしかめて臭い空気をのみ、そして吐き出す息にのせて辺りを見回すと、同じようにいかにも腐った臭い食い物を確認するような表情になって、女の性を前面に押し出して鼻を右手で押さえながら、その辺りをゆっくり見渡すと苛々が徐々に募っていくようでした。女は聞く耳を持っていません。こちらがどんなに言葉を尽くしても全くの無駄のようです。私はそれとなく女の性というのを知っているつもりです。女の勘というやつは確かに鋭いですが、一度信じ込むとこちらの言い分をまったく聞かないで、その確認を時間の無駄だと決め込む生物のようです。相変わらず、あのマスターの話した、あの口論が決め手だと信じて疑わない。
私は洗いざらい吐き出してしまおうかとも思いましたが、美怜の話をしなければならなりません。それは駄目です。全くの無駄です。よけい私を追求するに違いない、私は黙り込むしかありませんでした。目の前が血管を破ってきそうになりました。拳を握りしめゆっくりと息を吐き出しました。しかし向こうは言えないのは何か知っているからだ、いかにも馬鹿にするような言葉を吐き着く窮しているのに何も喋らないので、ますますこの女の推理に信憑性が増していくだけなのです。だから同じことを未だに何度も、繰返し、繰返し、吐かせようとそうとするようです。私はだんだん拳が硬くなっていきます。
「アンタ恨みがあるんでしょ」
女は急に声を低くして言いました。こたつの上にあるプリントアウトした小説の原稿をぺらぺらめくっていました。女は不敵な笑顔を見せました。
「アンタは負けたの。まだ分からないの?」
女は振り返って窓から外を眺め私に背中を見せながら言いました。
「負けたのが悔しいんでしょう。高校時代にも好きな子がいたけど、とられちゃって泣いていたなんて聞いたことがあるの。勉強もできが悪かったようだし、今じゃよれよれの作業着を着てお掃除しているんですってね。それでこんな作家まがいの夢を追いかけているわけね」
その表情はまさに般若のような面でした。嫉妬心がそうさせるのでしょうか。大声を張り上げ、
「私に言わせれば、くずよ、こんなの!」
絵里は原稿に唾棄しました。そして私を睨みました。その顔は美怜のあの挑発する顔と重なりました。(この野郎! お高くとまりやがって。馬鹿すんなよ、信じないならお前の口を封じてやる。お嬢ぶった化けの皮を剥いでやろうか? 羽交い締めして、服を引きちぎって、殴りながら貫いてやるか、男を馬鹿にすんなよ、しょせん女は男の奴隷だ、つ―ことを教えてやる。女は男の力にはかなわないことを教えてやる!)
右腕が動いたその時、電話が鳴りました。
美怜からでした。まだ何となく不安だから来て欲しいというものでした。今日はバイトだから行ける、といった話をしていると、目の前の女はすべてを悟ったかのような表情になりました。
「あの女狐ね」
女は高らかに勝利したように笑いました。
「あんたなんか、あの女のヒモにでもなったらいいわ。お互い傷をなめ合って仕舞いには牢屋に放り込まれるのよ。それで終わったなんて思わないことよ。私は徹底的にあんたたちを追いつめてやる。この世に住めないような屈辱と痛みを味あわせてやる。あんたらもう終わりよ。覚悟なさい」
絵里はそういって出て行きました。
「ああ、分かった、今から行くよ」
女の背を見ながら、電話を切りました。
#7
「翔さんを見かけた人がいるって警察の人が言ったの?」
美怜はティーポットを高く持ち上げて、どぼどぼと空気にさらしなから注いでいます。少し渋めでしたが美味しいと応じました。
美怜は何かに怯えている風にも、少しの光明が射したようにも見えました。しかし夫婦生活はもう破綻しているのです。これ以上美怜は何を望んでいるのでしょう。無事だというならそれはそれでめでたいことですが、どうせ離婚することになるのではないか、高槻翔と美怜は不幸のどん底だ、と私はしばし沈痛さを見せている美怜をしばし眺めていました。理由は言わずもがなです。
「もう一杯いかが?」
私は美怜に頷きながら、ある可能性を考えていました。多額の保険金をくすねるために利用した人間がいるかどうか、です。たとえば暴力団とか……私はこの程度の想像力しかありませんでした。他の線を考えながら、その渋めの紅茶を啜りました。
「コンビニのバイト、疲れるでしょう」
美怜はそう言いました。私は玄関で最初に会社がつぶれたこと、そしてバイトをしていた話などしたでしょうか? しばし記憶を遡りましたが、
「少しなら、援助してあげてもいいわよ」
ぎょっとして、しばし言葉を失いました。
「な、何で?」私は続けて、
「それはいくら何でも出来ないよ。君の生活に甘えながら生きていくつもりはないよ」
ふふ、と美怜は笑いました。あまり見かけない笑顔でした。胸につかえていたことでもあったのでしょうか。
「ごめんなさいね、まさかあの女が松野君の所にまで乗り込んできたなんて」続けて「ちょっと露骨すぎるかしら」
「その罪滅ぼしのつもりなの、ごめんなさい」
美怜は身を乗り出して、放漫な胸をくねらせました。え、と私は体を反らせました。
「やだ、ごめんなさい。はしたないわね、私って。そういうつもりじゃないのよ」
美怜はそう言うと、少し笑いました。
「こうして久しぶりにあうと、何となく情が移るっていうか。なんだか少し晴れ晴れとした気分なの」
「それは良かった」
私は再び紅茶を啜りながら、ユウジについて聞きました。あまり言いたくないなあ、と美怜は終始難しい表情でしたが、高校を卒業してから会っていない、とはっきり言いました。ユウジと美怜の間は繋がっていない。私はその言葉に安堵しました。
夕刻に近づいた頃、そろそろ帰ると席を立ったら、美怜は寂しそうな顔を浮かべました。
「夕飯食べていってよ」
「それはありがたいけど、遠慮しとくよ。いろいろあってつらいだろうけど、仮にも夫のいる家にいて割り込むのは良くない」
美怜は俯いて、でも、と言いました。
「でも夫婦は破綻しているのよ。彼が見つかったとしてもそれは変わらない」
「じゃあ、僕が養う? それは出来ないよ、僕の稼ぎじゃとても生活できないよ」
「じゃあ、あなたはどうするつもりなの?」美怜は続けて、
「このままずっと独り身で暮らすの? 一人で暮らすつもりなの? 寂しくないの?」
「そうじゃない」
私は少し語気を強めていいました。
「そう単純に生活は成り立たないってことさ、今の僕は君のことを守ることはとても出来ない、そういうことだよ」
「あなたは私を救ってくれたわ。今日のこの逢瀬のおかげで私は笑顔をもらった。それが嬉しいだけなのよ」
「だからといって君に甘えることは出来ない。僕は男だからね。いずれきちんとした稼ぎを得て、僕に見合った相手を見つけるよ」
「そんな寂しいこといわないで」
私はこれ以上言っても無理だと、振り切って玄関に向かいました。
「怖いのよ、ただ怖いだけなのよ」
背中で美怜は泣いていました。私はこれを試練と思ってドアを出ました。これはこれで筋を通したつもりです。すべてがうまくいくとは思えません。思えませんが、立場上美怜と距離をおかねばならないのも、また確かなのです。
しかし私の心臓は一気に激しく拍動しはじめました。掌が汗でねっとりと湿っていくのに気づきました。
#8
報道は過熱していくばかりで、意見や見解が収斂を見せるようには見えませんでした。朝から晩まで、そして晩から朝まで論客と称する国会議員や元官僚、そしてその他専門家と称するタレントや芸能人へもマイクが向けられ「違憲」か「合憲」の堂々巡り。言葉と言葉の応酬で、いい年した大人たちが騒いる見苦しこが分かっていないようでした。口を尖らせ、参った論破しようとするだけで、それはとても建設的な遣り取りではなく、多くの新聞記者やテレビ業界のディレクターやプロデューサーが、そして出版社やネットの書き込みに至るまで、俺にも言わせろ、このくそバカ、だのととにかく個人的な名前を売ろうと必死になっている輩ばかりが、それを自覚できずにいて、とにかく酷い争いがネットワークに溢れかえっていました。
「だったらお前がやってみろ」
と打ち込むと、全くの無視です。混沌としてゆく世界情勢の中で、何をすべきなのか、何をしたいのか、そして世界唯一の被爆国、平和国家を自称するこの国は、どう行動すべきなのか、ととけば、そういう主張が国家の尊厳を損なうのだ、とやり返す。
