植物図鑑01. Paeonia suffruticosa
偽善で着飾った自分自身
「別に白村先輩には関係ないじゃないですか」
そう挑発的な物言いで嘲笑を浮かべながら自らの胸倉を握り締める目の前の女子生徒に、白村はヘラヘラと笑いながら「そうだね」なんて相槌を打った。傍から見ても冷静には居られない緊迫した状況でケタケタと笑い声を上げると、白村はゆっくりと息を吐いた。
「けど現に君のやった事は傷害って言う立派な犯罪。それにもし空閑未来さんが亡くなっていた場合は一変して殺人犯だ」
苛立ったような彼女の舌打ちを浴びながらも、白村は真っ直ぐに目の前の女子生徒を瞳に映した。肩まで伸びた林檎のように赤い内巻きの髪を片手で弄りながら、派手なラメが鏤められた薄ピンク色のアイシャドウを施した深緑色の目が白村をギロリと睨み付けた。学校指定の黒いワイシャツの袖を肘まで捲り上げ、裾はスカートに入れられる事もなくべろりとだらしなくはみ出ている。制服のリボンも今にも取れてしまいそうな程に緩く結ばれており、スカートの丈に至っては校則違反の膝上20センチ程の長さまで折られている。
「同じ中学でも知り合いが被害者な訳でもないのにさぁ……。ここまで首突っ込んでくる理由って他に何かあります?」
「依頼だからね」
それ以上もそれ以下もないと言う白村の返答を望月はハッと鼻で笑い一蹴した。
「お手々繋いで友達と仲良しごっこって奴? それに加えて1人じゃ何も出来ない弱い
笑わせんな、と嘲笑まじりに望月が呟いた。それでも目の前の白村の表情が何一つ変化しない事をさも面白くないとでも言うように彼女は口火を切った。
「そんな薄っぺらい物、あたしは御免だね。自分が楽しければ何だっていい。人間なんて皆自分勝手な生き物なんだろ?
それで例え
あたしは、自分を満たす"優越感"のためなら……他人の苦痛もそれこそ人が死んだって」
関係ない。
目の前の彼女に望月結菜以外の名前を付けるとするなら、"悪意" "横暴" "毒" なんて言葉が相応しいだろう。話を聞いているだけで胸糞悪い感覚が白村の身体を揺さぶった。思わず喉から零れ落ちそうになった言葉や感情を飲み込みながら、白村はニコニコと張り付けたような笑顔を浮かべ不味いその場の空気を吸い込んだ。
「昔、君と同じようにつまらない事を言った子が居たよ。
"あの子が自分に何かをした訳でもない。自分が楽しいから、人の上に立つのが何よりも快感だからやるんだ"って」
胸倉を掴み続ける望月の手首を白村は容赦なく捻り上げた。望月の顔が一瞬にして歪み、抵抗するように白村の手や腕に爪を立て暴れ出した望月を諸共せず、淡々と力を込めながら彼は話を続けた。
「きっと正義のヒーローなんてものは瞬一郎や折鶴ちゃんの事を表現する言葉なんだろうけど。
俺も、ヒーローみたいに赦せないものが1つだけあって」
望月の手首からポキリ、と軽快な音と共に苦しげな望月の声と「何してんだテメェ」「ふざけんな」なんて怒号が叫び出された。だがそれすら聞こえないような顔をして、白村はプラリと力なく下がった手を掴み取り人のいい笑みを向け続けた。
「自分の私利私欲のためだけに、他人を苦しませる人間がこの世で一番嫌いでね。
それこそ、相手が死んだって自分には関係ないなんて言う人間は」
例えどんな罰を与えられても文句は言えないだろう。
「山崎くん! ちょっと待って!」
望月の件などすっかり忘れ、折鶴は校舎の何処かへと一心に走って行く山崎を追い掛け続けていた。2階の教室棟から特別棟へと向かう彼を避けるようにして、部活帰りの生徒達が不思議そうな顔を浮かべ2人の姿を傍観していた。
