7-6

 レグルスがノラの家を出たのは、その日の夕方のことだった。


 体は本調子とは言えないが、事態は一刻を争う。無理はしないと約束したら、漸くノラは首を縦に振ってくれた。


 ノラの部屋に何故か置いてあった男物の外套を着こみ、大通りを足早に通り過ぎて行く。彼女は「変装用だ」などと曖昧に笑っていたが、これが誰の物なのかはレグルスにも大体想像がついていた。


(ヨナとノラの関係の方が、俺には分かんねえんだけどな……)


 恋人なのかと尋ねたら鼻で笑われたし、幼馴染や友人というよりはもう少し距離が近いような気もする。一緒に育ったから兄妹かと言えば、それも違う。

 ノラは最終的に「盟友」と表現していたけれど、それは教団という共通の敵を倒したら消えてしまう肩書なのではないだろうか。


 とりとめなく考え事を続けるうち、目的の場所は見えてきた。

 他国と異なり、カーレンバルト王家の墓所は、教会とは全く別の場所にある。

 これだけ宗教の力が強い国も他に無いというのに何故、と幾度となく思ったけれど、今はそれが何よりありがたい。


(……よかった、そのまんまだ)


 墓所の周囲をぐるりと囲む鉄柵には、一か所だけ歪んだ場所がある。

 人ひとりなら通り抜けられるほどの歪みだが、位置が低く植え込みの陰になっているせいで、大人の目には入らないのだろう。

 レグルスが幼い頃に見つけた秘密の抜け道は、今も変わらずそこにあった。


(入れっかな……だいぶ背伸びたし)


