1-4

「…………。ははっ」


 乾いた笑いが漏れて、レグルスは鼠から視線を逸らす。

 思わず後ずさって壁に頭をぶつけたけれど、じんじん痛む後頭部はこれが夢でないと証明したに過ぎなかった。


 夢でないとすれば現実だけれど、現実だと認めるには無理がある。

 静かすぎる塔に閉じ込められたせいで早速気でも変になったろうか。そう繊細なつもりはなかったのだけれど。

 視界の隅でちらちら揺れる尻尾に見ないふりを決め込んで、レグルスは頭を振った。


「疲れてんだ。寝よう。……うん。そうだ、寝る!」


 声高に宣言し、それが唯一の解決法だと言わんばかりに頷く。膝の上という居場所を失った鼠は慌ててシーツにしがみ付いたようだったが、知ったことか。


「寝るからな!」


 念押しのように放った一言は、頭から被った毛布に阻まれくぐもった音に変わった。外からはごそごそと小さな生き物が駆け回る気配がする。あの鼠、まだ居座っているらしい。


 勘弁してくれ、と呟いたレグルスの髪を、何かが引っ張った。

 ここまで来たら大方予想はつくけれど。


「……おいやめろ、俺は寝るんだ。こんな現実あってたまるか」

「ちー?」

「餌ならさっきので最後だぞ。ほら諦めてどっか行けよ」

 俺は何も見てない知らない、と半ば自分に言い聞かせながらレグルスは鼠に背を向ける。


 無視された鼠は憤慨したように鼻を鳴らして、レグルスの襟足を、


「ぢゅっ!!」

「ってぇ! おま、何……」


 今度こそ引きちぎった。


「ちい!」

「やめ、こら、痛いっつってんだろ! おい! やめろハゲる、……っこの、ッ!」


 もう我慢ならない。

 ふかふかの胸を張って偉そうに鳴いた鼠を跳ね飛ばさん勢いで布団を蹴り上げ、レグルスは眦をつり上げる。こちらを見上げる鼠に指を突き付け、腹の底から怒鳴りつけた。


「……何なんだよお前は!」


 じとりと睨まれ、鼠は困ったように首を傾げる。ぱたり、細い尻尾がシーツに落ちて音を立てた。答えたくとも喋れないのよ、といったところか。


 もし誰かが聞いたら「気がふれた」とでも噂されるだろうが、頭に血が上ったついでに見栄も矜持も消し飛んだ。

 どうせ「死んだ」身なのだ。狂人でも何でも、生きたまま死んでいる透明人間よりはずっとましな気すらする。


 思えばこれまでずっと、この立場に、他人の言葉に、振り回されてばかりだった。

 諦めることを覚えて、流されるまま大人しく暮らすことができれば、どれだけ良かったろう。頭で分かっていても、そんな風には振る舞えなかった。納得できなかった。

 けれど、そんなレグルスの意思など関係なく、全ては初めから決まっていたのだ。


 くしゃり、表情はおかしな形に歪んで、唇が笑うように戦慄く。


「茶番が終わったかと思えば、今度は鼠にまで振り回されて、……何なんだよ、俺って!」


 これじゃ八つ当たりだ。

 やめろ、みっともないと冷静に窘める理性ごと、胸の奥が焼けるように熱くて痛くて、十八年分の膿を絞り出すように言葉を叩きつけることしかできない。


「何だったんだよ、俺は! こんな現実あってたまるか! ふざけんな、いい加減にしろ、好きでこんな顔に生まれたわけじゃない! なのに何で、こんな……」


 ちくしょう、と消え入りそうな声で呟く。

 白くなるほど力を込めてシーツを握りしめていた手に、ぽふんと柔らかな塊が触れた。

 鼠は薄青の大きな瞳で、真っ直ぐにレグルスを見上げている。


「……生きてるのに」


 今までこんなに真っ直ぐ自分を見たのは、怒っている時の父と、この鼠だけだ。


 可哀想にと言いながら、決してレグルスの目を見ようとしない他人の視線が、本当はずっと怖かった。


(あ、れ……?)


 ふと、視界が曇って、鼻の奥がツンと痛み出す。

 滲んだ視界の中で、鼠の両手が大きな雨粒を受け止めた。ぽたりと落ちてシーツに染みを作った水は、どうやら自分の涙らしい。


 人前で泣いたことなんてなかったのに、よりによって鼠に慰められて泣くとは、人生何があるか分からないものだ。

 彼の人生は、今日で終わってしまったけれど。


 鼠の小さな掌が、レグルスの拳をそっと撫でる。

 優しく労わる様な仕草に、泣き笑いが漏れた。


「同情しねえで笑えよ。……美しく生まれてはならない、だから死ね、なんてさ」


 馬鹿みたいだろ? 絞り出すような自嘲と共に、もうひとつ、涙が落ちた。



 久々に泣いたせいで疲れたのか、熱く腫れぼったい目蓋は間もなくとろとろと落ち始め、白っぽい鼠の姿が夜の闇に滲んでいく。

 睡魔に抗う理由は特にないけれど、励ますようにか細い声で鳴いた鼠は、朝目を覚ます時までそこにいてくれるのだろうか。


 そうであればいいと勝手なことを願いつつ、一先ずこれだけは伝えておかねばと、


「当たってごめんな。……ありがとう、聞いてくれて。お前、変な鼠だけど、いい女だよ」


 鼠の鼻先に感謝のキスを落として、疲れ切った思考を手放した。



 沈みゆく意識の中、青白い月が何事かを囁いたのは、他愛も無い夢か、それとも。



 *   *   *



「……王子さま?」


 薄青色の目をした娘は、銀の睫毛に縁どられた目を瞬かせ、自身の小さな唇に触れた。視線を上げると、規則正しい寝息を立てる青年の姿がある。


 侍女たちの噂によれば、彼は常に底の知れぬ笑みを湛え、人知を超えた才と美貌を備えていなければならないはずだった。だのに、怒鳴ったり泣いたり笑ったりと忙しく表情を変える様子を思い出し、目の前の寝顔が意外なほど幼いことに彼女は苦笑を漏らす。


 これが魔性の王子様? ただ顔と育ちが良いだけのガキ大将ではないか。

 薄く形のいい唇が、優しい声で感謝を述べるなど、多分誰も知らないのだろう。


 泣きはらした目が腫れなければいいのだけれど。彼女はレグルスの目元に残る涙をそっと払い、柔らかく微笑んだ。


「おやすみなさい。……お誕生日おめでとう、寂しがり屋さん」

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