国家戦略というか構想力というか、まさに唯我独尊といった遣り取りで、ぎゃあぎゃあ騒ぐだけでいるのを自覚できない、興奮しているだけで、ただ、古典的な革新派は双方から攻撃され、沈みゆくタイタニック号のように沈黙してしまいました。もはや「平和」という概念は、国家の醜さを晒しているキーワードで、意志をはっきりさせないという言葉と同義のように扱っていました。
「平和国家」
それ以上語らない。それ以上行動しない。
「平和」とは国家の意思を否定することとほぼ同義でした。平和を守るための行動はしない。そして敵が攻めてきたときには、おとなしく諸手を挙げる、という無責任さをあげへつらう言葉で一杯でした。「国民の生命、財産を守る、という現実論から出発に対して、「平和の理念」という実に抽象的な概念から始まる安全保障論議は、反論のための反論ばかりで、下らない言質をとるのに汲々としているので、どうみても噛み合わないのです。
現実論側は、それは無責任だ、という言い分は、ある。理想論側は「戦争に巻き込まれるのは嫌だ」という身勝手もありますが、戦争を止める国家としては十分な資格を持っている、とやり返す。ここに共感する気持ちはある程度の賛意を得ている。おとぎ話に異を突き立てるのは現実だとばかりに。しかし相手を根絶するまで戦う、という精神を前面に出しては救いようがないではないか。愛するという価値を人が人と殺すという行為を乗り越えなければ、滅びるしかない。
論じ合っていて、ドつぼにはまった冗談だと大笑いしては激昂させ、顔が赤いとまた笑いをとる。いないいない、ばぁ、とかやって反射的に悦んでいました。事態はさらに酷くなる一方で、欧州の暴動も収まる気配がありません。爆弾テロが頻発し、もし支持に回ると日本にも飛び火するかもしれない。多くの邦人の命が失われるかもしれない。航路を守ってくれるアメリカに面倒をみてもらっている現実にもし自分手やれと言われてしまった時、それでもなお丸腰で石油タンカーは航行でしろというのか。この世を覆い尽くす恐怖におののきながら、東京でテロが起きたらどう対応するのか。
しかし「テロとの戦争」というこの難局をどうやって乗り切ろうというのか。本当に覇権国の言いなりに終始し、もし宗教宗派や異民族が本気になって終わりが見えない時代に在って、どう折り合いをつけるのか。同調してそして自衛隊も参戦せよ、と言い出したときこの国に担われている役割があるのではないか。本当にどちらかを殲滅するまで救いのない戦い続けることになることに、本当に荷担してしまってよいのか。核兵器はもはや枯れた技術であって、ちょっとした設備され整えれば、造作もなく造れてしまう兵器なのです。こういう時代に遭遇している我々は、人類滅亡を絵空事のように馬鹿笑いしいていいのでしょうか? 本当に我々がとるべき道はなにか。テロリストの側につくわけにもいかず、ならやはりアメリカの補足部隊としてやっていくのか。どうやってこの難局を乗り切ればいいのか? 先延ばし先延ばしで取り繕って何とか誤魔化すいつものパターンを、オウム返しする現状は変えるべきではないのか。
見苦しいのはこの事態がまさにジレンマだからです。核兵器を使った「テロ」の真の敵は誰なのか、それは相手の心臓に弾丸を撃ち込むのではなく、まさに自分の眉間に引き金を引くことにしかならないと、なぜ分かち合えないのか。どういう意図で流出したのか、またこれからどこで炸裂するのか全く分からないのに。
しかしそんな議論はどこかへいってしまいました。これを機にイスラエルはパレスティナ人こそが犯人だと見なし、猛攻を仕掛け、アメリカは同盟国として反アメリカの中東諸国のいくつかを「テロ支援国家」と見なして攻撃しています。キリシタンにムスリム、ここにシオニストまでもが荷担することになりました。しかし戦略的目標がない戦争はいずれ厭戦気分がまん延するに違いありません。アメリカをはじめとする国際世論も、保守系の与党議員も、疑問を呈した表情を浮かべてくる時は間違いなく、あるでしょう。テロリストの撲滅を、といかに声高に全世界に吹聴しても、屈するわけがないテロ組織の撲滅に有効な手はないのではないです。いずれ正義の旗色が褪せていくに違いあるません。このアメリカという国は、なおもテロとの戦争を主張し続けるしかない。世界を巻き込んでアメリカが主導して敵はだれか。ありえない武器を手に入れて騒ぎを起こしているテロリスト個人への攻撃となります。それはテロのボスを一人ひとり殺してゆくしかなく、タケノコのようににょきにょき生えてくる敵に対していつまで戦うか、いつまで戦うのか? 終わりが見えません。本当にこの戦いをうまいように終わらせるミスターやミズがいるのでしょうか?
日米同盟をたてに日本に参戦を促すアメリカは強硬でした。しかし憲法改正か頓挫したことで動きがとれません。この失態に苛々を募らせています。
アジア諸国ではとりわけ中国は不気味なほど静観していますが、アメリカはただ、とにかくテロリスト撲滅、という錦の御旗を振ってあらゆる国家に参戦を強硬に求めていますが、そのテロリストに手渡した連中は誰か、という根本的な疑問には相変わらず口を閉ざします。赤と青に分断されつつある、この超大国は西と東に分裂したあの「ローマ帝国」のような運命を辿るのでしょうか。もしそうなのだとしたら、この最大の不祥事を起こした理由を比較的易しく理解できなくもない、とも思うのですが。
#9
ふとカファルのことを思い出しました。もう会うこともないだろうという思いと、未だに逃げ続けていることに不安と心配を覚えたのです。逃げているのは何かを企んでいる、のかもしれない。と漠然と感じたのです。そして密かに消息を絶った高槻翔にも思いは巡ります。そして終いに美怜の顔に還流するのです。私の頭の中では何らかの意味があると確信していたので、そういう疑問が浮かぶのかもしれない。何のつながりもない数本の糸が頭の中で一つに結びついていきます。青白く明滅し続けているディスプレイテレビの画面には目を向けず、ベッドに横になって掌を見つめていました。右手をもたわわな乳房を揉むような形にして、ぼんやりと眺めていました。あの肉感を思い起こしていました。美怜を抱きたい。しかしあれ以降はためらいがあり会わないようにしていました。そうしているうちに体が疼き、あの興奮をもう一度味わってみたい衝動に駆られます。あの暗闇の中で青白く光る美怜の肢体を見上げて、もう一度だけ、ととらわれ始めました。高槻を見かけたという情報があったものの未だ発見には至っていません。ふと死んでいてくれれば、と思いました。私は美怜を愛しているのでしょうか。愛しているとはいえ、許される行為でないのは間違いありません。しかしあの興奮は事情が事情でもたらしたものです。肉欲を伴った嫉妬と背徳、そして愛されているという確信が織りなすパラノイア。疑心暗鬼とプラトー。そして麻薬を一服盛られたような快感に禁断症状を呈してきました。その意味では私は犠牲者かも知れません。この小さな脳の内でうごめいている猛獣が雄叫びを上げています。私は法的には犯罪者ではありません。しかし多大な罪悪を背負わねばならぬのです。それが織りなす恍惚感を引き替えにして。
ぼんやりと動画を眺めているときでした。電話が鳴りました。美怜でした。
#10
「ねえ、今から会えない?」
美怜は吐息混じりにそう言います。物憂げにしているのを見越したように正確に。じりじりとした焦燥感が頭の中で蠢きます。私は落ち着かせながらも、心拍が上がっているのを感じました。もうすぐ言葉が飛び散らんばかり吐出そうでしたが、何度も念じました。
言ってはならない。出してはならない!
「ねえ、会えないの?」
美怜は試すように艶っぽい声で私を誘惑します。この間の言葉を美怜は全く堪えていないようでした。しかし私はなんと答えればいいのでしょう。友人の妻と一緒にいるというだけで問題なのに、頭はじりじりするばかりで電話を切ることができません。正しい行動をしろ、と頭は分かっているのです。実は私はこの時どう返事したのか記憶にありません。気づくと私は独りベッドの上に眠れぬ日々が延々と続いています。横になっていました。汗がしたたり、そしてあの美しい体が妄想となって頭の中を駆けめぐると、頭を冷やそうとベッドに入っても何度寝返りを打っても、男根が心臓と連動するばかりで眠れません。体は火照り、頭は快を求めて彷徨っています。そして私は自分の肉棒に掌を添えて擦りました。しばらくして精子がほとばしりましたが、足りません。そしてまたむくむくと勃起し始めるのです。ただ体を求め溺れていく、このままじゃどうなってしまうのか!
