8-2

(どういうこと? 状況は、良いの? 悪いの?)


 湿った石の階段を上りながら、リンは必死に考えを巡らせていた。

 いろんなことを、結論だけ説明されたのだけれど。大魔女アクイレギアにも、処理し切れる情報量というものはある。今聞いた話は、さすがに無理だ。


 あれから、「ヨナ」に連れられて、リンは大聖堂の地下を出た。

 リンの手を引く彼は、初めにリンの部屋へ来て、リンと言葉を交わした方の「ヨナ」ではない。彼はあれから、自分と同じ顔をした男と幾つか言葉を交わし、服装を入れ替えて出て行った。


 その、二人の「兄」が言うことには。

 レグルスは生きていて。無事、リンの真名を得たらしい。

 それは、嬉しいのだ。間違いなく朗報である。けれど。


 彼に与えられたは――不死の帝国を再建するという教団の願いは、今日この時をもって成就する。日蝕を正しく知らず生きてきた民衆を煽り、恐怖で縛り上げ、魔術の礎として。

 その上で、「レグルス王」として即位するはずの王太子ロビンを、魔女の血統と告発し、教団は正義を得る。リンにしてみれば、この上なく腹立たしい計画だ。そして、リンが判断に困っているのもこの部分についてだった。


 本来、計画にはリンの力を利用する予定だったそうだ。

 不完全な魔女であるリンを捕え、彼女の名を奪う。もしくは、ヨナのように教団の手で魔女とされた「子供」たちの力で、無理やり捻じ伏せ、従わせる。そのようにして。

 けれど、リンの真名はレグルスが手に入れた。魔封じの枷も、ついさっきヨナが偽物と取り換えてしまった。リンを縛るものは、もう何もない。


 では、一体誰が、預言を完成させるというのか。

 そもそも、王太子であったロビンが急遽即位するということは、前王は「病死」してしまった、ということだ。

 前王が亡くなり、ロビンが陥れられ、この国が魔術によって別の何かに塗り替えられてしまう。それは、リンにとっての悲報に違いない。リンの大事なは、家族もこの国の事も、当たり前に愛していたはずだから。


「ねえ……わたし、戴冠式に立ち会って大丈夫なの? 何か考えがあってのことなのよね? それに、その……あなた、ヨナでは……」

「君が思っている方で正解だよ。多分ね」


 でも今は口を閉じて、と、唇の前に指を一本立てる。片目を瞑る仕草ひとつとっても、見れば見るほど似ているし、間違いなくヨナと同じなのだが、おそらく偽者は彼の方だ。リンの枷を偽物とすり替えたのは、こちらの「彼」の方である。

 ヨナは幼い頃、「エリヤ」と呼ばれていたそうだ。そのせいで、彼の自由には制限がある。教団の他の「子供」たち同様、リンの逃亡に直接手を貸すようなことはできない。であれば、目の前の青年はヨナではない。教団の魔術師でもない。一体誰なのかは、分からない。けれど。


「で、でも……あなた、もしかして時々入れ替わってた? お城に行く時も、薔薇の香りがしたもの。……ねえ、女の人なんじゃない? もしかして、恋人……?」

「もー。言っても無駄だね、この知りたがりは」


 苦笑し、肩を竦めた「彼」は、それでも否定はしなかった。

 再び首だけリンの方に向けて、少し困ったように眉を垂れる。


「前半は合ってる。よく分かったね。まあ言葉遣いは勘弁してくれ、この格好で女言葉はさすがに自分で気持ち悪い。……でも何で恋人だって?」

「だって、心配してるみたいだったから。女遊びは程々にしてほしい、って」

「恋人なら怒るとこだよ、それ。僕のは呆れてるのさ。ここに居た頃からの付き合いだからね」


 では、この「彼」もとい彼女も、教団の「子供」なのか。

 枷に視線を落とし、首を傾げたリンに、ヨナの姿の女は囁くような言葉を落とす。


「僕は一度死んだんだ。死んだってことにして、魔女になれなかった他の子供たちの死体に紛れて、逃げだした。……本当は彼も一緒に逃げるはずだった。何しろ、彼の提案だったからね」


 だが、そうはならなかった。

 後から追うと言った「彼」は、もしかしたら、最初から彼女だけを逃がすつもりだったのかもしれない。問うてもはぐらかすばかりで、答えてはくれないけれど。


 何にせよ、彼女は逃げ延びた。最初で最後の「はぐれ」になった。

 名前は相変わらず教団に握られているが、死んだはずの彼女は、教団の指示からは漏れている。


「だから、あなたに協力をお願いしたの?」

「いいや。僕がやるって言ったのさ。王太子様が僕のところに来たのが、夏頃だったかな。それまで何も聞かされてなかったんだよ、あいつには。しょっちゅう顔出してたくせに。酷いと思わない?」