何かを堪えるようにして山崎が飛び込んだ先は、特別棟の男子トイレだった。移動教室で特別棟を訪れた生徒か、放課後は吹奏楽部の男子生徒数人が使用する程度だ。折鶴は念のためにと周囲を執拗に確認した後、山崎が飛び込んだ男子トイレへと足を踏み入れた。
「俺は玩具じゃない、俺は玩具じゃない、俺は玩具じゃない」
手洗い場に両手を突っ込み、ひたすらそう呟きながら何かを洗い流そうと手を動かし続けている山崎はもう折鶴を見ようともしなかった。
「……ねぇ、山崎くん。まだ話していない事あるわよね? 教えて欲しいんだけど」
「俺は玩具じゃない、俺は玩具じゃない」
折鶴の言葉が届いていない。もしくは聞こえないふりでもしているのだろうか。
何度も同じ言葉を繰り返し続ける彼の元へ一歩歩み寄った時だ。折鶴は彼が先程から擦り続けている右手から血がとめどなく溢れている事に気が付いた。排水溝に吸い込まれていく水は真っ赤に染まっていて、何度洗おうとその血が止まる気配はない。血の量から考えるにかなり痛い筈だが、彼は無表情で手を無心で擦り続けていた。まるで花ごと毟り取ろうとしているようにも見える。
「山崎くん! 血が……」
そう言って折鶴が慌てて彼の右手を引っ張り、水中から抜き取った時だった。つられて顔を上げた山崎が鏡を見た瞬間、怯えた表情でそこから顔を背けた。
ポタポタと水滴に混ざるようにして彼の血が床に染みを作った。
「誰も俺の事なんて見ちゃいない」
一瞬折鶴はその声が山崎から発された物だと錯覚した。
だが体を震わせ、何かに怯えるようにしてしゃがみ込み過呼吸になりかけている彼にこの状況での発言は不可能だろう。
じゃあ誰の声だと折鶴が辺りを見渡した時だ。
「誰の事も信じられない」
まだ血の滲んだ手洗い場の鏡に映るはずのない山崎の姿があった。
虚ろな目を隠すように黒いサングラスを掛け、学ランの上にはまるで戦争に赴く兵士のように防弾チョッキとショルダーホルスターを身に付け、マシンガンを構えていた彼は淡々と言葉を紡いでいる。
「けど一番信じられないのは、偽善で着飾った自分自身だ」
そう言い終えると、彼はマシンガンを真っ直ぐにしゃがみ込んだままの山崎に向け、そのまま何の躊躇いもなく引き金を引いた。折鶴が山崎の手を引っ張り、ヒビが入った鏡の破片から遠ざけようとした時だった。
「鏡を見て思い出せ、偽善で着飾った自分を」
鏡に映ったままの彼がそう言った瞬間、まるで頭を殴られたような衝撃と共に目の前が眩い光に包まれた。思わず目を瞑った途端、何かに吸い込まれるような感覚が折鶴の体を襲った。だが、それもすぐの事で。何が起きたのか、鏡に映った山崎は何だったのかと結論もでないままぐるぐると考えている内に、気付いた時には意識が途切れていた。
「……ねぇ、私の声聞こえてますか?」
鈴の鳴るような声と共に、鼻腔を微かにくすぐった桜餅のような香り。思わず折鶴の口から呻き声が零れた。
「あ、今反応しましたよね? 見逃しませんでしたよ、起きて下さーい」
ふわふわと、何か柔らかいものが折鶴の頬を何度も繰り返しつついていた。つつかれる度に爪だろうか、硬いものが肌を刺激する不快感に渋々折鶴が目を開けると。真っ白な綿のような塊が横たわった折鶴の胸元にちょこんと座り、彼女をジィッと見下ろしていた。
「おはようございます。お疲れのようでしたね、何度か寝言を仰ってました」
ピンと立った長い耳、くりくりとした赤い目とヒクヒクと忙しなく動くその小さな鼻。首の周りを覆うマフラーのような柔らかい毛の塊、短く丸い尻尾。
間違いようもない。何処からどう見ても目の前に居るのは小動物の中で指折りの可愛さを誇るうさぎだった。
