3-4

「……いや、」


 知らず緊張してか乾いた喉をごくりと鳴らし、レグルスは首を横に振る。

 顔の細部まで覚えているわけではないけれど、確かに彼はこの男を知っていた。


 肩に届く長さで切り揃えられた「ヨナ」の髪は灰色がかった薄茶で、特に珍しいものではなく、顔立ちにも目立つところはない。

 群衆に紛れてしまえば確実に見失う姿形をしているけれど、一見穏やかな表情の中で濃紫の瞳だけが、燃え盛るような虚無感と、恐ろしいほど冷たく狂おしい何かに満ちている。


 そも、ヨナという名自体、ありふれたものではないのだ。

 魔女アクイレギアの愛弟子だった男、非業の死を遂げた「背信者のヨナ」と言えば知らぬ者はいないが、それゆえ縁起が悪いと敬遠されるものだから。


「覚えてる。ウルフズベインのヨナだろ。……覚えてるよ」


 影のように父親の後方に控え、終始笑顔で俯いていた年嵩の少年。

 存在感こそ希薄だったけれど、それ故、却って瞳の異様さが印象的だった。忘れられるはずもない。


 宰相ウルフズベイン卿の一人息子、エストレイア伯ヨナは、柔和な微笑みを貼り付けて「光栄です」と頭を垂れた。

 のっぺらぼうが笑っているみたいで、やっぱりレグルスは彼の笑顔が好きになれなかった。


「……けど、何でお前がこんなとこに」


 リンに縁ある人物でなければ、この家はおろか魔女の森にすら入れないのではなかったか。

 訝るレグルスに答えたのは、彼らの間で様子を見ていたリンだった。


「年に何回かだけど、彼、遊びに来てくれるのよ。アクイレギアの弟子の話は知ってるでしょ。ヨナはね、わたしのお兄さまみたいなものなの」

「正確には僕じゃなくて僕のご先祖様がね。まあ彼は真っ先に師を裏切ったわけだけど」

「ヨナ! それは……」

「事実だよ。もしそれが彼の本意でなかったとしても、真実なんてものに意味はない」

「……意味がなくたって、違うものは違うの!」


 子供のような屁理屈で言葉を返し、リンはむっつりと黙り込む。

 兄貴分が妹分の弟子というのも妙な話だが、ムキになったところを見るに、少なくともリンにとっての「ヨナ」がただの弟子以上に大事な存在だったことは確かなのだろう。


 困り顔で肩をすくめ、ヨナは苦笑した。

 リンの機嫌を取ろうと頭を撫でる姿からは、先程までレグルスが感じていた強烈な違和感はすっかり鳴りを潜めている。


 意外ではあったが、初対面時の先入観が邪魔をしているだけで、自分が思っているほど今のヨナは取っつきにくくもないのかもしれない――努めてそう考えようと苦心するレグルスに、ヨナは平坦な声で言った。


「まあ、そうは言っても最近までお互いの存在すら知らなかったんですよ。僕らも、ロザリンド妃が亡くなってカーレン家の女系は絶えたものと覚悟していたくらいで」

「……え?」

「? どうかされました?」


 不意に眉を寄せたレグルスを見て、ヨナがきょとんと目を丸くする。

 記憶にある彼と比べて幾分印象も柔らかくなったとはいえ、未だこの濃紫に慣れることができないレグルスは、視線から逃れるように慌てて首を振った。


「あ、ああいや。母上そんな名前だったかなって……」

「そのことですか。姓は違ったと思いますよ。他家に嫁いだアクイレギアの姉妹から、本来は女性の直系のみが『魔女の血統』の資格を持ちますので、その際姓はあまり関係ないんです」


 面白いでしょう魔女って名前にこだわるのに、と笑うヨナだったが、レグルスとしては寝耳に水、とても笑える話ではない。ヨナの言うことを信じるならば、母はアクイレギアの縁者だったということになる。