「高校時代の実らぬ初恋の女が誘惑している」
まるで美怜は私を手の上で転がしているようでした。三回ほど射精してようやく眠りに落ちたかと思うと、実はまだ数十分くらいしか寝ていないのです。私はもうダメでした。頭が破裂しそうでした。私はベッドから起き、着ていく服などを物色し始めました。どんなにか洒落た格好になろうとして頭をひねり、ラコステの白いポロシャツにブルーデニムという少々年の割に派手な着こなしに落ち着きました。
「今日も暑かったですね」
過去形と現在形が逆になっているのに気づいたアナウンサーは笑ってごまかしていました。早朝のテレビ番組が始まる時間はまだ午前五時前です。私は我慢ならず扉を開きました。まだ始発がない時分でどうしようもなく辺りを歩きながら、最寄り駅を目指し早歩きで、信号などまたされると、貧乏揺すりをして、今か今かと待ちわびていました。私は発狂しそうでした。キリキリした声を張りあげながら、信号を無視して走りました。呼吸は荒くなると目眩を感じ、駅舎が開いていないのを見て、駅前で怒鳴りました。声を張りあげた時、はっと気づくと私は道路の真ん中で眠っており、ちょうど駅が開き始めた時、私は猛スピードで走り、階段を一段飛ばしに、そしてプラットホームに止まっていた車両に乗り込みました。まだドアが閉まりません。私はまた大声を張りあげました。車両の中を何往復も走って時間が来るのを待ちました。そして車両が走り出してようやく辺りが現実感のある風景を醸しているのに気づきました。
普通の光景が何か違う装いに見えます。小田急線から山手線に乗り換えていた頃、ちょうど朝のニュースの時間になっていました。液晶モニターをぼんやりと眺めていました。そのニュースはまるで異世界の物事を伝えているようで、何が何だか分かりません。がたごとという、線路のつなぎ目の周期的な音を尻で聞き、ごく普通に、ごく普通のニュースを流し見し、数人いた乗客の虚ろな目で中東、欧州情勢に対する政治家の狼狽ぶりを伝えています。
「それは詭弁だ!」
という国会議員の心臓を刺すようなヤジが飛ぶと、私はびくっと目が覚め、痙攣を起こしていました。中盤にさしかかると最近はやりのスイーツの特集に変わりました。同時にチャンネルが変わり、また中東と欧州のページに飛びます。じりじりと汗が頬を伝って流れていきます。ごくりと生唾を飲み込みました。未だに荒い呼吸は止まりません。
「我らの行為は当然のごとく戦争から除外されます。自衛権の発動なのですから」
と首相のついに言葉にしました、平然としている表情に私はおののきました。どこかの亜空間にいるようで、都合の悪い現実を無理矢理ねじまげて型に押しこみ、はみ出した部分を無視して乗りきろうとするつもりのようでした。救いはありません。私は頭を抱えてはうつむき車両の床を見ました。私は何という存在で、どういうことを望み、そしてどう動こうとしているのか、はっきりと把握できません、いやしていないのかも知れない、あるいは地獄に突き落とされる悪夢のようでした。苛々が募り軋む音が妄想を膨らまると拳を作り、また雄叫びの声を上げては膝を叩きました。我に返ると、ちょうど乗換駅に着いていました。隣に座っていた年寄りの婆さんが怯えた表情をしていましたが、かまわず急いで乗換え昭で降りました。
何本か電車を乗り継いで日比谷線広尾駅で降りました。私は彼女の元へ向かいました。ピークはまだまだ先なのに、既にむっとした暑さですぐ汗が出ます。ようやくラッシュアワーが来たようです。遠くから降りてくる数人のおっさんの疲れ切った表情を見ながら、自分は日常ではない高貴な行動に出かけているのだ、という何だか誇りのようなものを感じて、思わず笑みました。その男の家庭を想像してしまったのです。社内結婚で普通に妻をめとり、子供が二人ほどいるでしょうか。長男が一人に下は女の子、妻はいち早く起きて朝食の目玉焼きを食卓に並べ、寝ぼけ眼を見せられながら食べ、出勤を見送って、ゴミを分別して半透明ゴミ袋に詰めてはぱんぱんになるまで押し込み、ゴミ置き場のネットをかける。洗濯をする、風呂掃除、床掃除とてきて、一息ついて昼食のアンパンを食べる。メロドラマやワイドショーを流し見ながら、面等臭そうに晩ご飯を作り夫の帰りを待っている、そんな様子が浮かびました。私はそういった家庭生活が不憫に思えました。笑みを浮かべ、その毎日の平穏な暮らしがいかにも低俗に思えました。
#11
閑静なこの高級住宅街にも活動を始める空気が漂ってきました。私はその人の流れに抗って坂を登っていきました。美怜のマンションが見えてくると興奮を覚えましたが、見知らぬ男が駅と逆方向へ走っていました。ビジネスマンにしては軽装で、Tシャツにジーンズ姿で黒いリュックを背負っています。上流階級の住宅地でその男には不釣り合いな格好でしたが、ここは渋谷だと合点しました。若者の街、渋谷。青学、実践、そのほか専門学校も多くあります。(何だガキどもか)
確かに学生なら普通の格好に思えました。しかしその恰好が渋谷の感じでないような気がして、不吉な予感が頭をよぎりましたが、興奮はそれを上回っていました。
インターホンを鳴らすと、美怜の声が戻ってきました。もう来たの! と素っ頓狂な声で驚いていたような、落ち着かない声です。
少し遅めに自動ドアが開き、私を迎え入れてくれました。ドアが開くと美怜の服装は幾分さっぱりとした半袖のシャツに黒のスカートをはいていました。私はほとんど同時に部屋に押し入り、彼女を抱きしめました。美怜は両腕を私の胸に押し当て、抱きつく私を拒みました。まるで私から逃れようとしていました。きっとすねているんだろうくらいに考えていた私は、
「この間は申し訳ない。もっと君のことを考えるべきだった」
荒い呼吸のままで美怜に詫びました。しかし美怜は乾いた目で私を見て、今さら何よ、と癪に障った声で喋りました。
「申し訳ない」
私は息が上がっていましたが、何度も謝り素直に土下座をしていました。自分の非を詫びました。君もつらかっただろう、もっと君に向き合うべきだった、放っておいた自分は非情だった、そんな内容の話をしました。なんとか言い聞かせるように。しかし美怜は腕を組んで後ろを向くと、何の屈託もなくリビングに促しました。私は肩すかしを食らったように呆然とてしいると、上がりなさいよ、と言う言葉にいつもの情がこもっていないことに不安を覚えました。
「で、何か用なの?」
#12
「で、何か用なの?」
私はその言葉を呆然と頭の中で何度も復唱しました。美怜はリビングのふかふかしたソファーに座るなり、タバコを出すとライターで火をつけ、天井を見上げ煙を吐きました。
会いたい、と言ったのは美怜です。それなのに向こうから用件を聞き出すのは、明かに不自然です。
「翔は見つかったのかい」
私はそういう話題くらいしか思いついません。美怜はその話をすると、明らかに不機嫌な態度になり、浅く座り足を伸ばして組み、さっき吸ったばかりのタバコを吸い殻入れに押しつぶしました。
「見つかりそうなのよ」
そう言いながら立ち上がると、ブラインドを開け、額を窓につけ下をのぞくと、またタバコに取り火をつけていました。美怜は苛々しているようでした。腕組みをして床を見たり髪の毛を掻きあげながらリビングをあちこち歩き回り落ち着かぬようでした。私が迷惑なのでしょうか? 意味が分かりません。
「良かったじゃないか」
と私は苦しげにつぶやくと、
「良かった? 冗談じゃないわよ」美怜は鋭い目を向け、
「あの証券を取られたら、離婚する意味ないわ。あの人のことだからきっちりとした 弁護士を立てて、慰謝料を目減りさせようとするわよ。せこいのよね、あの男」
「僕に出来ることなら、協力するよ」
「協力?」
美怜は語気を強めてそう言い、そして腹を抱えて笑いしました。
「あなたに何が出来るって言うのよ。司法試験に受かったりしたわけじゃないでしょう。それとも離婚した後私の面倒を見てくれるとでも言うわけ、冗談じゃないわよ、あなたにそんな稼ぎがあって?」
ふてくされて返事もできない私は、美怜がタバコに火をつけては、すぐに灰皿に揉み潰す。せわしなく繰り返す様子を黙って見続けるしかありませんでした。そこには慎ましそうな彼女のイメージは壊れていました。私は何とか彼女の力になりたいと思いましたが、それさえも拒みます。私の体は硬直し、ひどく喉が渇きました。あの感触さえもが錯覚なのではないかとさえ思いました。結び目がちぎれそうになるのを、私は呆然と見続けることしかできません。あれほど私を求めた女が、今度は侮蔑しているのですから。
「で」と美怜は言いました。
「で、抱きたいの?」
彼女はまるで年増の娼婦のような語気でそう言いました。面倒くさそうに立ち上がると寝室に行き、私はその後ろをついて行きました。ベッドの横に立ったなり美怜はシャツを脱ぎ、スカートをおろすとベッドに飛び込みました。そして仰向けになり、私を見ます。
「何してるのよ。早く脱ぎなさいよ。抱きたいんでしょう?」
蹴倒すような言葉を浴びせられ、恥じらいながら服を脱いでいきました。美怜の右に添い寝をし、ゆっくりと体を滑らせていくと、
「さっさとしてよ」
と毒舌を放ちました。私は慌てて彼女のまたに入り肉棒を穴に当てました。しかし彼女の性器はかさかさに乾いていました。愛撫すれば良いのでしょうが、どうしたら良いのか分かりません。私は萎えてしまって挿入も愛撫さえできません。美怜は大笑いしました。
「何よ、やりたかったのに萎えちゃったわけ、あまり笑わせないでよ、まったく」
私は俯きました。美怜はサイドテーブルにあったタバコに手を出して火をつけました。吐き出される煙は、私の男としてのプライドをズタズタに打ち砕きました。私は怒りや屈辱の欠片も感じず、ただ罪悪感のみが残りました。
結局私はそのままマンションを出ました。美怜の豹変ぶりに戸惑いながらも、一体自分のどこに非があるのかをずっと考えてみました。美怜が私に示した情は嘘だったのでしょうか。初めて抱き合った時のあの喘ぎは芝居だったのでしょうか。幼い頃から、私は弱虫なのです。何も変わっていない自分を責めながら、重い体を引きずるようにして歩きました。私はこの美怜という存在に振り回されながらも、情は募っていくばかりで、これから美怜に会えなくなるのではないかと不安になりました。あの調子で攻められると絶望的です。どうすれば彼女に気に入ってもらえるか、ふと歩みを止めて頭を抱え、気づくと額を柱に頭をこつこつと何度もぶつけていました。何とか彼女に愛されたい、その想いを美怜に届けるにはどうしたらいいのでしょう、と吐息をつき、少しずつ明瞭になってきた意識で考えました。
#13
美怜は高槻翔の存在に酷く苛ついているようでした。まだその存在が安全に確保したわけではありません。どこに行ったのか。何故失踪まがいなことなどしです理由がわかたません。あれだけ自信満々の「人生設計」を披露した奴には似つかわしくない行動です。ひょっとしたら、と私は考えていました。とりあえず奴をこの世から消し去れば、美怜は私を迎え入れてくれるのではないか、と。熱病にうなされて、ふらふらした足取りで朦朧とする意識は常に彼女を求めていました。
私がアパートに戻ると、息が止まりました。あの警察官がいました。自分の不埒な考えが表情に出ていやしまいか恐れていた当時の私が、たとえそれが頭の中で考えたただの悪戯であったとしても、犯行に近い妄想が見抜かれたら捕まっちまう、と恐怖に陥ってしまいました。そうなのです、それほど私は美怜にはまっていたのです。それなのに……時計を見るとちょうど午後十時でした。警察官は敬礼したので、私も軽く頭を下げてました。
「いやあ、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
私は体に震えを覚えました。何とか心の中を読まれないようにし、と平然を装いました。眠いので後にしてください、と言いました。警察官は帽子を脱ぎ、本当に申し訳ありません、是非協力して欲しいのです、と言って聞き入れてもらえず、やむなく諦めて鍵を開けてから、ドアの前で吐息を漏らすとぼんやりと聞き込みにつきあうことにしました。どうかしました? なにか落ち着かないようですが?