「……うさぎが、喋った?」
「うさぎじゃありませんよ。嗚呼、いえ。今は見た通りのうさぎですが……」
思わず折鶴が呟いた独り言にも丁寧に返答する律儀なうさぎは、返事を濁しながらも「寝転がったままだと汚れちゃいますよ」と彼女の胸元から退き、立ち上がるよう促した。折鶴がその場から身体を起こし立ち上がると、そこには白村がよくサボり場として利用している皇明学院校門前の風景が広がっていた。辺りを見渡してすぐ、折鶴は目に映った不自然な世界に思わず首を傾げた。
見慣れた風景は全てモノクロ写真のように色を失われ、空を飛ぶ鳥や海、太陽は時を止められたように身動き1つせずそこに存在しているだけの味気ない物に見えた。風が葉を揺らす音や、寄せては返す波の音すら聞こえないこの世界に折鶴は微かに嫌悪感を覚えた。
「……山崎くんは?」
そう問いかければ、うさぎは「彼の事でしょうか」と呟きピョンピョンと軽くジャンプしながら、学校へ続く長い坂の下まで移動すると
「ここは現実世界の言わば裏面。コインの表と裏のように、絶対に交わらないように存在する"精神世界"と呼ばれる場所です」
「精神世界?」
「精神世界は言わば感情と思考の泉。嘘と誤魔化しが通用しない世界。
現実で人間がどんなに建前と嘘で本心を隠したとしても、精神世界に居るもう一人の自分が本音を吐き続けている。心の中を抱えこんだドッペルゲンガー、と考えれば分かりやすいかもしれませんね」
折鶴が口元に右手を運び考え込むような素振りを見せると、うさぎはその様子を気にしているのかチラリと視線を動かした。
「10年前までこの世界は現実世界と同じ姿をしていました。精神世界に誤って来てしまったとしても、直ぐには異変を感じない程に」
その赤い瞳にはやり場のない怒りが込められていた。その時の状況を思い出すようにしてうさぎは淡々と言葉を紡いでいった。
「10年前、何か特殊な方法を知ったのか、神様が与えた単なる偶然だったのかは分かりません。
それでも、あの男はこの世界に来るべきではない存在でした」
そう言い切ると、うさぎは彼が最初に殺害したのは笑顔がよく似合う女性だったと語った。
「私はその女性が殺害される姿をぼんやりと眺めていました。そしてその時、私は"私"という存在が生まれたのだと自覚しました」
「生まれた?」
そう尋ねると、うさぎはコクリと小さく首を下に振ってみせた。
「私にはこれ以前の記憶はありません。確かにあったのですが、"盗られた"んです」
盗られた。その記憶を探しているのだとうさぎは目を伏せながら語った。
「その男は精神世界で人を殺害すれば現実世界でも死んでしまう事を知りました」
精神世界の自分は言わば人が何かを考える力や、感情全てを管理している。そのため精神世界の自分を殺してしまうという事は、現実では生きた屍のようになってしまうという。目は虚ろで返事すらしない人形のような状態でも徒花はストレスを吸って補っていた栄養分を代わりに持ち主の寿命で保とうとする。そのため、遅くても1ヶ月以内には殆どの人間が命を落としてしまう。死因は徒花病と処理されてしまうため、異世界と同じように立証が難しい精神世界で犯した殺人が露出する事はない。つまり足がつかない完全犯罪という事だ。
丁寧に理由を説明してくれたうさぎに礼を言えば、嬉しそうにそのピンと立った耳を僅かに動かしてみせた。
「そして男は2人の少年を連れて来ました。1人の少年は徒花病の力を鏡を媒体に使い、本来交わらずに存在していた2つの世界を繋げてしまった。
その結果、今貴方が此方に招かれたように"鏡に映った徒花病患者を別世界に引き摺り込んでしまいます"」
