3-5

◆◆◆


「レグルス、帰っちゃうのかな」


 とぼとぼと歩きながら、リンは誰へともなく呟いた。


「そうしてもらえると助かるけどね。けど、随分お気に入りだな。惚れた?」


 結界の出口へ向かって、リンの後に従っていたヨナが、苦笑交じりにそう答える。俯き、しょげ返っていたリンは、口を尖らせてヨナを見上げた。


「ちょっと、変なこと言わないでよ。生意気な弟ができたみたいでかわいいだけ!」


 でも連れて帰っちゃうんでしょ、と小さな肩を更に小さく縮めたリンを見て、ヨナは「弟ねえ」と嘆息する。ぽん、とリンの頭に手を置き、彼は言った。


「そんなに嫌なら、ここにいてって頼めばいいじゃないか」

「だめよ、そんなの。だってあの子、お父さまがご病気なんでしょう? わたしだって心配だし、わかってるのよ、そういう時わがまま言っちゃだめなことくらい。契約のこと考えたら、あってないようなものだとしても、あの子の意思はなるべく尊重してあげたいわ。でも……」

「また独りになるのは寂しい、か」


 うん、とか細い声で答え、リンはのろのろと足を動かす。

 リンだって、どうすべきかくらい頭では理解しているのだ。レグルスとリンの境遇は、あまりにも似ていた。

 この上、親の死に目に会えないところまで同じになる必要はないし、リンの我が儘で彼につらい思いをさせたくはない。


(けど、王都に行けば、名前なんてすぐ見つかっちゃう)


 表向きは死人扱いであっても、レグルスはやはり王子様だ。家族だっている。

 一方リンは、彼を誘拐した悪党以外の何者でもなかった。本当なら、仲良く同居していられる関係ではない。契約がなければレグルスはリンの傍になど留まらなかったろう。


 助けるなんて、ただの建前だった。独りが寂しかったから、偶然を利用した。リンが好意を望む限り、彼はリンをと知っている。そのくせ善人面して傍に置いて、だからこの苦しさは、嘘を吐いた罰だ。


 緑色の瞳が少年みたいにきらきら光るのを見ていると、リンまで嬉しくなってくる。リン、と名を呼ぶ彼の声の甘さに、つい微笑んでしまう。

 千年間独りぼっちだったリンに、漸くできた「友達」だったのに、こんなに早く別れる日が来るなんて思いもしなかった。


 すん、と鼻を鳴らしたリンを見つめていたヨナが、すいと彼女の前に回り込み、膝をつく。

 驚くリンを見上げ、ヨナは笑って首を傾げた。


「……だけど、これは君にとってチャンスなんだよ、リン。君は喜ぶべきなんだ」


 手袋に包まれたヨナの手が、リンの頬をそっと撫でる。目を細めたヨナとは逆に、リンはぎょっとして目を見開いた。


「王さまがよくわからないご病気で苦しんでらっしゃるときに、どう喜べって言うの?」

「よくわからないご病気だからこそ朗報なんじゃないか。治せないっていうのは今の技術での話だよ。……他の誰でもない、君なら治せるんだ、大魔女アクイレギア」

「……どういうこと?」


 眉を顰めたリンに、ヨナはゆっくり頷いてみせる。


「実際、君に見て貰わないと断言はできないけどね。似たような症状を禁書で見たことがある。もし完治させられなくても、君の薬と呪術で延命は可能なはずだよ」

「! そ、それなら何でさっき打つ手がないなんて言ったのよ! ひどいじゃないの!」

「君が受けてくれるか分からなかったからさ。殿下を糠喜びさせちゃ可哀想じゃないか」

「断るわけないでしょ! 人助けだなんて、わたし、やっと……」


 口の中で、人助け、の言葉を何度も転がして、リンは口許を綻ばせた。

 そんなリンを見つめるヨナの表情は、ひどく優しい。この兄代わりの青年は、リンに特別甘いのだ。


 夢のような知らせに高鳴る鼓動を感じ――ようとして、不意にリンは表情を曇らせた。


「……でもわたし、心臓ないのよ? 年取らないし、顔色悪いし、……気持ち悪いじゃない。信じてくださるのかしら、魔女の薬なんて」


 それに、強力な兵器や魔法が廃れて漸く平和が訪れたというのに、諸悪の根源とも言える魔女アクイレギアが再び表舞台に立つことがいいことだとは思えない。

 リンを形作るカーレンの魔女の血統は、人の世にとっての毒だ。甘く芳醇な香りを放つ、劇薬なのだ。


 いつの間にか立ち上がっていたヨナは、俯くリンの顎を指先でなぞり、上を向かせる。濃紫の瞳に艶めいた笑みを浮かべて彼は歌うように囁いた。


「……可哀想に。怖いんだね。だけど大丈夫、昔と同じにはならないさ。君の真名を知ってる人なんて、もうどこにもいない――名前を捧げる相手を間違わなければいいんだ」


 そう言って、かつての「ヨナ」と同じように、ヨナはリンの輪郭を擽る。

 犬猫を可愛がるような撫で方だが、こうして甘やかされるのがリンは嫌いではないと、どうしてだかヨナは知っているようだった。

 或いは、女性には大抵優しい彼だから、リンみたいな甘ったれ娘の扱い方も心得ているのかもしれない。


 そんなところにまで兄の面影を見出し、リンは表情を和らげた。


「……。ありがと。ほんとにあなた、『ヨナ』そっくりなのね。変な感じだわ」

「そうかい? でも僕は彼と違って君を絞め殺そうとしたりしないから安心していいよ」

「……ちょっと!」


 まだ「ヨナ」のことを悪く言うつもりかと目を尖らせたリンに、ヨナは笑いながら身を翻し、ひらひらと片手を振って森を後にした。

 この飄々としたところも「ヨナ」と同じだというのに、彼は祖先の何がそんなに気に入らないのか、同族嫌悪というやつだろうか。


「ほんと、変な感じだわ、年下のお兄さんなんて。……ま、いっか」


 石柱の影が夕日に伸びる。縞模様になった草原を見つめ、リンはこっそり微笑んだ。


(王さまが信じてくださらなければ、ヨナの手柄にしてもらえばいい。十分だわ)


 だって、少なくとも今、リンは誰かに必要とされているし、リンを思いやってくれる人もいるのだ。

 生まれて初めて、こんな化け物のような身体になってやっと、リンは誰かの役に立てる。人を救える。リンにしてみれば、それは奇跡のようなことだった。

 温かくて幸せで、ちょっと切ないこの奇跡を、誰かが覚えてくれていればそれでいい。


 父が助かると聞けばレグルスも喜ぶだろうか。逸る気持ちに従って、リンは踵を返した。

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