私は無視しました。警察官は憮然とした表情で、
「実は倉敷裕治さんも行方不明になりまして、家族の方が心配になさって捜索願を出しまして。今日はそういうわけで出向いた次第なのです。ユウジさんと最近会われました?」(ユウジが行方不明?)
私は首を大きく振り興奮気味に、会っていません、と答えました。
「何か知りませんか。よく行くところとか、交友関係とか」
一緒に行くのは秋葉原くらいだとは言いました。しかしそこ以外は知らない、と返しました。出てくる質問一つひとつに息を整えて、知りません、分かりませんと答え続けました。
「そうですか、最近連絡も取っていない、行き先の見当もつかない、というわけですな」
「……ええ、まあそういうところです」
すると私の顔を見ながら、
「実は最後に目撃されたのが、広尾でしてね、何か臭いまして。あの高槻夫妻が住んでいるマンションあたりなのですよ。何か関係があるな、と閃いたんですが」
「え?」
私は目が覚めたように食いつきました。
警察官はぴくっと目尻を動かし、嗅覚の鋭い番犬のような鋭い視線で私は凍りつきました。私はまた平静に戻しました。しかしことがとこだけに慎重に言葉を選んで、
「広尾に、本当に広尾にいたんですか?」と問いかけました。
「何か心当たりがあると?」
い、いええ、とちょろっと言ってしまいそうになった私は、危うくその罠に気づくと、いえ、特に、返事しました。その怪訝な表情に私はこの男が持っている手帳に走り書きしている、様子をじっと観察しました。何かを書いていく、いったいなにを? はつめている私はゴクリと唾をのみ、内容が見えない。その手帳の向こうにいる男の表情を逐一眺めていました。きっとしたきつい表情の警察官が書き込んでいる文字を、想像力を働かせながら文字を読み取ろうとしました。平然を装い、気取られぬように。
(あの手帳にどんな情報が記してあるのか? 警察力を使って集めた情報。きっと重要な情報が書いてあるに違いない!)
「美怜にも会ったわけですか」
私の反応を見逃してはいないようでした。しかし先方も平然を装い、
「ええ、まあ。事実美怜夫人に聞いても、会ってない、の一点張りでして。でもまあ臭いますよねぇ、夫がいないのを理由にして、男を作っているようですし」
(男を作っている)
それは私のことでしょうか。いや、まさか……?
(あの男? あの男!)
「じゃあ、失礼します」
そのまま行かせてしまうのを拒む理由はありません。その警察官にいろいろと聞きたいことがありました。しかし食いつきすぎると逆に疑われると思ったので、そのまま行かせるしかありません。
体を倒すようにベッドに倒れ込むと、ユウジと美怜が結ばれている、いや結ばれているのかもしれないことだけでも酷く落胆しました。あの警察官の言葉を魔に受けただけで、実証されたわけではないのに考えは止まりません。考えても、考えても、苛々が募ります。寝取られたという男の甲斐性の傷がひりひりとかゆくなって,髪の毛をむしりました。何がどうなっているのか知りませんが、美怜とユウジはつながっていた、という結論を導いてしまうのです。二人を結びつけたものとはなにか……連絡手段で手っ取り早く考えれば……電話でしょうか。おそらく美怜はユウジの番号を知っている、それは間違いない気がします。しかしいつ知ったのか? どうやって知ったのか? 確かに美怜は言いました。言っていたはずです。奴との関係は「ない」と。美怜は嘘をついていたのか。それとも……新たな疑問が溢れかえるばかりで、何度もユウジに連絡を取ろうとしましたが、何度かけても繋がりません。それら全てがことごとく私を焦らせます。美怜とユウジの関係を何とかして明らかにしないと、どうにも落ち着けません。愛しているという証明がないのですから。その何かとは何なのかさえ、分からないのに。
もしユウジと美怜との関係が白日の下にさらされようともならなくても、美怜と私の関係が瓦解してしまう「悲壮感」を。これはどうしても押しとどめることが出来ませんでした。もしかしたらユウジも同じく固い情で結ばれているのかもしれない、という邪推は止まりません。ユウジの方が魅力的なのでしょうか? あんな、マンガだの、アニメだの、アイドルなどしか興味の無い「ヲタク」男に私は負けたのでしょうか! 証明できないことで、希望が生まれる! しかし払拭も出来ない。もう一度私だけのものなって欲しい。私の方と情を通じて欲しい。そこが希望。ただそれだけを強く、強く祈るしかありません。
私はとにかくユウジを探しました。探してどうしようというのか、企みがあったわけではないのですが、とにかくよく分からない不安を払拭するためユウジを探しました。あちこちのコミックマーケットに行っては、聞き込みしてとにかく情報収集しました。しかし、みなそういえば最近見ないね、みたいなことを言うばかりで、詳しく知っているものはいません。しかしユウジの住所を知っているという男がいて、住所を聞き出しました。これは大きな収穫でした。その足で出かけていきましたが、人の気配はありません。しばらく待ちましたが帰ってきません。人通りもありません。結局夜を越して朝まで待っても帰ってきませんでした。焦りがまた邪推を促しますが、そのせつな!
「まさか警察はつけていやしないだろうな」
閃光が走りました。あちこち視線を飛ばしますが、そこまで頭が回らなかったのをひどく悔やみました。今のこの状況を警察が把握していたら……ここにいるアリバイをつくる必要があります。私の関係が疑われてしまう。美怜を中心にした二カ所の点に直線が惹かれてしまう。私とユウジと関係がつなががってしまう。どういう言い訳をすればいいのか、とにかく慌てふためきながら階段を降り走りました。ユウジが心配になったなどというセリフは有効か、考えたりしましたがとにかくここから離れなければならない、と言い聞かせ走りました。もうすでに手遅れかも知れない、と焦りながら走りました。そしてなんでこんな簡単なトリックに引っかかってしまったのか、と自分を責めました。
まさか!
「もし美怜とユウジが結託していた企みだとしたら?」
今頃アイツは!
私は走りながら美怜に連絡を取りました。美怜は寝ぼけた声を聞くと、とりあえずほっとしました。今から会うことを約束してくれました。問質したいことはいろいろとあります。ユウジと会ったのかどうか、そしてつながりがあるのかどうか、そして高槻翔の行方について何か知っているのではないか、そんな疑惑をいろいろと問い質し、そうした上で自分の思いを伝えようとしました。従わない場合は警察がユウジに目をつけていることを言うのだ。そんな何の証拠もない脅迫をしてでも、とにかく美怜とユウジを近づけてはならない、と最寄り駅前の交差点をゆっくりと走りながら渡りました。ともかく美怜のマンションへ急ぎました。
#14
インターホンを鳴らしエントランスの扉を抜け部屋のドアが開いた途端、美怜はいきなり私に抱きついてきました。どういうことになっているのかさっぱりですが、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も美怜は私の胸の中で泣きじゃくっていました。部屋に招き入れ、激しくキスをしました。乱暴なしかも官能的なキスの嵐でした。私は体中をまさぐり、服を乱暴に脱がせました。そのまま寝室へ抱えていき、ベッドに押し倒しました。ここに来た意味は何だったのでしょう? 全く訳が分かりません。しかしこうしたしっかりとした絆の確認できたのですから、やはり私の考えすぎだ、とブラジャーを外して放りました。しかし……という躊躇、いや、どうでもよかったのです。この安堵だけで十分でした。美怜は髪の毛を乱して私の愛撫を受けていました。吐息を漏らし、彼女の性器は夥しく濡れていました。そこをいじると声を上げ、喜びで飛び跳ねています。私は何という愚か者でしょう。こんなにも美しい女性を疑ったのですから。美怜は何度も許してね、許してね、と言うと、私はもういいさ、と言いました。彼女の画策に乗せられていたのを知ったのはこの時です。
「裕治さん、ね」
美怜は言いました。私は愛撫に夢中になり聞き流していました。粘液を蕾に回しながらいじくると、美怜は背筋を反らせ喜びました。
「ユウジがなんだって?」
私は聞き漏らした言葉を聞きながらゆっくりと挿入すると、美怜は背筋をそらし、ねっとりとした粘液で包みこんで、私を迎えてくれました。
「捕まったの」
ふと私は耳を疑いました。美怜の耳を舐めていましたが、やめました。顔を正面に持って行き、その潤んでいる瞳を見つめました。微笑んでいるその表情に偽りはありません。
「何で?」
私はたわわな乳房を揉みしだきながら聞きました。
「裕治さん……翔を殺してくれたの」
私の手は止まりました。そして欲情は波のように引いていきました。
「何だって」
美怜は笑んでいました。
「さっき警察から、翔さんの遺体と容疑者の裕治さんを発見したって電話があったわ」
「まさか君が」
そこで股がキツく締まって私は言葉に詰まりました。
「分からない」
言葉を選んでいる素振りではなく、悦びに溢れていました。
「これで私は自由になれる」
美怜は優しく包み込んでくれる、まるで神に仕えるシスターのような表情でした。しかし私は混乱した頭の中で、美怜を激しく攻めました。それに応えるように美怜は大きく反応を見せました。私の乱暴な激しい攻めも受け入れ背徳の悦びを吐き出し、私は頭に鈍痛と喉のひりひりとした渇きを覚えました。まだまだ終わりません、いや終われません。私はこれは夢なんだと言い聞かせながら、必死に突き通しました。怖かったというのが正確でしょう。美怜の体を表にしたり裏返しにしたり、私の体をまたがせたりしながら激しく攻めました。美怜はどんな攻めにも優しい笑顔のままでした。何の恐れも感じていないようでした。動じません。私は悪い冗談のように感じましたが、私の脳髄の濃厚な性欲と不安定な関係に恐れをなして、さらに腰を使いました。私はじりじりとした肉欲の世界へ、己を埋没させるしかありませんでした。