 そんな素性が余所に知れたら大スキャンダルじゃないかとも思うが、それより。


「……いろいろ言いたいことはあるけどさ。じゃあこれ、俺の大叔母ってことか?」

「これって何よ!」


 これ呼ばわりされたリンは怒って頬を膨らませたが、童顔のせいでいまいち迫力に欠けていた。

 空気の詰まった両頬を抓めば、ぶふっと間抜けな音と共に彼女の顔が歪む。


 踏まれたパンみたいな顔のリンを空いた片手で指さして、レグルスは大真面目に問うた。


「……ていうか今更だけど、これ本当にアクイレギア? 小汚いわ生活力ないわ子供だわ、そもそも人間としていろいろ駄目だわで威厳もへったくれもねえんだけど」

「そ、そこまで言うことないじゃない!」


 じたばた暴れてようやく自由になったリンが助けを求めるようにヨナを見るが、彼は曖昧に微笑んで首を傾げ、小さな声で「まあ一応」と呟くのみだ。


 あんまりな扱いにいじけたリンをちらりと見て、ヨナはレグルスに視線を戻す。


「威厳……はともかく、彼女がアクイレギアなのは間違いないですよ。ただ、完全でもないんです。要になる心臓がありませんから。今は並みの魔女より少し優秀な程度ですね」

「ふーん……」


 常によく食べよく眠りよく笑うリンを見ていて、心臓が欠けていることに最早そこまで重大な意味があるとは思えなかったが、ヒトとしても完璧な状態と言えないのは確かだ。

 そういうものかと頷いて、膨れっ面のリンの頭を軽く叩くと、レグルスは言った。


「ま、立ち話もなんだし、こいつもヘソ曲げたし、お茶でも淹れるから座れよ」

「あのねー! 誰のせいだと思ってるのよ!」

「じゃあ要らねえの?」

「いる!」


 即答だ。


 そう言えばお菓子貰ったの、と籠をごそごそ漁り始めたリンは既に、レグルスとヨナが噴出したことにも気付いていない。


 笑ったことを誤魔化すように咳払いして、ヨナはリンの肩に手を置いた。


「それ、僕が君にあげたんじゃないか。僕に出してどうするんだい。殿下も、お構いなく。ここへは仕事で来たんです。用が済んだらすぐ街まで戻るよう言われてますから」

「仕事? こんなとこに何の用があるんだ?」

「お使いですよ。……殿下にお手紙をと、悪い知らせ共々託されまして」


 そう前置きして、ヨナは一度言葉を切る。薄手の外套の内側から彼が取り出したのは、王家の紋で封印の施された、一通の封書だった。


「レグルス様が塔から姿を消して間もなく、陛下は原因不明の病に侵され、今も臥せっておられます。こちらは病床の陛下から、殿下にお渡しするよう託されたものです」

「!? 父上が!?」


 血の気が引き、あっという間に顔色を失くしたレグルスに、ヨナは恭しく頭を垂れる。

 父からの手紙をどうにか受け取り、レグルスは呆然と呟いた。


「原因不明、って、……何だよ、それ。何ですぐに……助からないのか……?」

「……我々も手を尽くしてはおりますが、現時点では何とも」


 ヨナは憎らしいほど無感動に、レグルスの戸惑いなど気にも留めず言葉を重ねる。あくまで仕事は仕事、余計な情を差し挟むつもりは毛頭ないらしい。


「そこで、陛下のご容態が安定している内にと、王太子殿下はレグルス様の一刻も早いご帰還を望まれておいでです。お伝えすべきことは以上ですね」


 息もつかずにそこまで言い切ると、ヨナは途端に押し黙ってしまった。今すぐ何らかの結論を下せと、言外に迫られているようだった。

 そうは言われても、レグルスは勝手に城を飛び出した「死人」であり、更に言えばリンとの契約があるので自由に出歩ける立場でもない。

 大体、頭の整理だって、ついてない。


「……ごめん、ちょっと考える時間くれないか。父上の手紙もまだ読んでないしさ」

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