それは確か校内やネット上で話題になっている噂話だった。最近じゃ"鏡の前で検証してみた"なんてふざけた動画や呟きを投稿し、その後消息不明となる者が後を絶たず、警察各署により全力を上げて捜索があちこちで行われてはいるが、忙しないワイドショーに人々は神隠しだと口々に
「……でも待って頂戴。私、徒花病は発症していないわ」
そう折鶴が告げるとうさぎはキョトンと呆けた顔をした後、考え込むようにして口元を首の周りの毛に沈めた。
「……此方の世界に引き込まれる前、近くに徒花病患者の方はいらっしゃいましたか?」
折鶴は隣に立つ山崎が徒花病の末期患者である事、変わった服装をした彼が鏡に映った事、彼の持つマシンガンが此方に発砲した途端吸い込まれるようにして招かれた事。それらを掻い摘んで伝えると、うさぎは「やっぱり」と呟き頷いた。
「ここからは私の推論になってしまいますが。精神世界の山崎くんは現実の彼だけをこの世界に招き入れたかったのでしょう。ですが、彼が招き入れる際、傍にいた貴方も引き込まれた。そう考えるのが妥当かと」
想像ですし、極めてイレギュラーなケースだともうさぎは付け加えた。話に耳を傾けていた山崎が混乱した様子で頭を捻っていた。
「でも、精神世界の自分は一体何をするつもりなの?」
「もう1人の少年の力によって露出した人の抑圧された負の感情から出来上がった絶望郷・ラビリンスで、現実世界の自分を殺害するためです。
例え徒花病に発症していなかったとしても、日常生活で抑え込んで来た理想や本音が大きければ大きいほどラビリンスは迷宮化します。
生まれながらに精神世界に囚われ、全ての考えや行動を抑え込まれ生かされて来た精神世界の自分にとって、現実世界の自分を殺すという事は苦しみからの解放になります」
肉体としての器を担う現実の自分が死亡してしまえば、精神世界の自分も殆どがそのまま跡形もなく消失してしまうと言う。ただ、過去に一度だけ縛られた鎖が解けるだけで、精神世界の自分だけが生き残る【
「自分も消えてしまうかもしれないのに……現実世界の自分を殺害する必要があるの?」
「彼等にとっては、そのまま精神世界で現実の自分が亡くなるまで縛られる方が苦痛なんですよ。いっそ自分諸共死んだ方が楽になれる、そんな考え方も彼等にはあるようですね」
折鶴は目の前に佇む学院をまじまじと見上げた。 彼女が通っている学院と外装は同じだ。妙な横断幕が掛かっている以外に不自然な点は見られない。ただ、現実で見る学院とは取り巻く雰囲気のようなものが違うように思えた。実際、見ているだけで底知れない不安が折鶴に湧き上がって来る。
「精神世界に迷い込むと人間はすぐに精神世界の自分の元に招かれます。招かれる、という事は押し殺し続けた負の感情があるという事。
つまり自分を全て受け入れてあげなければ、貴方達は此処から一生出ることが出来ません」
だからお2人に最終確認をさせて下さい。そう言うとうさぎは澄んだ赤色の瞳を折鶴に向け、険しい声色で問い掛けた。
「此処は恐らく、貴方達お2人に関与したラビリンスの芽です。
所有者にとってのトラウマや理想、負の感情が混ざったこの異様な場所を私は“ラビリンス”と呼んでいます。
そして芽は、巨大なラビリンスに寄生して育ちます。お2人のラビリンスの芽も、どなたか関連深い方のラビリンスに寄生してこれ程までに成長したのでしょう。
きっとこの先、聞くに耐えない心ない言葉も多く飛び交うでしょう。
それでも行くというのなら、私も少しのお手伝いくらいなら出来ます」
折鶴には考え込むような時間は必要なかった。