#15
私は眠りから覚め、顔を右に向けました。美怜はもう起きていて私をじっと見つめています。笑んでいました。私はサイドテーブルにあったタバコを取り、火をつけました。メンソールの爽快感が頭に広がっていくとむさ苦しさも幾分か解消され、冷静に今この状態を現実的に把握しました。
「タバコ吸うのね」
私は美怜を無視しました。「どこにいたって?」
私は煙を吐きながら声を荒げて問い質しました。悩ましい現実でした。もう戻れない場所に来ててしまったという現実を、呪いました。しかし美怜は驚くほど冷静でした。
「福島だって。遺体はレンタカーで。そして鬱蒼とした山の森に穴を掘って捨てたんですって」
私はもう一本タバコを吸い、また煙を吐きながら、まさかあのダッチワイフに思い至るとさすがに苦笑しましたが、次第に澱んできます。またタバコに火をつけすぐ灰皿につぶすと、またタバコに火をつけました。そしてまた潰しました。その繰り返し作業を美怜は笑いました。
「君がたぶらかしたんだろ?」しばしの沈黙の後、
「分からない」
美怜は同じ調子で言いました。
「あまりにも短絡に過ぎるんじゃないか、高槻には保険金もかけられているだろう、そして犯行は君の元の恋人じゃないか、いの一番で君が疑われるさ」
「そうかしら?」
微笑みながら私をじっと見つめていました。その表情は天真爛漫で犯罪者の気配すら感じさせません。私は人差し指で美怜の頬をなぞると美怜は目を瞑りました。
「ユウジが供述したらどうする」
美怜は私の両腕に額をつけると、目を瞑ったまま、
「あの人は何も言えないはずよ」
「何でそう言える」
私はすぐ質しました。美怜は目を開けながら手を伸ばして私の頭を両手で挟むと右肘を折って、鼻の頭を人差し指で撫でなでながら口からもれる吐息を聞きました。
「秘密」
微笑みながら、携帯電話は捨てた方がいいわよ、と優しく言いました。それはいかにも妖艶な笑顔でしたが、むしろ震え上がるほどの厳命にさえ聞こえました。
#16
美怜は急に羽振りが良くなりました。あの時、あの浮気相手と会社に乗り込んできた時の格好は萎びた服装でしたが、ここに来て高級ブランドのドレスや靴、そしてアクセサリーなどを買いあさり、それを着飾っては姿見に映る自分を見て微笑んでいました。何の経済基盤もない私を養ってくれ、ブランドものの買い物につきあわせる。美怜は自信に満ちあふれ、心配の表情は全くありません。ある時は不機嫌に振る舞って私を鬱屈とさせるのに、ある時は機嫌が良くなりベッドに誘い濃厚な表情を見せつけ、もてあそんでいるようでした。その落差は激しすぎるとしかいえません。落ち込んでくるのを見計らっては私を励ましたりするのです。そして幾ばくかの元気をもらいますが、急に豹変して癇癪を起こすと、私の心をずたずたにするような罵声を浴びせます。しかしそんな中でも、彼女と一緒にいられる、それこそが心の安らぎとなっていました。外に出れば互いに手をつなぎ、私の腕に抱きつきながらウィンドウショッピングを楽しみました。その日は午前から銀座の街を歩きました。ランチは銀座和光の食堂でとり、午後は映画を見たりして、そして夜景を一緒に眺めては豪華な食事を楽しみ、軽くキスを交わしたりしました。確かに彼女は自由を手にしました。多額の保険金と株取引で得た金は相当あったと思います。高槻は金の使い方は厳しく管理していたのは間違いないでしょう。おそらく美怜にはほとんど金を渡さなかったと思います。高槻が死んだことで文句を言うものは誰もいないのです。それは分かるのですが……こんな毎日を楽しんでいる中でも、警察が私たちの動きを逐一監視しているのを感じました。それは高槻翔の殺害について尾行しているに違いない。私はそれが気がかりでなりませんでした。どうしても不安感が拭いきれないのです。
「やっぱり二人で外を歩くのは良くないんじゃないかな」
「何で?」美怜は何の屈託のない表情で私を見ています。
「気配を感じるんだよ、尾行されているんじゃないかな」
そういう心配事を言うと決まって、まだそんなこと気にしているの、といった表情で、
「大丈夫よ、私は関係ないもの。それとも私とじゃ嫌なの?」
そうして瞳に火花の散らつきを感じると、私は彼女を抱きしめ、落ち着かせることになるのです。なぜ大丈夫と言えるのか、美怜のその確信に満ちた表情が私を戦慄さえ覚えるのですが。
やはり二人の私服警察官が美怜宅を尋ねてきました。それもマンションに、直接に、です。私のアパートにやってきたあの警察官は後ろに控えていました。
「高槻美怜さんですね」
私服警察官はまず名前を確認しました。そして目線を私に向け、どうも、と軽く頭を下げるとその後ろから「松野貴司さん」と言い、久しぶりですな、と付け加えました。私は軽く頷きました。
「何かご用でも」
不機嫌そうな声で美怜は返しました。ドアノブに手をかけ、顔を少し右に傾げていました。
「このたびはご愁傷様です」
「ええ、意外と日本の警察はレベルが低いようですのね」
何のためらいもなく苦言を浴びせます。私は後ろにいたので、美怜の表情まではうかがえませんが、その声だけでおおよその見当はつきます。
「少しお話を伺いたいのですが」
「どんなお話?」
「前にもお話ししたと思いますが、倉敷裕治さんについて少し」
「何度来ても同じことしか言いませんよ。彼はたまたま近くにいたんです。なんでいたかなんて知るはずもないわ」
「そうですかねえ、生前、ユウジさんはあなたがいなくて寂しいなんて言うものですから、何か深い関係があるのではと――」
「嘘よ」
二の次を言わせずに美怜は言いました。
「そんな関係じゃないもの」
「本当ですか?」
「あら、誘導尋問? 自供さえすれば逮捕できるのよね、日本の警察の悪いところだわ」
その内容からあの時に見かけた男はやはりユウジだったことが明らかになりました。私はこの遣り取りを見ていたからこそ、最終的に彼女の奴隷となることから免れたのです。それが幸福なのか不幸なのかは、永遠の謎となるでしょう。
私はユウジへの悪意が消えていきました。それはまともな精神を保つことが出来たという点では幸福かも知れませんが、この事実を彼に語っても納得はしないでしょう。ユウジに罪はありません。この女こそ、断罪されるべきなのです。しかしもう遅すぎました。ユウジはすでに「忍」の一文字に徹するはずです。それは私の知らない何か、であり、緻密に熟慮を重ねた計画を持っていたに違いないのです。
警察官と美怜の口論は続いています。決め台詞を口にしました。
「証拠はあるの?」
さすがの警察もそれには黙り込むしかありませんでした。証拠。それはユウジの頭の中にこそあれ、その鍵を外すことが出来るのは美怜ただ一人なのです。
警察は仕方ないといった表情で敬礼をし、出て行きました。
「ねえ抱いて」
警察官がまだいるのに、美怜は振り返ると血走った瞳を見せ、私に向かってはっきりとそう言いました。ドアが冷たい音を立てて閉まると、有無を言わさぬつもりか自分だけすたすたと寝室に向かいました。
私はこの時から美怜の盲信するようになっていました。最後の一歩、のところで踏み止まれたことは幸運だったのかも知れません。しかしユウジは同じ門を先にくぐっています。先に洗礼を受けていたユウジを、いつまでじらすつもりなのでしょう。女は男の骨髄にしゃぶりつき、男は女の肉を貪りました。髄と肉を擦りあい、唾液が切れるまで互いを貪りあう関係を知ったら、という恐怖は余計に興奮させる媚薬でした。
翌日、またいつものように私と美怜が街に出かけようとエントランスを出る時に、今度は外で女が待っていました。あの不倫相手の横山絵里でした。
大きな黒の帽子を目深にかぶり、デザイナーズブランドであろう大きなサングラスをかけ、右手に日傘をそして左肩には有名ブランドのロゴマークが入ったサマーブルーのバッグをかけていました。私たちの存在に気がつくと、サングラスを下にずらし、私たちを食入るように睨みつけています。私は一瞬立ち止まりましたが、美怜は私の躊躇を無視してそのまま自動ドアをくぐっていきました。そのままその女の横を通り過ぎようとした時、
「ずいぶん装いが変わりましたのね」
絵里は言いました。私はこの瞬間をただ呆然と見つめるしかありません。ぴたりと美怜の足は止まりました。
「夫が死んだと思ったら、もう別な男を見繕ったご様子」
美怜は動じません。ちらりと横目でその絵里をかすめ見ると、
「いいえ、彼は私の友人です。あなたこそ毎日毎日、私の夫につきまとって大変でしたのにね。この度は大変お気の毒」
絵里は一歩近寄るなり美怜の頬を思い切り叩きました。しばらく沈黙し、
「あ、あなたが殺したんでしょう!」
急に曇りガラスをひっかくような声をあげ、美怜の頬を叩きました。美怜は自分の頬を軽く手でさすり、
「ずいぶんな乱暴なことをなさるのね。私は何も知りません。夫はまだ警察署の中で解剖と称して切り裂かれているの。肉の切り身になっているのを想像するだけでも辛いのよ。あなたにこの苦しさは分からないでしょうね」
「な、何よ、あなただってほったらかして毎日その男と出歩ってるじゃない」
「さすが毎日尾行しておられるだけのことはありますね。一体私の何をお望みなの? お金が欲しいの?」