 ヨナの顔では滅多にお目に掛かれないような表情で、彼女が口を尖らせる。露骨に拗ねてみせる彼女を見て、リンは久々に頬を緩ませた。


「ひどいわね。ヨナのことだから、巻き込みたくなかったんでしょうけど」

「そうだよね。いや分からなくはないんだけど、信用しろっつーのね」

「それだけあなたが大事なのよ」

「そういう『大事』は嬉しくないよ。対等でいたいんだ、こっちはさ。実際、僕がいて助かったろ?」


 それは確かに。

 頷けば、だろう、と満足げに頷いて、また視線を前に戻す。

 長い石段を上り終えた先、地上への扉はすぐそこだ。聞けば、そこは大聖堂の中庭に繋がっていて、戴冠式の行われる礼拝堂は目の前だという。

 リンが戸惑い気味に足を止めれば、「彼女」は一緒に止まってくれた。


「……話を戻そうか。リン。君は、この先に行かなきゃならない。

君にとって、受け入れがたいことも起きると思う。先に詳しく話せればいいんだけど、そうしてしまうと『物語』として成立しなくなってしまう可能性がある」


 よく知った顔立ちの、よくは知らない「彼女」を見上げ、リンはひとつ瞬きをする。ゆっくりと目を閉じて、開き、そうして問うた。


「その物語は、どんなお話?」


 彼女のことを、よくは知らない。

 リンのことを、脳みそお花畑、だなんて言ったレグルスの言葉が脳裏をよぎる。確かにリンは、千飛んで十五年の間を殆ど引き籠って過ごしてきた。人を見る目に自信なんてなかったし、嘘が嘘だと見抜くことなんて、魔法に頼らなきゃ全然できない。


 それでも。


は対等で居たいんだ。隣に立って生きていたいから。

――物語は、大団円でなきゃね?」


 借りものの濃紫の奥に、生き生きと輝く意志の色を見る。

 レグルスみたい。そう呟いて、リンはしっかりと頷いた。






 薄暗い地下から這い出た鼠に、地上の光は眩しすぎる。

 未だ日が欠け始めてはいなかったようだ。目を眇めながら、ホッと胸をなでおろしたリンは、「ヨナ」に連れられるまま歩き出す。

 礼拝堂へは、既に列ができていた。するりとその中へ滑り込み、顔を上げる。礼拝堂の壇上、真っ赤な衣装に身を包んだ女と目が合った。蛇に睨まれた蛙みたいに硬直するリンに、一体どんな感想を持ったかは分からないが、女は唇の端を持ち上げて笑ったようだ。ぞわりと背筋を悪寒が走り、リンは「ヨナ」の手を握り直す。


「……平気かい? ずっと顔を上げている必要はないから、大丈夫だよ」


 リンの手の甲を親指で撫で、宥めるように握り返してくれるのがありがたい。

 温かな掌は、そこまでヨナを再現する必要がないと思ったのか、彼のものとは違うようだった。

 水仕事で少し荒れている。指には幾つか傷がある。

 貴族の持つ、柔い掌とは、まるで違う。けれど、リンにはそれが、とても良いもののように思えた。


「……長くてきれいな指ね。わたしも、こんな風になりたかったわ」


 思わずぽつりと呟けば、「彼女」は目尻を緩めてくすりと笑う。


「なれるさ。君、まだ十五歳だろう?」

「そんなの大昔の話よ」

「今だって僕らから見れば、そのくらいの女の子のままじゃないか」

「見た目はそうかもしれないけど――」


 ふと、空気が変わった。

 ざわついていた室内が、シンと静まり返る。

 ひそひそと言葉を交わしていたリンたちも、それにならって口を閉ざした。


 白い、儀式用の衣装を纏った青年が、厳めしい老人たちを引き連れて入ってくる。頭の形に沿って切られた黒髪、ひょろりと伸びた背に、穏やかな瞳。兄弟にしてはまるで似たところのない、レグルスの弟だ。

 彼が腰に佩いた剣は、リンにも見覚えのあるものだった。多忙を極め、滅多に娘と会う事のできない皇帝のため、魔女の一番弟子が作らせた剣。リンの瞳と同じ色をした、大粒の石で飾られたそれは、儀式用の剣として使用されているらしい。