「私には山崎くんを連れ戻すっていう役目がある。だから精神世界の自分なんて造作もないわ」
大体どういうものかは何となく見ただけで分かると、折鶴は学院に掛かっている垂れ幕を見遣りそう告げた。
山崎くんはどう、と精神世界に来てから押し黙ったままの彼に声を投げ掛けると。慌てて折鶴の方を向いた山崎の瞳には、先程とは打って変わって光が差し込んでいた。それでもまだ本調子のようには見えない。彼の右手からはポタポタと鮮血が包帯を滲ませ、アスファルトに染みを作っていた。
「俺……は。えっと……」
心ここに在らず、と言った様子の山崎の背を力強く叩いてやると猫のように肩を飛び上がらせながら、彼はチカチカと目を瞬かせた。
「どちらにせよ現実世界に帰るためには受け入れなきゃいけないんでしょう。覚悟を決めなさい」
「わ、分かった……じゃあ、俺も行く」
そんな2人の姿にうさぎは一度頷くと、大きく上体と前足を上げ折鶴達の方へと向けた。
「……意思は固いみたいですね、分かりました。
ただ、これだけは約束して下さい。危ないと判断したら直ぐにこの場所まで戻ると」
折鶴はうさぎの小さな前足を両手に取ると、それを僅かに上に振ってみせた。
「ええ、約束するわ。私は折鶴華名子、よろしくね」
そう折鶴が言い切ると、うさぎは満足そうな顔を浮かべ山崎へと目を向けた。
「あ、えっと……俺は山崎千紘」
よろしくと言葉を交わすと、うさぎは嬉々とした表情を浮かべ前足を下ろすと先程までの四足歩行へと戻った。
「……ねぇ、貴方の名前はないの? うさぎじゃ何だか可哀想だわ」
「生まれた時から私は私でしかありませんでしたから、呼称に困った事もありませんでしたね」
鼻をひくひくと動かしながら、うさぎはこてんと首を傾げた。折鶴はうさぎに何とか気に入る名前を付けてやりたいと考え。ふと、目が覚める前うさぎから桜餅のような香りがした事を思い出した。
「モチ……なんて名前はどう?」
うさぎと山崎が鸚鵡のように復唱したのを聞き、折鶴は満足げに顔を綻ばせた。
「目が覚めた時、貴方から桜餅のような香りがしたから」
「桜餅……? 美味しそうな名前ですね」
気に入ってくれると思うわと告げ、折鶴は「女の子同士仲良くしましょうね」と頭を下げたモチの頭を撫で、3人揃って眼前に迫る校門を潜り抜けた。
生徒玄関に足を踏み入れた途端、そこには生徒達の押し殺したヒソヒソ声や友人達とじゃれ合う生徒の騒がしい声で溢れ返っていた。放送室からかけられているのだろう、ピアノの旋律と共に聞き慣れた声が耳に入って来た。
「……私の声?」
聞き間違える事はない。それは確かに自分の声だった。
嘗ての後悔、何かを切望する歌詞に自然と気が滅入りそうになる。
「先に精神世界の折鶴ちゃんがお出ましのようですね。本人の精神状態が曲に現れるんです。
普段は精神が研ぎ澄まされた時にしか歌詞は聞こえない筈ですが……此処には今の所危険はないという事ですね」
うさぎ改めモチの説明に折鶴は思わず目を丸くした。
「ラビリンスには敵も居るの? それに精神が研ぎ澄まされた時って?」
モチは周囲を見渡し、危険がない事を確認すると折鶴と山崎に対して再度説明を施した。
「精神世界の折鶴ちゃんは当然自由を欲して居ますから、貴方に受け入れられた結果また精神世界に縛られる気は現時点ではありません。所謂暴走状態に陥っている状況にあります。
だから普通なら干渉してきた折鶴ちゃんを妨害する為に敵が出てくる筈なんです。
歌詞だって貴方の精神が研ぎ澄まされた時、つまり現実世界の折鶴ちゃんとラビリンス内の自我を失った敵が接触した時にしか聞こえない筈です」
その筈なんですが。そう呟いて、モチはさも奇妙だと言いたげに周囲を見回した。