その言葉に反応して、絵里はまた美怜の頬を叩きました。絵里は続けて、
「あなたが翔さんを放っていたのよ。それをくみ取って支えるのが妻の役割じゃない」
「ずいぶんと古風な考えをお持ちですのね、ずいぶん高槻をつかんでいらっしゃる」
美怜は前を向いて、
「密通の味はいかが?」
その言葉に絵里は殴りかかりました。さすがに私が割って入ると、絵里はつまずいて倒れると、咳こみながら嗚咽し、
「絶対に暴いてやる。あなたと翔を殺した犯人と関係があったのよね。絶対に見つけてやる、あなたを牢屋に放り込んでやる。私は絶対許さないわ」
そう言って絵里は消えました。エントランスに立ちつくした美怜はすでに般若の形相でした。すでに真犯人であるという疑いをかけられています。高槻はまだ警察署にいて、体中を切り裂いて証拠を探している。何が出てくるか分からないのです。それを知ってのこの豪快ぶりに驚かされす。しかし美怜の苛立ちは頂点に達したようでした。
美怜はくるりときびすを返し、やっぱり今日はやめましょ、と冷笑しながら言います。
ドアの鍵をかけるなり美怜は私にしがみつきました。何度も角度を変えながら、私の唇を噛むように接吻しました。私は舌を入れてそれに応えました。そのまま壁に押しつけ荒々しく服を脱がせていき、体をまさぐりました。すでに美怜の性器は濡れていました。何が美怜を昂ぶらせたのか、それはしっているつもりです。美怜は私の体を求めていました。私は抱きかかえ、リビングのソファーに放るなり激しく攻めました。美怜はそれに応え大きく喘ぎました。許さない、許さない、美怜は何度も喘ぎに交えてそう言いました。それはあの女に対してなのか、高槻に対してなのか、それとも……誰に対する怒りなのかは分かりません。暑苦しい部屋の中でわき出す汗を舐めながら、頭の中では高槻とユウジの顔が浮かびました。そしてあの女の顔を思い出していました。すると私もいっそう昂ぶり、美怜の体を激しく力で攻めました。美怜はそれに応え、もっと、もっと、と吐息混じりに言いました。あの売女、と美怜の怒りが頂点に達するといっそう激しく喘ぎました。そこに恨みと恐怖が混じり合い、心の中の苦痛が肉体の快感となって昇華していきます。
激しく吐精すると、私は床に寝ころんで長距離を全速力で走るマラソンランナーのように、呼吸がいつになく大きく、酸欠しそうなほどでした。絶頂の後は私も美怜も重くのしかかる重みが消え、夢から覚め忌まわしい現実に対峙せねばならぬのです。美怜はすでに冷徹な計画が起動していました。
私は体を起こしソファーで横たわっている美怜を見つめました。体は汗にまみれ、髪を撫でながら掻き上げていました。肉と肉とが絡み合い、お互いの情念がぶつかり合うと、一見平常に見える私の頭の中にも、あの女への憎しみが伝播したようでした。彼女の敵は私の敵でもありました。
「あの女、許さないわ」
美怜は鋭い眼力で私に問いかけました。ああ、と私は応じました。
「許せねぇな、あの女」
睨みはやがて妖しげな笑みとなり、ユウジの顔が浮かびました。操り人形と化したユウジと私との差はどの程度のものなのでしょう。私は美怜の乳房を手荒く握りました。
そして再び体を交えました。
#17
その後の数日間、美怜は頻繁に一人で出かけることが多くなっていました。私は酷く苦しみましたが、一緒に行くと怪しまれるというのです。
「何か気配を感じるのよ」
私の言葉を逆用して同行を拒みます。私は今までにない不穏な予感がよぎりました。
「夜になったら……ね」
可愛らしい表情で私を魅せます。私は一人で留守を預かることになりました。彼女がいない間は狂おしいほど悶え苦しみました。「愛」という確信が揺らいでいくのを。私は本当に彼女を信じていたのですから。
リビングにある一〇〇インチのディスプレイテレビをぼんやりと眺めていると、いつもの中東情勢の話題で持ちきりでした。
「おまえら何者だ」
銃で武装している兵士は言い、日本の放送局のものだ、字幕にありました。
「日本人か、まあいい。とにかくこれだけは言っておく。アラーは偉大なのだ。アラーの教えは絶対なのだ、アラーに刃向かうものは誰であろうと殲滅する。今のところ日本人は我らの敵ではないが、冒涜するならば『ジハード』だ。気をつけることだ」
そんな様子が流れていました。ジハードとは未だに「聖戦」という意味にとられがちですが、本来の意味は「ムスリムの義務」の意味で「心がけ」という意味が近いと、獄中生活で知りました。不幸なことにムスリムの理解の足りない我々や異教徒にとって、「ジハード」とは「聖なる戦いを挑むこと」というようなイメージしかもっていません。
過激派の「戦闘シーン」ばかり注目されるので困っているムスリムがほとんどらしいのですが、未だどうしても「戦」というイメージが払拭できていないのは反省すべきだと思います。この時の私は完全に「殺しあいを始める気だ」と、勝手な解釈をしていました。ニュースキャスターのアンカーは、うなだれ、万策尽きた、お仕舞いだ、もう止めることは出来ない、などとぼそっと喋っているのをマイクが拾っていましたが、その通り憔悴した表情ばかりでした。
「戦争だ」
と、そう言い切りました。核なり爆弾なりを使って、テロを企てているに違いない、という意味合いおいての事態に、この国はどうすべきなのか、この地球上のどこかで、炸裂する恐怖を味わいながら生きるしかない時代が到来しました。
ここで付言しておきたいのは今回の核のテロを企てたのは「イスラム教原理主義者のテロリスト」だと決めつけていたことです。全く申し訳ない、どうしようもない反省をしても、もはや手遅れなのですが。その時エントランスからチャイムが鳴ました。
警察だ、と怒鳴り声をあげていました。
#18
「高槻美怜はいるか」
警察官の声は横柄に聞こえました。私は、出かけました、と言いました。本当だな、と念を押すその声は威圧そのものでした。苛ついた私は、
「一体何の用だ!」
と私はいつになく乱暴な口調で言い返してやりました。
「これが最後の通告だと伝えなさい」
「だから何のことですか」
「君には関係ない。本当にいないのだな」
私は大声で、いない、と言い切りました。
しばらくすると今度はドアのインターホンが鳴りました。確認も何もしていていないのに勝手に鍵を開けて、勝手に十数人はいる警察官が入ってきます。
「警視庁捜査一課だ。家宅捜索させて貰う」と捜査令状を見せていたのはあの制服の警察官で、そのほか数人の私服警官が鋭い眼光を浴びせています。
私は驚愕しました。全く意味が分かりません。
「君は動いてはならない、ここで一部始終見ていること」
と数人いる私服警官の一人が命令調に指名すると、その制服警官がは牟田氏を直視しながら敬礼していました。尖った声を心臓に刺すような口調があたりに響きます。部屋中を物色しては、段ボールにつめて勝手に持っていきます。私は呆然と眺めるしかありませんでした。その令状をまじまじと読んでいるとにぎりつぶしてポケットにしまいました。確認しもせずに勝手に入れてしまった私の責任はとても重く、また美怜に叱られる、とそのことばかり心配していました。私がいたから不法侵入になるのでしょうか? 法律の知識など全くないのですから捜査員が洗いざらい段ボールに詰めているのを見つめるしかありません。叱られる、叱られる、という美怜への罪悪感で、ごめん、ごめんと泣きながら復唱していました。その私を全く無視して乱暴に持ち出していきます。見張り役の制服姿の警察官は平然として立っていました。
#19
私は想像力が乏しいとしか言えませんが、何かを知っていたのはまちがいないと思います。ユウジは私に何らかの嫉妬を覚えたのではないか。そして私と美怜の関係を吹き込んだとき、「約束が違う」とばかりに彼の確信の壁も崩落したのではないか、私はそんな仮説を今でも信じています。ユウジの固い信念がもろくも崩れ去ったのは、美怜と私の関係に激昂したからに違いなく、私も途方もない邪推に振りまわされていました。
美怜ハ私ヲ愛シテイナイ!
どこからともなく聞いたことのない誰かが耳元に囁いていました。その後公判中に聞いたところによると、これは「幻聴」という症状のようでした。
あの、美怜の、興奮も、絶頂も、そして私を求めたあの美声はすべて芝居だったのでしょうか。私は頭がおかしくなって、退廷を命じられたらしいです。その後私は号泣していたらしい、と聞きました。泣かずにはいられなかったのは間違いないのですが、まったく記憶にないのです。
# 20
夕刻を過ぎてようやく捜索が終わりました。美怜は未だ帰ってきません。私は美怜とユウジの関係を質さねばなりません。高槻を殺したのがユウジで、この犯罪の張本人は「美怜」であると。
ダイ三ノオトコ、ダイ三ノオトコ、ダイ三ノオトコガイル!
私は体を投げ出してソファーに崩れるように腰を落とし、こめかみや鼻の付け根辺りを強く指で揉みました。涙にならない涙を流して、ユウジと美怜があのベッドの上で絡み合っている様子を妄想し、いや、しかしあの激しい声と肉感が蘇ってきては、彼女を愛しているはずだ、と確認するのです。
しかし結局その日は帰らず、しかし私はずっと同じソファーで同じ姿勢で固まり、じっと待ちました。嫉妬はユウジへの殺意となったり、美怜への悲しみであったり、そして、ユウジへの友情愛になったり、刻々と変化する自分の心を静めることはできませんでした。燃え広がる燎原の火に呑みこまれ頭がきしみ、またやがて涙がこぼれ、苦しみを洗い流していくと、結局私はピエロにすぎなかったという事実に落胆し、また怒りへと逆戻りします。同じようなことが周期的に繰り返され、私はそこから動けませんでした。
私ヲ愛シテイナイ!
空が青白く輝き始め、また一日が活動し始めました。すべてが日常へと回帰し目覚めていくことに恐れを抱きました。この虚ろな世界で生きることを強要して、自分は救われないという絶望を覚えるのです。ずっと夜だったらいい、ずっと雨が降っていればいい、そんな私の気持ちを裏切るように朝日が輝き始めます。私は目覚めを感じませんでした。ユウジへの愛が高槻に移り、結婚までした高槻を殺すためにユウジをたぶらかす。そして美怜は私へと愛情は向けられています。美怜は私をどうするつもりなのでしょう。私はまた無意識に泣いていました。それは笑みをも含んでいました。
私ハ、ソレデモ愛アイシテイタ……
……のでしょう。それが錯覚に過ぎないなどと諦めきれるわけがないのです。
玄関から施錠を外す音がしました。面をあげると、とっさに立ち上がりました。目やにのついた目をこすりながら、玄関に向かいました。美怜がいました。
「ただいま~遅くなってごめんなさいね」
美怜はいっぱいの紙袋を手にして、ただそう言いました。
「夜には帰るつもりだったんだけど、昔の友達とばったり会っちゃったの。その人の家に寄ってそのままで、昨日の夕食どうしてた?」
それはいつもの美怜でした。何の恐れも抱いていない、無垢の美怜でした。これが偽っている女の表情なのでしょうか。私は急に恐ろしくなり、不意に美怜を抱きしめました。嘘でも本当でもかまわない、ただここにいる美怜を信じようと思いました。
「ど、どうしたの、一体?」
私は昨日警察が来て、捜索令状を持ってして、いろいろ持っていかれたことを話しました。すると美怜の表情はみるみるうちに硬くなり、眼光鋭く、目をそらし、私の視界から消えました。私は恐怖を覚え、美怜を抱きしめました。乱暴にキスをし、体を抱え寝室へ行こうとしましたが、頭をよぎるものがあってリビングのソファーに押し倒しました。私は服を脱いで裸になり、美怜の体にむしゃぶりつきました。日射しは強く、朝だというのに体に汗がにじんできました。
「ちょ、ちょっと待って」
美怜はそう言いながら体を離しました。裸の私を見ながら、美怜は乱れた髪を手櫛で直しながら言いました。
「なんて言っていたの?」
「ユウジが、事件のすべてを証言したって」
まさか、と怪訝な表情で美怜は言いました。視線はあちこちに飛び、そんなことないわ、を繰り返して、立ち上がっても、手櫛で髪を整えながら、あちこち歩きながら、ターンしたり……笑っていました。
「彼がそんなこと言うはずがないわ」
どうして美怜は私をそう不安に陥れようとするのでしょう。私は美怜を愛することで、信じ抜こうとしていたのです。それなのになぜ拒絶するのでしょう。美怜は私を、直視しました。怪訝な笑みを見せつけました。そして言いました。閃いたように。すべてが新しい針を刻み始めたように。
「……あの女よ」
私は耳をそば立てました。
「昨日あの女と拘置所ですれ違ったの、無視してやったけど」美怜は続けました。
「スーツ姿の男も一緒だったわ、たぶん弁護士で、何か入れ知恵したのよ」
私は鼓動が止まるのを感じました。美怜の話が破綻していたからです。美怜は嘘をついていました。仮にあの女が何らかのことを吹聴したとしても、美怜は昨日早く出て行ってそのすぐ後に警察が来たのです。美怜の言うことが仮に事実だとしても、昨日より以前に証言しなければ令状は取れないはずです。昨日拘置所ですれちがうことなどありえません。
「あの女は許せないわ」美怜は続けました。
「ねえ、あの女、殺しちゃいましょうよ」
美怜は顔を私のすぐ前に近づけ、口元は笑っていましたが、目は妖しげに爛々と輝かせ迫ってきます。美しい瞳でした。こうやってユウジも洗脳されてしまったのでしょうか。その刹那私は美怜の首を絞めました。女の面は笑っています。私の締めている両手をつかみ、解こうとしています。
「や、やめなさい」
かすれた声で優しく言いました。さらに力をこめると、ごくごくといった激しい頚動脈の拍動が掌に伝います。
「ほ、本当に、わ、私を殺す気?」
美怜は笑みながら、締めている私の両手から少し緩みを作りながら続けます。
「わ、私を、殺して、い、いいのかしら。ユ、ユウジ君が、だ、黙ってないわよ。ユ、ユウジ君は、あ、あなたを殺すわよ」
私はさらに力をこめ黙らせました。ぼぅっとしたユウジや高槻の半透明の顔が美怜の背後から浮かびました。私は首を狂ったように首を締め上げました。美怜はピクリともせず私を見つめよだれが垂れました。彼女も腕を伸ばして私の首を,掴もうとしています。私は浮かんでくるその男の恍惚とした顔を振り払いました。
「どうして俺を捨てた!」
私は叫びました。私の知らない男たちが続々と現れて美怜に加勢します。何人もの男の霊が現れては私の呼吸を止めようとします。遠くから眺めることしかできなかった、純粋な想いに殉じていった男たちが、こうやって、次々に、男を利用するだけ利用して、終いにことごとく棄て去る、美怜はそういう女なのでした。だいたい昨夜は誰に会っていたというのでしょう。
ドウシテ俺ヲ棄テタ!
おそらく、それが自分の産んだ子供であったとしても、美怜は笑みを浮かべるに違いありません。赤児をも道具として、使う、美怜とはそういう女でした。
呼吸困難となった美怜は大きく口を開け何とか息を吸おうとしています。私はその顔を見ながらさらに力をこめると、がばっと破裂する感触を得ました。血管が破裂した、というのは、その後の司法解剖の結果で、この時初めて美怜の死因を知りました。この時の美怜は目を大きく見開き、口をほんの少しあけていました。両手は力を失いだらりと垂らし、拍動も消えていました。私は大きく息を吸いながら汗をぬぐい、その輝きを失った瞳を見続けました。美しい、おぞましい笑顔。それはありふれた言葉で言うなら、魔性の女そのものでした。死してなお彼女は笑んでいました。私はいやに落ち着いていました。その場に腰を下ろし、激しい自分の鼓動を落ち着かせました。テレビがつけっぱなしになっていました。緊急特別番組に変更されています。
「えー、この時間は番組を変更して緊急報道番組をお送りしております」
アナウンサーは目線を下に下ろしながら、
「えー、東京都港区六本木にある、クロスタワービルにて爆弾テロが起きました。映像は今の状況をお送りしています。現場にいる田畑記者に現在の様子を伝えてもらいます。えー田畑さん」
今まで清掃作業をしていたクロスタワービルでした。懐かしい面影に面を上にするとガラスが割れ黒煙を吐いています。
「はい、こちら六本木のクロスタワービルの前にいます。ごらんのように黒い煙を吐いているのが見えると思います。爆発は七階のエイン・ソフ証券のフロアにて起きました。現在消火活動と被害者の救出に全力を挙げている模様です。この外資系証券会社はユダヤ系投資家を中心にファンドを運用しており、警察当局はこのところ敵愾心を持つイスラム教原理主義者が起こした爆弾テロと見て捜査を開始しています。
ついに日本もテロリスト集団の標的になってしまったのでしょうか。現在分かっていることは以上です」
私はとっさにカファルを思い出しました。カファルの頭の中で一体どんな閃光が走ったのか分かりませんが、自らの肉体を武器にして、何かを守ろうとしたのではないでしょうか。それは正しいとか悪いことだとか、私は答える資格はありません。カファルは自らの肉体を武器にして千切れた肉片となりはてました。ムスリムは自らの肉体を傷つけてはならない、という掟があるのだそうです。神が降臨し、復活の時、肉体がなくなってしまえば復活できない、という理由だからだそうです。しかしその敬虔なカファルは、またもイスラムの禁を犯しました。自死をして何を成就させたのでしょうか。私はそれが痛いほど分かるような気がするのです。テロは許されるものではありません。しかしイスラムの教義を棄ててまで、何かを訴えたかった、その何か。弱きものたちから財産や資源を巻きあげているのは、他ならぬ我々です。彼らが自らの生活を取り戻すためには、ほかにどんな手段があるのでしょうか。利権を争う国際社会にあって、所詮話し合いで平和的に解決することなどできっこないのです。えげつない挑発で相手を激昂させ、それを糸口に力でねじ伏せる、それが先進国のやり方です。私は何の言葉もありません。
私は視線を美怜に向け、しばらく眺めていました。……そう考えると、とっさに思いついた私の行為も理解できるような気もするのですが、真実がどこにあるのかなど調べることなどできません。ただそう思ってしまっただけのことです。バカバカしい、ハジさらしの極みでしょう。私はその程度にでしか社会と自分との接点を語ることはできないのです。そうとでも考えねば私が美怜を殺した甲斐がない、というものです。
私は警察に連絡しました。すぐに駆けつけたのはあの警察官でした。彼はこうなることをどこかで予期していたがごとく、私を見つめていました。私は施錠され逮捕されました。取調べやら事務的な手続きを踏んで裁判にかけられ懲役七年の刑に服したのです。どうやら精神病にかかっていることで減刑されたようですが、救いなどありません。
#21
服役中にも争いは続きました。まず先進国と言っていいような民主主義国家のいくつかで、内戦が始まりました。そこに外国の軍が侵入して争いに加担したりもしました。世界中がその殺しあいに明け暮れていました。あるのは憎悪と怨念、とドグマとした過激な教義を持つ宗教指導者や、教義よりも肌の色や血脈を根拠にした人種や民族主義者の派閥や門閥、あるいは旧態依然とした国家を盲信するナショナリストセクトでした。国家の求心力が低下し、テロがテロを呼び、核兵器は人体をむしばむ癌細胞のようにあちこちに転移していき、散発的に核も使われました。