 険しい顔の重臣たちの中にあって、唯一どこか好々爺といった雰囲気の老人が、ちらりとこちらに視線を寄越した。

 リンを素通りして「ヨナ」へ向けられたそれを、彼女は少々わざとらしい顰め面で受け取る。老人の方は、にんまりと笑ったようだった。


「……あれがウルフズベイン卿。僕が言うのもなんだが、とんだ狸だぞ。『僕』とは、顔合わせるたびに、面白暴言の嵐みたいな喧嘩してる」


 可笑しくて仕方ないとでも言いたげな声で告げ、「ヨナ」は身を屈めた。振り向こうとするリンに、そのまま、と告げ、彼女の耳元に極々小さな囁きを落とす。


「戴冠式って言っても、今回は簡単なものだ。急なことだったからね」


 宣誓が始まる。ロビンの優しげな声音は、どことなく緊張に強張っている。


「聖油を額に。両手の甲に。受けたら俯いて、膝をつく」


 その言葉のとおり、滞りなく儀式は進んでいく。

 深紅の服の女が、首を垂れたロビンに王冠を与えようと近付く。


 そして。


「……始まるよ」


 言い終わりもしない内、その時は訪れた。


 派手な音を立て、閉ざされていた扉が破られる。

 静寂に支配されていた礼拝堂を、突風が駆け抜ける。

 欠け始めた太陽が、招かれざる客を背後から照らしている。


 空を指さした誰かが、驚愕の声を上げた。眩いはずの太陽が、僅かに痩せている。

 黒いローブの闖入者に、兵士が詰め寄る。鋭い誰何を受けても、闖入者は肩を竦めただけだった。


「好きに呼べよ。俺は俺のものを返してもらいに来ただけだ」

「な……何を訳の分からないことを……この……!」


 衛兵の剣の切っ先が、男のフードを切り裂いた。

 金の髪が零れる。あの、癖の強い蜂蜜色を、リンはよく知っている。

 気付けば身を乗り出していた。名を呼ぼうと。ああ、でも、呼んで良いものなのか。逡巡の間に、他の誰かが――穏やかだけれど、緊張に張った声が、呼んだ。


「――兄、上……!?」


 ざわりと空気が動く。驚愕の視線がロビンに移り、レグルスを見て、じわりと混乱が広がっていく。王冠を捧げ持ったまま、女教皇も唖然としている。


「もうお前の兄上じゃねえよ。好きに呼べとは言ったがな」

「……っ、ですが、兄上……!」


 他でもないロビンが、侵入者の正体は、死んだはずの「レグルス王子」であると言う。だとしたら、捕えることは不敬であり、剣を向けることも許されはしない。

 けれど、本当に? 一体何が起きたというのか。その上、誕生から遂に一度も民の前に姿を見せなかった「レグルス王子」は――その顔は、まるで。


 不躾な視線も意に介さず、レグルスは礼拝堂の真ん中を堂々と歩いていく。ロビンに胡乱な目を向けて、少し顎を上げ。挑発するように、視線は壇上の「聖者」へと。


「ああ、感謝しよう、忠実なる弟子の末の子らよ。

お前たちが『私』を何度も殺してくれたおかげで、ようやく預言は果たされる」

「は……」

「――カーレンバルトの第一王子は、獅子のように勇敢で、恐れを知らぬ若者となる。しかしその太陽の如き美貌は人々を惑わし、古の魔女との邂逅を経て、地平線の彼方までも焼き尽くす炎となるだろう。十八年……いや、もうすぐ十九年前になるか。お前らが俺に与えた言葉だ。忘れたとは言わせない」


 ぱちんとレグルスが指を鳴らすのに合わせ、リンの隣で「彼女」がフッと細く息を吐く。辺りを柔らかな薔薇の香りが包み、レグルスの手にはいつの間にか、白茶けたアクイレギアの花が握られている。

 人々の頭上に、大きな教団の紋章が浮かぶ。ふわりと霧散し、紅いアクイレギアの花へと変わり、落ちていく。「紋章と似てないか?」と、誰かが小さく呟いた。耳聡くそれを拾ったレグルスが、ニッと目を細めて笑う。


「そりゃあ似ているさ。どちらも『私』の為のものだ。まあ、この期に及んで我欲に駆られ、私を出し抜こうとしたらしいがな」

「な……な、何を……何をッ! でたらめを言うな、魔女め!!」


「――は! 魔女、あぁ、そうさ! 言っただろう? と!

さあ貴様の願いを叶えてやろう、獣の如き愚かな女よ! 王子レグルスは死に、獅子の太陽は地に堕ちた!! もはやこの身はヒトに非ず、この国に日は昇らず! ただの魔性と、不浄の大地と成り果てた!!

貴様たちが、かの帝国を滅ぼした女をそう呼んだのならば、敢えて私はその名を継ごう!!」


 やめて、と。

 リンの小さな悲鳴は、レグルスの意思で握りつぶされた。

 胸が痛いのは、この先を聞きたくないからか。それとも、彼がリンの言葉を無視しようとしているからか。訳の分からないまま、喉の奥が痛くなる。


 人が変わったみたいな言葉遣い。

 大仰な振る舞いに、舞台のような立ち回り。

 けれども、やっぱり彼はレグルスなのだ。


「……魔女、アクイレギア」


 泣きそうな声で呟いたロビンに、それでいい、と。

 僅か、目尻を緩めてみせたから。

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