折鶴達に危害を与えるような者の姿は今の所見受けられない。
「この先出てくる可能性もあるかもしれません。細心の注意を計って進みましょう」
そう言ってぴょんぴょんと飛び跳ねながら生徒玄関を抜けたモチは、玄関ホールへと繋がる廊下の窓や床に無造作に散りばめられたポスターに首を傾げていた。
"折鶴生徒会長就任式、第2体育館で開催"
そう目立つように黄色いゴシック体でレタリングされたポスターは、乱雑なタッチで折鶴と思われる人間が描かれていた。塗り残しやはみ出しが多く、お世辞にも丁寧とは言えないそのポスターにあるのは祝福の気持ちと言うよりも、描き手の不信感や「こんなもの描きたくない」という不満が滲み出ていた。
「何だか粗雑なポスターですね」
「私に対する生徒達からの評価って事なんでしょうね。よく描かれているわ」
そう皮肉って先を進もうとした折鶴に、山崎は何か声を掛けようかと口の開閉を繰り返した後。諦めたようにそれを閉ざした。
先を急ぐ折鶴を慌てて追い掛けモチは彼女の左足に前足をちょんと乗せると、進行を制止させた。
「折鶴ちゃん、今の所危険はないとは言え此処は
ですから、第2体育館まで辿り着くにも時間がかかると思いますので頭の片隅にでも入れて置いて下さい」
モチの言葉に折鶴は「分かった」と頷くと、遠目から見るとかなり散らかった印象を受ける生徒ホールへと導かれるような形で足を運んだ。不思議に感じ近付いてみると、そこには大量にばらまかれたポスターの上から文字が書き殴られていた。赤と黒で大きく"絶望" "存在価値" "退"と書かれた床にはペンキが迸り、まるで血痕のように残っていた。
「ずっと信じていた。
私にはそれしかなかったから。私はそれが大好きだったから。毎日遅くまで練習して、上手くなりたかった」
突然スピーカーからブツンと荒々しい音を立ててこれまで流れていた曲が強制的に停止されたかと思えば、そんな折鶴の声が聞こえて来た。
まるで当時の光景を再現するようにして、髪を高く結い上げ体操服に身を包んだ折鶴の姿が生徒ホールの奥から走り込んで来た。大きく助走をし、高くバーを飛び越えようとして足が引っかかってしまったのか。彼女は痛々しくもマットに身体を打ち付けた。すぐに起き上がり、もう一度バーの前へ移動しようとする彼女を先輩と見られる女性が制止した。ショートカットの女子生徒に折鶴は「部長」と告げ、彼女の口が何か言いたげに開いている姿に大人しく次の言葉を待った。
「折鶴さん、真剣にやっている事は分かるんだけど2年やっても記録は変わってないし」
貴方向いてないんじゃない。
そんな一言が容赦なく折鶴の心を撃ち抜いた。
折鶴が咄嗟に割れるように痛み出したうなじを抑え、しゃがみこんでしまった時には先程と同じ曲が何事もなかったような顔を浮かべて流れ始めていた。目の前に広がっていた過去の情景も跡形もなく消え失せ、ただペンキで書き殴られた文字だけが残っていた。
「折鶴さん……大丈夫?」
心配そうに自身を見下げた山崎に折鶴は頬に滲んだ大量の汗を拭い、笑顔を浮かべた。
「大丈夫、ちょっと驚いただけよ」
「辛くなったら言ってくださいね、折鶴ちゃん。
……でも折鶴ちゃん陸上をやってたんですね」
もう辞めてしまったけど。
そう呟いて、折鶴はうなじに指を這わせた。特に異変がない事に折鶴はほっと息を吐き出しその場から立ち上がると、生徒ホールを抜けて教室棟へと続く渡り廊下を映し出した迷宮の奥へ先陣を切るような形で歩んで行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます