幻獣の鎖

灰魔

第1話 路地裏の巨影

 薄暗い部屋に、朝の光がさしこんだ。窓に結露した水滴が照らされて、滑らかに垂れる。


 蔦木優斗つたきゆうとはしきりに目を瞬かせながら、カーテンをまとめている母親を見上げた。


 「今、何時?」


 明海あけみは苦笑して、「7時」と答える。

 

 「急いで着替えちゃいなさい。ご飯できてるから」


 言って部屋を出ていくと、束の間静寂が訪れた。

優斗は寝台から身を起こし大きく伸びをして、掛けてあった制服に手を伸ばす。手早く着替えると、学生鞄を引っ掴み、ダイニングがある階下へと降りていく。


 ダイニングは広い。天井は高く、テーブルやテレビなど最低限の家具以外には何もないから、それが一層広く見せる。 

 隣は明海の寝室で、机台に書類の束が散らばっている。その横には、小さな写真が丁寧に立て並んでいて、どれも幸せそうに笑みを浮かべていたが、額縁の中には二人の人間しか映っていなかった。


 優斗は父親を持たない。優斗がまだ小さかった頃、酒に溺れてわいせつ罪を犯した挙げ句、明海に離婚を求められたのだ。以来、あの男がどうなったのか知らない。知りたくもないと思う。重要なのは、あの男が、父親から赤の他人へと変化したことだけ。そう、優斗は認識している。


 だからといって、母子家庭が幸せだと言えばまた嘘になる。残業で疲労困憊した母親を見るのは不憫に思えてならなかったし、「再婚したら」と勧めると、優斗に気を遣ってか「大丈夫」の一点張りだった。


 「大学進学までのことだし、あと三年の辛抱よ」

 優斗の高校はバイトを固く禁止している。中学三年の頃、それを知って進路を変更しようとしたが、明海はその必要はないと、頑として受け入れなかった。

 こうして、蔦木家の円満な家庭は築かれたのだ。


 「もう、何ボサっとしてるの。遅刻するから、速く食べなさい」


 物思いにふけっていた優斗は、思わず微笑を浮かべた。その表情に気付いたのか、明海は怪訝な顔をする。


 「ニヤニヤしちゃって、気持ち悪いわねえ」


 「別に、大した意味はないよ」

 応えながら、朝飯を掻っ込む。


 「ふーん、変なの」相手の返事もまた素っ気ない。


 暫くして、何かが窓を叩く音がした。振り返って見ると、一匹の雑種犬が、尻尾を振って立っている。


 「ごちそうさま」優斗はテーブルに箸を置き、窓辺に歩み寄った。


 「若葉わかば、お前も腹減ったか?」


 ワン、と呼応する犬に、「待ってろ」と言い残して、コートを羽織り、鞄を肩に掛けて玄関へと急ぐ。玄関を出て、傍らの倉庫に置かれた袋を取り出し、皿に盛った。それを差し出すと、若葉は堪り兼ねたように餌に飛び付いた。


 優斗は笑って、若葉の毛並みを撫でた。茶毛が肌に心地よく、むしろくすぐったい程だ。

 食べ終わるのを待って、餌袋を片付けた。振り向きざま、リビングにいる明海に目を向ける。


 「んじゃ、行ってきまーす」

 片手を振りながら、家の門扉に手をかけた。


 「ああ、行ってらっしゃーい」


 手を振り返すのを見て、扉を閉めた。固く閉ざした音が、澄んだ空気によく響く。不思議とその残響が、ひどく虚しく感じられた。


 ふっと息を吐いて、大股に歩き出す。身を切るような冷風が吹き、無意識に襟を掻き合わせた。


 交差点を渡り、大通りに向かって歩を進めると、既に店は開かれ、賑やかな喧噪が漂い始めていた。始終交わされる挨拶、戸外まで響く夫婦喧嘩。何ら変わらない日常に、優斗はふと、眉を顰めた。


 (何かが、違う……)


 何がどうとは言えないが、日常には明らかに不釣り合いなものがある。辺りを見回しても、これといったものは見つけられない。気のせいかと思いつつ足を踏み出すと、右前方、ビルの隙間から動物の尻尾が垣間見えた。優斗は咄嗟とっさにその場に立ち止まる。


 猫や犬の尻尾ではない。もっと別の、猛々しい何かだ。確証は無かったが、そう思わずにはいられなかった。


 一瞬迷ったが、深く息を吸って、建物の間隙に入る。


 晴天にもかかわらず、路地裏は薄暗かった。人が通るには申し分なかったが、車などの行き来はできないだろう。所々に「乗用車、通行禁止」と書かれた紙が貼ってある。


 突き当りにぶつかると、右側にも道があるのだと分かった。右折して、「それ」を正視した途端、優斗は麻痺したように凍りついた。


 獅子だ。いや、その獣は獅子の形をとっていたが、たてがみはなくむしろ豹に近い。白銀色に輝く細毛が、薄暗かった空間を煌々と照らし、深紅の瞳には敵意をみなぎらせている。


 一歩、その優雅な肢体が近づくのにつられて、優斗は退こうとしたが、腰が抜けたように倒れ込んでしまった。少しずつ、距離が縮まっていく。


 顔面の細部までが目視しうる距離になった時には、もはや息をすることを忘れて、その澄んだ目を見返していた。獣の口が大きく開く。暗闇から吐き出された、血腥ちなまぐさい臭いが顔を覆った途端、優斗は思わず悲鳴を上げた。


 刹那、彼は闇に呑まれた。



 




 

 

 

 

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