一説には一億人を超えるほどの人命が失われたとのことですか、おそらくそんなものではないでしょう。直接蒸発した者以外にも、後遺症に苦しみ、酷いやけどに焼き叫ぶ子どもたら。訃報に嘆く母や父たら。途方に暮れる難民に、安住の地はありません。核兵器を横流しするというのは、明らかに人類への挑戦していますが、しかしその言い分を批判する言葉を、先進国生まれの我々に返す正当な言葉なぞありません。人間が人間を挑発するこの時代に、未だ国家は強権的にふるまっています。秩序が壊れ、法治国家であるはずの健全な解決――裁判というシステム――は機能不能に陥っています。それに取って代わったのは、意味不明のドグマを根拠とした処刑です。誰が何のために殺しあうのかもよく分からないまま、もはや収まりがつかない事態となって反戦デモがあちこちで吹き荒れ(それは主にネットでの反対運動でした。多くは政府へのネット攻撃の形をとり、政府は軍の制御を不能にするのに効果的でした。人が集団になってしまうドグマ、それこそが攻撃の的になっていました)、戦死した青年の遺影を掲げ政府批判で撤収を叫べば、アメリカ政府の高官はインドやロシアを抱き込んで攻撃続行を示唆しました。しかしそれは時間の経過とともに崩れていきます。
アメリカを始めとして主権国家が力を失う一方で私腹を肥やしているのは、手広く武器を供給する多国籍兵器企業でした。「死の商人」たちは、国家に従属しているふりをしながら、国家をして弱者を喰いものにしています。この惑星を戦場とするのに躍起になり、宗教指導者やテロ組織の幹部に陰に陽に立ち振る舞い利益を貪るのです。敬虔なムスリムやキリシタンたちは圧倒的な攻撃にさらされながらも、体に銃丸を受け入れつつ、前へ前へと倒れながら抵抗を続けています。その善良な信仰が争いの種をまき続けていく。これが五十億、六十億年ともいわれる生命誌の帰結なのでしょうが。
しかし、この五日後事態は急速に展開し始めます。すでに核戦争の頻発は、もう誰も望まなくなっていました。大量破壊兵器は人類を絶滅させる力を持ちます。「狂気」に陥った者どもを取り締まる各国の政府首脳たちを救ったのは獅子の国人たちでした。彼らは「世界宗教者会議」を高らかかに提唱します。
疲弊している政治指導者も、テロリストも、先進国も途上国もない難民も、今こそ結束すべきだ、という決断をするのは意外にもその五日後でした。テロリストによる暴力の根拠と宗教指導者も、争いの愚に気づき始めてくれたのでしょうか。
その重要な会議が「日本」の「東京」で開催される。意義深い会合ですが、私はその結末を知ることはないでしょう。
「宗教」と「国家」は和解するのでしょうか。「国家」は反人道的兵器を売り込む「企業」の癒着を断ち切ることができるのでしょうか。
シオニスト、キリシタン、ムスリムの三者を仲裁した国は、中国とインド、そしてオーストラリアのようです。日本の首相を議長として担ぎ停戦文書取りまとめたらしい、のですが詳しいことはやがて明らかになるでしょう。日本では未だ論争のための論争にあけくれていましたが、憲法違反なのかどうかについて、最高裁判決が確定する前に各国が担きあげてくれたお陰で、判決前に和平交渉が決着する可能性が出てきました。日本の政治力にはほとんと期待しませんが「日本国憲法」に戦争放棄を条項を有してくれたおかげで、なんとか呼吸できる可能性が出てきました。その程度の理由でありながら、日本の政治家はまるで天狗のように鼻高々として喜び、護憲派の政治家は、早速毎日宣伝カーを走らせ、声をまき散らしています。
――専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永久に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ――
貧民を救うため肉食獣のような大国を相手に戦う「テロリスト」国民の生命財産を守るという大義の下で戦争をする「国家」人間機魂を救済する「宗教」戦争を食い扶持にしている「軍産複合体」なる多国籍企業にくさびを打ち込むことはできるのでしょうか。テーブルにつけさせる仲裁案には、三者三様の正義を認める何らかの措置がとらねばなりませんし結末は不透明ですが、人類自らを滅ぼす争いは止めねばなりません。
「現代」という呼称は、今ここをもって終焉を迎えたというのは早計でしょうか?
「国家」から「軍隊」を取り上げ、「超国家機能体」とかいう組織を志向する思想家が現れています。して、その「国家」を解体し、「軍隊」を取りあげ、「テロリスト」から大義名分を奪い、「宗教」は市民の魂の救済する古典的な単位に回帰することが、本当にできるのでしょうか。
「地球」という新たな単位で語ろう、という市民運動家が多くの賛同を持って演説にも力が入っています。人口問題、地球環境の保全、そして文化の多様性を受容する「宗教」のありかたは、人々の目を覚まし「地球政府」やら「人民議会」などという新しい政治用語を使う知性の持ち主が現れています。その時の「軍隊」は「地球」を統べる治安や警察のような任務にするのだそうです。そんなことが果たして可能なのか?
その時「核」をどうするのか。拳銃や手榴弾に至る武器を、たとえ自衛のためであろうとなかろうと、武器という武器は使用も保持も、その他いかなる理由があろうとも「超国家機能体」なる組織が一元的に管轄し、もって「軍産企業」をも支配するという政治思想を具現化するのだ、といっています。
そうです。「国家」から「軍」も「核」も、そして「武器商人」をも取り締まる政治思想。私は日本の戦国時代末期の「刀狩り」をイメージしました。
そんな「不戦の誓い」を条文とする条約が南極の昭和基地で調印されました。今まで戦禍を受けなかった大陸で調印セレモニーを行う、とまでその「獅子の国」の報道官は断言しました。ここ一月ほどの「悪夢」は「南極条約」という名で一部の思想家の夢でしかなかった「地球連邦政府」という形で初声をあげようとしています。このところジョン・レノンの「イマジン」の詩を奏でる若者を目にするようになりました。未だ不完全であるとはいえ、もしこの地球を取り巻く全ての指導者が調印すれば、まさに「地球連邦政府」と称されるにふさわしい理想的な組織が発足するのです。少なくともひどく貧しく、食うにも困る難民層は喝采してやみませんでした。人類史上初、この「地球」を統一単位とする超国家組織が発足するのです。
アメリカの調印なしにこの実効性を担保できませんが、その誇るべきアメリカ軍の参謀本部を構成する複数の将軍は、大統領の許可を得ることなく勝手にサインしてしまいました。米大統領は即刻その将軍の職権を解きましたが、従うものも反対するものもいません。完全なる無視。国家の最高司令官を無視して勝手にその、訳の分からぬ組織に委ねる、という信じがたい現実が、間もなく、平和裏のうちに発足するらしい。
「アメリカ合衆国」
という覇権国家の軍首脳は、核兵器が国家からテロリストに渡ってしまった以上、アメリカ一国で核の抑止力は効かないと、」アメリカの将軍」たちはそういう判断をしたようです。
残念なことにアタッシュケースに入った核兵器を炸裂させたテロリストグループの摘発には未だ至っていません。しかしこの地球をあまねくおおっている三者のネットワークの力で、炙り出そうとしています……米テキサス州で年が十四歳の男が五つにも満たない少女を銃殺し、その青年を三十のムスリムの父がマシンガンで肉体がばらばらになるまで撃ち続けそして自死するという事件がありました。その後、州知事が非常事態宣言を出すまでの暴動になっています。この火はあちこちの州に飛び火し大統領も苦慮しているそうです。この先は高槻翔君が言ったごとくアメリカ分裂を引き起こすのでしょうか? 「民主主義国家による帝国主義的平和」――いわゆる「パクスアメリカーナ」――は終焉を迎えるのでしょうか? 予言の結末は興味深いですが、事の次第を見届けるほど私に残されている時間はありません。私には全くうかがい知らぬことです。
出所したその足で、私は秋葉原に行って雑貨店で操り人形を買いました。三角帽をかぶったピエロの人形です。この原稿を書き終えたらまた遊ぼうと思います。なかなか難しいけれど、面白いものです。人形を操ろうとするとストリングが絡まってうまく踊ってくれません。人形の方に操られてしまうのです。大事なのは人形の動きに逆らわないことです。するとどちらが操っているのか分からなる。その感覚がおもしろいのです。
私は裁きを待ちます。ユウジが、倉敷裕治君が出所したら「愛」の名のもとで私を殺すことでしょう。私は晴れて自由の身となりましたが、今度は殺される恐怖と共に生きていくことになるのです。私は喜んでその成敗を受けるつもりです。自殺はできません。私は彼に殺されることによってのみ、彼を救うことが出来るのです。そして彼はひとつの曇りもない、はっきりとした意識を持って首を吊ることでしょう。それで彼の気が済むなら、本望です。一応の決着をみせたぼんやりとした平和がいつまで続くのかは分かりませんが、少なくとも私は鉄格子の中で一応の自己を取り戻したような喜びもあります。それはいずれふりかかる、自己の喪失との引き換えを意味します。不条理なものを感じますが、私はユウジを説得させるだけの言葉を持っていません。私を殺すことによってのみ、彼は自らの「愛」を成就させるのです。私はここにしか生きる価値を見いだすことが出来ません。
それを受け入れるしかありません。
最後になりますが、こうして脱稿まで待ってくれた倉敷裕治君に感謝します。これが最初で最後の作品となるでしょう。ありがとう。
本当にありがとう。 (了)
友情、愛情、核戦争! 伽野友則 @tomonori_togino
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