 木の枝に引っかけて借り物の服を台無しにしても申し訳ないので、とりあえず脱いで脇に置き、柵の周囲に積もった雪をかき分ける。と、雪の上に何かが転がり出た。


「……っと。あれ? これって……」


 上着のポケットに入っていたらしい、古びた小箱には見覚えがある。

 リンの部屋から発掘された、まじない入りの「お守り」だ。

 どうしてそんなところに入っていたのかと首を傾げたが、まあ、考えるのは後でいいだろう。

 何度か服や肌を引っかけてしまったけれど、どうにか侵入は達成できた。……実家の墓に侵入するというのもおかしな話だが。


 ともかく、一旦中に入ってしまえばこっちのものだ、とレグルスは外套を羽織って歩き出す。

 途中で自分の名前が彫られた新しい墓石を見つけて、何とも居た堪れない気持ちになったが、誰かが花を供えてくれていることは単純に嬉しかった。

 胸の中で感謝を告げて、レグルスはふと顔を上げる。


 果たして、王妃の墓の前には、懐かしい姿があった。


「……ロビン?」

「え? ……えぇ!? あ、あにう……むぐっ」

「! ば、ばっか、お前……!」


 振り向くなり、驚愕に目を見開いて叫びそうになった弟の口を慌てて塞ぎ、レグルスは必死の形相で首を横に振る。

 しーっ、と人差し指を口の前に持ってきたら、ロビンも察してくれたのか、薄ら涙目になりつつ頷いた。


 辺りに人の気配がないのを確認し、レグルスは深々と息を吐く。


「護衛くらい付けて歩けよな……何でお前ここにいるんだよ……」

「何でって……僕が聞きたいですよそんなの! 兄上、滅多に母上の墓参りなんか来なかったのに……というかもう具合大丈夫なんですか?」

「いや、それはちょっと事情が……具合?」


 どうしてロビンがレグルスの体調のことなど知っているのだろう。

 目を瞬いたレグルスに、ロビンは困り顔を困った笑顔に変えて言った。


「知ってますよ。エレナさんとヨナさんに指示出したの僕ですから」

「……。えっ」


 今とてつもなく理解しがたいことを言われた気がする。

 目を見開いて固まってしまったレグルスに、ロビンは苦笑した。


「優しいだけの気弱な第二王子じゃ、王にはなれませんよ。

 ……なんて、偉そうに言えるわけでもないんですけどね。分かっていたつもりで、分かってなかったんです。兄上がいなくなって、それを思い知りました」

「……」


 何だか、しばらく見ないうちに随分と大人びたことを言うようになったらしい。

 置いてけぼりを喰らった気分のまま、「そうか」と気の抜けた声で返せば、弟であるはずの男は肩を竦め、手に持った――筒状の布に目を落とす。


「それにしても、ヨナさんすごいですね。信じたわけじゃなかったんですが」

「ああ……うん? いや待てお前、信じてないのに指示出したってことか。俺、今度こそ真面目に死ぬところだったんだけど」

「えっ? ……あっ。そ、そっちじゃないですよ! これです!」


 ジト目の兄に慌てて弁明する姿は以前のままで、何だやっぱりロビンはロビンか、と内心安堵するものの。

 彼が掲げて見せたのは、やはりどう見たって布製の筒だ。強いて言うなら、持ち手の方をリボンで飾られている。筒である。

 それが一体どうしたというのか。怪訝な顔で首を傾げれば、ロビンがそっくり同じ顔を返してくる。


「……は? 何だよ、さすがに説明しろって。布がどうかしたのか?」

「布? いや、兄上、何を言って……見えてないんですか?」

「見えてない? 布とリボン以外に何かあんのか?」

「えぇ? これ花束ですよ。今日は母上の命日でしょう? なので、母上の……」


 視線を落としたロビンにつられて、レグルスもそちらを見やる。

 綺麗に掃除された墓石。墓標には、もちろん母の名が――


 ――ない。


「……嘘だろ」

「兄上……? 本当にどうなさったんですか? まさか魔術の後遺症でも」

「ロビン」

「は、はい?」

「母上の名前、何だった?」


 ぎこちなく顔を上げる。

 再会してから、目を逸らすということをしない弟の目を、じっと見つめ返して。

 母とよく似た面差しの、ロビンの唇が紡ぐ「かたち」を見抜こうと。


 レグルスには予感があった。

 推測と呼ぶには不確かさの足りない、けれど根拠があるわけでもないもの。


 リンと「契約」を交わしてから、彼女と暮らすようになって一度。

 ヨナが母の名を口にした時にも、一度。

 その音を、かたちを、レグルスの思考回路が拒絶した。

 言葉を覚えていなくとも、ぬるりとぼやけた忘却の記憶は、違和感として残り続けている。


(色が派手だってくらいで、普通『それ』が何なのか分からなくなるか?)


 ああ、そうだ。リンの表情を思い出す。

『  』なんて貰ったことない、と語った、ほんのり寂しげな顔。


 青だったのか、なんて。誰も口にしてやしないのに。


 困惑した様子のロビンが、それでも律儀に口を開いた。

 読唇術なんて習ったことはない。それでも、レグルスには予感があったのだ。


 だから。



「……ロザリンド・カーレン」



 それは存在しない皇女の名。

 ああ、そう。あの子は「わたくし」の青い薔薇。

 在ってはならぬと望まれ、在らねばならぬと叫ばれた。


 視界が二重に揺れた。

 眼球が震えた。

 脳がめちゃくちゃに振られるような、強烈な痛みと吐き気。



 首に掛かった華奢な鎖が、砂のように溶ける。

 兄上、と呼ぶ声が、耳鳴りの合間に消える。

 無造作に上着のポケットへと突っ込まれた、小箱がカッと熱を持つ。



 身の内を、毒が巡る。

 心臓を、血管を、数多の『物語』が駆けていく。



 落ちた意識が辿り着いた、「初め」の夢。

 無数の剣の切っ先に、両手を広げて佇む女がいた。


『男の子なら、レグルス。女の子なら、ロザリンド』

『この子はきっと、わたくしを殺すでしょう』


 かつて視た、己が末路を目前にして、尚。

 僅か一瞬、女は確かにレグルスを――遠い、遠い未来を見つめて。


『待っていたのよ、王子様』


 華やかに、微笑んだのだ。

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